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2016
05.18

運命と闘う芸術、おりあいをつけたい私たち ─ある茶話会にて─

 ある茶話会の途中でAさんが言われました。
「しばらく前、ご高齢になられた医師と芸術家の対談をテレビで観ました。
 医師の言うことは割合わかりやすく、自分で考えてきた自分の生き方や死に方と共通するものを感じて、とても納得できましたが、芸術家の話は理解に苦しむ部分が多々、ありました。
 長く生きてきた専門家の方でもいろいろおられるのですね。」
 それ以上、Aさんは詳しく話されませんでしたが、その違和感は何となく想像できました。
 医師と芸術家では役割が違うのでしょう。

 美術史家ケネス・クラークの著書『名画とは何か』にはこんなことが書いてあります。

「人生や芸術における英雄性は、人生が闘いであるという意識に基づいているのだとわたしは思う。
 そしてこの闘いにおいて決定的なのは、知性でも感性でもなく、勇気であり、意思の力であり、決断力であるのだ。
 英雄性は便宜性をさげすみ、いわゆる文明生活に寄与するすべての快楽を犠牲にすることを要求する。
 それは幸福の敵である。
 しかし、わたしたちは、それが人間の最高の達成であると認める。
 英雄性は単に物質的障害との闘いではないからだ。
 それは『運命』との闘いにほかならない。」


 Aさんのみならず、私たち、特に東北地方の人々は5年前の大震災に遭い、今また九州の大震災を前にして、自然に抗し得ない運命の過酷さを骨身に沁みて知らされ、それとの〈折り合い〉を模索している状況にあります。
運命は闘う相手なのか?〟
 きっと、そこのところでAさんは違和感を感じられたのでしょう。

 同書はさらにこう書いています。

「英雄性は人間主義(ヒューマニズム)に縁どられながらも、その彼方を見つめている。
 というのも、『運命』と闘うためには、人間は人間以上のものにならねばならないからだ。
 人間は神になりたいと願わねばならない。」


 私たちはそれぞれの分野で精進します。
 ただ生きる糧を得るためにはたらくだけでなく、向上心によって精神を高め、深め、人間として成長しつつ生きます。
 一方では、おりおりに、私たちがいかに〈限定された存在〉であるかを思い知らされます。
 まず、生まれた時点からままなりません。
 因果応報による輪廻転生には自分自身が責任を負っていますが、何ら自分で意図することなく、ある時代に、ある場所で、両親の子供として特定の性を持って生まれています。
 生まれ落ちた瞬間から老いと病気へ向かい、性も生も渇望しているのに、必ず心身が衰え、死ぬ確率は100パーセントです。
 そして、大自然の気まぐれな暴力により、あるいは人間の愚行により、モノもいのちもあっけなく失う可能性すら常にあります。
 運命は、はたして誰の手に握られているのでしょうか……。

 こうした人間が自分自身を眺めた時、運命と闘うために神になろうとはなかなか思えません。
 神を目ざす闘いの中で死んでいった人々の生き方が凡人の生き方の参考になりにくいのは当然です。
 私たちは、私たちが到達し得ない地点への到達を夢見る一握りの人々が表現した作品が示す異次元性の前で立ちすくむのみです。
 そこでは、知らぬ間に何かが解かされたり、インスピレーションやエネルギーを得たりというような、想像もしなかった現象が起こったりします。
 もちろん、違和感や不快感を催すこともあるでしょう。

 いずれにしても、いつもの自分がいつもの空間で感じていた範囲の世界を向こうから突き破られる体験には、その瞬間にしか得られない何かがあるはずです。
 Aさんはきっと、あの日から「あれは何だったのか?」という思いを抱き続けておられることでしょう。
 話を耳にした小生や信徒さんたちもまた、「それって何だろう?」と思いました。
 そのことは少なくとも、生命を活性化する方向で意味と意義を持っていると思います。
 貴重な対話でした。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2016
04.24

言葉は運命を変える ─懺悔と遍路─

2016-04-08-030-004.jpg

 一緒に懺悔(サンゲ)し、人の道にそって生きることを誓うと、運命が変わります。
 言葉は必ず心を動かすからです。
 たとえば、こんな具合です。

「我昔所造諸悪業(ガシャクショゾウショアクゴウ)
 皆由無始貪瞋痴 (カイユムシトンジンチ)
 従身語意之所生(ジュウシンゴイシショショウ)
 一切我今皆懺悔(イッサイガコンカイサンゲ)」


