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2010
04.04

解りにくい四苦八苦

 世の中には熱心に勉強する方がおられるもので、そんな一人Aさんから「五蘊盛苦(ゴウンジョウク)って何ですか?」と問われました。
 
 これは人間の宿命として逃れがたい「四苦八苦」の一つです。
 おそらくAさんは、生・老・病などと同じように調べてみた結果、〝そうか!〟と腑に落ちなかったのでしょう。
 五蘊(ゴウン)は(シキ…目に見え感覚でとらえられる言わば外界)・受(ジュ…感受作用)・想(ソウ…考える作用)・行(ギョウ…意志作用)・識(シキ…我と自覚する作用)の5つです。
これらが盛んになればなぜ苦になってしまうのかは、なかなか解りにくいところです。

 ポイントの一つは、「お金を初めとして、何ごとにせよ無ければ困るがあり過ぎるのも困る」という問題です。
 お金は、希望を達成するための有力な手段の一つですが、得る方法や使い方を誤れば、人生を一気に壊してしまう毒にもなることは、マスコミをにぎわす事件が雄弁に物語っています。
 情報も同じです。
 何でも知ることができるのは大変便利である一方、いっぺんにたくさんの中から選ばねばならないばかりに、うまく選べない場合が出てきます。
 あるいは、本物と偽物がまじっていても気づきにくかったりします。
 取捨選択に迷い、本物と偽物をしっかり区別できない人にとっては、見えるもの・聞こえるものなどがあまり多種多様にあふれているのは「困った状況」なのです。

 もう一つのポイントは、五蘊盛苦は「五陰盛苦(ゴオンジョウク)」とも書くことに関係があります。
 感覚の対象となるものがありすぎるために大切なものや真理や真実などが陰に隠れて解りにくく、その人や家庭や社会や国にとって肝腎なものが忘れられたり、気づかれなかったりして、無いと同じことになってしまう場合があります。
 それが、要らぬ迷いや不安や判断の誤りをもたらして苦となるのです。
 また、〝本当にこれで良いんだろうか?〟〝もっと他に良いものがあるんじゃないだろうか?〟と疑心暗鬼になり、自分の選択や判断に自信を持てず、招来へ不安をなげかけてしまう場合もあります。

 安心・満足・覚悟・決断などを破壊する魔もの、正邪・善悪・虚実をあいまいにする魔もの、それがこの苦の原因となる〈過大な五蘊〉です。
 私たちの生存にとって不可欠な酸素ですら、過呼吸によって摂り過ぎれば、身体を破壊してしまうのと同じことです。
 まさに今はこの魔ものが活躍している時代です。
 
 大日如来の法を行う例祭に参加すれば、「自分の努力・仏神の力・そして一緒に手を合わせる人々の縁の力」があいまって強力な魔除けとなり、知らぬうちに大きなご加護の中へ入ることができます。
 例祭が不断に行われどなたにも解放されているのは、心ある人同士がこうした魔ものに負けず共に未来を切り拓くためなのです。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
01.21

死後の旅 (その7 空の2)

 思考の回転が始まる。
 (シキ)とは、知覚の対象となる形あるものや、音や、香りや、味や、触って確かめられるものや、思い浮かぶものなどの全てだ。
 それらの目や耳でとらえられる具体的なものたちに囲まれ、〈反応する存在〉として、自分はここにいる。
 だから、とは、自分を自分たらしめているもの、自分を存在させてくれているものの全てである。
 もしも、見えるものも、聞こえるものも、触れるものも、思い浮かべるものもなければ、自分は一体、どこにどういうものとして存在しているのだろう。
 考えるだに、ゾッとする。

 それが(クウ)と本来、同じであるとはいかなる意味か。

 固定的な本質を持たず、解放された状態をと言うはずだ。
 それなら──、いわば自分がここにいることを保証してくれるはずのが、カスミやモヤのように不安定で不確定で不確実でしかないならば、自分はどうなるのだろう。
 融けてしまうではないか。
 しかも、恐ろしいことに、般若心経は、「(ジュ)・(ソウ)・(ギョウ)・(シキ)もまた同じことである」と説いている。
 周囲に広がる「」だけでなく、それを感覚的にけ取る「」も、さらにイメージとしてつかむ「」も、整理する「」も、言葉に置き換えて意味を知る「」も皆、であるならば、自分はもはやどこにもいないのと同じではないか!

