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2016
10.26

11月の聖語 ─法力と蓮華─

2016-10-26-0001.jpg
〈豪華でどこか哀しい……〉

 お大師様は説かれました。

法力(ホウリキ)の成就に至るまで、且(カ)つは教え、且(カ)つは修せむ。
 また、望むらくは、その中間(チュウゲン)において、住処を出ず、余の妨げを被(コウム)らざらんことを」


法力の成就を期し、弟子たちへ指導し、修法を行います。
 成就の時まで、ここに籠もることをお許しくださいますよう)

 薬子(クスコ)の変に際し、堂内に籠もって国家の安泰と世間の平安を祈るべく、嵯峨天皇に対して決意を披瀝した文章です。
 そこには「七つの難事をうち破り、四季の巡りが順調で、国を護り、家を護り、自他共に安寧な暮らしができますよう」と述べられてもいます。
 重要なのは「法力の成就」です。
 この身このままで、み仏そのものになることを目ざす密教においては、み仏から受けるお力を法力として発揮できるようになって初めて、一人前の行者です。
 外科医が実際に執刀ができるのと同じことで、小生の修業時代にはテストもあり、なかなか厳しいものでした。
 それは虚仮威(コケオド)しの見てくれを競うものではなく、誠心がご本尊様と感応すれば自然にはたらきだすのです。
 ただし、別段、超能力者である必要はなく、むしろ、修法に感応する素直な心が求められます。
 お大師様はそれを信修(シンシュ)と説かれました。
 信じて修行するという誠心と実践が必ず結果をもたらします。

 さて、仏法によれば私たちは等しく、み仏の子です。
 イメージとしては、心の奧に蓮華の蕾を持っているようなものです。
 『大日経疏(ショ)』は説きます。

「およそ、人の汚栗駄心(カリダシン)の状(カタチ)、なおし、蓮花の合してしかも、いまだ敷かざるがごときの像(スガタ)なり」


(人間に具わっているカリダ心の形は、蓮花の花びらが合わさっていて、まだ開かないような姿をしている)

 鎌倉時代の真言僧頼宝もまた、明確にしています。

「心には二つある。
 一つはチッタ心、これは慮知する心である。
 二つはカリダ心、これは中実の義である」


 心には二種類あり、一つは思慮し分別し、何かを知るといった日常的にはたらく、いわば表面の意識のようなものです。
 もう一つは、人間存在の中心をなすものとして深く蔵された心で、いわば無意識の世界のようなものです。
 後者として、普段は蓮華の蕾の姿で眠っているのが仏心(ブッシン)であり、仏心が開き、表面の意識が蓮華の姿ではたらくならば成仏です。

 私たちは誰でも尊い蕾を持っています。
 それを開くためには、開いた先達としてのみ仏を仰ぎ、自分の身体と言葉と心を、み仏に合わせる必要があります。
 仏道修行はこうして行われますが、在家の方々もまた、蕾を持っておられるので、いつでも〈生き仏〉になれる可能性があります。
 思いやる心が動き、誰かの何かが見捨てられずに手を差し伸べる時、私たちの身口意(シンクイ)は自己中心を離れてはたらきます。
 その時は、まぎれもなく生き仏になっています。

 最近、思い知らされました。
 駅のホームに立っていたところ、到着した電車の乗降口から降りたおばあさんがよろけ、転びそうになりました。
 ほんの2、3メートル先のできごとです。
 小生は、アッと思ったものの、とっさに両手の荷物を置いて前進することができず、立ったままでした。
 おばあさんに続いて降りた中年の女性が2人がかりで支え、ことなきを得ましたが、修行不足をつくづく実感しました。
 怠けていれば、怠けたようにしか身体は動きません。

 心も同じでしょう。
 蕾に気づき、学び、イメージトレーニングをしていればこそ、蓮華を開かせる可能性が高まります。
 私たちの心をつかむような誰かの行動はすべて、蓮華を開かせた、あるいは開かせかけた成功例と言えましょう。
 謙虚に、至心に学びたいものです。




