私たちは、時に、過去を振り返り、時に、未来を思い描きます。
過去は、時には恨めしいものであり、時には、ほのぼのさせるものです。
前者に傾けば、後悔から愚癡が出て暗くなり、後者であれば、満たされた気持から感謝が生まれて明るくなります。
では、運が悪かったり、失敗が多かったりした人は愚癡を言い、運がよかったり、順調だったりした人は感謝するのでしょうか?
70年間、生きて人を観て来た者の感想としては、そう言えなくもないけれど、必ずしもそうでないケースが少なくないような気がします。
たとえば、27年間の投獄生活に耐え、南アフリカ共和国の大統領になったネルソン・ホリシャシャ・マンデラは、まるで密教僧のような言葉を遺しました。
「我々が自らの内にある光を輝かせるとき、無意識のうちに他の人々を輝かせることが出来るのだ。」
私たちが共有している仏心は、誰かが輝かせれば、他の誰かの仏心に障碍となっている邪心を祓い、それも輝かせます。
この身このままで仏心を輝かせるのが即身成仏(ソクシンジョウブツ)であり、生き仏になった人が、他の誰かをも生き仏へと誘わないはずはありません。
また、過去がどうであれ、〈現在〉の過酷さが、過酷であるがゆえに視点の転換をもたらし、過去を意識させないケースもあります。
過酷な現実に何らかの価値を見出した人にとって、もはや、過去がどうであったかということは問題になりません。
ドイツ軍によって捕虜収容所に入れられ、いつガス室へ送られてもおかしくない体験をしたユダヤ人フランクルが書いた『夜と霧』に有名な一節があります。
「現実には生に終止符を打たれた人間だったのに―あるいはだからこそ―何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。」
過酷な労働を終えて居住棟に帰り、スープを手にして土間でへたり込んでいた時、沈む夕陽の美しさに気づいた仲間に呼ばれ、皆して空を眺め、目を転じた地上にある水たまりが夕焼けの赤々とした光景を映し出している様子に、誰かがこう言ったのです。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
書かれたのは昭和21年、一瞬、激しく動いた心の鼓動は、フランクルと仲間たちの間で共有されただけでなく、70年を経た今も、私たちの心に共鳴、共振をもたらします。
こうした体験をした人は、〈愚癡の人〉へと堕ちて行く可能性や危険性が少ないのではないでしょうか。
愚癡の人は、恐ろしくも、マンデラ大統領と反対の心になります。
「我々が自らの内にある光を覆い、輝かせないとき、無意識のうちに他の人々をも輝かせない者となる」
こうならないためにこそ、ご本尊様へ手を合わせて身体をみ仏と一体化させ、真言や経文を唱えて言葉をみ仏と一体化させ、ご本尊様の徳を観想して心をみ仏と一体化させましょう。
そうすれば、私たちは「自らの内にある光を輝かせ」、きっと「美しい自然に魅了され」つつ生きられます。
愚癡の人にならないために、ご本尊様へ祈りましょう。
特に、〈理想の自分〉の一面を示す一代守本尊様は、生まれ年によって運命づけられた具体的な導き手です。
愚癡の人にならず、生き仏になりたいものです。
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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〈『角筈にて』を含む1円の本〉
運転中にラジオをかけたら、とてつもない言葉たちが耳に飛び込んで来た。
中年の男が、亡霊となって顕れた父親と文字どおり、永遠の別れをするシーンである。
あらためて小説の力、簡明な日本語の奥深さにうたれ、いつものようにアマゾンで調べたところ、集英社の文庫本が僅か1円で売られていた。
これもまた、いつものように心のどこかが悄然となりながら注文し、翌々日には対面した。
文庫本には有名な『鉄道員(ポッポヤ)』を含む4編の小説が収められている。