 この自分が、無限の過去から生まれ変わり死に変わりしてきた中で積んできたさまざまな悪しき(ゴウ…影響力)はすべて、
 無限の過去から行ってきた貪りと怒りと愚かさという三つの毒によってつくられたものです。
 自分は今まで、身体のはたらきも、言葉のはたらきも、心のはたらきも、三つの毒に染められたままでした。
 それらのすべてをたった今、心から懺悔し尽くします。

 ご本尊様へ合掌し、心からこう唱えれば、身体のはたらきも、言葉のはたらきも、心のはたらきも影響を受けないはずはありません。
 いのちのはたらきにまつわる毒の穢れが薄れ、消える時、運命の変わらぬはずはありません。
 また、無数の行者も、在家の人も、自らの意思と、大いなるもののご加護と、の力とによって生き方を変えてきました。
 それは、四国遍路の方々が真っ白な笈摺(オイズリ)をまとって歩く姿に表れています。
 お遍路さんはそれぞれよき目的を持ち、自力と、お大師様のご加護と、遍路を成り立たせるあらゆるのおかげとによって一歩づつ、自分を変え、運命を変えています。
 自力に偏らず、他力に偏らず、自分の功徳(クドク)と、み仏のご加持(カジ)と、真実世界のとの三力(サンリキ)がすべてを動かします。
 幾度も唱える同じ言葉が、微妙に変化し、深まり、おさまりがついてきます。
 それは心と運命の変化を意味しているのです。




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2015
09.05

好き好んでこの世に生まれてきたのではない(その2) ―与えられた宿命と運命の創造―

2015090200101

〈蔵王の麓から空心菜の差し入れをいただきました。感謝感謝です〉

 ブログ「好き好んでこの世に生まれてきたのではない」に関し、Aさんから貴重なご意見をいただきました。

「受け身の人生に対して、個人ではどうすることもできない、という一種諦めに似た印象を受けました。
 そして、それこそが『迷い』であり、『煩悩』であり、『輪廻』という終わりなき繰り返しなのだと思いました。」

 さらに、エーリッヒ・フロムの言葉も添えられていました。

「人間は輪廻転生の輪につながれているが、自分の実存状態を知り、正しい行為の八段階を歩むことによってこの決定論から自己を解放することができる。」

 おおよそ、「それでは因縁による決定論ではないか、人間の実存を観て、運命を創る道が説かれていないのではないか」というのがAさんのご指摘だろうと受け止めました。

 ブログを書く時に、結語的なお大師様の文章も付け加えておかないと誤解を生むのではないかと微かに怖れたとおりになりました。
 他にもこのような受け止め方をされた方がおられましたならまことに不本意であり、不注意と筆足らずを、心よりお詫び申しあげます。

 実は、「それ生は我が好むにあらず。~」というお大師様の文章は、仏教によって人間が覚醒に至る道筋を示して天皇へ差し出された『秘蔵宝鑰(ヒゾウホウヤク)』という論考における最も覚醒レベルの低い「異生羝羊心(イショウテイヨウシン)…性と食とにしか主たる関心のない状態」について書かれた一文です。

 これは凡夫のありのままの姿を描いたものであり、決して〈このままでよい〉わけではなく、決定論的に〈こうであり続けるしかない〉わけでもありません。
 まず、自分自身の姿を振り返り、生まれ、死ぬ繰り返しのありようを見つめなければならないと説くのは、お釈迦様もお大師様も同じです。
 「――そうだ……」と気づいた先にこそ、「どうすればよいか?」という煩悶や学習も、あるいは「そうなのか!」という発見や納得も生じます。
 そのことを、小生の文章にて「漫然と生きていれば、こうした循環を繰り返すだけ」と注意し、生まれたままで苦の巷に沈むだけでなく、感謝と報恩によって「六道から離れるきっかけをつかめます」とも書きました。
 底知れぬ過去を原因としていかに生まれたか、生まされてきたかということ、と、どう生きるかという意志の問題は別です。
 生まれてきたままで自己中心的な欲に流されて生きれば、死ぬまで生き方は変わらず、この世で苦の六道を経巡り、死後、何ものかとして転生した際も、同じパターンを繰り返すしかなくなります。

