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2016
09.17

ネコの十三回忌供養 ─あなたは家族、あなたは友─

2016-09-17-0001.jpg

 雨の晴れ間を待っていたかのように陽光が満ちた秋晴れの日、Aさんご夫婦がネコの十三回忌供養にご来山された。
 三回忌以来、ご遺骨と10年ぶりの再会となった。
 ねんごろに供養し、廻向之証をお渡しする。
 安心されたご様子に、こちらの気持も柔らかくなる。
 いつの日か、ネコと一緒のおを建てたいという。
 当山ではペットと一緒に眠る方がどんどん増えている。
 人間のおにお線香をあげ、ペットのおにもお線香をあげる。
 あるいは、ペットの命日に人間のおもお参りされる。
 生きとし生けるもの同士として、人間もペットも何ら変わりはない。

 思えば、私たち生きものは、天地自然が持つ造化のシステムと力の中で生まれ、死んで行く。
 これがモノとしての側面。
 同時に私たちは、どこからか来た者として存在し、死後もまたどこかへ行く。
 お大師様は説かれた。
「行行(ギョウギョウ)として円寂(エンジャク)に至り、去去(ココ)として原初に入る」
 人生上の重大事にぶつかり、どうにもならない呻きの中で真言仏界のイメージに導かれ、一心に行ずる時、心の行く先が感得される。
 すべてが因果の理において円満し、心が輪廻転生(リンネテンショウ)の中を貫いている真実にうたれる。
 私たちが〈在る〉ということの根源へと心が深まり、母なる仏界に抱かれる。
 これが心としての側面である。
 私たちは肉体としてのモノであり、同時に心としては、モノと違う原理で存在している。
 もちろん、二つは交わらない2本のレールではなく、互いに互いへ影響し合っている。
 二つが微妙に関わるところに運命も、意思も、修行も躍動する。

 当山ではペットに関する修法において呼びかける。
「あなたは家族、あなたは
 人間でない家族、人間でないは、人間とは何者か?生きものとは何か?と問わせ、答も教えてくれる。
 都市の文明はどんどん自然から離れ、自然を忘れさせもするが、ペットはその危うさに気づかせ、心の乾燥を緩和してもくれる。
 やはり、かけがえのない家族であり、である。




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2016
07.28

Q&A(その27)生まれ変わりって困りますか? ─最も困る再死(サイシ)─

2016-07-28-0001.jpg
〈昭和の最後を飾る大傑作、杉浦日向子の『百物語』より「亡妻の姿の話」〉

 どうやら、〈再死〉という言葉はあまり知られていないらしい。

1 生まれ変わり死に変わり

 人が死ねば生まれ変わるという考え方は、古代インドのみでなく、世界中にあったらしい。
 この輪廻転生(リンネテンショウ)自体は、多くの人にとって〝そうかなあ〟で済むだろうし、志を立てた人なら〝この世でやり残した部分は来世でやろう〟と希望をつなぐかも知れない。
 小生も後者に近い感覚を持っているが、こうした受けとめ方だけなら、仏教は生まれなかっただろう。

 なぜ、インドの人々は輪廻転生を怖れたのか?
 一面の〈生まれ変わり〉はまだいい。
 生まれ変わりにはこんな想像も成り立つ。
 もし自分が稲に生まれ変わったなら、孫やひ孫の口に入る一粒になりたいし、蚊に生まれ変わったなら、孫やひ孫を刺さずに、世界中の誰にも知られることなく飢え死にしたい。
 お釈迦様もお大師様も、死後、いのちある何になって生まれ変わるかは、いかなる業(ゴウ)をつくるかによって決まると説かれており、いのちの世界はDNAの範疇を超えているので、決して荒唐無稽な話ではない。

2 死ねば無になるか

 今から約100年前に活躍したフランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルグソンは、こう言った。

「もし精神の生命が頭脳の生命からはみ出るとしたら、もし頭脳は意識の中で行われていることの一小部分だけを運動に移すにすぎないとすれば、死後の存続は確からしいということになり、それを肯定する人よりもむしろ否定する人の方が証明を必要とすることになる。
 なぜかというと、死後に意識が消滅すると信ずるための唯一の理由は肉体が破壊されるというだけのことだが、もし意識の大部分が肉体から独立しているということが確証されるとすれば、そういう理由はもはや価値がない」


