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2016
12.02

一年と一周忌供養 ─あの世でもこの世でも救われる話─

2016-11-11-0067.jpg
〈四国の霊場にて〉

 一年は、人生の一区切りをはっきりと感じさせる長さである。
 来し方を振り返り、行く先を想う。
 亡き人に対してもそうだ。
 一周忌では「もう、一年が経った」と感じる人も、「まだ、一年か」と感じる人もおられようが、いずれにしても、はっきりと〈時間的区切〉を迎える。
 そこで勢至菩薩(セイシボサツ)が守本尊として故人を導いてくださることの意義は大きい。

 勢至菩薩は、その名のとおり、この上ない勢いでお救いくださるが、勢いの内容は智慧の光明である。
 百か日の観音様が無類のお慈悲で阿弥陀様のもとへ向かわせてくださる一方、その道行きが確かなものとなるよう智慧の勢いを与えてくださる。
 だから、大勢至菩薩、あるいは大精進菩薩(ダイショウジンボサツ)とも呼ばれる。

 御霊はその力で迷いを解きつつ、み仏の世界へ溶け込んで行く。
 一方、勢至菩薩へ祈るこの世の人々もまた、思慕・想い出・未練・感謝などが入り交じり、揺れ動く心にまとまりがついてくる。
 この世の人々も勢いのご加護をいただくのある。

 妻を亡くされたAさんは一周忌を迎え、言われた。
「何もかも妻に任せっぱなしでしたから、オロオロするばかりで、いまだに落ちつきません。
 それでも、妻が大事にしていた花に水をやりながら、枯らさずにここまで来ました。
 夢中で一年経ってみると、植物が何を求めているのか、ようやくわかるようになりました」

 夫を亡くされたBさんは一周忌を迎え、経典を唱えた後で言われた。
「この区切の日に、ご住職が何を言ってくださるか、とても楽しみにして来ました。
 日常生活の何もかもを私に頼るばかりだったあの世の夫に、勢至様が勢いをつけてくださると聞いて、とても安心しました。
 一緒に経典を唱えた私自身も、ご住職がいつも言われる生き直しが、ようやくできるような気になりました」

 勢至菩薩のお姿は、蓮華の蕾を左手に持ち、右手で開く勢いを与えている。
 蓮華菩提心(ボダイシン…悟りを求める心)の象徴であり、蓮華が徐々に開く過程は、阿弥陀如来の浄土へ向かう旅路でもある。
 それは何もあの世のことだけではない。
 御霊の冥福を勢至菩薩へ祈る清浄な心になった私たちも又、自心の蓮華を花開かせつつあるのだ。

 あの世では安心が増し、この世ではまっとうに、幸せに生きる力が増す一周忌供養を行うことの意義はまことに深いと思う。




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

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2016
10.26

11月の聖語 ─法力と蓮華─

2016-10-26-0001.jpg
〈豪華でどこか哀しい……〉

 お大師様は説かれました。

法力(ホウリキ)の成就に至るまで、且(カ)つは教え、且(カ)つは修せむ。
 また、望むらくは、その中間(チュウゲン)において、住処を出ず、余の妨げを被(コウム)らざらんことを」


法力の成就を期し、弟子たちへ指導し、修法を行います。
 成就の時まで、ここに籠もることをお許しくださいますよう)

 薬子(クスコ)の変に際し、堂内に籠もって国家の安泰と世間の平安を祈るべく、嵯峨天皇に対して決意を披瀝した文章です。
 そこには「七つの難事をうち破り、四季の巡りが順調で、国を護り、家を護り、自他共に安寧な暮らしができますよう」と述べられてもいます。
 重要なのは「法力の成就」です。
 この身このままで、み仏そのものになることを目ざす密教においては、み仏から受けるお力を法力として発揮できるようになって初めて、一人前の行者です。
 外科医が実際に執刀ができるのと同じことで、小生の修業時代にはテストもあり、なかなか厳しいものでした。
 それは虚仮威(コケオド)しの見てくれを競うものではなく、誠心がご本尊様と感応すれば自然にはたらきだすのです。
 ただし、別段、超能力者である必要はなく、むしろ、修法に感応する素直な心が求められます。
 お大師様はそれを信修(シンシュ)と説かれました。
 信じて修行するという誠心と実践が必ず結果をもたらします。

