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2013
12.21

お釈迦様は説かれました「ただの信仰心で私の教えに従うのはやめなさい」

20131220DSC_0016.jpg
〈『みやぎ四国八十八か所巡り道場』第十四番の弥勒菩薩様〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○「私の教えを信じるな」という釈尊

「科学と宗教は相容れないものであるという考え方は根強いものです。
 実際、私が科学者と会議を行っていることを知ると、
『気をつけてください。
 科学はあらゆる宗教を殺してしまう。
 まさに悪魔の呪文です』
と警告してきた友人がいました。
 また、科学者の方との話し合いではよく『対話』という言葉が使われます。
 しかしこの言葉には、両者の立場や存在が対立しているという前提や先入観が含まれているように思います。」


 法王は、対話という言葉にすら注意しておられます。
 確かに「対」は「対立」や「対決」というふうに用いられ、面と向かっている状態です。
 また「一対」となれば、独立したものとして横に並んでいる状態です。
 溶け合うという面は感じられません。
 法王は、真摯な話し合いは同じく真理を求める者同士として行う共同作業であり、「対」という感覚ではどうかと警鐘を鳴らされました。 

「実際はその逆です。
 仏教徒科学は驚くほどよく似ています。
 現象を調べ、法則を発見し、存在を確かめ、真実を探ろうとする。
 目指している方向も姿勢も同じなのです。」


 道がわからず20年近く彷徨ったあげく、私が仏教の道へ入れたのは、み仏が待っていてくださったという実感が強い一方で、それもまたみ仏の采配であるとしても、かけがえのない師と巡り合わせていただいたことが決定的な要因の一つでした。
 信じて白衣をまとい、入門したての弟子へ師は言われました。
「仏教は仮説ですよ」
 さまざまな寺院の門を叩き、他の大学の講義へもでかけ、どうしても「これだ」と思えずに手探りを続け、それでも無一文になった結果、どうにかたどりついたところでお与えいただいたこのひと言は、あまりにも決定的でした。
 ご本尊様のご加護を信じ、仏法の正しさと力を信じ、師の分析力・判断力・法力を信じて裸になった者へ、説いてあるのは「仮説です」と言い切る師の真剣な求道の姿勢は奇跡とも思えました。
 ご自身が、単なる信仰者ではなく、求道者であり探求者であるからこそ、弟子へ最初に念を押されたのでした。
 言葉を代えればこうなるのではないでしょうか。
「ただ、信じるだけではいけません。
 真理は自分でつかみなさい」

「仏教と科学と近しい理由は、釈尊の教えにも見られます。
 釈尊は全ての弟子たちを前にして、『ただの信仰心で私の教えに従うのはやめなさい。はじめから私の教えを信じこむのではなく、私の教えが正しいかどうかを自分で調べて解き明かしなさい』と語り、盲目的な信仰を戒めています。」

「さらに
『ある金属が純金かどうか調べるにはどうしますか。
 叩いたり、こすったり、いろんな手段を使って調べるでしょう。
 私の教えも同じです。
 本当に価値がある正しいものかどうかは調べなくてはわからない』
というたとえを使い、もし結果として論理的な矛盾や根拠の欠如がわかれば
『私の教えを受け入れてはいけない』
と説いています。
 まさにこれは科学的な姿勢といえるでしょう。
釈尊は科学者だ』という人がいるぐらいですし、私もこの意見には同感です。
 この姿勢は、釈尊だけでなく、他の多くの僧侶にも受け継がれています。
 結局釈尊は、検証と修行の方法論を示してくださった先生に過ぎないのです。」


 仏教が生きものであり、時代と共に変化し、場所に合わせて変化し、だからこそ、いつの時代もいかなる文化圏においても、救いとなり得てきたのは〈調べられる〉ことを厭わず、〈納得〉をもって活かされてきたからです。
 相手が科学であれ、芸術であれ、社会学であれ、心理学であれ、どこの分野から観ても真実と認められればこそ、鋼鉄の棒のように他をはねつけるのではなく、おいしく、ありがたく、嬉しく味わっていただき、心身を潤し、力づけるものとして受け継がれてきたのです。

「ともすれば私たちは見かけに騙され、真実を見誤りがちです。
 それは宗教者も科学者も同じこと。
 それが真実だと思い込み、満足してしまうのです。
 そうではなく、常に真実は何かということを考え続けることが大切です。」


 私たちは、ともすれば、見かけに騙されます。
 いかにもそれらしくお告げや絶対的真理を掲げ、信者を増やしている教団を大きいから、あるいは有名だから、信じてはいないでしょうか?
 信じるのが安心の道とは限りません。
 絡め取られる蜘蛛の巣や、這い上がれない蟻地獄につかまろうとしているのかも知れません。
 信じられそうだなと思ったなら、一度立ち止まり、盲信や狂信へと導く危険性がないかどうか、よく観る必要があります。
 教祖や教団は〈自力をつけ、独りで立ち、広い視野を持って健全に歩ける〉ような方向へ導こうとしていますか?
 それとも、思考停止や、単なる没入や、有無を言わせぬ信心へと導こうとしていますか?

