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2016
03.26

Q&A(その20)天職って何? ─自分に向いた仕事に巡り会えない方へ─

2016-03-26-0001.jpg

 最近、職業に関する悩みが人生相談の場にたくさん登場するので、「自分に向いた仕事」という問題を少々、考えてみましょう。

 私たちの多くは、自分に〈合った〉仕事に就きたいと願う。
 音楽が好きだから歌手になりたい、パンが好きだからパン屋さんになりたい、サッカーが好きだからサッカー選手になりたい、文学が好きだから作家になりたい。
 実際、そうして成功した多くの有名人が言っているではないか。
「好きだからここまでやってこれました」
「好きなことを一生懸命やれば道は開けるのです」
 だから、若いうちは、好きなこと=自分に向いた仕事、好きなことをやる=幸せに暮らせる、だろうと思う。

 さて、現実はどうか?
 誰もが作家村上春樹になれるわけではなく、大リーガー田中将大になれもしない。
 好きな世界で生きられない理由としてはもちろん、持って生まれた資質のレベルが一番の問題だが、実はそれ以前に大問題がある。
 好きなこと=自分に向いた仕事、とは限らないし、何が自分に向いた仕事かは、やってみなければわからないのだが、この真実は、自分で汗水垂らしてはたらき、生きてみなければ〈本当にはわからない〉のだ。
 そして、70年近く生きてきた者の実感としては、自分を見ても、ご縁の方々を見ても、友人知人を見ても、仕事は果たして自分で選べるものなのかどうか、そのこと自体が極めて曖昧であるとしか言いようがない。

 ちなみに小生は僧侶だが、小学校から大学までを通して、自分自身、僧侶が好きなわけでなく、僧侶になりたいわけでもなく、家族も友人も先生も、おそらく誰一人として小生が僧侶になると思っていた人はいなかったはずだ。
 しかし、今の自分と過去の人生を省みれば、不思議にも、こうなったのは〈必然〉とすら、思えてくる。

 僧侶になりたいとは思わなかったが、生きる道に迷った大学性の頃は、東京や鎌倉で、ありとあらゆる宗教の門を叩いてみた。
 挫折し、絶望を抱いて仙台へ帰る電車のデッキで突然、自分の口から「文武両道の塾をつくる」というまったく思いもよらない言葉が漏れた。
 あの時は、自分以外の誰かが乗り移って言わせたかと思えるほど唐突だったが、しばらくして、「文武」という文字を冠する組織の創設にかかわることになり、それが現在の自分の骨格となっている。
 食うために始めた商売の世界が縁となって、世間に埋もれている行者を紹介された。
 あらゆる因縁の結果、自分の愚かさが極まって全財産を失い社会へ多大な迷惑を及ぼし、懺悔が山のように膨れ上がり、滅罪のため托鉢僧になるしか生きようがなくなった。
 しかし、過去の人生と出家との間に因果の糸が見えるのは、あくまでも〈あとから〉であり、当時はただ、もがいていただけで、ほとんどの場面が〈成り行き〉で現れ、熟慮をふまえた自分の選択など、どこにあったか訝しい。

 そもそも、私たちは、自分が〈こういう心身を持った人間〉としてこの世に生まれ出た因縁を知らない。
 また、普段は自分が何者であるかなどと考えず漫然と生きており、日々、自分がいかなる心で暮らすかは、暮らしてみなければわからず、不意の仲違いから事故や天災まで、突発的事態が生じた時に自分がどういう行動をとるかも正確には予測できない。
 こんなあやふやな自分でも、自分の口へ食べものを入れて自分で咀嚼(ソシャク)しなければ生きては行けず、狭い世界における縁の糸が生きる糧を得る手段に結びつく。
 ほとんどの我々凡人はこうして生きる道を見つけるし、こうして生きなければまっとうな社会人にはなれない。
 事実として、自分に向いた仕事が何であるかは自分でわからないし、自分の好きなことが仕事となって生きて行けるわけでもないのだ。
 言えるのは、何ごとかに対する〈強い関心〉が持続すれば、もしかすると不思議な〈必然〉をもたらすかも知れないということだけではなかろうか?