受け取った夜、布団にくるまりながら一気に読んだ。
普段は数ページで睡眠薬の代わりになってくれる読書が、久々に頭を冴えさせ、身体の疲れを忘れさせた。
寝ようとしたところ、急に加湿器のブーンという微音が気になり、わざわざ起き出して止めたほどだった。
さて、この短編小説は『角筈(ツノハズ)にて』である。
左遷された中年商社マンが人生の重大な転機に際して、かつて自分を捨てた父親と自分の関係を振り返るうちに、父親の亡霊から真実を告げられるという話である。
人生にはやむにやまれぬ事情や状況というものが必ず発生するが、そこで試され、鍛えられるのは覚悟の程である。
思いを引き裂かれるように親から捨てられるのも、自分の心理から逃れられずに妻に堕胎をさせるのも、理不尽な左遷に遭うのも、そうした場面である。
主人公は、どんな時も矜恃を失わず、懺悔を繰り返す。
事情を客観的に観ることによって相手の事情をくむ一方で、自分の罪については決して言いわけをしない。
人生に対して誠実なのだ。
そこから自然に相手への思いやりが生まれ、過去は哀感に彩られつつ一篇の物語となって心におさまる。
誠実な思いや言葉や行動に伴って動く情感は、主人公の人生を救い、浄め、輝かせ、重みと深さを増すだけでなく、読み手に対しても同じ作用を及ぼす。
作者浅田次郎氏は「あとがきにかえて」に書く。
「『角筈にて』は、私のいまわしい幼児体験を書いた。
むろんありのままではないが、おおむね実話である。
直木賞を落選した失意のうちに小説誌の締め切りが迫り、『こんなのしか書けなかったよ』と編集者に泣く泣く原稿を渡した。
しかし読み返してみると、どうやらそのときでなければ書くことのできなかった小説のようである。
つまり、『蒼穹の昴』が直木賞に落選しなければ、『角筈にて』は永遠に書かれるはずがなかった。
こればかりはどうしても書けぬ体験をどうしても書かねばならぬほど、私は追いつめられていたのだった。」
〝──無念〟と胸がぺしゃんこになりそうな時、〝理不尽!!〟と憤った時、〝すまなかった……〟と動けない時、『角筈にて』に戻ってみたい。
涙と共に心の嵐や墜落や塞がりがなだめられ、息を吹き返すことができるように思える。
最後に、この小説の主題ではない部分をあえて選び、紹介しておきたい。
主人公貫井が日本を離れる直前、せめて見送りたいと電話をかけてよこした元の部下たちとのやりとりである。
「受話器を置こうとすると、小田は声高に呼び止めた。
──きょう、内示が出たんです。
私、九月の移動で貫井さんの後任になります。
──後任?
それはおめでとう。
営業一部長は花形役者だぞ。
がんばれ。
よかったな、小田。
これで俺も成仏できる。
ふいに、低い、押し殺すようなうなり声が耳に届いた。
──こんなことってありますか。
貫井さんをとばせば、あとは何事もなかったって言うんですか。
──おいおい、そばに誰もいないんだろうな。
──いたってかまいませんよ。
ねえ、何とか言って下さいよ、貫井さん。
こんなばかな話ないでしょう。
岡田は企画室長で、富山は秘書課長だっていうんです。
貫井さんだけがとばされて、プロジェクトは全員ご栄転ですか。
みんなここにいます。
みんな、泣いてますよ。
かわりますから。
──いいよ、やめとけ。
俺の部下は優秀だったんだ。
それだけだよ。
──ちがうって。
そうじゃないって。
わかるでしょう、俺たちみんな……すみません、興奮しちゃって。
われわれはみんな、貫井さんに育てられたんです。
新入社員のころから課長職になるまで、貫井さんがみんな引き上げてくれたんじゃないですか。
──ちがうよ、小田。
おまえらが優秀だった。
俺は優秀な部下に恵まれたんだ。
受話器の中に、かつての部下たちの憤る声が響いた。
電話のスピーカーから聞いているのだろう。
──弔い合戦、やりますからね。
今もみんなで話し合ってたんです。
全員とばされたっていいから、もうちちど貫井さんを本社に戻そうって。
──ばかなことを言うな!
