--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2016
03.10

変化がもたらす逆境と希望 ―『チベットの生と死の書』を読む(13)―

2016--03-07--101.jpg
〈有楽町駅〉

 無常をむやみに恐れぬようにしたい。
 希望は変化の中にこそ見出せる。

1 逆境と成長

 私たちは〈失う〉ことを恐れる。
 恋人を。
 財産を。
 名誉を。
 健康を。
 しかし、数10年、人間をやってみると、喪失や喪失の危機が自分を育ててきたことに気づく。
 ソギャル・リンポチェ師は『チベット生と死の書』に説く。

「波が荒磯をたたいても、岩が崩れるわけではなく、むしろ波に洗われ浸食されて美景をなすように、人格も変化によって形づくられ、角がとれてゆく。
 絶え間ない変化に洗われて、わたしたちは穏やかにして不動の落ち着きを身につけるすべを学ぶ。
 自己への信頼が大きく育ち、その結果、善性と慈悲がごく自然に放たれ、周囲の人びとに喜びをもたらす。
 この善性こそが死をこえて生きぬくものであり、すべての人にそなわったものなのである。
 わたしたちの生はこのゆるぎない善性を見出すための実習であり、それに気づくための訓練なのである。」


 今から約40年前、故伊藤肇は『左遷の哲学―嵐の中でも時間はたつ』を書いた。
 彼は、人間を成長させる逆境として5つの苦難を挙げている。
 闘病、浪人、投獄、左遷、挫折である。
 闘病によってようやく他者の辛さが忖度でき、自分の存在の脆さを知り、一人で生きているのではないことも身に沁みる。
 浪人すれば、〈どうしても失わざるを得ない状況〉があることを実感し、去る人、去らない人、目をかけてくれる人、さまざまな他人の本心も見えてくる。
 投獄されれば、国家権力と個人のありようが体感され、不条理の壁が不動心を育てる。
 左遷されれば、力の限界を知り、隠されていた自分の力に気づきもする。
 挫折によって高慢心がへし折られ、地べたに叩きつけられる一方で、まったく新しい世界が見えてきたりする。

 確かに、逆境に磨かれた人はどこかに「不動の落ち着き」を持ち、信頼感をもよおさせるものだ。
 師は、逆境によって起こる変容が二つあると言う。

「変化のうちにくつろぐすべを学ぶこと」

無常を友とするすべを学ぶこと」


 変化に流されず、悪あがきせず、泰然と対応できれば怖いものはなくなる。
 無常が不動の友であれば、執着という悪友は近づけない。

2 希望

 無常を深く見つめると、新たな真理が顔を出す。

「宇宙の本質に、さらにはその宇宙の本質とわたしたちとの途方もない結びつきに、あなたの目を開かせる希望。」


 つかまえるものがないところになぜ、希望が湧いてくるのか?

「すべてが無常であるのなら、すべては〈(クウ)〉である。
 永続し安定した独自の存在などありえない。
 そして、それらすべては、分離独立しているのではなく、他のすべてと相互に依存しあっているのである。
 ブッダはこの宇宙を無数の光り輝く宝石が織りなす巨大な網にたとえた。
 そしてその宝石のひとつひとつがさらに無数の切子面を持っていて、その切子面のひとつひとつが他のすべての宝石を反射させている。
 つまり、ひとつが同時にすべてなのだ。


 ある時、20才そこそこの一人娘が突然、男性との同棲を始め、しかもうまくいっていないらしいが、どうすれば家に引き戻せるかという人生相談があった。
 両親も祖父母も心配でたまらない。
 じっと状況をお聴きしているうちに、お祖母さんからこんな場面が語られた。
「突然、帰宅した孫は何も言わず自分の部屋へ入り、しばらくしてまた、黙って出て行きました。
 去る背中に向かって、いつだって帰って来ていいんだよ、ここはお前の家だからね!と叫びました。
 ビクッとした孫は一瞬、立ち止まり、チラッと見せた横顔で小さく頷きました」
 申しあげた。
「船着き場があるから、船は航海に出られるんです。
 別に毎日、顔を合わせていなくても、家族という糸があることをお孫さんが忘れなければ、それで家族の役割は立派に果たせています。
 そして、心配する一方で信頼もしている、という家族ならではの真実が揺るがないことをお孫さんが感じとっていれば、充分です。」