 故河合隼雄は述懐した。

「長い間(心理療法士を)やっていると、自分の能力ではこの職業はやっていけないのではないかと思うことがよくあって、いろいろ悩んだりもしましたが、でも、結局は、自分にはこれ以外に職業は考えられないということで、今日もなお続けているわけですから、『天職』というか、自分としてはやはりそこになんらかの必然性を感じざるをえないのです。」


 彼は元々、「一生、高校の教師をするつもり」だったのに、まったく思いも寄らぬ成り行きで超一流の心理療法士となった。
 ただし、「人間というものが好きで、人を育てるということに興味があり、人間と人間がふれあう場所にいたい」し、「子どものころから死というのが最大の問題だった」という。
 彼にとって変わらぬ〈強い関心〉がそこにあったという事実は重い。

 こんなことを考えてみると、好きなことは自分でわかるが、そもそも自分そのものが何者であるかがよくわからず、当然、あやふやな自分に向いた仕事が何であるかもよくわからない。
 ならば、縁となった糸をつかみ、まずは、自分で得た食糧を自分の口へ入れて自分の心身を養ってみたい。
 もちろん、仕事と関わりがあってもなくても、〈強い関心〉は失いたくないものである。
 生きているうちに、それが何らかの〈必然〉をもたらし、結果的に、仕事が「天職」と思える日が来るかも知れないのだから。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2016
02.07

イラク戦争と靖国神社への祈り(その20) ─生き仏の献身─

201602070003.jpg

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 寺へ戻っての法務が続いている。

○個から普遍へ(2月28日)

 早朝から斎場へ行き、百カ日の法要まで終えて帰山したら、もう夕方になっていた。
 喪主は、ずっと病院へ泊まり込み、不治の病に倒れたご主人を献身的に看病した奥さんだった。
 供養の膳を前にして、親戚の方々は異口同音に奥さんを称讃し慰めておられたが、弟さんはちょっと違う感想を述べられた。
「最後は人間としてやってたんですよね」
 看病は当然〈妻としての務め〉に始まったのだろうが、文字通り24時間つきっきりの5カ月が、それを夫婦としての愛憎を超えた行為にまで高めていたのだろう。
 人間の霊性は、宇宙にただ一人しかいない〈自分〉そのものを懸けた誠意ある地道な行為によって磨かれる。
 
 まず〈自分〉は人間であり、同時に、男か女であり、日本人か異国の人かどちらかであり、あるいは子であり、あるいは親であり、あるいは妻であり、あるいは夫であり、あるいは商売人であり、あるいは勤め人であり、自分を限定している諸々の面を持っている。
 時に応じ事に応じ、それぞれの面にふさわしい役割を果たしてこそ、心が安定し、充足感が得られ、社会からも認められる。
 普遍的な人間性の次元は、その努力の先に結果として開ける世界であり、ただ漠然と〝人間らしく〟考え、自分を限定している諸条件を無理に無視しようとしても、観念の遊びに陥るおそれがある。

 もちろん、いわゆる「らしさ」へのこだわりが大事であるというわけではない。
 よく知られているように、平安時代あたりの物語で男性が殴り合いをする場面などはなく、すぐに決闘をしたがる西洋の男性たちとはかなり異なった生き方をしていたようだ。
 勇ましいイメージのある「大和魂」もまた、本来は、日本人らしい繊細な情緒の理解や感得の能力を表す言葉であり、ねじり鉢巻をして拳を振り上げる粗野・粗暴からは最も遠いありようを指す。
 この「らしさ」が強調される社会は危うい。
 なぜなら、「らしさ」は人間の区別を伴い、人間が明確に区別されればされるほど管理しやすくなり、統御されやくすなるからである。
 本来、人間はきわめてファジーな存在であり、お互いにファジーであればこそ、多様な人々との相互理解も共鳴や共生も可能であるということを忘れないようにしたい。

 とは言え、まずは、自分のありよう、自分が置かれた立場なりに素直な生き方をしたい。
 時には、さまざまな社会的・文化的な「らしさ」と、それに括りきれない「自分らしさ」との緊張関係をも素直に受け入れながら、真摯に生きたい。
 思考停止して枠にはまってしまうのも偏り、気ままな自己主張も偏りではないか。
 
 さて、冒頭の喪主様は、こうした意味でとらわれのないまごころによって看病の5ヶ月を生きられたのだろう。
 良心、仏心、霊性といったもののはたらきが明確に主役となった時、周囲の人の目に「人間らしく」生きていると見えたのではなかろうか。
 一人の〈個〉を普遍の広大な世界へ解放するのはまごころだろうと思う。
 あらためて思い出してみると、喪主様は生き仏だった。




