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2016
11.19

生きている間だけが問題か? ─今の自分と死後の自分─

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〈当山近くにある『ペット霊園やすらぎ』様で、恒例の供養会を行いました〉

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〈ストーブの前は極楽〉

 よく、「人事(カン)を蓋(オオ)うて定まる」と言います。
 人の評価は、死後にはっきりするという意味です。
 生きているあいだは、義理や人情や損得勘定などがからみ、人物そのものの正確な評価は行われにくいものです。
 権力者や裕福な人は「大したものだ」と持ち上げられていても、その〈人となり〉については、身近にいる人々から厳しい目で見られていたりします。
 死後、身にまとっていた諸々がなくなると、その人そのものの真姿が明らかになります。

 死後は関係ない、自分が生きている間だけが問題だ、と考える方もおられるでしょう。
 そうでしょうか。

 少なくとも、自分の子供や孫、あるいは後の世代のことを考慮する人ならば、そうは言えないはずです。
 なぜなら、若い人たちの未来を考えながら生きるかどうかは、自分の今をどう生きるかという問題そのものだからです。
 後の世代に思いをいたしつつ生きる人は、生きている間はもちろん、死後にはますます評価を高めることでしょう。 

 ある時、ある田舎町のご葬儀導師を務めました。
 ご家族だけの質素なお別れでしたが、学生服を着たお孫さんがよてもよい姿勢でお別れの言葉を述べました。
 ご本人の了解を得てその一部を掲載しておきます。
 

「おじいちゃんから学んだ一番のことはあいさつ。
 人と接する上で大切な事はあいさつをきちんと出来る事だと、何度も教えてくれたよね。
 そのおかげで、どこに行っても、礼儀正しく立派だと僕はいつも誉められます。
 これはおじいちゃんのおかげだね!!
 ありがとう。

 おじいちゃんはいつも自分の事より、皆の事を優先して考える人だったから、入院した時だって、本当はおじいちゃんが病気で辛いはずなのに、僕達の心配ばかりしていたね。
 そんな思いやりのあるお祖父ちゃんが僕は大好きです。

 おじいちゃんにしてもらった事はたくさんあるけれど、僕は何も返してあげられなかったから、おじいちゃんの代わりにおばあちゃんの事は僕が守って行くから、安心して僕に任せてよ。
 だからおじいちゃん!!
 天国から僕達の事を見守っててね。
 僕もおじいちゃんみたいな立派な大人になれるように頑張ります。」


 おじいちゃんは、現場で汗をかくことをいとわないまじめな普通のサラリーマンだったそうです。
 戦後の混乱と競争の中で生き抜き、子供たちを育て上げました。
 特に名を立てたわけではなく、莫大な財産も遺しませんでしたが、家族や友人に囲まれつつ静かに逝きました。
 そして、と共に、この上なく高い評価が一つ、下されました。
 礼儀正しく、おばあちゃんを思いやる中学生が一人できあがることに大きくかかわっていたのです。
 一人の若者のお手本になっていたのです。
 しかも、その真実を、当の中学生が厳粛な場で堂々と証言しました。
 これ以上確かに「定まる」ことは望み得ましょうか?

 私たちは、望もうと、望むまいと、お(ヒツギ)に横たわってから、送った人生が顕わになります。
 しかも、自分以外の人によって観られ、思い出され、語られる真実は、〈死後の自分〉という永遠なる未来を定めます。
 生きた自分だけでなく死後の自分も、それを記憶する人々と、その人々とになる人々の生きざまにかかわって行きます。
 決して「自分が生きている間だけが問題」ではありません。

 滔々たるいのちと心の連鎖、という時間的・空間的に無限大なる網の繋ぎ目である一瞬を今、生きていることを忘れずに日々、過ごしたいものです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
09.20

Q&A(その29) 導師がネコのように静かに歩き、棒を振るわけは?

