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2015
05.02

仏様へお酒を供えてもよいか ―仏道とお酒について―

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〈平成5年に建立された斎場の出窓〉

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〈ご寄進いただいた江戸切子〉

 よくあるご質問の一つが、「故人はおが好きだったのですが、お供えしていいでしょうか?」というものです。
 お大師様は、おは適切に用いれば薬になるが、仏道修行においては災いの元であると戒めておられます。

1 瞑想修行のこと

 飲して瞑想することを想像すれば仏道修行上の害は明らかです。
 好き放題をしたい日常生活的欲望によって覆い隠されている〈み仏の心〉を求めて修行する際、好き放題という姿勢は許されません。
 また、我(ガ)に覆い隠されている〈み仏の智慧〉を求めての修行と、我(ガ)を膨らませる飲は両立しません。
 また、注意深く意識を制御して深層へ下りて行く瞑想と、制御を取り外す飲は両立しません。

2 戒めのこと

 戒律の基本は10の『十善戒』ですが、それを縮めた『五戒』の5番目に「不飲(フオンジュ)」があります。
 これは、酒を飲むことによって、『十善戒』の5番目以下が成り立たなくなるからであるとされています。
 すなわち、飾り言葉を語ったり、粗暴な言葉づかいになったり、二枚舌を使ったり、いろいろな欲望が膨らんだり、怒ったり怨んだり、道理でない勝手な考えを持ったりいsがちだからです。

3 持斎のこと

 身を慎み心を神妙に保つ持斎は、死者を前にして自然に起こるふるまいです。
 慎む服装で感謝と告別の葬儀を行い、あるいは参加します。
 その後も自分なりに一定期間、歌舞音曲を控え、歓楽を慎みます。
 こうした中に、飲酒への慎みも生じるのは当然です。
 だから、最高の礼をもって死者をお送りするご葬儀にからみ、僧侶が好き放題に飲酒するなどということは、あってはならないと考えています。

4 その他

 現代の日本仏教に対してよく言われる批判に、妻帯と飲酒があります。
 特に小乗仏教の立場、あるいは原始仏教崇拝者から「堕落している」と責められる場合もあります。
 しかし、今のやり方で生き、実践している一行者としては、娑婆で暮らす方々と同じ体験をしてようやく根本的な〈苦〉がつかめ、皆さんと共にその克服を目指せるようになったという実感があります。
 また、結婚して家庭を持ち子供を育て、生活を維持し、地域住民の一人して生きるという娑婆的生活の中にあってなお、出家者としての基本姿勢を保つことは、そう簡単でなく、時として引き裂かれそうになる葛藤こそが、ピュアな行者としての資格を試す最も大きな修行となったりもします。
 そして、それらを秘めたまま袈裟衣を着けて人生相談に応じ、出家者でありながら皆さんと共に涙し、笑い、苦の克服に当たるところに大乗仏教の行者たる資格があると考えてもいます。
 飲酒もそうした感覚の中で自分なりにコントロールするしかありません。

 上記のとおりなので、当然、特殊な修行において飲酒することはなく、アルコールの入った状態での修法はあり得ません。
 また小生は、お通夜であれ法要後であれ、持斎の時期にあって飲酒することもありません。
 かつて、懺悔と自らへの懲罰として禁酒した時期もありましたが、現在は、法務に耐える心身の健康を維持するため、行者として必要不可欠な懇親を深めるため、以上の二つに限って自分へ許しています。

5 結び

 清らかな世界へ旅立った御霊のため、あるいは仏神への尊崇を表すためにお酒を備えるのは可です。
 故人の好きだったものを供えることによって喜んでもらい、供養する気持を届けたいという心延(バ)えは美しく、なんぴとたりとも否定できはしません。
 また、仏神に感謝し、お喜びいただき、救済の威力が増すようにと願い、祝いにおける伝統的捧げものであるお酒を供えるという素朴な感覚も、時代を超えた清らかなものです。
 こうした問題には柔軟に、かつ本筋を曲げず、智慧をはたらかせて対応したいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2005
07.18

現れた菩薩様

 梅雨を忘れさせる好天の下、四十九日の法要で本堂をぎっしりに埋めた人々が『法楽の苑』へ列をなして歩き、納骨を行ないました。
 もうウグイスは去り、セミに主役が移って三日目です。
 お骨をずっとそばへ置かれた奥さんは寂しそうであり、いくらか安心もされたかに見えましたが、いずれ、できごとが心の底で安定し異物でなくなるまでは、モノがゆっくりと水中を沈むような時の経過が必要です。

 仙台からわざわざ足を運ぶ人も多い知る人ぞ知る名店『新ばし』で横に座ったご遺族は、淡々と亡きTさんの話をされました。
「さっき、お墓へ甘いものをたくさんお供えされましたね。好物だったんですか?」とお尋ねしたところ、予想もしない答が返りました。
 甘いものが好きだっただけでなく、お酒も大好きだったそうです。
 しかし、あれば食べ、飲む方ではありませんでした。
 お菓子をいただいても、子供が食べないうちは絶対に食べなかったそうです。
 子供や奥さんの満足を優先していたのです。
 それだけではありません。
 持病のあったご長男は、大きくなって体調が安定するまでは、父親が家で酒を口にするところを見たことがありませんでした。
 年に数回とはいえ、いつ突然発作が起こるか分らないので、すぐに病院へ連れて行けるよう酒を我慢していたのです。
 娑婆にいた頃、日々成長する子供は妻と両親へ任せ、仕事を口実に遊び歩いていた私は頭を殴られたような衝撃を受けました。

『父母恩重経』に、こういう一節があります。

「父親も母親も、他所でおいしいものを前にすれば、自分で食べるに忍びず、懐へ入れて持ち帰り、子供を呼んで与えるものである」


 ありがたいけれども心のどこかで当り前と感じながら読誦し、罪深い自分でもそんなことをいくらかはやっていたつもりでしたが、経典の説く世界は次元が違っていました。
 その真実を、菩薩として生きた方の魂を通じて、たった今教えていただきました。

「髪が白くなったからといって真理が解ったわけではないぞ。
 愚かなままでは一体何のための人生か!」

と鋭く問う『法句経』の経文が頭の中でくり返されています。
 何たる60年だったのか………。

 Tさんは、時折、お子さんと一緒に泣いたそうです。
 子供が辛い気持になっていると黙って話を聞き、いつも涙ぐみました。
 8人ものお孫さんが同席していましたが、その若い父母は全員、Tさんと同じ姿勢で子育てをしているとのことです。

 他の人の苦しみも喜びも我がこととして全身全霊で受け止めるのが慈悲の根本であり、菩薩はそこから行動を起こされます。
 何者にも姿を変えて人々を救うと経典で誓っておられる菩薩様は、一職人Tさんとしてこの世に現れたのだろうと確信しています。




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