 つまり、死後に意識もなくなるだろうと考える前提として、意識が100パーセント肉体という存在に包み込まれていなければならないが、意識が肉体から〈はみ出している〉とするならば、肉体の死は、そのまま意識の消滅につながらないと言うのだ。
 だから、目や耳や手足などの活動から遠く離れた世界まで届き、他者とつながりもする意識が、肉体の死と共になくなると主張するならば、それを証明せなばならない。
 意識が死後に消滅することは決して自明の理ではなく、むしろ、「死後の存続」を否定するならその根拠を示さねばならないのだ。

3 再死の恐怖

 本題に戻ろう。
 輪廻転生が怖れられたのはきっと、〈死に変わり〉が耐えられなかったのだろう。
 死は生きとし生けるものにとって最大の危機であり、恐怖でもある。
 だから、古代インドでバラモンがこう説いた効果は大きかった。

「バラモンに導かれた正しい祭祀を行わない者は、死後、再び死を繰り返さねばならない」

「男子の相続者がないと家の祭祀が断絶し、死者は地獄へ堕ちねばならない」


 お釈迦様は、こうした精神風土の中で、生まれや祭祀ではなく、個人個人の生き方がこの世での幸不幸につながり、来世での苦楽につながると説かれた。
 当時、お釈迦様が立ち向かった相手の大きさはとても計り知れるものではない。

 私たちにとっても〈再死〉は恐ろしい。
 苦しみ、息絶える断末魔が繰り返されることを想像して平気な人はいるだろうか?
 四苦八苦の中で、死ぬままならなさほど、私たちを怖れさせ、苦しめるものはない。
 それは、万人にとって否応ない宿命なのだ。

 だから、お釈迦様は、究極の救済として輪廻転生の鎖から解き放たれ、苦から脱する解脱(ゲダツ)を説かれた。
 輪廻転生の世界は広大であり、一個の生きもののDNAが問題ではない。
 肉体に宿ったいのちと心は肉体の耐用年数が過ぎれば、いのちと心の世界へ還って行く。
 そしていつか、新たな肉体が形づくられる時、その肉体にふさわしいものとしていのちと心が宿り、はたらき出す。
 そこには必ず苦という〈ままならなさ〉が影のように貼り付いている。
 死に変わりを厭うなら、苦を脱したいなら、このままではいられない。

 仏教の説く理を信じる方も、信じられない方も、無関心な方もおられよう。
 ただ、いかなる人も死を免れない中で、もしも〈再死〉があり得たとしたらどうか、これだけは想像してみてもよいのではなかろうか。
 これこそが最も困ることではなかろうか?




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2016
05.19

【現代の偉人伝】第226話 ─「おから工事」を追求する中国人譚作人氏─

2016-05-19-0001.jpg
〈ネット上からお借りして加工した譚作人氏〉

 今回の偉人伝は中国の活動家である。

 平成7年1月17日の阪神淡路大震災では、6千名を超える死者、4万名を超える負傷者が発生した。
 平成23年3月11日日の東日本大震災(日本周辺における観測史上最大の地震とされる)では、1万8千名を超える死者が発生し、原発事故も重なって40万人以上が避難した。
 その間の平成20年5月11日、中国四川省アバ・チベット族チャン族自治州汶川県で四川大地震が起こった。
 建物の倒壊が相次ぎ、死者・行方不明者は8万人を超えたが、特に学校などの大規模公共施設があまりにもあっけなく倒壊し、多数の犠牲者が出た。
 しかし、当局の対応は鈍く、住民の怒りはおさまっていないという。
 5月13日付の朝日新聞は、投獄を味わったにもかかわらず真相解明を訴え続ける住民に取材した。
 以下、同記事「手抜き工事の再調査、求め続ける男性 四川大地震8年」を転載する。

 約8万7千人の死者・行方不明者を出した2008年の中国・四川大地震から、12日で8年。
 多くの子どもが崩壊した学校で犠牲になったが、その責任は今もあいまいなままだ。
 独自に被害を調べて逮捕され、5年間服役した四川省成都市の譚作人さん(61)は出所後、改めて中国政府に再調査や責任追及を求めている。

 発生当時、環境NGOの幹部だった譚さんは、被災地を回るうち、周辺の被害は大きくないのに学校だけが崩壊した現場をいくつも見て、疑問を感じた。
 仲間と調べ始めると、必要な資材を使わずに手抜きをした「おから工事」が疑われた。
「自分にも大学生と中学生の子どもがおり、ひとごととは思えなかった」