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2016
10.25

生き直しの小さなヒント

2016-10-25-0001.jpg

 私たちは、お墓をどうするかなど、死後の準備をしていると自分の〈単独生〉に気づきます。
 お釈迦様は説きました。

「死に迫らるれば、親とても頼むべきなし」


 死に神がやってくると、家族などいかに親しい人であっても、追い返すことはできません。
 そして、手にしているものの頼りなさもわかります。
 確かに、お金などの財産があれば最後まで安全に生きられるでしょうが、それは、安心(アンジン)の土台にはなっても、安心を生むわけではありません。
 地位や名誉も同じです。
 誰かにとってそうしたものが力として役立つうちは、近づいて来る人もいるでしょうが、力を求められなくなれば、やって来る人もいなくなります。
 麗々しい肩書は、一人間としてのおつき合い上、邪魔にこそなれ、何ら役立ちはしません。
 死を意識し、死の準備をする私たちは、だんだん、〈自分そのもの〉になります。
 それは、裸で生まれ落ちた赤児に戻るようなものであり、夢中で生きてきた過去は何だったのだろう、と人生が一夜の夢のように感じられもすることでしょう。
       ○
 そうなってみると、二つのものが胸に迫ってきます。
 一つは、やり残したことや果たしていない責務、もう一つは償っていない過ちです。
 最後の力を振りしぼってそれらに挑戦していると、〈まだやれること〉と〈もうやれないこと〉が明らかになり、諦念が固まってきます。
       ○
 次々と周囲に別れが起こり、悲嘆の体験も重ねます。
 そうしているうちに、これまではテレビや新聞で目にしても心の目に映らなかった世界が、現実のものとして見えてくるかも知れません。
 他者の苦境が〈他人ごと〉ではなくなります。
 人々はすぐ近くで苦しみ、あるいは遠い異国で苦しみつつ、日々を生きています。
 母親の胎内から生まれ落ちた時は、同じ裸ん坊だったのに、その境遇は、天と地以上に遠く離れ、生活水準はもちろん、学力も、仕事場も、寿命すらも格差は広がる一方です。
 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は鋭く指摘しました。

「人類は、より大きな力を得ることにはたけているが、その力を幸せに転換する能力は高くない」


 確かに、言葉を用いてコミュニケーションを拡大させ、農業によって食糧を安定的に確保し、科学力を用いて豊富なモノをつくってきましたが、そうしためざましい発展の割には、人類全体の幸せ度は上がっていないかも知れません。
 戦火に追われ、異国で死んで行く子供たちの姿は、相も変わらぬ人間の業(ゴウ)を私たちへ突きつけてきます。
       ○
 人間とは何か、自分とは何か、社会とは何か、問題は〈追われている日常〉からだんだん遠ざかってきました。
 ここで思い出すのは、インド古来の「四住期」です。
 子供として学び、大人として仕事に励み家庭を守り、社会的な務めを果たし終えたなら世間的価値観を離れ、林に暮らして人生の根本問題と向き合い、最後は彷徨しつつ死を待つというものです。
 最後は裸の人間として死を迎えのが、赤ん坊の姿に還ることなら、自分とは何かといった素朴で深い疑問に沈潜するのは、青春期に還ることに例えられるかも知れません。
 多感な頃、私たちは解けない疑問にとらわれて煩悶し、心の許せる友と語り合ったではありませんか。
 生きんがため、役割を果たさんがために脇へ置きっぱなしにしてきた問題に、ようやく自分なりの解答が出せる時期が訪れたとすれば、何とありがたいことでしょうか。
       ○
 このあたりで何かが見えてきたなら、それは生き直しの入り口かも知れません。
 一人間として、いかなる価値観を持ち、何をやって過ごすか?
 それはまったく、自分次第です。
 もちろん、老老介護や闘病など状況はさまざまでしょうが、現役時代とは違います。
 それは、〝死へ向かっている〟という確かな意識があるからです。
 自覚した人間にはもう、見える世界が違っています。
 悲嘆の目から見える世界より半歩、先へ行っていると言えるかも知れません。
 死を覚悟した芥川龍之介は書き遺しました。

「自然の美しいのは、 僕の末期(マツゴ)の眼に映るからである。」


 彼の視線はきっと、哀しみという透明なフィルターを通して自然へ届いていたことでしょう。
 その哀しみは、み仏のお慈悲に通じています。
 なぜなら、み仏のお慈悲は〈哀しみ〉の共有に発しているからです。
 澄んだ心を持っている人がそばにいること、それ自体が慰めであり、救いともなります。
       ○
 このあたりで「生き直し」のポイントが一つ、見えてきます。
 それは思いやりの実践です。
 カール・ベッカー博士は、死別ケアなどにたずさわる人々の心構えについて指摘しました。

