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2008
01.24

NHK文化講座講義録7 ―仏法の基本その2―

 四諦のうち、苦諦集諦は現実を直視する道です。
 この世はままならぬものであり、それには原因がある、そして、それはいずれも、動かせぬ真理であると見極めることが、すべての始まりです。
 さまざまな問題にぶつかりって悩み、苦しんだ時に「どうしてこうなるのか」と探求し、個々のできごとに通底している原理や真理を観ることができれば、根本的な解決の門に立っていると言えます。
 それは、頻繁に風邪を引く子供が、何度も風邪薬を服用したり学校を休んだりするうちに、「ああ、ボクは生まれつき、風邪を引きやすい体質なんだ」と気づくようなものです。
 そして、「じゃあ、この体質を何とかしよう」と思い立つのが滅諦であり、親と一緒になって医者や薬剤師へ相談し、見つけた体質改善方法が道諦です。
 もちろん、結果を出せるかどうかは、自分の実践にかかっています。

 勉強会では、「教えを知らないままでいたら自分はどうなっていたのか、と思うと、ゾッとします」などという言葉がよく聞かれます。
 酷い事件が話題になると、「あの人も、教えを知っていたらああはならなかったでしょうに」と同情する声が聞かれます。
 学ぶ皆さんは、必ず自分を省み、罪を犯してしまった他者へは厳しく断罪するだけでなく、いたわりの眼差しを送っておられます。
 真理が腹の底へ落ちると、自分の前にある世界が今までとは違ったものとして顕れるだけでなく、いつしか、真理に彩られた真実世界から浮き世を眺めるようにもなるものです。

 最近は、「ああなったのは因縁だなあと思います」とか、「辛いと思っているうちに、いつの間にか状況が変わっていて、結局、必ず救われています」などというやりとりもあります。
 どなたも、因果応報を実感し、み仏やご先祖様のご加護にはっきりと気づくようになってきておられます。
 一緒に学ぶこと自体が滅諦道諦にあることなので、当然といえば当然ですが、ありがたいことです。

 剣豪山岡鉄舟にエピソードがあります。
 鉄舟がじっと座禅を組む意味を知らず、やみくもに稽古をすれば強くなると考えている若い門人がこう言い放ちました。
「先生。この間、道場へくる途中にある鳥居へ小便をひっかけましたが、別に何も罰など当たってはおりません。この世に神仏などないに決まっていますよ。座禅も信心も要らないのではありませんか」
 鉄舟は怒鳴りつけます。
「馬鹿者!鳥居へ小便をするのは犬猫の行いだ。お前は人間でありながら人間のやる礼拝ができず、犬猫の真似しかできない。それはすでに罰が当たっている証拠ではないか」

 そうとは気づかぬうちに、あるいは救われ、あるいは無惨になります。
 すべては生まれの因縁と育ちの因縁、そして生きてきた因縁の結果であり、時には浮き、時には沈む浮き世の習いを大きく包み込むみ仏の世界とつながる誠心は、必ずや運勢を明るい方向へと導きます。
 それは何も、病気一つしなくなる、あるいはお金に不自由しなくなるといったことではなく、健康であっても病んでいても、あるいはお金があってもなくても、感謝や安心が確実に心で育ち続けるということです。
 健康かどうか、あるいはお金があるかどうかという事実がもたらす快・不快・楽・苦(煩悩です)などとは異次元の心が創られるのです。
 それは、自分の一心におわす自心仏(ジシンブツ)の光を覆う群雲が取り除かれ、その光が、より明らかに行く手を照らしてくださるという救いの道程に他なりません。

 ただし、注目しておかねばならないのは、病気を治したい、あるいは貧困を脱したいという切なる願いがみ仏へすがる姿勢をもたらし、み仏との縁を強めるきっかけになるということです。
 煩悩あってこそ、悟りへの道が開かれます。
 家族のために何としても病魔に打ち克たねばならない、苦労している親に楽をさせるためにお金を稼ぎたい、そうした切なる願いによって精進し、精進に精進を重ねているうちに自分の矮小さに気づき、自力だけでは到達し得ないところを目ざして「ああ、」と前へ伸ばす手の先に、み仏は必ず待っておられます。
「思い」があって「願い」が生じ、それがやがて「祈り」となる成り行きは、煩悩を持つ私たちが即身成仏できるただ一本の道であると言えましょう。
 
 いたずらに煩悩を敵視し、それを滅してサラリと生きようといった姿勢は、仏法本来のものではありません。
「身心にまといつく煩悩を活かす智慧と慈悲を磨き、自他のために精進し続ける菩薩であれ」
 これが釈尊の、そしてお大師様の声であると信じています。
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2008
01.23

四諦について 6 ―道諦―

 第四の真理は「道諦(ドウタイ)」です。

 釈尊は、苦行へ傾かず、放逸へ傾かず、中道を歩んで悟りへ達するための修行方法として、四諦を説く前に八正道を説かれました。
 後に、四諦において「苦を脱する方法」と位置づけられました。