 3カ月かけて64の幼稚園や学校を訪ね、教師や保護者に話を聞いて原因を探った。
 詳しい調査を求めて政府に資料として渡すつもりだったが、09年3月に拘束された。
 直接の容疑は天安門事件をめぐる言論だったが、調査内容の発表を阻止する意図は明らかだった。
 政権の転覆をあおったとして懲役5年の判決を受け、14年3月に出所した。

 地震から8年が経ったが、今も「おから工事」の実態や責任の所在ははっきりせず、調査をした譚さんを訪ねてくる親は後を絶たない。
 親の一人は「この問題が解決しない限り、心の傷は癒えない」と涙ながらに語った。

 今年2月、習近平(シーチンピン)国家主席ら指導者あてに、国の調査と責任追及を求める意見書を送った。
 届いたかどうかすら分からないが、それでも譚さんは政府が唱える「依法治国(法に基づく統治)」を信じ、期待をかける。
 国が法に基づいて問題を解決し、正義を実現しなければ、市民の信頼は得られないと政府も気づいていると思うからだ。

「私の世代で解決できるかは分からない。でも、今は21世紀。政府も変わるはずだ」(四川省成都=延与光貞)


 5年間も投獄され、それでもなお「国の調査と責任追及を求める」譚作人氏の闘志は凄まじい。
 記事は、同氏が「「依法治国(法に基づく統治)」を信じていると書いたが、おそらくは、そう書かねば氏の身が危ういからだろう。
 21世紀の今もなお、地球上には(しかも隣国に!)こうした現実がある。

 そもそも人は人を支配できないし、すべきでもない。
 そこでは必ず人権の侵害が起こる。
 もちろん、社会を維持するには秩序が欠かせないので、立場や権限はある。
 便宜上〈立場上の上下〉はあっても、〈人間の上下〉はない。
 お釈迦様は2500年以上も前に説かれた。
人は、生まれでも地位や財物でもなく、生き方によって何者であるかが決まる
 そして、輪廻転生(リンネテンショウ)は生きとし生けるもの全体として起こっており、人間界に生まれるか畜生界に生まれるかもまた、生き方によって決まると説かれた。
 お大師様は生者が供養の徳を死者へ廻し向ける廻向(エコウ)の大切さを説かれ、実践された。

 私たちはこの世で、無限に広がる〈生きものの世界〉を生きている。
 また、この世とあの世にまたがる〈心の世界〉を生きている。
 人間を除く生きものの世界には節理があるだけで、節理に生きるものとしてネコもカラスも平等であり、我が利を膨らませての支配はない。
 心の世界も同様に、この世での通じ合いも、あの世との通じ合いも、心に応じて起こるだけであり、平等である。

 私たちがこうした真実から離れれば離れるほど、苦も不幸も膨れ上がる。
 人間の平等を独立宣言にうたったアメリカのトマス・ジェファーソンが奴隷に子供を生ませていたように、私たちは理想を知っていながらも、なかなかその通りにはできない。
 しかし、理想を捨てれば、人間は果てしなく人間以下のものへと堕ちる。
 修羅・畜生・餓鬼・地獄……。

 
 譚作人氏に学ぶところ大である。




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2016
05.18

運命と闘う芸術、おりあいをつけたい私たち ─ある茶話会にて─

 ある茶話会の途中でAさんが言われました。
「しばらく前、ご高齢になられた医師と芸術家の対談をテレビで観ました。
 医師の言うことは割合わかりやすく、自分で考えてきた自分の生き方や死に方と共通するものを感じて、とても納得できましたが、芸術家の話は理解に苦しむ部分が多々、ありました。
 長く生きてきた専門家の方でもいろいろおられるのですね。」
 それ以上、Aさんは詳しく話されませんでしたが、その違和感は何となく想像できました。
 医師と芸術家では役割が違うのでしょう。

 美術史家ケネス・クラークの著書『名画とは何か』にはこんなことが書いてあります。

「人生や芸術における英雄性は、人生が闘いであるという意識に基づいているのだとわたしは思う。
 そしてこの闘いにおいて決定的なのは、知性でも感性でもなく、勇気であり、意思の力であり、決断力であるのだ。
 英雄性は便宜性をさげすみ、いわゆる文明生活に寄与するすべての快楽を犠牲にすることを要求する。
 それは幸福の敵である。
 しかし、わたしたちは、それが人間の最高の達成であると認める。
 英雄性は単に物質的障害との闘いではないからだ。
 それは『運命』との闘いにほかならない。」