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〈み仏の両眼には日輪と月輪が〉

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〈梵字のマ、日輪〉

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〈梵字のタ、月輪〉

 これまで、葬祭会館の方などから幾度もご質問を受けました。
「どうしてご住職はあれほど静かに歩くのですか?」
 答は以下のとおりとなります。

 真言密教の行者は、修行道場であれ、あるいはご葬儀場であれ、修法する道場へ入る際には人知れず、いろいろな観想を行っています。
 たとえば、右の目には梵字のマ、左の目にはタを置きます。
 マは日輪(ニチリン…輝く陽光)、タは月輪(ガチリン…円満な月光)です。
 陽光は智慧の光で真実世界をくまなく照らし、月光は瞑想に入った行者へ悟りの心を開かせます。
 道場内をこの両眼で観ながら静かに入ります。
 心には梵字のウンを置き、金剛薩埵(コンゴウサッタ)というみ仏に成り切っています。
 こういう状態で進む足は一輪づつ、目には見えない蓮華を踏んでいます。
 だから、スリッパを引きずるような音などは決して出さず、肩を揺すって歩くなどということもありません。
 蓮華の花びらを散らさぬよう、足をそっと置くように一歩、一歩と歩むので、正面を向いているご参詣やご参列の皆さんには足音がほとんど聞こえないはずです。

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〈滝田商店様よりお借りして加工しました〉

 もう一つ、よくあるご質問へお答えしておきましょう。
「どうして最初に棒のようなものを振るのですか?」

 実は、以下のとおりの手順で、道場のお清めを行っているのです。
 導師の左側には二つの仏器と、その間に1本の棒が置いてあります。
 手前の仏器には塗香(ヅコウ)という手に塗るためのお香が入っており、着座した導師はまず、蓋を開けてそのお香を両手に塗ります。
 そして護身法を結びます。
 次は、奧にある仏器の蓋を開け、左手に数珠、右手に三鈷杵(サンコショ)という仏具を持って、仏器の中に入っている水を加持(カジ)します。
 この時に、カラン、カランという音が21回、聞こえるはずです。
 数珠に三鈷杵を当て、水を21度、清めています。
 それから散杖(サンジョウ)という棒を水へ入れて回します。
 これは、水を重ねて清め、清浄な乳水に変えているのです。
 それから、散杖の先に水を着け、道場や心を清めるために、横、縦に振ります。
 
 修法を行うには、まず、その場を清めます。
 家庭でも、学校でも、職場でも掃除をするのと同じです。
 そして、目的の修法がきちんと行われるように、導師や善男善女の心も清めます。
 それだけではありません。
 これらが終われば必ず、結界の法を結び、魔もののようなものを一切シャットアウトしてから、ご供養やご祈祷やご葬儀の法を順々に進めます。
 清めと護身法結界の手順を踏まない修法はありません。

 今回は、導師が道場へ入り、お清めを行うあたりまでの大まかな作法について書きました。
 何となく想像していただければありがたいことです。




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2016
09.15

家族はあの世でもまた家族 ─連なりの意識を考える─

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 ご葬儀の際、最後の法話までが導師の法務と心得、法話が終わり会場を後にしてから、喪主様のご挨拶となる流れが多かった。
 しかし、ある時、喪主のご挨拶後に導師の席を立つよう要請され、久方ぶりに座ったまま、お話を聴いた。
 内容には圧倒された。

「母はあの世へ旅立ちましたが、これで家族がなくなったわけではありません。
 母は私たちより一歩先にこの世から離れただけのことです。
 やがて私たちも次々に行くので、またを結び、あの世で楽しく暮らしたいと思います。
 その日のために、この世で導いてもらったとおり、あの世から見ている母に恥ずかしくない生き方をしようと思っています。」

 この方が仏教徒かどうかは知らないが、ご一家はキリスト教徒でなく、生前の故人共々、当山の法務に納得して墓地を求め、仏教によるお別れをされた。
 これまで幾度か、お会いした印象からすれば、喪主様の言葉は特殊なドグマなどを信じてのお話ではなく、自然な感覚をそのまま口にされたのであろうと思う。
 要は、人は死んでも無にならず何かが残り、この世で家族となった縁は、家族の死によって消えないと感じておられるのだ。
 だからこそ、お墓を造り、お参りをする。
 親の導きや戒めは、親が亡くなれば消えるのではない。
 新たに与えられることはなくなるので、子供としてはいっそう、大切にして行かねばならないものとなる。

 人倫とはこのことの謂いではなかろうか。
 白川静著『字通』によれば、「侖は相次第して、全体が一の秩序をなす状態のもの」である。
 また、「輩(トモガラ)」であり、「道」でもある。
 だから「倫」は一字だけで人倫を意味する。
 とすれば、人倫の根本には〈連なりの意識〉がなければならない。

