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2016
09.20

Q&A(その29) 導師がネコのように静かに歩き、棒を振るわけは?

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〈み仏の両眼には日輪と月輪が〉

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〈梵字のマ、日輪〉

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〈梵字のタ、月輪〉

 これまで、葬祭会館の方などから幾度もご質問を受けました。
「どうしてご住職はあれほど静かに歩くのですか?」
 答は以下のとおりとなります。

 真言密教の行者は、修行道場であれ、あるいはご葬儀場であれ、修法する道場へ入る際には人知れず、いろいろな観想を行っています。
 たとえば、右の目には梵字のマ、左の目にはタを置きます。
 マは日輪(ニチリン…輝く陽光)、タは月輪(ガチリン…円満な月光)です。
 陽光は智慧の光で真実世界をくまなく照らし、月光は瞑想に入った行者へ悟りの心を開かせます。
 道場内をこの両眼で観ながら静かに入ります。
 心には梵字のウンを置き、金剛薩埵(コンゴウサッタ)というみ仏に成り切っています。
 こういう状態で進む足は一輪づつ、目には見えない蓮華を踏んでいます。
 だから、スリッパを引きずるような音などは決して出さず、肩を揺すって歩くなどということもありません。
 蓮華の花びらを散らさぬよう、足をそっと置くように一歩、一歩と歩むので、正面を向いているご参詣やご参列の皆さんには足音がほとんど聞こえないはずです。

2016-09-20-0001.jpg
〈滝田商店様よりお借りして加工しました〉

 もう一つ、よくあるご質問へお答えしておきましょう。
「どうして最初に棒のようなものを振るのですか?」

 実は、以下のとおりの手順で、道場のお清めを行っているのです。
 導師の左側には二つの仏器と、その間に1本の棒が置いてあります。
 手前の仏器には塗香(ヅコウ)という手に塗るためのお香が入っており、着座した導師はまず、蓋を開けてそのお香を両手に塗ります。
 そして護身法を結びます。
 次は、奧にある仏器の蓋を開け、左手に数珠、右手に三鈷杵(サンコショ)という仏具を持って、仏器の中に入っている水を加持(カジ)します。
 この時に、カラン、カランという音が21回、聞こえるはずです。
 数珠に三鈷杵を当て、水を21度、清めています。
 それから散杖(サンジョウ)という棒を水へ入れて回します。
 これは、水を重ねて清め、清浄な乳水に変えているのです。
 それから、散杖の先に水を着け、道場や心を清めるために、横、縦に振ります。
 
 修法を行うには、まず、その場を清めます。
 家庭でも、学校でも、職場でも掃除をするのと同じです。
 そして、目的の修法がきちんと行われるように、導師や善男善女の心も清めます。
 それだけではありません。
 これらが終われば必ず、結界の法を結び、魔もののようなものを一切シャットアウトしてから、ご供養やご祈祷やご葬儀の法を順々に進めます。
 清めと護身法結界の手順を踏まない修法はありません。

 今回は、導師が道場へ入り、お清めを行うあたりまでの大まかな作法について書きました。
 何となく想像していただければありがたいことです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
09.18

お不動様になったお大師様

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 9月17日、第二例祭護摩法が終了した後、ご参詣の方々へ短い法話を行った。

 密教行者の究極的関心事は、お大師様が入定(ニュウジョウ…瞑想状態のまま他界すること)されたご心境にある。
 もちろん、各種の資料は、〈その日〉を知ったお大師様が京の都と高野山を往復するなど入念に準備し、「弥勒菩薩(ミロクボサツ)の浄土から見ているのでしっかり励め」と言い遺されたことを示している。
 それにしても、最後のお心は……。
 凡夫にはわかりようがない、とあきらめてしまえばそれまでだが、行の果てにあるイメージは、そこにありそうでもつかめない。

 鎌倉時代、最初の東寺座主(ザス)となった真光院禅助(ゼンジョ)は、その秘密について言い遺した。

「不動の三摩地(サンマジ)に入り給うなり。
 右の杵(ショ)はこれ剣なり、左の数珠は索(サク)なり」


 三摩地はサマーディであり、心が深まりきった状態をさす。
 つまり、お大師様は、お不動様のご心境に成り切ったのだと言う。
 お大師様が右手に持っている五鈷杵(ゴコショ)は先端が尖っており、元々はインドの武器だった。
 それは、お不動様が右手に持っている剣を意味する。
 また、お大師様が左手に持っている数珠は、お不動様が左手に持っている索を意味する。
 お大師様は常々、お不動様のお気持ちではたらかれ、そのまま旅立たれたのだ。
 そういえば小生も入門早々、指導された。
「人々の僕(シモベ)である不動明王を目ざしなさい」