 Aさんのみならず、私たち、特に東北地方の人々は5年前の大震災に遭い、今また九州の大震災を前にして、自然に抗し得ない運命の過酷さを骨身に沁みて知らされ、それとの〈折り合い〉を模索している状況にあります。
運命は闘う相手なのか?〟
 きっと、そこのところでAさんは違和感を感じられたのでしょう。

 同書はさらにこう書いています。

「英雄性は人間主義(ヒューマニズム)に縁どられながらも、その彼方を見つめている。
 というのも、『運命』と闘うためには、人間は人間以上のものにならねばならないからだ。
 人間は神になりたいと願わねばならない。」


 私たちはそれぞれの分野で精進します。
 ただ生きる糧を得るためにはたらくだけでなく、向上心によって精神を高め、深め、人間として成長しつつ生きます。
 一方では、おりおりに、私たちがいかに〈限定された存在〉であるかを思い知らされます。
 まず、生まれた時点からままなりません。
 因果応報による輪廻転生には自分自身が責任を負っていますが、何ら自分で意図することなく、ある時代に、ある場所で、両親の子供として特定の性を持って生まれています。
 生まれ落ちた瞬間から老いと病気へ向かい、性も生も渇望しているのに、必ず心身が衰え、死ぬ確率は100パーセントです。
 そして、大自然の気まぐれな暴力により、あるいは人間の愚行により、モノもいのちもあっけなく失う可能性すら常にあります。
 運命は、はたして誰の手に握られているのでしょうか……。

 こうした人間が自分自身を眺めた時、運命と闘うために神になろうとはなかなか思えません。
 神を目ざす闘いの中で死んでいった人々の生き方が凡人の生き方の参考になりにくいのは当然です。
 私たちは、私たちが到達し得ない地点への到達を夢見る一握りの人々が表現した作品が示す異次元性の前で立ちすくむのみです。
 そこでは、知らぬ間に何かが解かされたり、インスピレーションやエネルギーを得たりというような、想像もしなかった現象が起こったりします。
 もちろん、違和感や不快感を催すこともあるでしょう。

 いずれにしても、いつもの自分がいつもの空間で感じていた範囲の世界を向こうから突き破られる体験には、その瞬間にしか得られない何かがあるはずです。
 Aさんはきっと、あの日から「あれは何だったのか?」という思いを抱き続けておられることでしょう。
 話を耳にした小生や信徒さんたちもまた、「それって何だろう?」と思いました。
 そのことは少なくとも、生命を活性化する方向で意味と意義を持っていると思います。
 貴重な対話でした。




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2015
10.27

よく生きることとよく死ぬこと ―『チベットの生と死の書』を読む(1)―

201510270001.jpg

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベットの生と死の書』は、生と死を考える人へ重要な示唆を与えるであろう一冊である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

 ダライ・ラマ法王は、序文にこう書かれた。

「当然ながらほとんどの人は穏やかな死を迎えることを望んでいる。
 だが暴力にみちた人生をすごした者、怒り、貪り、恐怖などの情念に絶えず心をかきたてられている者にとって、穏やかな死など望むべくもないこともまた明らかである。
 だからよき死を迎えることを望むなら、よく生きるすべを学んでおく必要がある
 安らかな死を望むならば、自らの心に、生き方のなかに安らぎを培っておかなければならない。」

「死と死のプロセスはチベット仏教と現代科学の間に出会いをもたらす。」


 まず、「日本の読者へのメッセージ」である。

「死は敗北でも悲劇でもない、変容のためのもっとも素晴らしい機会なのだということを理解してくれますように。
 そしてまた本書ができるだけ多くの日本人に、霊感と喜びと先進的な実践――それが可能であることをわたしは知っています――をもたらしてくれますように。」


 お釈迦様は試行錯誤の果てに、輪廻転生(リンネテンショウ)の様子をつぶさに眺め、それが因果応報の原理によるものであると悟られた。
 私たちの生はこの世限りのものではないという真実を観るのが仏教の出発点である。
 だから師は、この世の締め括りとなり、新たな世界への旅立ちとなる死は、よりよき生へのステップとなり得るという意味で「素晴らしい機会」と述べた。
 時々刻々と変化してやまない私たちのありようは前世から現世へと、そして来世へとつながって行く。
 いかなる「変容」を遂げるかは、私たち自身にかかっている。