 さて、仏法によれば私たちは等しく、み仏の子です。
 イメージとしては、心の奧に蓮華の蕾を持っているようなものです。
 『大日経疏(ショ)』は説きます。

「およそ、人の汚栗駄心(カリダシン)の状(カタチ)、なおし、蓮花の合してしかも、いまだ敷かざるがごときの像(スガタ)なり」


(人間に具わっているカリダ心の形は、蓮花の花びらが合わさっていて、まだ開かないような姿をしている)

 鎌倉時代の真言僧頼宝もまた、明確にしています。

「心には二つある。
 一つはチッタ心、これは慮知する心である。
 二つはカリダ心、これは中実の義である」


 心には二種類あり、一つは思慮し分別し、何かを知るといった日常的にはたらく、いわば表面の意識のようなものです。
 もう一つは、人間存在の中心をなすものとして深く蔵された心で、いわば無意識の世界のようなものです。
 後者として、普段は蓮華の蕾の姿で眠っているのが仏心(ブッシン)であり、仏心が開き、表面の意識が蓮華の姿ではたらくならば成仏です。

 私たちは誰でも尊い蕾を持っています。
 それを開くためには、開いた先達としてのみ仏を仰ぎ、自分の身体と言葉と心を、み仏に合わせる必要があります。
 仏道修行はこうして行われますが、在家の方々もまた、蕾を持っておられるので、いつでも〈生き仏〉になれる可能性があります。
 思いやる心が動き、誰かの何かが見捨てられずに手を差し伸べる時、私たちの身口意(シンクイ)は自己中心を離れてはたらきます。
 その時は、まぎれもなく生き仏になっています。

 最近、思い知らされました。
 駅のホームに立っていたところ、到着した電車の乗降口から降りたおばあさんがよろけ、転びそうになりました。
 ほんの2、3メートル先のできごとです。
 小生は、アッと思ったものの、とっさに両手の荷物を置いて前進することができず、立ったままでした。
 おばあさんに続いて降りた中年の女性が2人がかりで支え、ことなきを得ましたが、修行不足をつくづく実感しました。
 怠けていれば、怠けたようにしか身体は動きません。

 心も同じでしょう。
 蕾に気づき、学び、イメージトレーニングをしていればこそ、蓮華を開かせる可能性が高まります。
 私たちの心をつかむような誰かの行動はすべて、蓮華を開かせた、あるいは開かせかけた成功例と言えましょう。
 謙虚に、至心に学びたいものです。




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2016
10.25

生き直しの小さなヒント

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 私たちは、お墓をどうするかなど、死後の準備をしていると自分の〈単独生〉に気づきます。
 お釈迦様は説きました。

「死に迫らるれば、親とても頼むべきなし」


 死に神がやってくると、家族などいかに親しい人であっても、追い返すことはできません。
 そして、手にしているものの頼りなさもわかります。
 確かに、お金などの財産があれば最後まで安全に生きられるでしょうが、それは、安心(アンジン)の土台にはなっても、安心を生むわけではありません。
 地位や名誉も同じです。
 誰かにとってそうしたものが力として役立つうちは、近づいて来る人もいるでしょうが、力を求められなくなれば、やって来る人もいなくなります。
 麗々しい肩書は、一人間としてのおつき合い上、邪魔にこそなれ、何ら役立ちはしません。
 死を意識し、死の準備をする私たちは、だんだん、〈自分そのもの〉になります。
 それは、裸で生まれ落ちた赤児に戻るようなものであり、夢中で生きてきた過去は何だったのだろう、と人生が一夜の夢のように感じられもすることでしょう。
       ○
 そうなってみると、二つのものが胸に迫ってきます。
 一つは、やり残したことや果たしていない責務、もう一つは償っていない過ちです。
 最後の力を振りしぼってそれらに挑戦していると、〈まだやれること〉と〈もうやれないこと〉が明らかになり、諦念が固まってきます。
       ○
 次々と周囲に別れが起こり、悲嘆の体験も重ねます。
 そうしているうちに、これまではテレビや新聞で目にしても心の目に映らなかった世界が、現実のものとして見えてくるかも知れません。
 他者の苦境が〈他人ごと〉ではなくなります。
 人々はすぐ近くで苦しみ、あるいは遠い異国で苦しみつつ、日々を生きています。
 母親の胎内から生まれ落ちた時は、同じ裸ん坊だったのに、その境遇は、天と地以上に遠く離れ、生活水準はもちろん、学力も、仕事場も、寿命すらも格差は広がる一方です。
 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は鋭く指摘しました。