「深く哀しんでいる人と『隣に並んで歩むこと』『寄り添うこと』」。


 これは、お釈迦様が説かれたお慈悲そのものです。
「慈」は、広い友情をもって寄り添い、相手の幸せを望むことであり、「悲」は、他者の苦しみを見捨てず、取り除くことだからです。
 では、思いやりをもって生きるにはどうしたらよいでしょうか?
 優しい気持がすぐに怒りや怨みにひっくり返る私たちは、どうすれば、他者の哀しみがわかり、本心からの思いやりが持てるでしょうか?
       ○
 どうせ生き直しをやるのなら、根本からやりましょう。
自己中心」を離れて、み仏に成ってしまうのです。
 私たちの身体と心と言葉のはたらきを、み仏に一致させてしまいましょう。
 身体では合掌しましょう。
 右手をみ仏、左手を自分とみなして両方を一致させます。
 形はさまざまですが、掌をやや膨らませて、蓮華の蕾を連想するのがお勧めです。
 泥に咲いても清浄な色を失わない蓮華のような心が、私たちには必ず、具わっているのです。
 言葉では「あー」と唱えてみましょう。
「あ」はいのちと心を根源であり、故郷です。
 私たちは「あ」と生まれ「うん」と息を引き取ります。
 だから、寺院の山門には「あ」と「うん」の金剛力士像がおられます。
 合掌して目をつむり、お腹の底から息をゆっくりと吐きながら「あー」と唱えてみましょう。
 心では、口から出た「あ」という音が遠くへ遠くへと伸び、息が途切れた先へまでずうっと届いて行くと観想しましょう。
 ゆっくりと息を吸う時、宇宙のエネルギーが戻って来て自分を満たし、清めます。
 そしてまた、ゆるゆると宇宙へ伸び、広がって行く息と声は、自分をすっかり解放します。
 幾度か繰り返すうちに、自己中心的な気持など、どこかへ行ってしまうことでしょう。
       ○
 清められた心は、数々の出会いを思い出させるかも知れません。
 私たちはさまざまな人々と縁を結びながら人生を紡ぎます。
 そして、ある程度の年齢を重ねてから振り返って見ると、善い人だけでなく、酷い人との出会いも恩讐を超えた感覚で甦ることでしょう。
 色合いも大きさも異なる星々が揃って夜空という一枚のベールを織り成すように、出会った人々のすべてが人生に関わっています。
 その真実もまた、自己中心という小さな殻を忘れさせることでしょう。
       ○
 その方なりに、生き直しをじっくり考えてみてはいかがでしょうか。
 こうした生き直しは若い人にもお勧めです。




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2016
09.10

再び、優しさを考える ─困った父親、秘訣を教える、捨てて救われる─

2016-09-10-0001.jpg
〈広島の原爆供養塔。自然墓『法楽の郷』と同じイメージです〉

 「優しさ」を考えましょう。優しさ、つまり、思いやりにまさる救いはありません。思いやられる相手だけでなく、思いやる人そのものがすでに救われています。

1 信じる

 ある時、Aさんが人生相談に来られた。
 父親がギャンブルから抜け出せない。
 Aさんと母親を心配した親戚一同が集まり、父親と別れて暮らせるようにしようということになったが、Aさんも母親もそうしなかった。
 Aさんは、困り者の父親を見捨てられない。
 苦しみつつ、老いてくる母親を支えているAさんは、呻くように言う。
「それでも父なんです」
 申し上げた。
「お父さんご自身の因縁は簡単に解けないかも知れません。
 それでも、親子の縁を切ろうとしないAさんの誠意は見事です。
 こうした事態の解決に絶対的な方法はないでしょう。
 それぞれが、それぞれのやり方で対応しつつ生きるしかありません。
 言えるのは、Aさんが事態から逃げず、お父さんを見捨てない姿勢が人としての誠意を示しているということです」
 誠を尽くす大切さは、誰かのためになるから、という面が一つ、そしてもう一つは、そうするその人そのものがそうしないではいられないから、という面である。
 この後者こそが、「信じる」意味の行き着くところ。
 信じるところから真の人間関係も優しさも生まれる。。