 だからこそ、業(ゴウ)と輪廻(リンネ)については、因果応報の理によって生じている世界の実態を観ることが大事であり、過去によって決定された姿でこの世に現れる宿命の峻厳さから目を背けるわけにはゆきません。
 私たちは必ず、性別・体質・気性など様々な面から〈特定された何者か〉としてこの世に登場するのです。
 ――否応なく。
 しかし、それは人生の序章であり、生まれ方と幼い時代の育ち方で人生全体や運命が決まるわけではありません。
 お釈迦様もお大師様も、機械的決定論や、神の意志による決定論を説いてはおられません。

 確かに、幼子の運命はほとんど、〈生まれ〉と〈育ち〉によって創られます。
 どんな特徴を持った子供として、どういう雰囲気の家で、どのように育てられたか、が運命を創ります。
 しかし、徐々に霊性が活発化し、自分という意識に支えられた意欲が身・口・意を動かすようになれば、〈自分の生き方〉が運命を創る主役になります。
 もちろん、〈生まれ〉と〈育ち〉は人生全体から排除できませんが、運命の創造において果たす役割の大きさは、〈自分の生き方〉に対して相対的に小さくなって行きます。
 霊性に導かれ、生まれと育ちの因縁を賢く生かすか、それとも漫然と欲の命ずるがままに生き、苦を抱えた者として生まれたままのありようでこの世を終えるかによって、天と地ほども隔たった運命になります。
 だから、真実を観て、よき心になり智慧と慈悲で生きる道筋を示す宗教や道徳が必要になります。
 菩薩に近づこうとし、徐々に救われる様子を、皆さんに身近な形で書いたのが最後の文章です。

「『ああ、ありがたい』『一人前になり、何としてもお報いせねば』の心を忘れなければ、きっと、六道から離れるきっかけをつかめます。
 自他を苦しめるものが薄皮を剥がすように少しづつ離れて行けば、自分が救われるだけでなく、周囲の人々もそうなるきっかけをつくることになります。
 感謝と報恩を忘れずに生きてゆきたいものです。」

 まず自分の至らなさに気づき、まっとうに生きよう、頑張ろう、という意志がなければ何も始まりません。
 そこで矮小な自分などを遥かに超えた存在に気づき、敬虔な気持になり、謙虚に頭を垂れます。
 そうして何かの努力を継続していると必ず、どこからか、何らかの手が差し伸べられ、ありがとうございますと感謝の心が生じます。
 これが、自分の努力、仏神のご加護、ご縁の援助という運命を創る三つの力すなわち三力(サンリキ)です。
 お大師様は、『大日経(ダイニチキョウ)』の示す三力によって、み仏の子そのものである生き方ができると説かれました。

 自力でやれる、と慢心してはなりません。
 すがろう、と頼るだけではなりません。
 仏神や大自然や社会や人間関係のありがたさを忘れ、恩知らずになってはなりません。
 だから当山ではいつも、三力の偈(ゲ)を唱えています。

「以我功徳力(イガクドクリキ)
 如来加持力(ニョライカジリキ)
 及以法界力(ギュウイホウカイリキ)
 普供養而住(フクヨウニジュウ)」


(我が功徳の力をもって、如来の加持力をもって、及び法界の力をもって、普き供養といたします)

 自分が自分のために祈るのではありません。
 いわば〈おかげさま〉のご恩とお救いのお力が広く皆さんへ行き渡りますように、と祈ります。
 その先にこそ、「異生羝羊心(イショウテイヨウシン)…性と食とにしか主たる関心のない状態」からの脱出があります。
 迷妄を抱えた者としてこの世へやってきた宿命をよく観て、繰り返しの恐ろしさに戦慄し、これではならないと問題意識を持って精進すれば、必ず、自分に具わっている霊性も、生きものたちや世界の尊さも感得できます。
 共に明るい運命の創造へと出発しようではありませんか。

 Aさん、まことにありがとうございました。合掌

(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4728.htmlも参照してください)