「人類は、より大きな力を得ることにはたけているが、その力を幸せに転換する能力は高くない」


 確かに、言葉を用いてコミュニケーションを拡大させ、農業によって食糧を安定的に確保し、科学力を用いて豊富なモノをつくってきましたが、そうしためざましい発展の割には、人類全体の幸せ度は上がっていないかも知れません。
 戦火に追われ、異国で死んで行く子供たちの姿は、相も変わらぬ人間の業(ゴウ)を私たちへ突きつけてきます。
       ○
 人間とは何か、自分とは何か、社会とは何か、問題は〈追われている日常〉からだんだん遠ざかってきました。
 ここで思い出すのは、インド古来の「四住期」です。
 子供として学び、大人として仕事に励み家庭を守り、社会的な務めを果たし終えたなら世間的価値観を離れ、林に暮らして人生の根本問題と向き合い、最後は彷徨しつつ死を待つというものです。
 最後は裸の人間として死を迎えのが、赤ん坊の姿に還ることなら、自分とは何かといった素朴で深い疑問に沈潜するのは、青春期に還ることに例えられるかも知れません。
 多感な頃、私たちは解けない疑問にとらわれて煩悶し、心の許せる友と語り合ったではありませんか。
 生きんがため、役割を果たさんがために脇へ置きっぱなしにしてきた問題に、ようやく自分なりの解答が出せる時期が訪れたとすれば、何とありがたいことでしょうか。
       ○
 このあたりで何かが見えてきたなら、それは生き直しの入り口かも知れません。
 一人間として、いかなる価値観を持ち、何をやって過ごすか?
 それはまったく、自分次第です。
 もちろん、老老介護や闘病など状況はさまざまでしょうが、現役時代とは違います。
 それは、〝死へ向かっている〟という確かな意識があるからです。
 自覚した人間にはもう、見える世界が違っています。
 悲嘆の目から見える世界より半歩、先へ行っていると言えるかも知れません。
 死を覚悟した芥川龍之介は書き遺しました。

「自然の美しいのは、 僕の末期(マツゴ)の眼に映るからである。」


 彼の視線はきっと、哀しみという透明なフィルターを通して自然へ届いていたことでしょう。
 その哀しみは、み仏のお慈悲に通じています。
 なぜなら、み仏のお慈悲は〈哀しみ〉の共有に発しているからです。
 澄んだ心を持っている人がそばにいること、それ自体が慰めであり、救いともなります。
       ○
 このあたりで「生き直し」のポイントが一つ、見えてきます。
 それは思いやりの実践です。
 カール・ベッカー博士は、死別ケアなどにたずさわる人々の心構えについて指摘しました。