と貫井は怒鳴った。
電話の向こう側は一瞬、沈黙した。
──それはな、あと十年たって、おまえが役員になってから考えることだ。
いいな、これは俺の最後の命令だ。
つまらんことを考えるな。
小田も富山も岡田も、みんな役員になれ。
取締役会でそうと決まれば、俺は本社に戻る。
総意に基づく社命でなければ、俺は従わない。
小田は声をしぼってすすり泣いた。
十年──仮に彼らがその命令を実現させたとしても、リオから戻るその日には商社マンとしての余命はない。
──申しわけありません。
がんばります。
小田の声がそう言うと、周囲から同じ言葉が続いた。
──見送りはいらない。
ハネムーンの邪魔はするな。
それだけを言って、貫井は受話器を置いた。」
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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ある時、ふとしたおりに過去の忌まわしいできごとを思い出し、強い罪悪感に襲われ、落ち込んでしまうAさんと対話した。
Aさん:「こんな自分と知りながら受け入れてくれる優しい伴侶がいるのに、思い出す自分はいつまでも忌まわしいままです。
平和な時間の中で、いきなりそれが起き上がると、もう、抵抗できません。
ただ、悲しく、恐ろしく、自分をどうしようもないもどかしさに、強張り、震えるだけです。
伴侶や友人たちは口々に、もう過ぎたことでしょう、とか、誰にだって他人へ言えない過去があるよと言ってくれますが、そんなことは皆、わかっているのに、発作的に起こるので、〈その瞬間〉が来るともう、どうしようもありません」
小生:「私たちが、どこを探してももう、無い過去によって苦しめられる成り行きに二つの面がありそうです。
一つは、できごとが持つ印象の強さです。
小さな子供の時代をあまり思い出せないように、後から後からと記憶が積み重ねられるので、古いものほど思い出しにくいのですが、よきにつけ、悪しきにつけ、強烈な印象を伴ったできごとは、いつまでも繰り返して思い出され、デフォルメされたり、脚色されたりしつつも、残って行きます。
Aさんの場合も、ずいぶん、昔のできごとだけど、あまりにも印象が強すぎたのでしょうね。
もう一つは、性格など、その人のタイプです。
ものごとを枠にはめて固く考えたり、感覚的にはじいてしまうものは決して受け入れられない潔癖症だったり、〈あるべき自分〉や〈ありたい自分〉以外の部分が自分へ許せなかったりすると、まずかったできごとは、いつまでもまずいままで残ります。
未解決の嫌なできごとは、自分が未解決であることを知っているので、幾度でもよみがえり、同時に、嫌悪感や罪悪感なども付随して心を占領します。」
Aさん:「私にとっては人生で最大のできごとのようにすら思えているので、性格だって変えようがないし、繰り返しは、どうしようもないんですよね」
小生:「そうですね。
でも、私たちが普段生きているうちには、嬉しいことも嫌なこともそれなりに起こりますが、私たちは苦しみが閾値(イキチ)を超えない限り、今日、いくら泣いてもなぜか、明日また、ご飯を食べ、誰かと笑い、生きられますよね。
それは、死ぬ時にお花畑を見る事象がドーパミンという一種のホルモンによるという説を思い出させます。
私たちに具わったメカニズムとして、肉体は死へとプログラムされている一方、心は生存の方向へとプログラムされているのではないでしょうか?
だから、嫌なことと嬉しいこととがあざなえる縄のように起こる日々にあって、いつしか、嫌な記憶よりも嬉しい記憶の方が強くはたらき、たとえば、上司の小言でムシャクシャしても、一杯やって仲間と愚癡を言えば明日も同じように出社できるのではないでしょうか?
自分の人生を振り返り、皆さんのお話をお聴きし、周囲の人々を眺めているとそんな気がしてなりません。
Aさんを苦しめる記憶のぶりかえしも、Aさんにとって価値ある人やモノやできごとに囲まれているうちに、そうしたメカニズムがはたらき、力を弱めるのではないでしょうか?」
Aさん:「そうですね。
夫や子供は本当に救いです。
でも、何かに没頭している時は絶対に大丈夫なのですが、休息している時や、何も考えていないような時間帯に、いきなり、やってきます。」
小生:「いわば、心のクセのようなものでしょうね。
それを変えるには、お子さんが家庭に登場して気配の変わった今が一つのチャンスかも知れません。」
Aさん:「私は、元気な時も、元気を出そうとする時も、アウトドア派です。
公園へ出かけたり、バーベキューをしたりといった状態です。
そして静かになった時、〈それ〉が訪れます。」
小生:「休息してパワーを得るには、陽光を浴びる方法と、陽光を避ける方法があるのではないでしょうか。