正見(ショウケン)
 これは、基本に関する正しい見解であり、これがない限り正しい修行はできません。
 釈尊は説かれました。
「この世には、どんな人にもなし遂げられぬことが5つある。
 一つには、老いてゆく身でありながら、老いないということ。
 二つには、病む身でありながら、病まないということ。
 三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。
 四つには、滅びるべきものでありながら、滅びないということ。
 五つには、尽きるものでありながら、尽きないということである」
 ここにあるのは見極めの大切さです。
 私たちの思考や意志は自由に飛びまわりますが、因果応報や四諦や四苦八苦などの真理を超えることは決してできません。
 人間が動かせぬことは動かせないのだと肝に銘じてしまわないと、「どうにもならぬ」という壁の前で右往左往し、愚痴に堕ちて人生を浪費します。
 行く手を塞ぐ壁を自分で作らぬためには、真理を信じ、教えに導かれて生きることです。
 正しい見解を持つとは、「正しく説かれた真理を信じる」ことであり、修行はこの「信」からしか始まらないとも言えましょう。

 また、日常生活にあっては、全体をきちんと捉え見通しを誤らない視点であり、ここが狂っていては、いかなる精進も実を結びません。

正思(ショウシ)
 これは、貪・瞋・癡に毒されず、勝手な思いこみや、自分に都合が良いだけの謀をせず、正しく思慮し、正しい意志を持つことです。
 つまらぬことにカッとなり、刃物を用意しようとすれば、その先には地獄が待つだけです。
 
 社会的な使命や責任を忘れ、ことの軽重や順番を間違えた事業計画などでは、成功できません。

正語(ショウゴ)
 これは、妄語・綺語・悪口・両舌を離れた言語活動です。
 思いやりのある言葉は、思いやりのない心からは生まれません。
 八正道は、どれ一つとして単独に実践することは不可能であり、八つの道は、正しく修行し正しく生きるという一本の道を八つの方面から説いたものです。
 
 ウソをついたり、和を壊したり、不愉快な思いをさせたり、傷つけたりするもの言いではなりません。

正業(ショウゴウ)
 これは、殺生・偸盗・邪淫を離れた行動です。
 無益な殺生をして平気な者、自分に与えられていないものを手にし、与えられた行や作務を行わなずに時間を浪費する者、セックスに走る者に行者としての資格はありません。
 ここまでの三つが、行者に課せられた身・口・意の正しい営みです。
 
 生きとし生けるものを慈しみ、他のものを盗まず、できることをもって施し、道徳感覚を忘れない性行動をしてこそ、まっとうな社会人です。
 
正命(ショウミョウ)
 これは、娑婆の営利活動で生きようとしないことです。
 また、規則正しい生活は修行に不可欠です。自分を律するためには、時間の配分を決めて、それに自分を従わせることができねばなりません。
 行者は、自分のいのちを確保する方法について、厳しく戒められています。
 
 日常生活にあっては、正業をなりわいとして生きることです。食べて寝て生きてゆく方法が誤っていては、虚構の人生になります。
 また、勉強にせよ、仕事にせよ、なすべきことに即した規則正しい生活をせねば、ものごとは成就しません。

正精進(ショウショウジン)
 これは、存在する悪は除き、まだ存在しない悪は生ぜしめず、まだ存在しない善は生ぜしめ、存在する善は増大させるための継続的な努力です。
 善悪の判断を伴わない正精進はあり得ず、行者には常にキッパリとした正邪善悪の判断が求められています。
 この判断を誤らなくなった悟りの境地を「無学(ムガク…学ぶ必要がなくなった)」といい、そこでは、もう、判断する必要すらないままに正しく生きられると説かれています。
 確かに、悟りを得た後の釈尊がロダンの「考える人」のようなポーズをとっている場面は想像できません。
 
 日常生活にあっては、喜ばしい結果をもたらそうとする正しい目的のための継続的な努力であり、目的が誤っていれば、それは怠慢以上に悪しき行為となります。

正念(ショウネン)
 仏法を志す者として必須の心構えなどをきちんと理解し、保ち、常に導きとすることです。
 これができていれば、破戒はあり得ません。
 
 日常生活にあっては、目的や仕事の手順などをしっかりと意識して保ち、失念や不注意などによる失敗をしないことです。
 これができていれば、公務員による汚職や、教育者による淫行などはあり得ません。
 
正定(ショウジョウ)
 これは、正しい方法による瞑想によって身心を健全に保つことです。
 瞑想は精神の錬磨になるだけでなく、肉体のはたらきにも大きな影響を及ぼします。
 正しく行って自己管理をせねば、修行をまっとうできません。
 最後の三つが、正しい修行態度です。
 
 日常生活にあっては、時に応じことに応じて精神統一をはかり、知恵を適切にはたらかせることです。
 
正しさのチェックポイント
①妄見(モウケン)を離れること。
 欲望・希望・先入見などに目隠しをされて、ものごとをあるがままに見なければ、その先に真実の生き方はありません。

②顛倒(テンドウ)を離れること。
 大小や美醜を見まちがえてはなりません。
「第一を第一なりとせよ」と説かれています。

③極端を離れること。
 快楽や苦行などの極端に走れば中正を失します。
「二つの極端を離れて中道に就く」ためには、深い思考も強い意志も必要です。思考停止や放逸は一見「楽な道」であっても、実際は「苦への道」です。
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