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2014
08.07

900年前の懺悔に思う ―現代の懺悔は?―

2014080700001.jpg

 今から約900年の昔、僧侶の堕落を正そうとして1446日も無言の行を通し、懺悔する章を書いた宗教的天才がおられた。
 後に興教大師(コウギョウダイシ)と呼ばれるようになった真言宗中興の祖、覚鑁(カクバン)上人である。
 当時、高野山のトップにあり、鳥羽上皇の行幸を仰ぐほどの大事業を行っていながら、「自分自身を含めて懺悔します」という章をご本尊様へ捧げられた。
 初めてこの章に接した時の衝撃は忘れられない。
 最近、強く懺悔する清浄な心を持った方とのご縁があり、出家した当時を思い出し、今を省みながら、あらためて平易な訳を書いてみた。

密厳院(ミツゴンイン)発露(ホツロ)懺悔(サンゲ)の

 私たちは自らの罪を明かし、許されることを願います。
 遥か遠い昔から今に至るまで、真実に背いた自分本位の虚しい想念につきまとわれて多くの罪をつくってきました。
 身体と言葉と心は、いつも真理に背き自分本位ではたらき、誤って計り知れないほどたくさんの悪しき因縁をつくってきました。」


 弟子たちの堕落を正したいのに、「私たち」と言う。
 ここが最も肝腎なところである。
 悪行に走る当人を直接、責めるのではなく、人間というもの、僧侶というもの全体として自分を含め、心より懺悔する。
 誰かを叩けばよいのではない。
 もちろん、自分だけがやっているわけではないのに、と居直るなど論外である。
 この世を何とかしたいのなら、自分だけを仏神の座におくことなどできはしない。

「すばらしい財産があっても惜しんで施さず、思いのままに好き放題を行い、み仏の戒めを守ろうとしません。
 しばしば怒り憎んでは、屈辱を我慢できず、善行を実践せず、悪行を断とうともせずに怠け、励まず、努力を続けようとしません。
 心が散り散りに乱れ定まらないままで、瞑想修行にいそしまず、真実のありように背いて、悟りの智慧を修めようとしません。
 常に、理想の彼岸に到達する布施・持戒・忍辱(ニンニク)・精進・禅定(ゼンジョウ)・智慧の修行を怠り、反対に、迷い続けて地獄・餓鬼・畜生などの苦にまみれた世界で輪廻(リンネ)する因縁をつくります。」


 僧侶は菩薩(ボサツ)を目ざす者であり、修行の基本は、布施や持戒などの六波羅蜜(ロッパラミツ)である。
 それができていないという。
 我々は僧侶に値しないと指摘しているに等しい。
 すさまじい懺悔である。

「出家者である比丘(ビク)とは名ばかりで、実態は寺院を穢し、遊行(ユギョウ)しつつ修行につとめる沙門(シャモン)とは形ばかりで、実態は偽ったままに信者の施しを受けます。
 授けられた数々の戒律を忘れて自ら謹もうとせず、学ぶべき共同生活上の決まりごとを捨て去って、よき共同生活をつくろうとしません。
 諸仏が厭(イト)い、嫌いたまう状態になったままで恥じず、菩薩(ボサツ)が苦しみ悩まれたまう状態のままで畏れもしません。」


 覚鑁(カクバン)上人のおられた平安時代における僧侶の社会的地位は、現代と比べものにならない。
 あぐらをかく者が続出したことも想像できる。 
 遥か昔、紀元前に、お釈迦様は説かれている。
「髪を剃り、修行者らしい身なりになったとて、心が穢れたままでは真の出家者ではない」