 そもそも、お不動様はお大師様によって日本へ招来された。
 唐から帰国する途中、暴風雨の海上でお不動様に船を守っていただいて以来、大日如来の使者である不動明王は、修法の中心となった。
 密教行者は365日、不動法を結ぶ。
 護身法と不動結界法は、あらゆる修法に欠かせない。

 後宇多上皇に密教を授け、後醍醐天皇の護持僧でもあった禅助は、さすが国師と称されただけのことはある。
 84才という当時では桁外れの長寿をまっとう切るその瞬間、きっと、師と同じく不動明王の世界へ入り、弥勒菩薩の浄土を目ざされたことだろう。
 ご関心のある方は、お不動様のお姿とお大師様のお姿を見比べて欲しい。
 鎌倉時代に説き明かされた真実に度肝を抜かれることだろう。




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「おん あらはしゃのう」
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2012
08.31

当山のお葬式ではこうしたことが行われます ─故人の思想や宗教を選ばずに引導を渡す理由─

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 お葬式では何がどう行われるのか、おおまかな順番と内容は以下のとおりです。

1 お清め

 まず、護身法を行って行者自身と、修法の道場となる場所全体、あるいはご参列の方々やご供物なども清めます。
 仏神に降りていただき、故人をみ仏の世界へお送りする厳粛な時を迎え、清めねばなりません。
 大切な方をお招きする時に心を正し、掃除を行い、皆が威儀を整えるのと同じです。

2 結界

 お釈迦様が悟りを開かれる寸前、魔ものたちは四方八方から邪魔しようとしましたが、結界によってすべてシャットされました。
 日常生活的な空間でないお葬式の場が開かれようとする時も同じであり、八方天地すべてが見えない聖なる壁によって塞がれます。

3 み仏へのご挨拶

 東・南・西・北とそれぞれの方位をご守護くださるみ仏方をお讃えします。

4 ご守護慰霊
 
 故人をご守護しお慰めする法を結びます。
 ご逝去の形などによってそれぞれに異なるみ仏のご守護をいただきます。

5 結界

 明王様の法により重ねて結界を結びます。

6 礼拝

 仏法僧へ帰依する心を新たに表明します。

7 願いの文

 これからみ仏にお救いいただきたい内容を申し述べ、お願い申し上げます。

8 剃髪(テイハツ)

 目に見えない刀で故人の髪を剃り落とし、み仏の子としてみ仏の世界へ旅立つ準備に入ります。

9 お授け

 み仏と一体になった導師が故人を懺悔へ導き、戒律を授けます。
 戒名を求められた場合は戒名も、そして、み仏の世界を象徴する梵字も授けられます。
 
10 開扉

 法の力により、あの世の扉が開かれます。

11 願いの文

 救いの世界を讃え、この世からあの世へお導きいただくよう、お願い申し上げます。
 また、こうした救済がすべての御霊へ与えられるよう、お願い申し上げます。

12 引導(インドウ)

 引き導く引導とは、み仏と一体になった導師が、故人を迷いのこの世から安心のあの世へとお渡しするお葬式の要です。
 仏教の行者は、この一瞬に修行と法力のすべてをかけます。
 言い換えれば、ここで確かな法を結べてこそ一人前の僧侶であり、これができなければ、ご葬儀で導師を務めることはできません。

13 供養

 み仏と、あの世の住人になられた御霊をご供養します。

14 お焼香

 ご参列の方々にも供養のお焼香をしていただきます。

15 み仏へのご挨拶

 大日如来の使者として終始、この場を御守りくださったお不動様をお讃えします。

16 解界(ゲカイ)

 結んだ結界を解き、導師は修法壇を降ります。

17 法話

 私たちにとって、先に行かれた方にとって、ご葬儀とは何か、この厳粛な事態を迎えた私たちの心はどうあるべきか、私たちが故人に対してできることは何か、などをお話し申し上げます。
 ここまでをもってお葬式のすべてを終わります。
 お焼香が終わればそれでおしまいではありません。
 どうぞ最後までご静粛に過ごされ、ご協力をたまわりますよう。