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2016
01.05

自分の苦楽と他人の苦楽 ─この世の〈見え方〉と〈ありよう〉について─

2016010200012.jpg
〈おかげさまにてお正月の護摩祈祷は5回、無事、終えました。守本尊様の5種類のおはたらきもお話ししました〉

 私たちは、自分しみについては、よくわかります。
 心の葛藤や沈み込みや怨みや怒り、また身体の不具合や痛み、あるいは仕事や人間関係の不調や失敗など、何でも具体的に迫ってきます。
 しかし、他人しみについては、よくわかりません。
 耳で言葉を聴いたり、目で様子を見たりすればある程度は想像できまずが、身体の不具合や痛みなどは想像すらなかなかできません。

 では、他人を見捨てられない心はどこから起こってくるか?
 それには、ものの道理を学び、心のはたらきを道理に合わせる訓練が必要です。

 まず、自分他人も〈同じ人間〉であるという〈ありよう〉の真実をしっかりつかむことです。
 学び、考え、腑に落ちなければ、〈ありよう〉はわかりません。
 なぜなら、〈見え方〉は、〈ありよう〉と違うからです。
 自己中心というフィルターがかかったままの心では、他人自分は違った〈見え方〉がするだけであり、常に自分を主としているので〈同じ人間〉とは到底、思えません。

 私たちが普段、暮らしている生活の各場面においては、いつも〈見え方〉が基準になっています。
 さまざまな約束ごとや処世術は皆、そこから発生しています。
 たとえば商取引は、今日の自分がそのまま10日後も同じ自分であるというこの〈見え方〉に基づいており、約束ごとをうまくこなす人は大金持ちになったりしますが、必ずしも人間としてまっとうであるかどうかはわかりません。
 他人に後ろ指を指されたことのない人が、他人を思いやる人であるとは限りません。
 すべては無常であり、今日の自分が10日後にはこの世にいないかも知れないと達観し、〈ありよう〉をつかんだ人は、商売が下手でも、よき隣人として信頼されるかも知れません。

 では、どうすれば、〈ありよう〉をつかめるか?
 たとえば、自分も他人も、同じくを厭い、を求めているという真実をつかむために、まず、親しい誰かを想像してみましょう。
 家族でも、友人でも、先輩や後輩でも結構です。
 自分がしい時に手を差し伸べてくれたり、友人の仕事がうまくいった時に酒を飲んでお祝いしたりといった光景を思い浮かべれば、〈同じ人間〉という実感があるはずです。
 そして、あの人、この人とたくさん思い浮かべているうちに、そのことは確信に変わります。
 確かに、まぎれもなく〈同じ人間〉同士なのです。
 次に、あまり縁のない町内の人や、取引先の人なども〈同じ人間〉であると想像してみましょう。
 最初はなかなかできないかも知れませんが、具体的に、あのおじさんが転んで立てず踞(ウズクマ)っている姿、あるいは、あの奥さんが子供の入試合格で喜んでいる姿などなど。
 普段、あまり関心がない人びとも、を厭い、を喜ぶことは自分とまったく変わりないことがだんだんと腑に落ちてくることでしょう。
 そして最後には、憎い人や怨みのある人やライバルなどのも想像してみましょう。
 いつもは「あんな奴」と思っていた相手も又、苦しい時に苦しむのは自分とまったく変わりなく、たとえば、その人が苦しんでいる腹痛を自分のことと想像してみれば、「ざまあみろ」というわけにはゆきません。
 いつもは「人でなし」と恨んでいる相手も又、病気が治って嬉しいのは自分とかわりなく、たとえば、自分が風邪をひいて苦しんでいた頭痛から解放されたことを想像してみれば、「チェッ」と舌打ちするわけにゆかないではありませんか。

 こうして「人間は苦を厭いを求める存在として皆、ひとしい」という真実を学び、考え、それが腑に落ちればようやく、人間の根本的な〈ありよう〉がわかってきます。
 この〈ありよう〉がわかった時点では、わかるまでの過程において、他人と自分の苦とを想像上とはいえ数限りなく〈同じ〉と経験しており、自然に他人を見捨てられない心ができているはずです。
 これが「ものの道理を学び、心のはたらきを道理に合わせる訓練」です。
 こうした真実は、仏教の歴史が生んだ智慧に導かれてつかめるものですが、学び、実践する人を選んだり限定したりするわけではありません。
 宗教宗派にかかわらず、そうか、と納得できれば誰でもが〈見え方〉から〈ありよう〉へと自分を深める扉を開けるのです。