 どんなに離れていようと家族も一つの小宇宙。
 友人関係も、仕事場も、地域も、国家も、そして世界も、構成する無数の輝く宝石によって織り成されている網であり、マンダラである。
 大海から岸辺に打ち寄せる小さな波の一つも、他のすべての波と関わり合って海を構成しており、もしもその小さな波一つがなかったとしたら、それは海そのものがなくなることを意味する。
 公園にある一本の樹木も、土、陽光、雨、風、手入れする人、眺める人、おしっこをかける犬、など、ありとあらゆるものとの関係がその存在を支えており、しかも、関係すべてが刻一刻と変化してやまない。
 量子化学によれば、偏在する量子たちは、さまざまに結合する可能性をもって存在している。
 網のようであり、マンダラのようでもある。
 ありとあらゆるものが(クウ)であり、同時に関係性という糸で結ばれているからこそ、望む方向への変化という〈希望〉がある。

3 逆境希望

 変化が苦を伴って現れれば逆境となるが、それは試練として人間性を陶冶(トウヤ)する。
 変化を、望む方向へ動かせる可能性が希望を抱かせる。
 試練の時期をどう生きるか、(クウ)とマンダラの真理を観ていかなる希望を持つか、それはその人次第である。

 3月9日、大津地裁は、関西電力高浜原発3、4号機の運転を差し止める仮処分決定を出した。
 東日本大震災によって安全神話が崩壊し、きちんとした現実的な避難計画も策定不能なままに、国策として再稼働をしてきた原発に司法が危険信号を点した。
 変化の中にこそ発展と救済の可能性があり、いかなる〈壁〉も変化を拒みきれない。
 無常を恐れず、無常の中に悠然と、方向を見誤らずに生きたい。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



スポンサーサイト
2014
07.31

順境も逆境も仏心を磨く ―8月の聖語─

2014073100034.jpg
西條八十

 8月の聖語です。

「法味(ホウミ)を嘗(ナ)めて珠(タマ)を蘊(ツツ)む」


 数千人とも言われた膨大な弟子たちの中から、お大師様を後継者と定め、全てを伝授してくださった師僧である恵果阿闍梨(ケイカアジャリ)が亡くなられた際に、お大師様は碑文を書きました。
 そこにあるのがこの一節です。

「仏法のありがたさを知って、心にある珠のような仏心を磨き、大切に保ち続ける」

 師は常に弟子たちへ向かい、こうしたことを目的として、マンダラの教えを説かれ、導いてくださったとふり返り、感謝したのです。
 何という温かで奥深い表現でしょうか。
 仏法のありがたみは、そのままそっくり、師の人間性のありがたみとなっています。
 すべからく、仏法を学び、修行し、実践する者の心はこうありたいものです。

 大正7年に西條八十が作った童謡『金糸雀(カナリヤ)』を思い出しました。

「唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は
 後の山に棄てましよか
 いえいえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は
 背戸の小藪に埋(イ)けましょか
 いえいえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は
 柳の鞭でぶちましよか
 いえいえ それはかわいそう

 唄を忘れた金糸雀は
 象牙の船に銀の櫂
 月夜の海に浮べれば
 忘れた唄をおもいだす」


 優しい声でさえずることができなくなったカナリヤは、人間にとって〈役立たず〉です。
 しかし、捨ててしまったり、叩いてみたりしてはなりません。
 むしろ、これまでよりも手をかけ、目をかけてやれば、唄を思い出すかも知れないのです。
 お大師様の全体像へ迫る『エンサイクロメディア空海』(http://www.mikkyo21f.gr.jp/)に参加しておられる松岡正剛氏の言葉です。

「日本の童謡は世界で類例のない子供を対象とした表現運動でした。
 大正期前半に始まって一挙に広がり、戦争の足音とともに消えていったものです」(『日本という方法』より)


 お大師様は、ありがたい仏法によって仏心を磨き、保つと書きました。
 西條八十にあっては、難しい時代が、いつしか仏心を磨いていたのでしょうか。
 実に、順境逆境も、心一つで、み仏に成る機縁となり得るのです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
09.08

三毒の恐怖

「誰にでもあるという『三毒』が、さっぱり理解できません。
 私はあまり学校の勉強をしませんでしたが、そんなに悪いこともしていません。
 自分も他人も傷つけ滅ぼす毒を持っているよと言われても、ピンときません」
 妻として母としてまじめにやっているAさんからのご質問です。
 おそらく、こういった感想をお持ちの方は結構おられるのではないでしょうか。
 今年の締めくくりの時期なので、今まで何度もとりあげたテーマを復讐しておきましょう。