 以上が当山で行うお葬式の概要であり、当然ながら、この内容はお布施の金額などによって変わることはありません。

 明治時代、廃仏毀釈(ハイブツキシャク)によって、日本史上例を見ない国家による仏教破壊が行われました。
 その狂風はまもなくおさまりましたが、仏教を貶めるための説がたくさん流され、その残滓は今も残っています。
 たとえば、「お釈迦様が自分の遺体にかかわるなと言われた」という経文のわずかな部分だけをとりあげて、「そもそも仏教と葬儀は関係ない」と主張する方もおられますが、かなり無理があります。
 最新の研究によれば、少なくとも9世紀のインドでは、経典に基づく死者儀礼が行われていました。
 その流れは当然、当山が行う修法にも深い影響を与えています。
 また、仏教は、お告げや預言ではなく、精緻な哲学を伴った思想を基にした宗教です。
 だから、歴史と共に深められ、高められ、世界各地で伝統的な習俗や思想や宗教の影響も受けながら発展して来ました。
 そうしたことを無視して、お釈迦様の時代に還れというのは、実存主義や現象学などの成果を否定して、ソクラテス・プラトンに還れと主張することと同じで、あまり創造的ではないと思われます。

 お葬式のお経はよくわからないというご批判があります。
 この点については、普段の勉強会や説法による説明はもちろん、当山が毎月行っている例祭や年忌供養では極力、読み下し文を用いるなどして対応しています。
 それでもなお、定められた次第によって行うので、わかりにくい部分は多々、生じます。
 このことは、み仏の世界、悟りの世界といった私たちの日常的な感覚とは次元の異なる世界を表現している文章なので、どうしても簡単にはわからなくなりがちであるとご理解、ご容赦をお願いするしかありません。
 日々、唱え、修行している私なども微力なので、死ぬまで勉強してなお、よくわからないことは山のように残ることでしょう。
 勉強の続きは来世で行おうと決心し、そうありたいと願うしかありません。
 
 当山ではこうした立場から、お釈迦様に始まりお大師様によって整理された法の流れに基づき、ご縁を求める方の思想・宗教にかかわりなく修法し、引導を渡し続けています。
 無宗教の方や俗名で送られたい方も同じです。
 檀家になるかどうかも無関係です。
 なぜなら、み仏のご加護は決して相手を選ばないからです。
 とにかく、み仏のお導きと後押しする法力によって、この世とあの世の区切をきちんとつけて安心の世界へ旅立っていただきたい、決して迷われないようにという一心で日々、修法を行っています。
 どうぞご安心ください。合掌




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2012
04.25

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第十八回) ─自分が苦しい時も苦しむ他人を見捨てない─

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 菩薩(ボサツ)になるための実践道、第十八回目です。
 これは、「法話と対話の会『仏法と生活』」(http://www.hourakuji.net/manabi/houwa.html)において議論するテキストの一つとなってもいます。

「生活に困窮し、常に人より軽蔑され
 ひどい病苦や悪霊に憑かれても
 それでも一切衆生の罪業(ザイゴウ)と苦しみを受けて疲れることを知らない
 それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 長い人生行路にあっては、誰しもが必ず暴風雨に遭います。
「常に人より軽蔑され ひどい病苦や悪霊に憑かれ」るとはそのことです。
 落ち目になり、泣きっ面に蜂の状態になると、「どうして自分だけがこんな目に遭うのだろう」と歯がみしつつ暴風雨に翻弄されます。
 暴風雨は必ずしも、自分がやらかした失敗や、自分のケガや病気、あるいは外部から来る事故や災難などに限りません。
 周囲の人々に生ずる苦や、環境の問題などもさまざまな形で襲いかかり、追いつめようとします。
 自分だけが知っている卑劣さや冷酷さや臆病さ、あるいは裏切りや恩知らずな心など、気がついてみれば、心の中にありとあらゆる悪徳の花が蕾んだり咲いたりもしています。

 66年の長きにわたって生かしていただいた者としては、年寄りが人間として背負っている責務は罪滅ぼし恩返しに尽きると実感しています。
 日々、報道される愚かしい、痛々しい、哀しい、辛い、嘆かわしい、穢らわしい、忌まわしい、腹立たしいできごとのほとんどは、自分自身で積んだ業(ゴウ)と心中の黒雲に無関係ではありません。
 何かの成り行きがちょっと狂えば、自分が犯人や加害者や容疑者や世間に顔向けできない人になっていたとしても、不思議ではありません。
 世間から石つぶてを投げつけられる人々と自分とは、薄紙一枚しか隔たってはいないのです。