「深く哀しんでいる人と『隣に並んで歩むこと』『寄り添うこと』」。


 これは、お釈迦様が説かれたお慈悲そのものです。
「慈」は、広い友情をもって寄り添い、相手の幸せを望むことであり、「悲」は、他者の苦しみを見捨てず、取り除くことだからです。
 では、思いやりをもって生きるにはどうしたらよいでしょうか?
 優しい気持がすぐに怒りや怨みにひっくり返る私たちは、どうすれば、他者の哀しみがわかり、本心からの思いやりが持てるでしょうか?
       ○
 どうせ生き直しをやるのなら、根本からやりましょう。
自己中心」を離れて、み仏に成ってしまうのです。
 私たちの身体と心と言葉のはたらきを、み仏に一致させてしまいましょう。
 身体では合掌しましょう。
 右手をみ仏、左手を自分とみなして両方を一致させます。
 形はさまざまですが、掌をやや膨らませて、蓮華の蕾を連想するのがお勧めです。
 泥に咲いても清浄な色を失わない蓮華のような心が、私たちには必ず、具わっているのです。
 言葉では「あー」と唱えてみましょう。
「あ」はいのちと心を根源であり、故郷です。
 私たちは「あ」と生まれ「うん」と息を引き取ります。
 だから、寺院の山門には「あ」と「うん」の金剛力士像がおられます。
 合掌して目をつむり、お腹の底から息をゆっくりと吐きながら「あー」と唱えてみましょう。
 心では、口から出た「あ」という音が遠くへ遠くへと伸び、息が途切れた先へまでずうっと届いて行くと観想しましょう。
 ゆっくりと息を吸う時、宇宙のエネルギーが戻って来て自分を満たし、清めます。
 そしてまた、ゆるゆると宇宙へ伸び、広がって行く息と声は、自分をすっかり解放します。
 幾度か繰り返すうちに、自己中心的な気持など、どこかへ行ってしまうことでしょう。
       ○
 清められた心は、数々の出会いを思い出させるかも知れません。
 私たちはさまざまな人々と縁を結びながら人生を紡ぎます。
 そして、ある程度の年齢を重ねてから振り返って見ると、善い人だけでなく、酷い人との出会いも恩讐を超えた感覚で甦ることでしょう。
 色合いも大きさも異なる星々が揃って夜空という一枚のベールを織り成すように、出会った人々のすべてが人生に関わっています。
 その真実もまた、自己中心という小さな殻を忘れさせることでしょう。
       ○
 その方なりに、生き直しをじっくり考えてみてはいかがでしょうか。
 こうした生き直しは若い人にもお勧めです。




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2016
10.23

蓮華と法具になったお大師様

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 お大師様が旅立った後、高野山が没落した時期のできごとである。
 天台宗の円仁が、弟子と荒廃ぶりを語り合ったところ、その世のにお大師様が現れた。
 次いで、真言宗の康修も現れて、「和尚に会おうと、お大師様が来ておられます」と告げた。
 円仁は驚いて起き上がり、衣装を整えて玄関に出る。
 ところが、お大師様はおられない。
 周囲を見回すと、庭に一本の蓮華が立っており、五鈷金剛杵(ゴココンゴウショ)が乗っていた。
 康修は再び、円仁の想念に現れてそれを指し示す。
「あの金剛杵は我が師である」

 お大師様は、右手に五鈷金剛杵、左手に数珠を持って入定(ニュウジョウ…瞑想のままこの世を去ること)された。
 金剛杵は不退転の智慧を、数珠は一人も見捨てない慈悲を表す。
 それは不動明王が右手に剣、左手に索(サク…縄)を持つのと同じである。

 お大師様は御遺告(ユイゴウ)で説かれた。

「吾れ閉眼の後には必ず方(マサ)に兜卒他天(トソツテン…弥勒菩薩の浄土)に往生して弥勒慈尊(ミロクジソン)の御前に侍(ハベ)るべし。
 五十六億余の後には必ず慈尊と共に下生(ゲショウ)し祇候(シコウ)して吾が先跡を問うべし。
 亦(マタ)、未だ下らざる間は微雲管(ミウンカン)より見て信否を察すべし。」


(私が亡き後には、必ず兜卒天に往生して弥勒菩薩のもとにつかえるであろう。
 仏滅後五十六億七千万年経ち、弥勒菩薩が天上からこの世へ降るおりには、必ず弥勒菩薩とともに人間界へ降り、かつて私が歩んだ跡を訪ねるであろう。
 また、この世へ降りるまでの間は、兜卒天の微かな雲間から望み見て、人々の信心・不信心を観察するであろう)