2 認める

 Aさんの父親は、ギャンブルの影響で事件も起こす。
 母親は何度も警察や刑務所へでかけ、父親を連れ帰った。
 Aさんは、そんな母親を哀れと思う。
 さんざんな目に遭っても別れないのは、やはり夫婦というものなのだろう。
 周囲は、母親もAさんも巻き込まれて不幸だからと、夫婦別れを促す時期もあったが、今はもう、余計な口出しをしない。
 父親は、母親にとって〈丸ごと〉夫であり、Aさんにとって〈丸ごと〉父親であり、その現実から逃げようとしない姿を知ったからだ。
 丸ごとそのままの相手を相手にするのが「認める」意味である。
 自分に都合良く、利用する部分だけ切りとって誰かを認めたりはしない。
 親が、長所も短所もひっくるめて我が子を愛おしく思う、これが本当の優しさである。

3 教える

 自分がそうなっていて気づかなくても、誰かが崖っぷちの方向へ歩いていると気づく場合がある。
 それを教えないではいられない。
 誰かに難事が起こりそうな場合も、誰かが好事をつかまえそこなおうとしている場合も、教える。
 ところで、私たちが理想的人間である菩薩(ボサツ)になろうとするならば、『大日経(ダイニチキョウ)』が説くとおり最低、4つの戒めを守らねばならない。
 一つ、正しい法を捨ててはならない。
 一つ、悟りを求める菩提心(ボダイシン)を捨ててはならない。
 一つ、正しい法を伝えず惜しんではならない。
 一つ、生きとし生けるもののために役立たねばならない。
 この3番目が問題である。
 私たちは〈つかんだ秘訣〉を自分だけのものにして、優位に立とうとする。
 それは優しさと無縁である。
 真に教えることは、自分の人生の一部を分け与えるのと同じである。
 これもまた、真の優しさである。

4 与える

 俳優の杉良太郎氏は、刑務所慰問、被災地支援、ベトナム人の里親など、ありとあらゆる慈善活動を行ってきた。
 売名と批判されても「ええ、売名ですよ」と平然として答えるらしい。
 人は普通、あって当たり前のものがないと、罪を犯すかも知れないし、死ぬかも知れない。
 戦乱の地や暴風雨で壊滅した地域などでは、世界中いたるところで食糧の略奪が起こり、暴力事件も殺人事件も起こり、餓死者も出る。
 与えられることでようやく、人倫が保たれる場面は哀しく、美しくもある。
 そうしたギリギリの地点を知っている人は、与えずにいられない。
 杉良太郎氏は、刑務所で憂さを忘れる時間を与え、被災地で生き残る安心を与え、ベトナムで向上できる希望を与え続けている。
 これが優しさでなくて何だろうか。

5 守る

 10年前の10月2日、アメリカ東部ペンシルバニア州ランカスター郡で、キリスト教の一派であるアーミッシュが運営する学校へ賊が押し入った。
 錯乱した近所の運転手が女子児童5人を射殺した挙げ句、自殺した。
 その中には、友達を救うため「私から撃って。ほかの子は解放して」と前に出た13才と11才の姉妹が含まれている。
 現場へ駆けつけた犯人の妻と子供3人はアーミッシュたちに抱擁して慰められ、妻は葬儀にも招かれた。
 アーミッシュは「善をもって悪へ応えよ」と育てられている。
 どうしても誰か、何かを守らねばならない時、私たちは自分の何かを捨てる場合がある。
 それはモノであり、時にはいのちでもあるが、核となっているのは自己中心的な思いの放棄だ。
 私たちは本当に何かを守ろうとすれば、必然的に我欲を離れ、誰かを赦し、誰かを救う。 
 自分も根本的に救われている。
 優しさはここに極まる。




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2016
06.09

Q&A(その23) ─過ちを清めるには?─

2016-06-04-0006.jpg

 人生相談でいただくことの多いご質問である。
過ちを犯してしまいましたが、心の問題なのです。
 どうすれば償えるでしょうか?」

 私たちは、嘘をついてはいけないことを知っている。
 盗んではいけないことを知っている。
 しかし、どうしても〈やらかしてしまう〉存在だ。

 では、ハッとした時に何をすれば、悪行(アクギョウ)の償いができるか?
 それは、懺悔(サンゲ)と善行(ゼンギョウ)である。
 心底から悔い改めねばならないし、本当に〝悪いことをしてしまった〟と思えば、必ず何かよいことをしないではいられない。