 さて、9月14日付の産経新聞は「特権階級が社会を牛耳る」と題して、中国の農村部で根付く読書無用論について書いた。

「『勉強する必要はない』という『読書無用論』は、農村部を中心に今も大きな支持を得ている。
 中国青年報が2014年、四川省の雲郷雍村で行った調査では、村の262世帯の約4割に当たる106世帯が子供を学校に行かせる必要はないと考えていた。
『字を知らなくても金は稼げる』『教育費が高すぎる』などの理由からだという。」


 この風潮は悪名高い毛沢東の文化大革命から広まった。

「最高指導者の毛沢東自身が読書家であるにもかかわらず知識人を嫌い、68年には小中学校を含めて『授業を中止して全身全霊で革命に尽くせ』と呼びかけた。」


 人々から、ものごとを鵜呑みにせず自分で考える力を奪い、一つの思想で染めて統治しやすくした。

「文革期の読書無用論は、党中央が推進する政策や、党幹部の特権などに異論を差し挟む知識人を打倒し、物事を考える力を奪う『愚民政策』の一環だったと指摘される。
 現代の農村部とは事情が異なるように思えるが、『本質は全く同じだ』との指摘もある。
 『文革期、中国を動かしたのは優秀な人材ではなく、特権を持った人々だった』。
 北京のある文化人はそう前置きした上で、次のように語った。
 『最近は、元高官の二世などの特権階級に社会が再び牛耳られるようになった。
 庶民は努力しても報われることが極端に少なくなった。
 特に農村部の保護者たちは、子供に勉強させること自体がバカらしくなっている』。」


 このとおりだとすれば、中国の指導部は、国民を二分しようとしていることになる。
 特権階級と、それ以外の人々だ。
 文化大革命では分断策により、家族関係や師弟関係などを問わず凄まじい密告・暴力・虐待・殺人などが起こっただけでなく、暴風がおさまった後も、被害者の自殺、加害者の罪悪感、生き残った人々のPTSD(心的外傷後ストレス障害)など、広汎な人間性の破壊が行われた。
 明らかに、〈連なりの意識〉が家庭からも、社会からも奪われたのだ。

 ひるがえって日本を眺めてみればどうか?
 確かに「」が叫ばれてはいる。
 しかし、それは主として空間的に、言わば〈横に広がるもの〉として、とらえられているように思われる。 
 手をつなぐ意識である。
 無論、それはそれで結構だ。
 しかし、私たちの文化はそもそも時間的に、言わば〈縦に連なるもの〉として紡がれてきたのではなかったか?
 お祭りなどの行事であれ、学問であれ、技術であれ、各種の芸能であれ、もちろん宗教であれ。
 そして、神棚も仏壇もお墓も、特に言挙(コトア)げするまでもなく、切れるはずのないを象徴するものだった。
 江戸時代までは、こうした空間的なと時間的なのバランスがよかったのではなかろうか?
 そこを見抜いたからこそ、故杉浦日向子はこう言ったのではなかったか?

「江戸時代は、自分と他者の境界線がものすごく曖昧で、融通し合っていた。
 その辺から、パワーなり、エネルギーなりが生まれていた。」
「250年続いた泰平の世は、言うならば、低生産、低消費、低成長の長期安定社会。」


 時間的に縦に連なるものに懸ける者同士として、空間的に横に連なるのは当然であり、そこに文化の創造性があると説いたのが故三島由紀夫だった。
 彼はたった一人で東大へ出かけ、約千人の学生を相手に2時間、討論した。
 議論の中心は時間と空間の問題だったように思われる。

 個人主義が膨れ上がり、極端な消費社会になり、緊張と不安と競争に明け暮れる私たちは、〈連なりの意識〉を忘れつつあるのではなかろうか?
 横にを求める一方で、家族や先祖などとの自ずから与えられている縦の絆を、あまりにも脇へ追いやってきたのではなかろうか?
 冒頭に挙げた喪主様の言葉には、風潮に流されない人、自然に絆を育ててきた人の明晰で強靱な自覚がある。
 救われている方に救われる思いだった。
 そうそう、今後はなるべく喪主様のご挨拶をお聴きしてから退場しようと思う。合掌




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2016
08.28

アメリカの遺族カウンセリングと寺院の役割

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 京都大学総合人間学部教授カール・ベッカー博士によると、アメリカには、遺族カウンセリングを行う病院があるという。
 

末期患者が亡くなるであろう二、三ヶ月前から、家族、そして医療従事者、患者の世話をするチーム、看護婦や医者、そしてだいたいにおいてはハワイでしたらお坊さん、本土でしたら神父、牧師などを呼んで一、二時間くらいティーパーティーをひらきます。
 お菓子を出して、場合によってはビールとか酒も出します。」(以下『日本人の死生観』より)