「遊び戯れ、笑いさざめいて無益(ムエキ)に年をとり、他人にへつらい、他を偽り、欺(ダマ)して虚しく日を過ごします。
 仏法を学ぶ善き友と共に進まず、愚かな人に親しみ、善き結果をもたらす原因となる行為にいそしまず、悪しき行為を重ねます。
 自分の利益をはかって自ら徳を讃え、名誉や評判が欲しいばかりに、他人の愚かさを誹(ソシ)ります。
 勝れた徳のある人を見ては嫉妬し、卑しく貧しい人を見ては驕(オゴ)り高ぶります。
 富み栄えている話を聞いては、自分もあやかりたいと願い、貧乏に苦しんでいる人々に対しては、厭い離れようとします。」


 これではもう、出家者とは言えない。

「故意に、あるいは意図せずに殺生(セッショウ)し、いのちある者からいのちを奪い、表立って、あるいは密かに他人の財物を奪い取ります。
 異性に触れても、触れなくても、清浄な心持を穢し、言葉の四つのはたらきと、心の三つのはたらきとが、それぞれ妄語、綺語(キゴ)、悪口(アック)、両舌(リョウゼツ)、慳貪(ケンドン)、瞋恚(シンニ)、邪見(ジャケン)のまま続いてゆきます。
 み仏を観じ念ずる時は心が他の対象に移って定まらず、経典を読誦(ドクジュ)する時は経の言葉を間違えます。
 もし、善き行為をなせば、善き結果をもたらすであろうと執着の心を持ち、かえって、果てしなく生死(ショウジ)をくり返し苦界を彷徨(サマヨ)う原因となるだけです。」


 不殺生や不偸盗(フチュウトウ)など、苦を逃れるための根本的生き方としてお釈迦様が示された十善戒すら、守られていないのでは、出家者としてどうこうという以前のところで崩れている。
 

「行住坐臥(ギョウジュウザガ)の立ち居振る舞いのすべてにおいて、自分が気づこうと気づくまいと、絶えず犯しているところの、このような計り知れないほどの罪障(ザイショウ)を、今、仏法僧(ブッポウソウ)の三宝(サンボウ)に対して皆、告白したてまつります。
 どうか、諸菩薩(ボサツ)は慈悲を垂れ、哀れみ、これらの罪障を取り除きたまえ。
 皆、残らず告白し、残らず懺悔(サンゲ)したてまつります。
 そして、この全ての世のあらゆる生きとし生けるものが、身体・言葉・心の真理に背いたはたらきによって、悪しき結果をもたらす原因となるものを積み重ね、因果応報の理がもたらしたこのような罪障を、私は皆、生きとし生けるものに成り代わり、残らず懺悔(サンゲ)したてまつります。
 新たにまた、生きとし生けるものへ、罪障の報いを受けしめぬよう。」


 上記の状態は、僧侶全体の問題であり、人間全体の問題であり、生きとし生けるもの全体の問題でもある。
 生きとし生けるものの一員として、一人の人間として、一介の行者として、自分自身が懺悔するから、ぜひ、皆をお救いいただきたいと念じておられる。

 さて、今年の8月6日は、広島に原爆が落とされてから69年目となったが、核弾頭は今も1万6千発以上あることが確認されており、9割はアメリカとロシアが保持している。
 日本が原発を輸出することに関し、避難自治体の一つである福島県川内村の遠藤雄幸村長は述懐した。
「この国では私たちより経済が優先だ。
 多くの人が故郷を汚され、地域のつながりを失った。
 原発をやめるのにそれ以上の理由は必要なのだろうか」
 広島の人々、福島の人々が流す涙は〈他人ごと〉なのか?
 私たちは今、自分自身の問題として、人間界の一員として、何を懺悔せねばならないのか……。
 何を願わないではいられないのか……。
 懺悔なく、願いもないままに、よき未来は創られるだろうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2011
03.11

僧侶の懺悔(その1)

 僧侶や寺院が厳しい目を向けられている昨今ですが、私はこの道へ入って間もなく、一読してガーンと殴られたような気がした文章を大切にしています。
 真言宗智山派や豊山派などの始まりとなった改変者興教大師(コウギョウダイシ)覚鑁(カクバン)様が書かれた「密厳院発露懺悔文(ミツゴンインホツロサンゲノモン)」です。
 何やら難しそうですが、ゆっくり読めば内容は簡明で誰にでも理解でき、自分の至らなさを省みさせないではおかない迫力があります。