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2015
08.25

連続する爆発に予告の縁を観る ―狂気と日本の役割―

201508250001.jpg
〈「ペシャワール会」様よりお借りして加工しました〉

201508250002.jpg
〈「津軽金山焼」この揺るがぬもの〉

 ここ1か月、爆発、炎上やそれに類するできごとが異様に多い。
 
 7月26日には、東京都調布市富士見町の民家に離陸直後の小型飛行機が墜落し、3人が死亡、4人が重軽傷を負った。
 8月4日には、南北軍事境界線近くの非武装地帯(DMZ)の韓国側地域で地雷が爆発し、韓国側に負傷者が出た。
 8月12日には、中国天津市塘沽港で化学物質の大爆発が起き、数百人とおぼしき死者の数や大気の汚染などは今なお、不明である。
 8月12日には、沖縄県うるま市の伊計島沖に米陸軍ヘリコプターH60が墜落し、自衛官2名を含む6人が負傷した。
 8月15日には、鹿児島市が桜島の噴火警報を受け、島の3地区へ避難勧告を出した。
 8月17日には、タイのバンコクで爆発物が爆発し、死者は20名、日本人1人を含む100名以上が負傷した。
 8月18日には、タイのバンコクで爆発物が水中爆発した。
 8月20日には、ソウル北方で北朝鮮が韓国側地域を砲撃した。
 8月22日には、中国山東省の化学工場で爆発事故が起こり、1人が死亡、9人が負傷と発表された。
 8月24日には、相模原市中央区の米陸軍施設「相模総合補給廠(ショウ)」で爆発・火災の事故が起こったが、詳細は不明である。
 8月24日には、川崎市の日鉄住金鋼管川崎製造所で火災が発生、隣接する大手日用品メーカー「花王」の川崎工も延焼したが、幸いにして爆発事故には至らなかった。

 運勢を動かし運命を創る〈縁〉は二段階で動く。
 まず仮の縁(予告の縁)が生じ、そやがて実の縁が現れる。
 たとえば、友人が結婚については、独身の自分にとって〈仮の縁〉が起こったと観られる。
 自分にもその時が近づいている可能性が高まっているかも知れない。
 そこで、こうした仮の良縁が実の良縁である出会いや交際につながって行くよう、自分にある思いやりの心を大いに発揮して生きればよい。
 しかし、〈仮の縁〉に気づかず、嫉妬したり、漫然と過ごしたりすれば、よき縁は仮のままで消えてしまいかねない。

 悪しき縁もまた、同じように観られる。
 まず、仮の悪縁が現れるのだ。
 こうした観点からすると、日本とその周辺に爆発・炎上の事故や災害が連続して発生している上記の状況は、ただごととは思えない。
 しかも、体感できる地震の何と多いことか。

 元国際司法裁判所裁判長のモハメド・ベジャウィ氏は初めて広島を訪れ、8月22日付の朝日新聞紙上で語られた。

「人類の狂気を知るために、すべての人がこの地を訪れるべきです。
 ご存じのように、私たちは地球を何度も破壊させるほどの数の核兵器を持ち続けています。
 いつでも発射できる高度警戒態勢の核爆弾もたくさんあって、数分以内にこの世界をなくせる。
 これは完全な狂気です。


「冷戦は終わったはずなのに、核大国は今も、核爆弾を載せた爆撃機の航空距離を伸ばそうとしています。
 私たちの頭上に飛んできて事故を起こすかもしれない。
 非常に危険で正気の沙汰ではありません。
 もっと前に広島を見ておくべきでした。」

「広島・長崎と福島。
 日本人は、核の軍事利用と民生利用の結果がもたらした両方の被害を、世界で唯一体験しました。
 これは想像を絶する異常な経験なのです。
 この二重の核被害という経験によって、人類に重要なメッセージを送る資格が与えられました。
 日本人はまさに、人類の『守り人』です。
 日本の皆さんは、我々の狂気に対して、我々すべてに対して注意を与えてくれる存在なのです。

 人類全体が日本人に敬意を表するべきです。
 世界で唯一、二重の核被害を生き延びた存在なのですから。」


 こうした人類に対する役割を認められている日本は、今、どのようにそれを果たそうとしているか?
 それを気づかない、あるいは忘れているのではないか?
 一方では、爆発・炎上の縁を日常へ持ち込もうとしてしているのではないか?
 戦争や爆弾テロが身近に迫っているのではないか?