 驚いた。
 医者が何かを告げるといった目的ではなく、患者の話を聴くのはもちろん、集まった人たちが「お互いに話せるような場」を目ざす。
 もちろん、祈りたい雰囲気になったなら、一緒に祈ることもある。
 数回、開催するうちに本人は他界するが、その後も毎月、数回は「雑談」を続けることが理想とされている。
 そうすると「不思議なこと」がわかる。

遺族カウンセリングをやった場合、遺族がほかの一般の人と同じような比率で健康でいられるのに対して、一般の、遺族カウンセリングをもたない遺族は、死なれて一、二年もたたないうちに突然死、急病、精神異常、自殺未遂等々、悪運をずっと引きずります。」


 これはかなりきつい表現だと思うが、家族の死をどう受けとめ、咀嚼(ソシャク)するかはその人その人によるとは言え、「遺族カウンセリングのある方が健康にいい」と事実を突きつけられてしまえば、唸るしかない。
 しかも、この事実は広く知られ、アメリカでは郡や町の単位でティーパーティー代を負担する制度すらつくられている。
 せいぜい十数万円ではあるが、医師や牧師などに時間をとらせ、クッキーなどを用意すればそれなりの実費は要する。
 その経費と、遺族の運命の重さとを比べ、「みんなのほうから出しましょうということになる」そうだ。

 さらに博士は指摘する。

「私がこの話を日本人に語るというのはいささか滑稽に思えませんか。
 だって、日本ではお坊さんがずっとそういう作業をしてきたのですから。
 昔のお坊さんは、死なれてからだけではなくて、患者が危ない、最期ではないかと思う時点から家庭に出入りし始めて、そして死なれてから何度も、四十九日、一周忌、等々、宗派によって微妙に違いますが、そこでお経を唱えるだけでなくて、みんなが話し合える、悩みを聞き合えるという場を設けて、いわば祟りを無事に抜けてきたのです。 これが日本人の知恵だったのです。」


 一昔前までは、生前にお墓を建てることや、万が一の際の準備をすることは「縁起でもない」と避けられていたが、今はむしろ、先に逝く本人が、ご葬儀の準備すら〈自分の責任〉と考えるのが一般的になりつつある。
 事実、当山には、たくさんのご家族がお揃いで相談に来られる。
 もういくばくもないと宣告されている方を目の前にして、息子さんが「おやじ、これから二人とも高校進学で大変なんだから、お墓はそんなに立派なの造れないよ」と言い、父親が「じゃあ、お墓代は俺と母さんが何とかしよう。お前は永代供養料と年間管理料を払って、孫の教育のためにも墓を守って行けよ」などとざっくばらんに話し、衆議一決する場合もある。
 もちろん、送る立場の奥さんが一人で来られ、こっそり、ご夫婦の分、共同墓の契約をして「これで安心です」と穏やかな顔で帰られたりもする。
 また、四十九日の日取りをご相談に来られ、お墓のことで親族間のズレが生じていると悩みを打ち明けるご遺族もおられる。
 四十九日、百か日、一周忌、三回忌と続く一連の供養は決して形式的な慣習ではない。
 薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来という異なる役割を持つご本尊様方に導かれ、あの世の御霊が安心の世界へと向かうのみでなく、供養するこの世の人びとも又、悼み、慰め、祈るまことを尽くしつつ、それぞれの心なりに身内の死を受けとめ、知らぬ間に心を深める貴重な機会である。

 何か、〈聴いて欲しい〉ことがあったなら、遠慮なく人生相談を申し込んでください。
 アメリカにはアメリカなりのスタイル、日本には日本なりのスタイルがあります。
 博士が「ずっとそういう作業をしてきた」と言うとおり、当山は人生相談を寺院の中心的役割と位置づけ、歴史的使命を果たさせていただきたいと願っています。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2016
08.13

4ヶ月ぶりに我が子を発見したご両親 ─東日本大震災被災の記(第186回)─

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〈野辺の花にもある生と死〉

 8月12日、オリンピック男子体操で内村航平選手が逆転優勝し、新聞各紙のトップを飾った。
「もう何も出ないというところまで出し切れた」という言葉に国民が打たれた同日、さして大きくない記事も、〈やり切った〉人を紹介していた。
 4月14日に発生した熊本地震で唯一、行方不明のままだった大学生大和晃さん(22才)がついに発見されたのだ。
 父親の卓也さん(58才)と母親の忍さん(49才)は5月1日、県から捜索打ち切りを通告されてなお、職場の協力も得て、独自に探し続けてきた。