 周囲が真っ白な雲に囲まれていても、自分がここにいることだけは確かだと信じていた。
 しかし、釈尊に導かれ、お大師様の声に教えられて思いをこらしてみると、どんどん、自分がいなくなってしまう。
 自分はいるのかいないのか………。

 龍太は再び、瞼の裏側に広がる光へと意を解放した。

 やがて、時は来た。
 ──待てよ!
 ──そうか………!
 自分がここでこうしていると思っているのに、実体は流砂のようにとらえどころがないのならば、〈ここ〉、〈こうして〉は、自分で自分を勝手に限定している思考に過ぎない。
 さっき、自分がどこにもいなくなる恐怖を感じた。
 しかし、〈ここ〉、〈こうして〉が幻であると知ってもなお、自分はいる。
 ならば──。
 自分は〈いつ、どこにでも〉いられるのではないか!



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来(胎蔵界)様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2008
06.03

阿弥陀様のご加護

 新しく『法楽の会』へ入られた方々の護摩木もあり、盛大な火となった第一例祭でした。
 供養や祈願の法が終わり、ご本尊様を護摩壇の火から仏界へお帰りいただくためにたくさんの花びらを投げ上げた時です。
 驚いたことに、一枚残らず行者から見て左前となる北西へ飛びました。
 この方向には阿弥陀様がおられ、行くべき道を誤らぬよう智慧を与えてお導きくださるとされています。
 
 できごとの意味はすぐに解りました。
 四川大地震で犠牲となった方々が成仏するよう、日々、祈っていたからです。
 花びらの不思議な飛び方は、祈りに応じて御霊を導くぞとのメッセージに違いありません。

 参列していた方々も初めての光景に驚かれましたが、こうした場に居合わせること自体が、救いをいただいている証左です。
 皆さんと話をしながら、あらためてありがたさが胸にこみ上げました。
 法話は、参列者へお渡しするお守にある「礼節を守り長老を敬うようなまっとうな生き方をすれば、四つの福徳が得られる」という『法句経』の一節でした。
 四つのうち一つは「」、すなわち健康的で美しい身心です。
 一つは「力」、すなわち溌剌と生きるエネルギーです。
 一つは「寿」、すなわちお与えいただいたいのち分をまっとうできる運気です。
 一つは「安」、すなわち何ものにも揺るがない深々とした安心です。

 ご参詣の方々は、それぞれ、ご自身のため、あるいはご家族や知人のため、あるいは社会などのために一時間を超える祈りの場へ参加されました。
 そして、奇瑞に巡り会い、四つの福徳を持ち帰られました。
 ご本尊様と人びとと行者が一体となる法のありがたさは、護摩法の香と共にしばらく残りました。

200601


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2008
01.31

2月の聖悟

 (シキ)を孕(ハラ)む者は(クウ)なり。
 を呑む者はなり。
 三密(サンミツ)は何(イズレ)の処にか遍ぜざらん。
 の慈悲は天のごとくに覆(オオ)ひ、地のごとくに載(ノ)す。 ―弘法大師―


(現象世界は、の世界の顕れである。
 を自分そのものとしているのはである。
 のはたらきは、ありとあらゆるものに及んでいる。
 その慈悲は天のように上から守り、大地のように下からささえている)

」は目に見え、耳に聞こえる五感が感じ取れる世界です。
 生きものはすべて、自分が見て感じ、聞いて感じ、触って感じながら生きています。
 アメーバは目も耳もありませんが、触ったものが食べものであるかどうかだけは瞬時に判断できるので生きていられます。
 お大師様は、私たち生きもののそうした世界は、「」という五感ではとらえられない世界の〈顕れ〉であると説かれました。
 
 その目に見えず耳に聞こえない「空」なる世界を呑んでいる、つまり自分の体としておられるのがみです。
 だから、お不動様も、お地蔵様も、観音様も動いているお姿は見えず、教えを説いておられるお声は聞こえませんが、そうしたみ仏の世界があってこそ、この世がパノラマのように、あるいは万華鏡のように展開しています。
 こうした展開はすべて、み仏のお体とお言葉とご志に依っているにもかかわらず、凡夫はなかなかそうは感じとられません。
 だから、み仏のを3つの秘「密」と称します。