 毒の一つ『貪(トン)』は貪欲(トンヨク)、すなわち貪ってやまない心です。
 これは、ものごとが円満に進む順境でつくられます。
 たとえば、犬を飼って可愛い可愛いと楽しんでいたとします。
 そこで、知らぬ間に「貪」の心が醸成されてしまっている場合があります。
 もし、突然、愛犬が死んでしまったならどうでしょうか。
 もちろん当初は悲しく、寂しくなりますが、時間が経つにしたがって強いマイナスの思いはだんだん薄れて行き、しみじみした哀感といったものがうっすらと残るだけになるのが普通ではないでしょうか。
 しかし、この毒にやられている人は、そうなりません。
 ご近所で飼い犬を可愛がっているのを見ては悲しみを新たにし、死の受容と愛しい思いの解消ができず、あまりに心優しい方などは、心身に著しい変調を来す場合すらあります。
 あるいは、お骨をいつまでも自宅へ置いたりもします。
 これは「可愛がる心」が度を超して毒を生じている状態です。

『瞋(ジン)』は瞋恚(シンニ)、すなわち怒る心です。
 これは理不尽な目に遭うとか、計画を邪魔されるとか、困難を強いられる逆境でつくられます。
 ものごとが自分の思い通りに行かなかったりすると、自分の未熟さや勘違いや見込み違いなどが原因だとしても、結果を冷静に受け容れられずに、まず、怒ってしまう場合があります。
「気に入らない」心が昂まり、怒りを抑えられず、気持をぶつける対象を外へ求めずにいられなくなるのです。
 これが動いている場合に、正しい智慧がはたらくことはなく、「カッとなってやった」ことが賢い行動であったためしは古今東西、ありません。
 カッとなって赤鬼になり、ウヌッと恨んで青鬼になり、復讐心を燃やしては黒鬼になります。
 怒りは心を荒(スサ)ませ、運命を狂わせ、吐く息で確認できるほどはっきりした毒は身体を蝕(ムシバ)みます。
 
『癡(チ)』は愚癡(グチ)、すなわち道理に暗い心です。
 すなおに、ものの道理に合わせた客観的な視点を持てないと、自分で自分を袋小路へ誘ったりします。

 多くの事件は、三毒のからみあいによります。
 愛しむ心が強い執着心となり、ちょっとしたことから憎しみや嫉妬へ転換すると、分別を忘れた大人げない行動へ走ります。
 幼児虐待事件なども、頭へ血が上ったために危険だという判断を忘れてやってしまうのです。
 他を害してはならないという歯止めが破壊され、愚かな行動へ走ります。

 人はどうしても「欲しい、惜しい」と思い、「カッ」と熱くなるものです。
 こうした心のはたらきは、命に付随しています。
 生きるために何としても自分で自分の胃を満たさねばならず、危険に際しては、身を守るために敵へ強く立ち向かわねばならないからです。
 そのエネルギーを自他共に発展させる方向へはたらかせるには、常々、ものごとの根本道理をきちっと腹に据えておく必要があります。
 そのためにこそ道を学びです。
 ここがケダモノと人間の分かれ目です。
 三毒に負けて〈奪い取るケダモノ〉や〈傷つけるケダモノ〉にならないために、教えを学び、自らを省みたいものです。

(この文章は平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)


20110908 0012



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2008
07.09

人生の肝所(カンドコロ) ―悩む力―

 またしても辺見庸氏のお話です。
 7月8日付の河北新報連載「水の透視画法」にフォイエルバッハの一文が紹介されていました。

悩むことのできるものだけが生存するに値する」


 彼は「これまで何万回反芻したことか。正直、その一行に救われたこともある」と書いています。
 そして、「フォイエルバッハにこだわりマルクスを理解しなかった」がために友人からばかにされ、「自分はとびきり愚鈍に思えてしかたなかった」そうです。

 同じようにフォイエルバッハまで進み、憎悪と絶対神に動かされているマルクスを信じられなかった者として現代の〈前向き志向〉に懐疑的なのは、悩む力が減退しているのではないかという危惧があるからです。