 被災したと思しき阿蘇大橋附近は峻険な場所で、激しく崩落しており、もしも埋まったなら発見は不可能だろうと思われていた。
 しかし、両親はあきらめなかった。

「布を見つければ息子の服ではないか、金属板を見つければ車の一部ではないか……。
 どんな小さな手掛かりも見逃すまいと河川敷を歩き、近づけない場所はカメラの望遠レンズを使って確認した。
 晃さんが乗っていた同型車や当日の服装の写真を載せたチラシも作り、川沿いの住民や工事関係者に配った。」


 そしてついに、手がかりを発見した。

「6月23日、阿蘇大橋の崩落現場から下流約5キロ地点で金属板を発見。
 晃さんの車と同車種の車体の一部だとわかった。
 いつしか、友人や知人が次々と捜索に加わっていた。
 我が子を捜し歩く姿をテレビで見て突き動かされ、現場を訪れ協力した人もいた。
 自宅には、『晃さんのお父様』の宛名で、全国から励ましの手紙が届いたという。

 そして7月24日。
 車体の一部を見つけた。
 忍さんは、取り乱した様子で車体を掘りだそうとしたという。
 忍さんは『私のこの手で晃を抱きしめるまでは諦められないんです』。

 7月30日、車体を見つけた現場に行った忍さんは、近くに折り鶴を置いた。
 毎日の捜索に向かう車中で折ってきたもので、1千羽を超えた。
 近くに、メッセージも添えた。
『もうすぐ連れて帰るばい』

 11日、遺体の収容を終えて、卓也さんは『手紙や励ましの言葉もたくさんもらった。ありがとうございました』と報道陣のカメラに向かって頭を下げた。
 忍さんは、晃さんにかける言葉を問われるとこう答えた。
『お帰り、きつかったね、苦しかったね』」(朝日新聞より)


 収容されたのが息子であると信じている卓也さんは語った。

子どもを手元に取り戻すことができた


 ここで言う「子ども」とは何だろう?
 ご遺体や遺品といったモノである。
 ご両親は、手がかりとしてのモノを100日以上、探して来られた。
 そして息子にかかわる確かな何かを手にしようとしておられる。
 それを確認し手にすることによって、息子との再会、息子の帰還が果たされる。
 それへ手を合わせることによって、あの世へ逝った息子と親との新たな絆が確信的に成立する
 
 ところで〈それ〉はあくまでモノである。
 この場合、モノは単なる物質としてのモノではない。
 あの世の御霊とこの世の私たちが、異なる世界にいながら通じ合うために、かけがえのない役割を果たす。
 だからこそ、人類は、世界中のどこでも、歴史が発祥した当初から、お骨や遺品の扱いには繊細な感覚をはたらかせてきた。
 そこが宗教心の根を形成する肝腎なところである。
 我欲に満ちた人間に汚れを抑制させる最後のよりどころでもある。


 しかし、東日本大震災の直前はどうだったか?
 人を送る宗教行為は限りなく貶められつつあった。
 評論家は過激さを競うかのように、お葬式とそれに関する諸々の行為を否定していた。
 それが、震災を期に鳴りを潜めた。
 一気に生じた膨大な死と弔いが、私たちの本源的な心性に気づかせたのである。
 ご遺体や遺品が単なるモノではないという当たり前の心を取り戻した。

 あれから5年、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではないが、またしても、ご葬儀はもちろん、家族も親も〈要らない〉という本がベストセラーになりつつある。
 言うまでもなく、著者のすべては親から生まれ、親子という家族関係の中で育てられ、ものを書いて売れる人間になったはずなのに……。
 評論家や宗教者から、お骨は単なるモノだとも、堂々と言われる。

 東日本大震災で津波に遭った被災地のあちこちでは、月命日となる11日に、各地で行方不明者の捜索が行われている。
 現場の方々は皆さん、真剣である。
 5年前によみがえった尊い感覚を大切にしておられる。
 それは、大和家の思いと通じている。
 大和家の報道に接してハッとしたなら、その心を大切にして行きたい。
 霊性が何かを教えてくれたはずなのだから……。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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