 そして、〈ありよう〉をつかみ、〈同じ人間〉と観えるようになった人は、他人へ手を差し伸べて喜ばれ、喜ぶだけでなく、自分が自分自身の苦しみに負けず、それを解く力も必ず高まっています。
 自分の苦しみは自分だけのものではなく、誰しもが人間としての苦しみひとしく耐えつつ生きていると思えば、自分一人の苦しみなど小さなものではありませんか。
 現に生きている人びとと共に生きようという勇気が湧いてくるではありませんか。
 その先には野辺のタンポポやスズメなどもまた、苦を生きていることが観えてくるかも知れません。
 こうして仏法は普遍的真理真実を説き、誰をも排除せずに導くものなので仏宝(ブッポウ)として尊ばれるのです。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2015
11.05

無常の中で見つからない本当の自分 ―『チベットの生と死の書』を読む(5)―

201511050001.jpg

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベットの生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

第二章 無常

 師は、この章の最初にモンテーニュの言葉を示す。

「死を練習することは自由を練習することである。
 いかに死ぬかを学んだ者は、奴隷をやめることを学んだ者である。」


 死を練習すると言っても、自死のまねごとをするというわけではない。
 自分の死をリアルに想像してみるのだ。
 常々、死は〝やってきては困るもの〟として、ほとんど無意識のうちに日常生活から排除されているが、実は、心のどこかで、対決は避けられないと知っている。
 私たちは、〝無いもの扱い〟している死に抱きつかれている。
 振りほどけない。
 だから「自由」でなく、「奴隷」じみたことにもなりかねない。
 受け身になっているだけでなく、正面から死と対峙してみようというのがこの章の眼目である。
 自由になり、奴隷であることをやめるために。

「死は広大な神秘だ。
 だが、ふたつだけ確かにいえることがある。
 わたしたちが死ぬのは絶対に確実だということ。
 しかし、いつどのように死ぬかは不確実だということである。」


 私たちは、死の時期が「不確実」だから放置する。
 しかし、やってくることは「確実」だ。
 私たちは、正反対な二つの面を持った未知の死にどう向き合えばよいかわからない。 

「おそらく、わたしたちが死を恐れる最大の理由は、私たちが『自分は誰か』を知らないことにあるのだろう。」


 自分はこの世で唯一無比な存在であると思っているが、では、その「自分」を特定しているものは何か?と探してみると、「際限もなく集められたさまざまなもの」によって支えられていることに気づく。

「名前、生涯の記録、伴侶、家族、家、仕事、友人、クレジットカード……。
 わたしたちの身の保証はこのもろくはかないものによって支えられているのだ。
 では、それら一切が取り去られたとき、『自分は誰』だということになるのだろう。

 これら慣れ親しんだ支えを失ったとき、わたしたちはわたしたち自身に向き合う。
 見ず知らずの、ずっと一緒に暮らしてきたのにけっして会いたいとは思わなかった、気詰まりなよそ者に。
 わたしたちがあらゆる時間を騒音と雑用━それがどんなに退屈でくだらなくても━で埋めつくそうとするのは、沈黙のなかでこのよそ者と二人きりになるのを避けるためなのだろう。
 このことは、わたしたちの生き方にひそむ本質的な悲劇を指し示しているのではないだろうか。」


 ここで自分が「気詰まりなよそ者」と説かれているのは恐ろしい。
 よく考えてみれば、自分とは、〈よくわからないけれど、居ることだけは確かそうな誰か〉なのだ。
 そんな正体不明の誰かと「二人きりになる」ことを好む人はほとんどいないだろう。
 つまり、私たちは、名前や家族や仕事など自分の存在を支えているものは、はっきりと意識しても、それらを剥ぎ取った裸の自分とはなかなか向き合えない。
 しかし、必ずいつか、あらゆる支えが頼りにならない死を迎える。
 その時点ではもう、自分は「よそ者」扱いできない。
 このことを師は「悲劇」と言う。
 