 これまで幾度もとりあげた昭和14年の俳句を再々掲しておきたい。

戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡辺白泉)


 俳人は、それ行けどんどん、と政府が威勢のよいかけ声をかけていた頃、すでに死に神の到来を感じとっていたのである。
 事実、6年後に原爆が落とされ、日本は敗戦国となったのみならず、70年経った今も沖縄は事実上、米軍の基地と化したままであり、首都圏上空は治外法権的エリアとなり、オスプレイは日本中を自由に飛んでいる。

 ちなみに、仮の悪縁に対抗するために必要なのは〈正しさ〉であるとされている。
 正しさとは、狂気狂気と見抜く正気ではなかろうか。
 モハメド・ベジャウィ氏は、日本人の正気を認めておられる。

 パキスタンとアフガニスタンで医療、水源確保、農業支援の活動を続ける医師中村哲氏は、平成26年を振り返り、7月1日付の『ペシャワール会報』に書いた「戦(イクサ)や目先の利に依らずとも多くの恵みが約束されている」を読んでみたい。

「『緑の大地計画』が立案されたのが確か2002年でした。
 当時『アフガン復興支援』で世界中が沸いていましたが、私たちの訴え続ける干ばつと飢餓はあまり重視されなかったと覚えています。

 2014年12月、破壊と大混乱を残して欧米軍が去っていきました。
 あの軍事介入が何だったのか、『対テロ戦争』とは何であったのか、心おだやかにはなれません。
『テロとの戦い』と言いさえすれば何でも正当化されるような狂気が、この十数年の世界を支配してきました。
 実際アフガニスタンでは、異を唱える者がテロリストの烙印を押され、容赦なく抹殺されていきました。
 その多くが国際テロ組織とは無関係な、弱い立場の人々でした。
 無差別爆撃による膨大な犠牲は、『二次被害』と呼ばれました。

 イスラム教徒に対する偏見が意図的にあおられ、人々の間に多くの敵対が作り出されました。
 病的な残虐行為や拷問は日常でした。
 だが、欧米軍兵士もまた犠牲者でした。
 その多くは貧しい階層の出身で、社会的事情で志願し、半ば駆り出された人々でした。
 少しでも良心を持つ者の一部は、自殺に追い込まれました。

 これが現地で見た『テロとの戦い』でした。
 細々と保たれてきた人間の英知とモラルは、これによって一挙に後退しました。
 欧米では預言者を揶揄することが流行り、それが表現の自由であるとされました。
 世界全体が、露わな暴力主義と排外主義の毒に侵されていくように思われました。
 利権を主張して弱者を圧するのが当然のように言われ始めたのです。

 このような世界をためらいつつ歩んできた日本もまた、良心の誇りを捨て、人間の気品を失い、同様に愚かな時流に乗ろうとしているように思えます。
 先は見えています。
 アフガニスタンを破壊した同盟者にならぬことを願うばかりです。

 しかし、現地事業のおかげで垣間見える世界は、全く逆のものです。
 少し目を開けば、戦や目先の利に依らずとも、多くの恵みが約束されていることが解るからです。 

 今、次の段階への飛躍に当たり、立場を超えて実に多くの人々が協力しています。
 ここに希望と平和の基礎を見るからです。

 先は長い道程ですが、このオアシスこそ、飢餓に苦しむ人々だけでなく、私たち自身をも励ます力であることを訴え、変わらぬ協力に感謝いたします。」


 私たちは、予告の縁が何を教えてくれているか、「テロとの戦い」の現場はいかなるものか、そして、世界における日本の役割は何か、落ちついて考えてみる必要があるのではなかろうか。




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2015
06.30

公開Q&A(その9) ―因果応報だからすべては自分のせい?―

201506300019.jpg

 岩手県に在住するAさんからの人生相談です。

「どうして私の人生はこうなったんでしょうか?
 考えてみました。
 仕事を離れたのも、病気になったのも、誰のせいにもできず全部、自分のせいだということはわかりました。
 ああすればよかった、こうしたのが悪かったと、それも、よくよくわかりました。
 でも、せっかく因果応報が理解できても、今までの人生をやり直せないじゃありませんか。
 なぜ、という疑問は解けても、結局、自分を責めるしかありません。
 もう、袋小路です。
 困り果てました」

 まず、〈自分のせい〉という考え方に問題があるとしても、自分の外側にある事実を探求するだけでなく、自分自身に問題を見出すところまで突き詰めてお考えになられた成り行きを肯定しておかねばなりません。
 誰かのせいにする姿勢は結局、一生、不幸と不満と争いを背負う道だからです。
 こんなお話を申し上げました。