「努力努力(ユメユメ)後に疎(オロソ)かにすることなかれ」


(私が去った後も、決して、精進せず仏法を疎かにするようなことがあってはならない)

 お大師様は、弥勒菩薩のおそばから、不動明王のような智慧慈悲により私たちを見守っておられる。
 一時の流行や廃れに一喜一憂してはならない。
 信じ、精進する者は必ずお大師様と感応できる。
 お大師様とお会いできるかできないかは私たち自身の心がけ次第だ。
 ちなみに、蓮華に乗った金剛杵は、当山のお焚きあげの場にも高く掲げられている。
 この形は、あらゆる迷妄を断ち、生きとし生けるものを救う智慧慈悲を目ざす仏法の根幹であるに違いない。
「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」




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2016
09.20

Q&A(その29) 導師がネコのように静かに歩き、棒を振るわけは?

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〈み仏の両眼には日輪と月輪が〉

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〈梵字のマ、日輪〉

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〈梵字のタ、月輪〉

 これまで、葬祭会館の方などから幾度もご質問を受けました。
「どうしてご住職はあれほど静かに歩くのですか?」
 答は以下のとおりとなります。

 真言密教の行者は、修行道場であれ、あるいはご葬儀場であれ、修法する道場へ入る際には人知れず、いろいろな観想を行っています。
 たとえば、右の目には梵字のマ、左の目にはタを置きます。
 マは日輪(ニチリン…輝く陽光)、タは月輪(ガチリン…円満な月光)です。
 陽光は智慧の光で真実世界をくまなく照らし、月光は瞑想に入った行者へ悟りの心を開かせます。
 道場内をこの両眼で観ながら静かに入ります。
 心には梵字のウンを置き、金剛薩埵(コンゴウサッタ)というみ仏に成り切っています。
 こういう状態で進む足は一輪づつ、目には見えない蓮華を踏んでいます。
 だから、スリッパを引きずるような音などは決して出さず、肩を揺すって歩くなどということもありません。
 蓮華の花びらを散らさぬよう、足をそっと置くように一歩、一歩と歩むので、正面を向いているご参詣やご参列の皆さんには足音がほとんど聞こえないはずです。

2016-09-20-0001.jpg
〈滝田商店様よりお借りして加工しました〉

 もう一つ、よくあるご質問へお答えしておきましょう。
「どうして最初に棒のようなものを振るのですか?」

 実は、以下のとおりの手順で、道場のお清めを行っているのです。
 導師の左側には二つの仏器と、その間に1本の棒が置いてあります。
 手前の仏器には塗香(ヅコウ)という手に塗るためのお香が入っており、着座した導師はまず、蓋を開けてそのお香を両手に塗ります。
 そして護身法を結びます。
 次は、奧にある仏器の蓋を開け、左手に数珠、右手に三鈷杵(サンコショ)という仏具を持って、仏器の中に入っている水を加持(カジ)します。
 この時に、カラン、カランという音が21回、聞こえるはずです。
 数珠に三鈷杵を当て、水を21度、清めています。
 それから散杖(サンジョウ)という棒を水へ入れて回します。
 これは、水を重ねて清め、清浄な乳水に変えているのです。
 それから、散杖の先に水を着け、道場や心を清めるために、横、縦に振ります。
 
 修法を行うには、まず、その場を清めます。
 家庭でも、学校でも、職場でも掃除をするのと同じです。
 そして、目的の修法がきちんと行われるように、導師や善男善女の心も清めます。
 それだけではありません。
 これらが終われば必ず、結界の法を結び、魔もののようなものを一切シャットアウトしてから、ご供養やご祈祷やご葬儀の法を順々に進めます。
 清めと護身法結界の手順を踏まない修法はありません。

 今回は、導師が道場へ入り、お清めを行うあたりまでの大まかな作法について書きました。
 何となく想像していただければありがたいことです。




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