日陰で憩うやり方にも慣れると、心が陰った時に〈それ〉がやって来るというパターンを変えられるかも知れませんね。」
Aさん:「へええ、日陰で憩うとは考えたこともありませんでした。
相手がやって来る時間を先取りしてしまうのですね。」
小生:「もう一つ考えてみるべきポイントは、すでに、よくおわかりのように、過去のできごとはもう、どこにもなく、Aさんの記憶の中身でしかありません。
そして、それは関わった人たちにとっても、もはや、どこにもないものかも知れないのです。
小生には、何十年ぶりのお詫びという体験があります。
自分の心に刺さったままのトゲにも似た悔恨と罪悪感の元を断とうと、思い切って相手に詫びたのです。
そうしたら、驚いたことに、Bさんはまったく気にしていなかったし、Cさんに至っては、できごとの記憶すら消えていたのです。
独り相撲は滑稽でしたが、頭で考えていた時間と記憶の問題について動かぬ事実を突きつけられた体験は、大きな衝撃でした。
空(クウ)を説く経典の理解、感得が一気に進んだような気持がしました。
心に青空が広がったのは当然です。
そして、その後、できごとの記憶は消えませんが、思い出す時に付随するのは、かつての辛い悔恨や卑下などではなく、淡い懐かしさになりました。
不思議なものです。
このように、Aさんにも、何かそうした体験が起こればよいですね。
ご本尊様のご加護を祈って、ご加持を行いましょう。」
こんなやりとりをしてから、ご加持を行った。
Aさんはスッと法へ入り、安らかな時を過ごした。
思えば、ご加持も、〈日陰で憩う〉パターンと言えるのかも知れない。
そこで静かに守本尊様の真言を唱える時間が流れるようになれば、〈それ〉は訪れにくくなるか、訪れても、真言によって消えるようになるだろう。
(付け加えておかねばなりません。
当山では相手により、状況によって、医者にかかるようお勧めする場合もあります。
拝めば治る、のではなく、薬を飲んでさえいれば大丈夫、でもないと考えています。
ささやかな法務を続けてきた者の体験上、宗教と科学の力は人生にとって車の両輪に思えます。
なお、プライバシーを侵害せぬよう注意しながら文章を書いています。
日々、人生相談にご来山される方々はどうぞご心配なく。)
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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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〈浄蓮花〉
過去が悔やまれ、夢にうなされもするがどうしたらよいか、というご質問がありました。
私たちは不完全な生きものです。
常に、自分の耳目を用いて掴む限られた情報の中から、自分の能力や好き嫌いなどによって取捨選択したものを用いて判断し、行動しているので、後から〈過ち〉と判断せざるを得ないような行為をとってしまうことはやむを得ません。
また、心は一瞬も休むことなく変化し続けており、たとえば、昨日まで痩せ形の女性が好みだったのに、豊満な女性と親密になってからは、すっかり変わったなどということが起こるほどです。
太平洋戦争、あるいはベトナム戦争などを挟んで思想や主張が180度変わった学者や評論家や文化人は山ほどいます。
だから、確かに〈あの時はよかった〉はずのできごとが、〈なぜあんなことを行ったのか〉という後悔をもたらす場合があるのは、ある意味、当然と言うしかなく、むしろ、後悔をせず常に前向きなどという人は、若干、注意しておつき合いする必要があります。
人生に起こる自他のマイナスをしっかり見つめるところからしか、心の確かな成長はもたらされにくいからです。
川村敏明医師は、心を病んだ方々と共に考えてこそ「人間が生きることの本質が見えてくる」と言われ、日々、人生相談を行っている当山もまったく同感です。
最新の土木技術は、コンクリートの擁壁を用いず、水平に踏み固めた地面へ先が90度以上反り返った鋼鉄の網を敷きつめ、反り返った高さの分だけまた土を盛って踏み固めて同じように網を敷くという工法を編みだし、垂直に近い崖が安全に造られるようになりました。
この工事現場を眺め、心の成長もこうしてもたらされるという強い実感を持ちました。
もちろん、心には瞬時の大転換もありますが、そのためには、自覚しないところできっと、デコボコをじわじわと踏み固める工事が行われていたはずです。
こうしてはたらく心を別ものにすることはできません。
変化していればこそ、心はいつも新鮮でいられるからです。
問題は、変化によって心が塞がったり迷路へ迷い込んだりしたままにならず、どうやって成長できるか、言い換えれば心の工事はどうすればきちんと行われるかということに尽きます。
答の一つは、自分を省みるのと同じく、他者の心もよく観たり感じとったりすることです。
