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2016
12.01

消えた因縁 ─心の檻(オリ)から脱した話─

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〈四国霊場にて〉

 積もりつつある落ち葉の上に小雨が降り、今にも雪に変わりそうなある日、人生相談で訪れた中年のAさんは、訥々と語り始めた。
 若い頃、父親に殺されかけた話から。

 熟した柿の木のそばで、ちょっとしたいざこざが起こり、逆上した父親が、「このやろう!」と鎌を振り上げた。
 無論、妻子のあるAさんは逃げた。
 父親は普段、決して暴力的ではなく、常識や良識も持ち合わせ、業界や町内で役員に推されるような人間だが、ある種のマグマを抱えているのは、学歴コンプレックスのせいかもしれない。

 百姓の家に生まれ、土方など、何でもやって生き延びてきた父親は、「裸一貫」が口癖で、IT企業ではたらくAさんとは人生観がまったく異なっている。
 とにかく、細くて長い節(フシ)がスルッとした指を持つ者は「汗を流さない」「本気ではたらかない」と決めつけ、信用しなかった。
 だから、病気がちな弱い身体と、よくはたらく頭脳を持ったAさんは、親子でありながら、信用できない者の範疇(ハンチュウ)に入れられていた。
 
 Aさんは〈生い立ちという檻(オリ)から出られない〉父親への軽蔑を育てつつ、そのことに苦しんでもいた。
 とにかく母親と協力して自分を育て、学校を出し、一人前にならせてくれたのだから、大恩人であることは重々、承知している。
 しかし、いくら恩を自覚しようと軽蔑は消えず、惚れ合い妻となった女もまたAさんと似た心理に陥り、家族間の葛藤は募る一方だった。

 多くの人に観音様のようだと称された母親は若くして他界しており、高齢になった父親も又、2年前、頑健な身体にガンを発症した。
 入院させ、金銭面ですべての面倒をみているが、夜半までの仕事が珍しくないAさんは、なかなか見舞いに行かない。
 たまに病室を訪れても、「何でお前のような子供に育ったんだろう」などと言われたシーンが繰り返し、思い出され、言葉も出ないままに息苦しい時が経つだけだ。

 通勤の途中、ビルの向こうに薄いを見た日、Aさんは初めて、お得意様Bさんの接待をした。
 BさんはAさんを高く評価し、受ける信頼はAさんの貴重なエネルギー源となっている。
 宴の終盤、酔ったBさんはやおら、「私は福島の出です」と前置きして民謡を唄い出した。

「ハアー 遥か彼方は 相馬の空かよ~」
 Aさんは鳥肌が立った。
 それは、Aさんがテストで全校のトップになった中学時代、夕食で一杯やった父親がちゃぶ台の前で立ち上がり、上機嫌で唄った時の姿そのものだった。

 福島県で百姓の五男坊に生まれた父親は、この「新相馬節」を十八番(オハコ)にしていた。
「なんだこらようと アー チョーイ チョイ」と唄う時は、すべてから解放されたとしか思えない無邪気な顔をしていた。
 Aさんは勝手に、〝きっと、自分が父親からこの民謡を聴かされた頃の少年時代に戻っているのだろう〟と考えていた。

 大恩人Bさんが唄い終える前に、涙をこらえつつ、Aさんは気づいた。
〝もう、消えた……〟
 ──自分でつくった〈そこから出られない〉心の檻(オリ)がなくなっている。

 上機嫌で更なる協力を約束してくれたBさんと堅い握手を交わし、乗り込んだタクシーを見送ってからAさんは決心した。
〝明日、父親の見舞いに行こう、(初めて)手を握ってやろう。
 俺の節がスルッとした指でもきっと、喜んでくれるだろう〟

※この文章は実話を元にていますが、プライバシー保護のため内容に手を加えたフィクションです。




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2015
11.09

生涯を感謝すこゝろ落葉降る ─飯田蛇笏─

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〈11月4日、『ペット霊園やすらぎ』さんで、恒例となった秋の供養会を行いました〉

 11月8日、飯田蛇笏(イイダ ダコツ)が昭和27年に詠んだ句をとりあげた。

は地上におはし給はず


 息子3人を失った老年男性の呻きとしか言いようのない作品だが、同時期のものについても書いておかねばならない。

「生涯を感謝すこゝろ落葉降る」


 晩秋から初の時期に降る落ち葉は、いのちの終わり、あるいは休息というイメージを、極めて強く喚起する。
 しかし、蛇笏はストレートに「感謝す」と言う。
 しかも「生涯」を。