第一部 生きるということ 
第一章 死という鏡


 師は7才の時に、導師が死に行く人の息を吹き返させ、意識をよき世界へと転移させるポワの修法を目にした。

「師がはじめの『アー』を唱えると、ラマ・ツェテンがそれに和する声がはっきりと聞こえた。
 二度目、彼の声は遠くなり、三度目には声は返ってこなかった。
 こうしてラマ・ツェテンは逝った。」

「ラマ・ツェテンの死は、ひとつの精神の勝利の表れだった。」


 当山でも「アー」と唱える阿息観(アソクカン)を行う。
 一息ごとに阿字(アジ)で表す大日如来の世界へ溶け込む訓練を実践していれば、死が訪れる時に慌てる必要はない。
 死に神などの幻にオタオタすることもない。
 それを師は「精神の勝利」とした。

 チベットではこう言われている。

「人はしばしば死に対して軽率になるという間違いを犯す。
『ああ、そう、死は誰にでも起こる。大したことじゃない。自然なことだ。私は大丈夫』と答える。
 これはすばらしい理論だ。
 ただしその人が死に直面した途端に役に立たなくなるが。」


 一方ではこんなタイプの人もいる。

「死はすべてをうまく運んでくれる、何も心配することはない、なぜだか理由はわからないが……。」


 しかし、しばしば死の現場に立ち会う医師の実感はこうである。
「いざという時になって、その人の心の底が顕わになる。」
 そうに違いないと思う。
 私たちは「晩節を穢す」という言葉を知っている。
 これでは情けない。

「世界中のすべての偉大な宗教的伝統(もちろんキリスト教もそうだ)が死は終わりではないと断言してきた。
 それらすべての伝統が何らかの形で来世を展望し、その来世の展望が現世に聖なる意味を吹き込んできたのだ。
 だが、こういった教えにもかかわらず、現代社会は総じて精神的砂漠となり果てている。
 たいていのひとがこの生こそがすべてだと思い込んでいる。
 死後の生に対する真の信頼すべき信仰を持つこともなく、ほとんどの人が究極の意味を奪われた生を生きている。」

死を否定することがもたらす破壊的な影響は個人にとどまらない。
 それはこの惑星全体を蝕んでいる。

 この生が唯一のものと信じて、現代人は何ら長期的展望を立ててこなかった。
 そうなると、即座に得られる結果だけを求めて地球からの収奪が起こる
 押しとどめるものは何もない。」

「現代産業社会はひとつの狂信的宗教である。
 われわれは破壊し汚染している。
 この惑星のあらゆる生態系を台無しにしている。
 子供たちには返済不能な借用証書に、われわれはサインをしようとしているのだ
 ……まるでこの惑星の最後の世代であるかのように振る舞っている。
 心に、精神に、ヴィジョンに、根本的な変化が起きないかぎり、地球は火星のようになってしまうだろう。
 黒く焼け焦げ、死ぬだろう
。」


 私たちは〈畏れ〉を忘れた。
 それは人間を超えた大いなるものを感得する宗教的感覚を失いつつあるということである。
 自分の〈今〉を楽しもうとし、〈今〉に終止符が打たれる死を怖れている。
 我執による楽しみこそがやがて苦をもたらす根本原因であり、真に怖れるべきは、その苦が永続することなのに……。
 この勘違いによって私たちは、核発電から生じる〈核のゴミ〉を地球上に積み続けている。
 自分で処置のしようがない恐ろしいゴミの処理を、可愛い子供や孫へ押しつけたまま、今を楽しもうとしている。
 また、地球の砂漠化や温暖化も勘違いの結果である。
 私たちは、種を絶滅させ、肺呼吸する生きものたちが棲息する陸地をどんどん失い、風雨を凶暴化させつつ、今を楽しもうとしている。
 こうした恥知らずな文明が永続するはずはない。
 師の予言は厳しい。
 地球は確かに「黒く焼け焦げ、死ぬ」しかないのだろう。
 徐々にか、それとも核兵器による戦争、あるいは核発電所の爆発によってたちまちにか……。




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