 では、どう悔い改めればよいか?
 まず、我欲に引きずられがちな日常生活から、ちょっと離れる必要がある。
 さもないと自分可愛さから、自分に対する言い訳や、社会に対する言い逃れ、あるいはごまかしを生じ、肝心の罪悪感をうやむやにしたくなる。

 離れる先が宗教の世界である。
 だから、仏教においてもキリスト教においても、懺悔の作法は洗練されてきた。
 当山の例祭は必ず懺悔から始まる。

 古来の作法には叡智が宿っている。
 常に過去のデータや判断が書き換えられる科学の世界とは異なり、宗教の世界ではむしろ、年月を経て研究され、実践されてきた作法にこそ信頼がおける。
 それは、無数の人間が導かれつつ真実性を検証してきたからである。

 もう一つの善行(ゼンギョウ)はどうか?
 そもそも善行(ゼンギョウ)とは何か?
 経典は「仏性(ブッショウ)にすなおな行為」であると説く。

 仏性(ブッショウ)とは、私たちに本来そなわっている、み仏の子たる霊性のことである。
 誰でも持っているのなら何の問題もなさそうだが、月に群雲(ムラクモ)がかかるように、自己中心の我欲(ガヨク)によって覆われている時間がどうしても長くなる。
 まず、自分が生きねばならないからだ。

 では、どうすれば群雲を(ムラクモ)払えるか?
 身体と言葉と心のはたらきを仏性(ブッショウ)に合わせればよい。
 その方法もまた、歴史に磨かれた経典に説かれており、大乗仏教(ダイジョウブッキョウ…皆共に救われようとする仏教)の基本は六波羅蜜(ロッパラミツ…6つの修行道)の実践である。

 さて、6月8日、総勢100名様ほどの中で、こんなお話を申し上げた。
「私たちはどうしても自己中心的に生きてしまいますが、お地蔵様や観音様はそうでなく、自己中心というものがないから菩薩(ボサツ)様なのであり、私たちも、誰かの役に立とうとしたり、始めたことはやり遂げようと精進したり、生きとし生けるものへ感謝をしたりしているうちに、だんだん菩薩)ボサツ)様に近づけます。
 そうした小さな実践を続けていれば魂が清らかになり、この世への執着心や、死への不安や恐怖心が消え、如来様の世界と感応し、安心で生きがいのある日々が送れます」

 六波羅蜜(ロッパラミツ)を学んで善行(ゼンギョウ)を実践したいならば、実践者であろうとする行者に学べばよい。
 苦を抜き楽を与える慈悲の体現者である菩薩(ボサツ)様や如来(ニョライ)様をお祀りしている寺院には、この世の幸せとあの世の安心を得るきっかけがある。
 自分の行いにハッとした時は、懺悔(サンゲ)と善行(ゼンギョウ)を心がけたい。




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2015
12.08

経典は宝もの ─智慧と実践─

201512080001.jpg

〈早朝の虹〉

 仏教における経典と実践の大切さをあらためて考えてみたい。

1 なぜ、経典が尊ばれ、供養されるのか?

 八千頌(ジュ)般若経にある経文である。

 神々の王である帝釈天(タイシャクテン)がお釈迦様へ質問する。
 以下は大意である。

「片方には、智慧の完成を書き記し、書物の形にして安置する人びとがいます。
 捧げものを調え、恭敬し、尊重し、奉仕し、供養し、讃歎し、祈願します。
 もう片方には、悟った如来の舎利をストゥーパの中に安置し、自分のものとして保存する人びとがいます。
 こちらの人びとも書物と同じように、大切にします。
 さて、どちらの人びとがより多くの福徳を得られるでしょうか?」

 お釈迦様は問われる。

「それでは、お前に質問しよう。
 如来はどのような道について学び、全知者性を獲得し悟ったのだろうか?