 こうして自分の愚かさから逃げられずにいると、どなたの苦であっても、自分と無関係には思えなくなります。
 日々、皆さんの苦しみや迷いや哀しみや淋しさが当山へ持ち込まれるのは、あまりにも当然としか受けとめられません。
 それは水が低きに流れるようなものであり、最も低いところにいるのが出家者だからです。
 なぜ、最も低いのか。
 自分の悪業(アクゴウ)の果てに一度死んで生き直すのが出家だからです。
 悪業とは、具体的に人を殺したとか、誰かを陥れたといった行動だけを指すのではありません。
 心にある愚かしいものと、身口意のはたらきのつながりから目を背けないでいると、本当に恐ろしくなります。
 たとえば、心から忠告してくれる人をうるさく思い、疎ましく思う高慢心。
 そこから出る空々しい言葉や反発的な行動。
 何と恐ろしいことでしょうか。
 山ほどある悪業を解き因縁解脱をはかる修行は、スポンジの水を絞るように無限に続きます。
 絞っても絞ってもいつしか水を含むスポンジには、自他の別なく行き場を失った苦の水がどんどん集まり、浸みこみます。 
 これが、「一切衆生の罪業と苦しみを受け」るということです。
 
 最後の「疲れることを知らない」には参りました。
 護身法を行い、修法中は自動的にみ仏のご加持を受けているとは言え、相手の苦と共振した魂には必ず何らかの形で余韻が残ります。
 観音様は泥に染まらぬ蓮華の心でおられるとされていますが、そうありたいと修行を始めた程度の者には到底、無理です。
 だから、充電タイプのバッテリーが、いくらうまく充電しても必ず寿命がくるのと同じく、耐えきれない時がやってくることでしょう。
 願わくは、それが寿命の尽きる時とそう違わないで欲しいものです。

 さて、特に菩薩をめざそうとしなくても、〈自分が苦しい時も苦しむ他人を見捨てない〉方々は大勢おられます。
 たとえば、自分の愚かさが相手から夢を奪った、あるいは、相手を苦しめているなどと、きちんと自分の愚かさを見つめ、自他の苦の種を抜こうとしておられる方です。
 こうした方々とは、人生相談やご加持やご祈祷で数限りなくお会いし、心で合掌しています。
 たとえば、自分も困窮しているのに、困窮している相手へ、手の内にあるわずかなモノを分け与える方です。
 こうした方々とは、托鉢で生きていた時代から数限りなくお会いし、心で合掌しています。
 特に東日本大震災直後は、多くの方々が無心に分かち合ったはずです。

 私たちはすべて、明らかに、み仏の子であり、菩薩道を歩み得る存在です。
 自分が苦を感じる以上、他人も苦を感じていることを察するのは当然です。
 自分の愚かさを知っている以上、他人の愚かさは他人事ではありません。
 精いっぱい生きているつもりでも、愚かさはなかなか消えず、苦はづかづかとやってきます。
 やむを得ません。
 私たちはこの世へ人生修行にやってきた行者だからです。
 愚かだからこそ学び、成長します。
 苦を相手に悪戦苦闘すればこそ、心が晴れた時の笑顔は輝きます。
 苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、この修行道を〈共に〉歩もうとする時、私たちは菩薩道を歩んでいると言えるのではないでしょうか。



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2010
09.02

「錫杖経(シャクジョウキョウ)」について (5の3)

 行者が魔除けのために使う錫杖(シャクジョウ)の威力は偉大です。
 ここでは、カシャカシャカシャと錫杖を振りながら唱える「錫杖経」の読み下し文を区切って解説しています。
 第五番目の経文です。

第五条 六道教化(ロクドウキョウカ)

「まさに衆生(シュジョウ)を願うべし。
 檀波羅蜜(ダンパラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、尸羅波羅蜜(シラハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、羼提波羅蜜(センダイハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、毘梨耶波羅蜜(ビリヤハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、禅那波羅蜜(ゼンナハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、般若波羅蜜(ハンニャハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲しよう」


(衆生のために願おう。
 布施波羅蜜(フセハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽(バックヨラク)しよう。
 持戒波羅蜜(ジカイハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 忍辱波羅蜜(ニンニクハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 精進波羅蜜(ショウジンハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 禅定波羅蜜(ゼンジョウハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 智慧波羅蜜(チエハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう)

 行者は一心に願います。
 何を願うかといえば、菩薩(ボサツ)になるための6つの修行を行うことによって、生きとし生けるもののためになり切ろうということです。
 今回は、その4番目を学びます。

