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2014
07.31

順境も逆境も仏心を磨く ―8月の聖語─

2014073100034.jpg
西條八十

 8月の聖語です。

「法味(ホウミ)を嘗(ナ)めて珠(タマ)を蘊(ツツ)む」


 数千人とも言われた膨大な弟子たちの中から、お大師様を後継者と定め、全てを伝授してくださった師僧である恵果阿闍梨(ケイカアジャリ)が亡くなられた際に、お大師様は碑文を書きました。
 そこにあるのがこの一節です。

「仏法のありがたさを知って、心にある珠のような仏心を磨き、大切に保ち続ける」

 師は常に弟子たちへ向かい、こうしたことを目的として、マンダラの教えを説かれ、導いてくださったとふり返り、感謝したのです。
 何という温かで奥深い表現でしょうか。
 仏法のありがたみは、そのままそっくり、師の人間性のありがたみとなっています。
 すべからく、仏法を学び、修行し、実践する者の心はこうありたいものです。

 大正7年に西條八十が作った童謡『金糸雀(カナリヤ)』を思い出しました。

「唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は
 後の山に棄てましよか
 いえいえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は
 背戸の小藪に埋(イ)けましょか
 いえいえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は
 柳の鞭でぶちましよか
 いえいえ それはかわいそう

 唄を忘れた金糸雀は
 象牙の船に銀の櫂
 月夜の海に浮べれば
 忘れた唄をおもいだす」


 優しい声でさえずることができなくなったカナリヤは、人間にとって〈役立たず〉です。
 しかし、捨ててしまったり、叩いてみたりしてはなりません。
 むしろ、これまでよりも手をかけ、目をかけてやれば、唄を思い出すかも知れないのです。
 お大師様の全体像へ迫る『エンサイクロメディア空海』(http://www.mikkyo21f.gr.jp/)に参加しておられる松岡正剛氏の言葉です。

「日本の童謡は世界で類例のない子供を対象とした表現運動でした。
 大正期前半に始まって一挙に広がり、戦争の足音とともに消えていったものです」(『日本という方法』より)


 お大師様は、ありがたい仏法によって仏心を磨き、保つと書きました。
 西條八十にあっては、難しい時代が、いつしか仏心を磨いていたのでしょうか。
 実に、順境逆境も、心一つで、み仏に成る機縁となり得るのです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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2008
11.23

日本の歌 95 ─夕日─

夕日
  作詩:葛原しげる 作曲:室崎琴月 大正10年発表

1 ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む
  ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
  まっかっかっか 空の雲
  みんなのお顔も まっかっか
  ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む

2 ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む
  ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
  烏よ お日を 追っかけて
  まっかに染まって 舞って来い
  ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む


 この歌は古い幼少期の記憶につながっている。
 4才で角田市(当時は角田村)から仙台市へ出てきたばかりの頃、祖父も父も商売をやり、母は教師で忙しかった。
 ある大雨の夕刻、床屋から帰れなくなり、理髪師さんがおぶって家へ帰してくれたことがある。
 雨だから夕日とはまったく関係ないはずなのだが、なぜかこの歌と一緒に思い出される。
 カラスへ、沈んで行く太陽を追って真っ赤に染まれと語りかけていた記憶はない。
 面白いものである。
 記憶はモザイクのようになっているのだろうか。

 さて、あらためて詠んでみると、「ぎんぎん ぎらぎら」は秀逸である。
 特に、子供がねぐらへ帰るカラスと対比させてとらえる時の夕日は、「ぎらぎら」である。
 子供は顔が赤く染まる頃に帰宅せねばならない。
 山の稜線を黒々とそしてくっきりと描き出す頃の夕暮れがかもし出す興趣は、もっと大人にならないと解らない。

 有名なエピソードがある。
 当初は「きんきん きらきら」だったが、小学2年生の娘から「お父さん、『ぎんぎんぎらぎら』でしょう」と指摘されて、変えたという。
 大人が夕日に見る金色は「きらり」だが、まだ幼い生命が受けとめる夕日の赤みを帯びた金色は輝きながら圧倒的に迫ってくる色であり、「ぎらり」という有無を言わせぬ迫力を伴っているのだ。
 彼はおそらく、意見に「そうか!」と膝を打ち、ただちに変えたのだろう。
 西條八十の『赤い鳥』による童謡運動と激しく対立し、子供たちのための歌は、子供たちの感性に合わせて創られるべきであって、大人の趣味を混ぜてはならないと主張していた葛原しげるらしいできごとである。
 そのために、決定的な歌詞が誕生した。

 子供たちは「ぎんぎん ぎらぎら」の力を感得できる少年少女であって欲しい。
2007
06.13

日本の歌21 ―肩たたき―

27 肩たたき

   作詞:西條八十 作曲 中山晋平 大正12年、詩は「幼年の友」へ、同年、曲となって「童謡小曲第五集」(中山晋平作曲集)へ


   

1 母さん お肩をたたきましょう タントン タントン タントントン



2 母さん しらががありますね タントン タントン タントントン



3 お縁側には日がいっぱい タントン タントン タントントン



4 真赤なけしが笑ってる タントン タントン タントントン



5 母さん そんなにいい気持ち タントン タントン タントントン



 これはまだ小さな子供と、若くして苦労している母親の情景だろう。

 一見何でもなさそうな詩だが、実に巧みに作られている。

 

 まず、子供が母親の肩をたたいてやりたいなと思う。

 何かきっかけがあったのだろう。母親はそれほどのことでもないと思っている些細なできごとだったのかも知れない。

 そして、すばやく後へ廻った子供は、白髪に眼を奪われる。

 もう白髪があるのか―――と、母親の「受けているもの」や「背負っているもの」にボンヤリと心が動く。背中に廻って初めて解ったのだ。

 しばらくして、母親の肩越しに縁側を見ると、夏の日盛りである。

 その先には真っ赤な芥子の花がある。

 芥子の赤色にはどこか清楚な趣があり、母親のイメージにだぶる。

 陽光の明るさに包まれたこともあって嬉しさが満ちてくる子供の心は、芥子が笑いかけて来ると感じている。



 僧になる子のうつくしやけしの花  一茶



 この一句は、芥子の赤色へ娑婆の心を移し込んで別世界へ向かう子供の健気さと、清浄な世界を目指す子供へ手向けるにふさわしい花としての芥子、両方が詠まれているのではなかろうか。

 同じ赤でも、バラやハイビスカスのそれとは明らかに違うのである。

 

 嬉しさでいっぱいになった子供は、母親の嬉しさにも気づく。「いい気持」は、母子が共有している。

 ここまでにまとまった時間が流れており、もしかしたら、母親がありがとうと言ったのかも知れない。



 西條八十は子供の心になり切ってこの作品を作った。

 プロの仕事である。




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