 きっと、〈もういい〉のだろう。
 超一流の俳人としてあらん限りの力を発揮し、戦争もくぐり抜けた。
 も仏もないこの地上をありようも、まざまざと観た。
 無常の現世は、私たちに喜怒哀楽を催させながら、全体としてここにある。

 これも同時期の作品である。

「凪ぎわたる地はうす眼してに入る」


 ここで言う「凪ぐ」は、実際に海が平穏に広がっている光景であっても、あるいは大地がおさまりかえっている気配であっても構わない。
 ポイントは「うす眼」にある。
 の冷たい空気は氷のように密度が高い。
 あらゆるものを、そこにあるがままに固定、密閉する。
 隙間や弛みを許さない。
 その存在の力を受けながらでなければ、アリ一匹、動けない。
 こうした凪ぎ切り、支配し切った空気の圧力を受けてなお、大地は、はっきりと薄眼を開いている。
 あらゆるものに存在と緩慢な活動を許し、見守っている。
 私たち人間も又、薄眼のご加護が及ぶ範囲で生きている。

 は進む。
 

「こゝろなごみゆく地の起伏冬日和


 初冬の小春日和とは違い、本格的な冬の最中に空が晴れ渡り、寒いながらも陽光の恵みを直接ありありと感じられる状態が「冬日和」である。
 そんな日は、大地の自然な起伏にすら弛緩のありがたみを覚える。
 厳寒に玩ばれつつ生をつなぐ生きものである人間にとって、その〈赦し〉は何ものにも代えがたい。
 蛇笏はそう言うしかない言葉を紡いだ。
「こゝろなごみゆく」は、冒頭の句における「感謝す」と同じ率直さだ。

 もう一句ある。

「魂沈む冬日墓地を通るかな」


 墓地におられる御霊については普通、「鎮まる」と表現する。
 未練や怨みや怒りや不満などを脱却して、安らかに、静かにお眠りいただきたいと誰しもが願う。
 しかし、蛇笏は敢えて「沈む」と書いた。
 それは沈むという動きを言うのではない。
 沈んでしまっている状態だろう。
 若くして死んだ三人の息子たちの御霊はあの世へ行ったが、そこはもう手の届きようがない世界だ。
 冬ですらこの世の生きとし生けるものへ遍く降りそそぐ陽光も、死者へはまったく恩恵を与えることができない。
 現実をそのままにとらえ、諦観に静まる心で合掌しつつ墓地を通り過ぎる蛇笏。

 ここまで読んで来ると、「は地上におはし給はず」にも潔さが感じられてくる。
 生きてたどり着いた境地を見せた、さすがの67才である。
 最後に辞世の句、あるいは臨終の句とされている作品について触れておきたい。

「誰彼もあらず一天自尊の秋」


 この「一天自尊」は明らかに、現象世界はそのままに自らの心の本性であると観た状態である。
 無常なるものとして「誰」も「彼」も「自分」も全てが在る。
 それは「天」であり「尊」と言うしかない。合掌

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〈灰塚や火葬炉や古いお塔婆のお焚きあげなど、一切の供養を行いました〉




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2010
10.18

11月の聖悟

 お大師様が説かれた密教の精髄です。

 我身(ガシン)と仏身(ブッシン)と衆生身(シュジョウシン)は

「不同にして同なり、不異(フイ)にして異なり」

(私たちの心身と、み仏の心身と、人々の心身は同じではないが、本質的には同じである。そして、本質的に異なるものではないが、現象としては異なっている)
 お大師様は、即身成仏(ソクシンジョウブツ)について端的に述べておられます。
 自分の本源を悟れば、それはみ仏と同じであり、自分がみ仏と同じであるならば、同時に、み仏と同じである一切の人々とも同じでなければなりません。
 三者は別々なので、同じ名ではありませんが、本源は同じなので、自分という意識に縛られている日常次元を離れれば、同じであるとわかります。
 三者は本源が異なってはおらず、現れとして異なっているだけです。

 芥川龍之介は詠みました。

落ち葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」

 陽が落ちる頃、少年は一人で落ち葉を焚いています。
 いつの間にか、夕闇に包まれていました。
 少年はふと、周囲の樹々が神となって見守る気配を感じて、目は炎と闇へ向いていても、心は深閑とした世界へ解き放たれます。
 瞑目して想像する筆者の心は今、少年と同じ〈解放次元〉にあります。
 この稿を読む方もまた、同じような次元へ心を広げられることでしょう。
 こうした万人が共有する〈解放された場〉を発見するのが即身成仏であるといえます。

〈焚き火の炎が十三仏の足元へ映りました〉
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