「そうですね。
 自分の人生がどうであるかについて、自分自身のありようが最も問われねばならないという点は、そのとおりでしょう。
 自分と社会や世界について苦しみ、考えぬいたお釈迦様も、自分自身が真理を観ていなかったことに気づかれました。
 そして、自分を含め、全てが因と縁で成り立っているこの世をありのままに観て、何かを不変の実在ととらえて愛憎さまざまに執着し苦しむ生き方を離れるよう説かれました。
 また、因は縁を伴い必ず結果をもたらす以上、よき結果としてのよき人生やよき人間関係などを求めるならば、自分自身がよき因をつくり、よき縁となる正しい道を歩めと説かれました。
 さて、この因果の法則は二つの面から考えねばなりません。

 一つは、精神世界と物質世界、言い換えれば、人間と自然という問題です。
 たとえば、嫁をいびっているつもりが、年をとるに従って、いつの間にか嫁にいびられるようになって辛い思いをするならば、これはほとんど精神世界、人間世界の因果応報です。
 しかし、どこも悪くなかったのに突然、大病を患ったり、天変地異の被害に遭ったりするのは、ほとんど物質世界、自然界の因果応報です。
 もちろん、二つが絡み合って実際の人生は展開されますが、後者の問題について自分自身を責めても仕方がありません。

 もう一つは、個人と社会、言い換えれば(ゴウ)と共業(グウゴウ)という問題です。
 たとえば、自分が古い食材を売りながら儲け、食中毒者が出て逮捕されれば個人的悪行(アクギョウ)のせいであり、個人的悪業(アクゴウ)が人生の暗転を招いたことになります。
 しかし、水銀汚染でやられた水俣の方々や、アスベストを吸い込んで胸をやられた方々の苦しみは、社会からもたらされたものであり、巨大な悪しき共業(グウゴウ)による被害者です。
 そうした企や社会を変えない限り、個人個人は悪影響に抗しきれません。

 このように因果関係をあらためて考えてみると、Aさんが仕事を離れた理由は、どこにあるでしょうか?
 病気になられた理由はどこにあるでしょうか?
 本当に全部〈自分のせい〉ですか?
 運命とは思われませんか?
 運命は、明るい面も暗い面も、自分だけで創る、創られるものではありません。
 たとえば、ご主人と結婚されたことを運命とは思われませんか?
 お子さんが授かったことを運命とは思われませんか?
 こうしてここに座っておられることを運命とは思われませんか?
 運命とは命を運ぶ流れであり、自分は運ばれている者です。
 もちろん、運命という河をどう泳ぐかは自分の泳ぎ方次第ですが、自分で河を造れると思うならば、それは思い上がりかも知れません。
 80才を超えたBさんがしみじみ言われました。
『80才になってようやく、生かされているということが強く実感できました。
 自分のはからいなど、たかが知れています。
 運命の中でここまで生きてきて、もうすぐ運命が閉じるという実感があります。
 ご本尊様の前に足を運び、写経をさせていただき、ようやく、ありがたいと心から思えるようになりました』

 因果応報を観るのは、運命を観ることでもあります。
 運命を観れば、自分の矮小さに気づきます。
 それは、自分の健気(ケナゲ)さ、哀(カナ)しくも愛(イト)しい哀れさに気づくことでもあります。
 朝、起きて顔を洗う自分を客観的に眺めてみてください。
 健気ではありませんか?
 ご主人を眺めてください。
 健気ではありませんか?
 遠くにいる娘さんを想像してみてください。
 健気ではありませんか?
 顔を洗えば食事をし、その日、一日を生きようとする小さな小さな一つの生命体……。
 そうして生きている人間誰もが、健気と言うしかないではありませんか。
 深い息をしながら想いを広げれば、生きとし生けるものすべてが健気です。

 こうして、ご自身の因果応報だけでなく、多面的な因果応報のからまりである運命を感得してください。
 健気で、愛しく、哀れな自分を責めることなどできましょうか。
 Aさんも私も、等しく、健気で、愛しく、哀れな存在です。
 生のある限り、共に笑い、共に泣きつつ生きようではありませんか」

(※プライバシーを充分、守られる文面になっています)




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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