 空が私たちのいのちとして展開する時、三密三業(サンゴウ)になります。
 日々、悦び、悲しみ、笑いつつ、私たちは幸せをもたらす善き業(ゴウ)も、不幸をもたらす悪しき業(ゴウ)も積み続けます。
 生きものには、「自分が生きたい」という抜きがたい姿勢があり、人間は、摂理や道理に背いてまでその姿勢を貫こうとします。
 それは、み仏の智慧の明かりが隠されて無明(ムミョウ)となり、煩悩(ボンノウ)がを支配している状態です。

 み仏は、こうした私たちを哀れみ、慈しみ、本来の三密で生きられるよう手を差しのべてくださいます。
 救いは、「体のはたらきを本来のものにしなさい」「言葉のはたらきを本来のものにしなさい」「言葉のはたらきを本来のものにしなさい」という形で現れ、私たちは、身体をみ仏の身体と同じくし、言葉をみ仏の言葉と同じくし、心をみ仏の心と同じくすれば、いつでも根本的な救済を受けられます。
 それが即身成仏です。
「いつ、どこにいても」守本尊としてお救いくださっている具体的なご加護は、決して途切れるものではありません。
 合掌し、真言を唱え、心にみ仏を観想して自分の本源へ還り、ご加護をいただきながら、み仏の子としての確かな道を歩みたいものです。
2007
02.06

色即是空について

 ひんぱんに提起されるご質問「色即是空(シキソクゼクウ)」について、かいつまんで書いておきます。
「色」は目に見え耳で聞こえるものの世界、つまり、この世です。
「空」は、そうしたものの源、つまり、み仏の世界です。
「色即是空」とは、「この世が即ちみ仏の世界である」という単純な真理を示すものです。
 そもそも、み仏を信じない仏法はありません。
 ならば、空こそがみ仏ではありませんか。
(研究を使命とする学者だけでなく、み仏を信じお仕えする行者たる僧侶たちも、み仏を脇へ置いた議論をしている現状は、腑に落ちません)

 ただし、その真理は、頭で考えて“そうか…”と思うだけでは、目の前にある料理を見て“うまそうだな…”と思うのと同じで、人生を動かす力にはなり得ません。

 釈尊は生きたまま、この世で悟られました。
 釈尊が成仏されたことによって、この世でみ仏に成れることが証明されました。

 その境地を目指して行者たちは修行に励みました。
 悟りの追体験をしたい、いかなる方法で悟られたのかを究明したいという一心です。
 釈尊と同じく、恵まれた環境を捨てて悟りを目指したお大師様は、ついに成仏の追体験をされ、しかも、正統な伝授を基礎としてその境地へ至る具体的な方法を確立されました。
 真言密教の根本「即身成仏」です。

 人間がみ仏の子である以上、誰しもが本来の姿になれます。つまり、「即身成仏」は、すべての人々へ約束されています。
 ただし、当然のことながら、方法の実践以外、実現の可能性はありません。
 方法は、「身体も、言葉も、心もみ仏と成る」ことです。
 お大師様は、「迷いの三業を、み仏の三密に昇華する」と説かれました。
 それは、いかなる場で生きていても同じことです。

 釈尊が説かれた戒律のままに生きられれば、即身成仏の実現です。
 身体では「不殺生、不偸盗、不邪淫」、言葉では「不妄語、不綺語、不悪口、不両舌」、心では「不慳貪、不瞋恚、不邪見」です。
 身・口・意を正しく保ち、み仏になりましょう。
 教典はその導き手となるからこそ、今に伝えられています。

 料理を何年眺めていても埒があきません。
 うまそうだな、いつ食べようか、どういう風に調理したのだろうなどと逡巡しているうちに、時々刻々といのちは減って行きます。
 すばらしいことが解ったなら食べましょう。
 み仏になりましょう。
 般若心経という最高の一品がこの世にある第一の理由は、読誦、そして修法という実践によって私たちをみ仏の世界へ誘うため、即身成仏を実現するためなのです。




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