 人は前向きに、明るく、力強く生きるに超したことはありません。
 しかし、忘れてならないのは、精神の足腰を鍛えるのは順境ではなく逆境だということです。
 逆境にあって、うまく立ち回ってしまう人もいれば、吟しながら重い課題の真下へ入って障害の根を抜いてしまう人もいれば、打ちのめされてなかなか立ち上がれない人もいます。
 いずれにしても、我が身をすばやく守るだけでは、逆境は人生の肥やしになり得ません。
 逆境とは言えませんが、アリを描こうとしてうまく描けなかった画家熊谷守一氏は、5年も10年も地面へ這いつくばって低い視点から観察し続け、アリが左の真ん中の足から歩き出すことを発見してついに独自の境地を開きました。
 他人がどう評価しようと、真の出来具合は本人にしか判りません。
 妥協せず、納得の行くまで壁に向かい続けた姿勢がとてつもない因となり、余人の追随を許さない次元へ入れたのです。

 また、忘れてならないのは、境遇や、性格や、抗しがたい因縁によって、必ずしも前向きに生きられない人びとへの思いやりを失ってはならないということです。
 釈尊の御眼は「君看(ミ)ずや双眼の色 語らざれば憂いなきに似たり」と詠まれました。
 きっと深く澄み柔らかなお慈悲の色が宿っていたに違いない御眼には、いかなる穢れもの気配もなかったことでしょう。
 の現実と取り組み、克服し尽くした厳しい修行の過程があってそこへ到達されたこと、そして、そのお心がいつも人びとのを我がとして受けとめておられることは、教えによってしか窺い知れません。
 しかし、我が、そして生きとし生けるものの苦と格闘したからこそ、悟りを得られたはずです。
 懺悔と悩み苦しむ人びとへの思いやりが心を清める力となります。

 自分の人生を前へ前へと進めるのに忙しく、障害となるものを強引に叩きつぶし、うまくすり抜け、あとは無関心ということでは肝心要の人生の宝ものを得られず、いつしか、まっとうさを失っているかも知れません。

 ままならないという苦、そこから生じる悩み――。
 悩んでいる時は、〈かけがえのない時〉です。
 私も皆と一緒に前向きにならなければと焦り、無理をする必要はありません。
 誠実に生きていればいつしか心は練られ、思いやりも深くなりましょう。
 自他の真実へ誠実に対応し、「生存するに値する」人生を送りたいものです。
2007
07.15

十三仏様のご加護6 ―薬師如来―

7 薬師如来のご加護

 昔、インドに零落した上流階級の男がいた。
 乞食となって彷徨う毎日だったが、どこの家も冷たく、この上は薬師様におすがりする他ないと思い定めた。
 寺院へ詣で、薬師様の周囲を右廻りに歩きながら懺悔をくり返すこと5日、断食もそろそろ限界に近づいた頃、奇跡が起こった。
 薬師様そっくりの貴人が夢のように現れ、彼に告げた。
「汝の宿業はすこぶる薄くなった。この行の報いとして必ずや富貴を得られよう。かつて父母と住んだ故郷の我が家へ買えるべし」
 やっとの思いで帰ったが、城郭のようだった家は疾うに朽ち果て、ただ、古びた柱だけが残っていた。
 それでも、彼は薬師様のご指示を信じて一夜を過ごした。
 翌日、杖で地を突いたところ、両親が蓄えておいた金子に当たり、それを元手にして仕事にかかって一年後、ついに大きな富貴を得た。

 奈落の底で眼を上げ、上には清浄なみ仏が見守っておられることに気づいた彼は、そのまま死んでも構わないという覚悟でおすがりしました。
 ただ助けてくださいと願うのではなく、己の愚かさを懺悔したところに意義があります。
 おそらく、彼は、どうにか毎日を暮らせたなら、深い懺悔は行えなかったことでしょう。
 しかし、落ちぶれ果てた時、誰のせいにもせずただただ愚かな我が身を振り返る謙虚さがあったために、滅罪の祈りを捧げる機会を得、大きな運命転化がもたらされました。
 逆境の価値と懺悔による浄めの力を考えさせられます。
 誰しも、ある程度満たされていればそのまま明日も明後日も生きられると考え、我(ガ)を捨てようとは思いません。
 我の主張を誰にも受け容れられない逆境は、己を根本から浄める尊い機会なのでしょう。





Comment:0  Trackback:0
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。