4 精進波羅蜜(ショウジンハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。

 本文にある毘梨耶波羅蜜(ビリヤハラミツ)の「毘梨耶」は「精進」です。
 精進とは、怠らず、努める励むことです。
 当山の修行にあっては

「我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん」


と誓い、菩薩の心をつくります。
 ここで大切なのは、お線香のイメージです。
 
① 一旦、火がつけられたなら、燃やし尽くすこと。
 途中でやめない努力です。
 努力するだけでなく、努力し切ることです。
 菩薩(ボサツ)は、苦と汚れで呻く人々を安心の世界へ導く舟の船頭です。
 迷いの世界と如来のおられる悟りの世界とを飽くことなく往復します。
 それはお線香が燃え続けている状態と同じです。
 しかし、お線香は、必ず燃え尽きます。
 では、菩薩にとって終着点はいつか?
 経典は56億7千万年と説いています。
 最後の一人まで救い尽くさない限り、菩薩精進は続きます。

② そして、起こる佳い香りです。
 悪しきものでなく、善いものをめざすのが精進であり、善きことを行う際に起こる喜びや満足感が伴わなければ精進ではありません。
 だから「嫌々行う精進」はあり得ません。
 また、佳い香りは悪しきものの清めにもなります。
 菩薩といえども、たびたび悪業に苦しむ人々のそばへ来れば、微かな汚れはまとってしまうとされています。
 では、なぜ、菩薩は、その汚れによって地獄界や畜生界へ転落しないのか?
 それは、菩薩が(クウ)を理解し、を体得し、を生きているからです。
 経典は説きます。

を生きる者は新たな悪業を積まず、過去に積んだ悪業は成熟しない」

 この教えによるならば、菩薩はいかに汚れた世界にいて、いかなる汚れが付着しようと、それらは悪しき結果をもたらすものとして成熟することなく、消えて行くのです。
 私たちの身近なところで友人のように寄り添ってくださる菩薩様方がすべて清らかな気配に満ちておられるのは、悟られたからであるのは当然ですが、もう一段進んだ理由もあることを銘記しておきたいものです。
 汚れた世界で行動する途中で、否応なく付着してくる汚れがあっても、それらは過去のできごととなる中で、決して未来へ悪しき結果をもたらしはしないのです。
 この教えは、この世で菩薩行を生きようとする人々へ大きな勇気を与えます。

 これまで何度も、拝み屋さんや占い師やカウンセラーの方々から、「受けてしまいます。困りました」という嘆きを聞き、人生相談も受けました。
 相手の汚れを引き受けてしまい、自分で処置できず、困惑するのです。
 お地蔵様は「代受苦(ダイジュク)」を宣言し、どうしようもない方の抱えた苦は、身代わりとなって引き受けられます。
 それが可能なのは、思いやりの慈悲を持つだけでなくの智慧があり、それを実践しておられるからです。
 もちろん、お地蔵様ならぬ私たちが「受けてしまう」のは、相手を突き放さない証拠ではありますが、そのままでは、いつか、自分が潰れてしまいます。
 いわゆる〈流行った〉拝み屋さんや占い師やカウンセラーが消えてしまうのは、ここに原因の一つがあります。
 我流でなく、超人とも言うべき方々が残してくださった仏法を正しく学び、心の基礎をつくった上で人々の難事に対処すればこうした残念な結果にはなりません。
 密教の入り口で伝授される護身法は、み仏のご加護も受けながら自己の本源を生きる方法であり、苦へ立ち向かう行者の鎧であり兜でもあります。

 専門の行者をめざすわけでない方々へは、こうした教えを信じ、お線香を点して「我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん」と誓うことをお勧めします。
 そして、歓迎できない何かが入ってきてしまった時には、守本尊様の真言を唱えることをお勧めします。
 唱えて功徳を積むのは、佳い香りを発するようなものです。
 また、たとえばウサギ年生まれの方が守本尊である文殊様をイメージして(御守に手を当てるなども結構です)真言「おん あらはしゃのう」を唱える時は我(ガ)を離れ、み仏の世界へ近づいています。
 それはを生きつつあることでもあります。
 至心に行えば、歓迎しないものが歓迎しない結果をもたらすことを抑えられるはずです。
 また、隠形流(オンギョウリュウ)居合でも、魔切りの剣を手にする行者へ護身法を伝授しています。

③ 最後に、周囲へ佳い香りを広げ、燃え尽きた後も佳い香りが残ることです。
 精進する人の姿は、それだけで美しいものです。
 そして、精進する人の遺した足跡は、見る人、考える人、たどる人、語る人などの心へいつまでも佳い香りをとどめます。
 こうして、精進は行う人の救いになるだけでなく、自然に周囲の人々の救いともなります。
 さあ、やりましょう。
「善きものを信じ、ご加護を信じ、やれる自分を信じ、結果が最善であること」を信じて!

〈じっと分を尽くす〉
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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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