 帝釈天は答える。

如来智慧の完成について学び、全知者性を獲得し、悟られたのです」

 お釈迦様は指摘される。

帝釈天よ、そのとおりである。
 如来は具体的存在である身体を得ているから如来という名で呼ばれるのではなく、全知者性を得ているために如来という名で呼ばれるのだ。
 全知者性は智慧の完成によってもたらされた。
 如来が具体的存在としての身体を得ているのは、智慧の完成を生ずるための巧みな手立てとして必要だからである」

「だから、如来が涅槃へ入ったおりには、人びとが舎利を尊び、供養するだろう。
 しかし、より多くの福徳を得るのは、智慧の完成を書き記し、書物の形にして安置する人びとなのだ。
 なぜなら、それは全知者の知を直接、供養したことになるからである


 肝腎なのは智慧の獲得であり、それは、自己中心的なものの観方を離れ、如来の観方ができるようになることを意味する。
 これがない限り、たとえ100年にわたって仏舎利を拝んでも、煩悩の束縛から脱し得ない。

 お大師様も説かれている。

「真言密教に縁を結び、経典を書写し、読誦し、教えに即して修行し、思惟を深めるならば、永遠とも言うべき長い時間をかけなくても、父母から生まれたこの身このままで高い境地へ入り、心中のみ仏を開顕することができるでしょう

 大切なのは教えに学び、実践し、日常の認識パターンを超えた認識の目を持つことであり、その先にこそ般若心経の空(クウ)を知り、空に生きる道が開ける。

2 観る人から行う人へ 

 では、空に生きるとはいかなるイメージか?
 脱力し、我関せずを決め込む〈観る人〉になっただけではどうしようもない。
 仏教はそんなところを目ざしてはいない。
 自利利他(ジリリタ)に精進する菩薩(ボサツ)となることが目的である。
 お大師様は、仙人のようになってもしようがない、とはっきり述べておられる。
 では、利他の勇猛心はどこから出てくるか?
 どうすれば、智慧が慈悲に結びつくか?
 なぜ、〈観る〉から〈行う〉へのジャンプが可能なのか?
 その方法こそが密教の三密行(サンミツギョウ)である。

 私たちの心といのちは、身口意としてはたらいている。
 身体、言葉、意識の三つである。
 普段は煩悩(ボンノウ)によって三つのそれぞれが、自己中心的にはたらき、他者とぶつかり、傷つけ合っている。
 しかし、印を結ぶなどして身体をみ仏に一致させ、経文や真言を唱えるなどして言葉をみ仏に一致させ、観想するなどして意識をみ仏へ一致させれば、おのづから、心中のみ仏がはたらき出す。
 この訓練を繰り返すことによって、身体と言葉と意識は三つの悪業をつくらず、み仏のおはたらきと一致するようになる。
 み仏のおはたらきは、普段、隠れており凡夫の生活から秘密になっているので、三密(サンミツ)と言う。
 つまり、三業(サンゴウ)ではなく、三密に生きられるようになる。
 これが即身成仏(ソクシンジョウブツ)である。

 ただし、仏心は万人にあり、すべての現象が大日如来の顕れとして仏法を説いている以上、所定の経典を読誦するという限られた方法によってしか、三密を得られないわけではない
 いつの間にか自己中心にとらわれなくなっていた人もおられる。
 平成25年9月、ジョギング中の厳俊氏(26才)は、増水した淀川で流されている小学4年生の男児を救出した。
 思わず飛び込んだが自分も溺れそうになっていったんは岸へ上がったものの、あきらめずに100メートルも下流へ走って追いかけ、住民が差し出したロープを身体へ巻いて再び濁流へ飛び込み、救出成功となった。
 大阪市立大学留学生である氏は紅綬褒章を受け、語った。
「一人の普通の中国人としてしなければいけないことをしただけです」
 氏はあの時、生き仏になっておられたはずだ。
 身体は飛び込み、言葉は今行くぞと心中で叫び、心には見捨てない覚悟があったのではないか。
 身口意は、どんな地獄へも現れてくださる地蔵菩薩や観音菩薩そのものだったに違いない。
 彼がいかなる生活の中で身につけたかはわからないが、見事な三密と言える。

3 観ると行う

 何を信じていようがいまいが、普段から思いやりの心を意識し、イメージする生活をしたい。
 自分の身体はどうはたらいているか、言葉はどうはたらいているか、意識はどうはたらいているか、チェックしたい。
 そして、できるならば、み仏の教えに接し、煩悩(ボンノウ)のフィルターを外して空(クウ)を観る目も持ちたい。
 そうすればきっと、大切に伝えられた経典とみ仏のご加護により、苦を滅して行けることだろう。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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