それは現実の人間を相手にしても、小説や音楽などの芸術に接してもできます。
そうすると、そこここに〈自分と同じような人々〉がいて、〈自分と同じような苦楽〉を生きている真実に目を瞠らされることでしょう。
そのできごとは必ず心を楽にしてくれます。
もう一つは、無心に真言や経文を唱えることです。
それは知らぬ間に、落ちた穴から陽光の当たる平地へと引き上げてくれることでしょう。
まず、うなされた時に、自分の守本尊様の真言を唱えるようをお勧めします。
当山を訪れる善男善女が、そうしてあらたな歩みを初めておられます。
ご加護を祈っています。合掌
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中原文夫の小説『幸福の探求』はそれぞれ一身上の問題を抱えた家族三人が自死を決意するところから始まる。
夫は会社勤め特有の理不尽な扱いに耐えられず、妻はストレス性の喘息に苦しみ、娘は情緒不安による葛藤が引き金となって引きこもっている。
こんな三人は家族会議で衆議一決する。
奥多摩の渓谷で身を投げようというのである。
「手筈を決めた時、三人とも胸のつかえが下りたようで、とても晴れやかな心持ちだった。」
ところが、古い吊り橋を見つけて渡り始めた時、不意にバランスを崩した三人は恐怖のあまりへたり込み、戻れなくなる。
そこに現れた白髪の老人から言われる。
「あんたら、肉眼で見るから動きが取れんのだよ。
さあ、目を瞑って心眼で歩いてみい」
助かった三人はやがて、老人の言葉を思い出し、「万物研究所主宰・幸福学博士 山本杉作」と書かれた名刺を頼りに訪ねてみる。
「死ぬつもりになったんやら、わしの研究所に遊びに来てみろや」
そして、帰宅する背に老人から言葉を受けた。
「まあ、見てみい。
今に上向いて来るでな」
三年後、それぞれの運勢は確かに上向き、「別天地」のようになっていたが、忙しい家族がようやく、ゆっくりと談笑している時、思わぬ事態になった。
せっかく「夢のある話で盛り上がったは、次第に湿っぽくやってゆく」のだ。
それぞれ、苦労や文句や不満や不安を抱えていることが顕わになる。
夫は思う。
「自分たちは大変な思い上がりをしているのではないか」
「窮地を脱してそれなりの安穏を得ても、すぐにあらたな不満が持ち上がるのだから、人間というのはわがままなものだ。」
そして、衆議一決した。
「辛い時は、一番惨めだった頃を思い浮かべればいい」
「もう一度、奥多摩に行ってみようか。
あそこで俺たち、現在のしあわせをつくづく噛みしめるといいんだ。」
いつしか、運勢が上向いて嬉しいはずの〈今〉が、「辛い時」になってしまっている。
吊り橋は、こんな気持で渡り始められる。
「やっぱり今は幸せなんだ。
つまんないことで、こぼしたりするのは馬鹿みたいだよな」
しかし、意外な展開が始まる。
「三年前の苦しみなんて、今味わっている苦しみに比べたら印象も薄いし、ただ懐かしいだけだわ」
「今にしておもえば案外恵まれていたような気もするの」
「どうしてあたしたち、あの頃より今のほうが幸せだと、わざわざここまで来て自分に言い聞かせなきゃいけないのかしらね」
「決まってるじゃない。
自信がないからよ。
やっぱりあの頃のほうがよかったんだわ」
ついに三人は同じ言葉を吐く。
「あの頃に帰りたい!」
そして夢うつつに、あの老人の言葉を聴く。
「あんたら本当は、昔の自分を憐れんで蔑むためにここへ来たっち」
やがて物語はどんでん返しとなり、老人と向き合った夫は気がつく。
「三年先から見たら、今の苦しみも、あの頃はよかったっていうことになる……。
どんな仕掛けだか知らないけれど、つまり、そういうことなんでしょう」
老人は訊ねる。
「ところであんたら、死ぬのはどうした」
妻は、ぶり返した喘息の発作の中で答える。
「取りあえずもう少し生きてみますわ」
足どり軽く老人のもとを去る三人の前に、「凛とした冬晴れの空」が広がっていた。
当山にも、「もう、生きられない」といったご相談がある。
何とかして「もう少し生きて」みていただきたい。
生きてさえいれば、やがては、いかに辛い〈今〉も思い出になり、違った趣で〈今〉を支えるようになる可能性を持っている。
これまで、〈過去の因縁〉に苦しむ方々のために人生相談に応じ、ご祈祷やご加持などを行ってきた。
確かに、抗しきれず押し潰されそうになる過去もあるが、智慧や汗やご加護によって過去を昇華させ、〈今〉が息を吹き返した時の感激はたとえようがない。
この年末をどう過ごせばよいか悩んでおられる方々へ、作品社発行の『神隠し』へ収録されているこの作品をお勧めしたい。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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