 お大師様の再来とまで称された覚鑁(カクバン)様は、僧侶が堕落している状況を嘆き、真言宗総本山金剛峰寺内の自坊「密厳院」にて3年もの間無言の行に没頭し、行を終えてすぐ、この文章を一気に書き上げました。
 後に、反対する勢力によって高野山を追われた覚鑁(カクバン)様は新しい派をつくり、文章を誓いの経文として定着させました。
 この経文はもちろん僧侶への戒めですが、当然、人の道を歩むべきどなたにとっても自分を見つめ直すポイントとなるものです。
 今からおよそ900年前、筆の先から不動明王の火炎をほとばしらせつつ書かれた名文を読んでみましょう。

「我等(ワレラ)懺悔(サンゲ)す。
 無始よりこのかた妄想(モウゾウ)に纏(マト)はれて衆罪(シュザイ)を造る。
 身口意(シンクイ)(ゴウ)、常に顛倒(テンドウ)して、誤って無量不善の(ゴウ)を犯す。
 珍財を慳悋(ケンリン)して施を行ぜず、意(ココロ)に任せて放逸にして戒を持せず、しばしば忿恚(フンニ)を起して忍辱(ニンニク)ならず、多く懈怠(ケダイ)を生じて精進(ショウジン)ならず、心意(シンニ)散乱して坐禅せず、実相に違背して慧(エ)を修せず。
 恒に是の如くの六度の行を退して、還(カエ)って流転三途(ルテンサンズ)の)を作る。」

(私たちは、以下の状態を悔い改めます。
 遙かな過去から現在に至るまで、真実に背いた自己本位の誤った妄想にとらわれて、さまざまな罪を犯してきました。
 身体も言葉も心も、そのはたらきは真実に背き、たくさんの誤った正しくないを積み重ねてきました。
 豪華な財物を集めるばかりで布施をせず、気ままに生きて戒律を守らず、たびたび怒って忍耐をせず、修行を怠って努め励まず、心は散乱したままで瞑想を行わず、真実のありように背いて悟りの智慧を修得しようとしない。
 いつもこのように、布施行や持戒行など六つの修行から離れ、悟りへ向かうどころか、地獄や餓鬼や畜生の三悪道へ堕ちる悪をつくっています。)

 すさまじい懺悔です。
 ご縁の方々の気持に寄り添わず、自己中心になってはいないか?
 財物を蓄えるばかりで、困った人々へ手を差しのべることを忘れてはいないか?
 気ままになり、よこしまなセックスや、つまらぬ怒りや、貪りにとりつかれてはいないか?
 いっさいの仮面をつけず、自分を含めた聖職者たちのありのままの様子を、心からみ仏へ披瀝(ヒレキ…申し述べる)しています。
 これは、悟らない限り陥って抜け出られない迷いの状態にあるのは万人共通の姿だけれども、迷いから脱するための修行に励むべき僧侶もまた、同じ姿のままであるという強烈な指摘です。
 護摩堂で修法中の覚鑁(カクバン)様を襲った暴漢たちは、猛火の中におられるお不動様と行者の場所におられるお不動様とまったく同じになっているありさまに驚き、畏れ、退散したとされていますが、まさにお不動様の憤怒が懺悔と一体になってほとばしる経文です。

 最高の叡智を謳われた傑僧(ケッソウ…抜きんでて優れた僧侶)が「我等懺悔す」と書き始めた時の気持を思うと、小学生が厳しい先生の前に立つような神妙な思いになります。
 以下、読み進みます。
 共に人の道を歩もうとする皆さんもそれぞれ、我が身をふりかえってみませんか。

〈たくましき者〉
230311 001





「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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