「死んで、わたしたちはすべてをあとに残してゆく。
 特にこの肉体を。
 あんなにも大事にし、ひたすら頼みとし、懸命に生き延びさせようとしてきたこの肉体を残してゆく。
 しかも、わたしたちの精神は肉体よりもあてにならないときている。
 自分の精神をしばし見つめてみるがいい。
 蚤のようにつねに前に後ろに跳びはねているのが見えるだろう。
 思考が、何の理由もなく、何の脈絡もなく湧いてくるのが見えるだろう。
 その時々の混沌に押し流され、わたしたちは精神の気まぐれの犠牲になっているのだ。
 もしこれがわたしたちの知っている唯一の意識の状態であるのなら、死の瞬間に精神をあてにするのは馬鹿げた話だ。」


 名前も家族も友人も成果も、あれほど手入れし大事にしてきた肉体も、すべてこの世へ残してあの世へ旅立つ。
 もはや、頼りになるのは自分だけだが、その〈自分〉は何者であるかわからないまま、死の地点に至っている。
 意識は確かに在るが、恐怖や不安や希望などが次々と現れては消え、それらをコントロールする者はいない。
 自分自身が、瞬間瞬間に明滅する灯火のような意識の変化に翻弄されている。
 だから師は「死の瞬間に精神をあてにするのは馬鹿げた話だ」と言う。

 つまり、確実にやってくる死から目をそむけ、自分を自分たらしめていると思われる肉体や名前や家族や仕事などを当てにしているだけでは、いつやって来るかわからない死が到来した時に、何一つ頼るものなく、どうすればよいかわからない混乱の最中に、この世を去らねばならない。
 そこにはこの世を去る恐怖と、行く先の知れない不安しかない可能性が高い。
 では、どうすればよいか?

 持っている霊性に気づき、その光から覆いを取り払いさえすれば大丈夫です。
 次回へ続きます。




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2015
10.31

11月の運勢 ―嫉妬の問題―

2015103100022.jpg

 11月の運勢における留意点は、ものごとがうまくいったからといって、調子に乗り、嫉妬されぬことです。
 また、他人に嫉妬せぬことです。
 この時期、運勢的に危険性が高いのは嫉妬のやりとりによる思わぬ悪縁の発生です。
 嫉妬は最も克服困難な感情とされており、嫉妬は常に他人との比較において発生します。
 かつて、フランスの哲学者フランシス・ベーコンはこう指摘しました。

「比較のないところに嫉妬はない」


 だから、自分と他人をあれこれと比較さえしなければ無意味で心を穢す嫉妬は起こらないはずなのに、よりによって自分が〈下位に立つ〉分野で比較を始めないではいられないのが、私たちの宿命めいた成り行きです。

 さて、作家村木春樹氏は「自分のことがあまり好きじゃない」とこぼす読者へこう言いました。

「ほかのことについてどう考えるかという姿勢や考え方の中に『あなた』はいます。
 その関係性が大事なのであって、あなたが誰かというのは、じっさいにはそれほど大事なことではありません。
 そう考えていくと、少しらくになれるんじゃないかな。」


 この回答は二重の問題を含んでいます。
 一つは、〈自分〉というものは固定された実体がなく、他者との関係性の中で喜んだり怒ったりしているうちに、ようやく〈自分〉がどういう存在であるかが明らかになってくるということ。
 もう一つは、タマネギの皮がどんどん剥かれると最後は空っぽになってしまうように、究極的〈自分〉はどこにも見つけられないということです。
 とは言え、まぎれもなく〈自分〉が居る以上、まったく他人と無関係なままで生きることはできません。
 では、他人を意識しながらなお、比較しないで過ごすにはどうしたらよいか?

 自分を第一にする気持を離れて、他人を誉めればよいだけのことです。
 他人の長所を見出し、すなおに〝大したものだなあ〟と心から思っている時、嫉妬はどこにもありません。
 自意識が消え、〈相手より下の自分〉は意識されないからです。
 嫉妬が生じる前に、〈自分〉がいなくなっているからです。
 こうなれば、自分が勝っているという比較から起こる高慢心も起こりようがありません。
 ちなみに小生は、さまざまな状況下で、できるだけ頭を低くするつもりで礼をします。
 これは、自分を無にして相手を貴ぶ訓練になっています。
 皆様もぜひ、相手を問わず心から貴ぶ自分なりのやり方を見つけてください。

 どうぞ皆様、紅葉が心の窓に飛び込んでくるこの時期を、無事安全に過ごされますよう。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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