「もちろん、たくさんの知識を学んで知性を高め、誤解や思い込みを取り除かなくては正しい検証はできません。
 また、それまで自分が信じてきた常識と違う説を唱えられても、それを一度は受け入れてみることが大切です。
 自分と異なる意見を持つ他人の話にも、まずは素直に耳を傾けてみるのです。」

「実際、科学的な見解と仏教の教えが異なることはしばしばあります。
 しかし、だからといって宗教は科学を忌避してはいけませんし、また逆に科学者も科学が最も正しいと盲信してはいけません。」


 私たちは、何のために仏法へ近づこうとしているのでしょうか。
 真理を知りたい、真実をつかみたい、というだけでなく、もっと具体的、現実的な苦から逃れたいケースの方が断然多いはずです。
 そうした〈藁にもすがりたい〉時は、心の間口が広く開いているものです。
 焦る眼にさまざまな藁が見えたり、ふと、眼前にぶら下がったりします。
 そこでこそ、疑ってみましょう。
 きっと、すがるべき藁はなかなか見つからないはずです。
 ここで、いい加減なものに手を伸ばせば危険です。
 見つからない苦しみから安易に逃れようとせず、本ものを探しましょう。
 その時、ようやく気づくかも知れません。
 〝──ああ、自分は何と愚かなのか……〟
 そして、自分を超えた何ものかへ、得も言われぬ次元としての仏神へ額づく気持になるかも知れません。
 このように、自分の根本的な愚かさに気づき、いつしか清浄な気持になれば、み仏は必ず手を差し伸べてくださるものです。

「私も、仏教の旧い経典を大切にするのと同時に、科学にある現代的で公平な視点を持つようにも気をつけています。
 そして、たとえ経典の内容に反するような科学的見解でも、自分で検証した結果、一切の矛盾がないということが実感できれば、それを受け入れなくてはいけないと思っているのです。
 それを拒絶するようなことは決してしたくありません。
 私自身、仏教の教えをぜひ信ずるべきだとは決して言いません。
 また、仏教の教えが正しいとも言わない。
 それはあくまであなたが確かめ評価することです。」


 お釈迦様は、真理を求め、真実に生きようとされました。
 その姿勢の前では、あらゆる理論も教えも、自分の脳裏に浮かんだ真理もすべてはまず、〈仮説〉として縁になります。
 それらの中から、「検証」され、「矛盾がない」と確信されたものにしか人生をかけられないのはあまりにも当然です。
 そうでなければ欺瞞の人生を送ることになり、それは自分の本心ではないはずです。
 本当に信じられるものを見つけ、それに懸け、自分なりの真実に生きるようにしたいものです。
 私たちの本心はここにあり、生きがいもまた、ここにしかないはずです。
 密教が、覚りを求める「菩提心(ボダイシン)」と並んで最重要な心がけとして説く「勝義心(ショウギシン)」とはこうした心構えです。
 柔軟な心で、偽りなく生きようではありませんか。





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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2012
02.16

悪党への四つの思いやり ─『四十二章経』第五章─

 中国へ伝わった最初の仏典とされる『四十二章経』は悪党菩薩(ボサツ)のやりとりを示しています。

「仏の言(ノタマ)わく、
『人愚(オロカ)にも以(モッ)て吾に不善を為すも、吾は四等(シトウ)の慈を以(モッ)て、之(コレ)を護済(ゴサイ)せん。
 重ねて悪を以(モッ)て来(キタ)らば、吾重ねて善を以(モッ)て往(ユ)かん。
 福徳の気は常に此(ココ)に在(ア)り、害気の重殃(ジュウオウ)は、反(カエ)って彼(カシコ)に在(ア)り』」


 もしも誰かが悪しきことをしかけてきても、自分は同じように反応はせず、慈悲の心で愚かな相手を救おうとします。
 釈尊は、罵(ノノシ)られたから罵り返すのではなく、悪口(アック)という悪行が口にする本人へ災厄をもたらすことを知らない愚かさ、哀れさを何とかしてあげたいと心から願われます。
 しかも、もしもこちらの気持が通じなくて、さらに攻撃してきたならば、こちらもざらに善い心を発揮して対応しようとされます。
「四等の慈」とは、四等心の別名を持つ「四無量心(シムリョウシン)」です。

1 慈無量心(ジムリョウシン)
 与楽(ヨラク)と言い、生きとし生けるもの一切へ「良かれ」と願う心です。
 この心になるためには、生きとし生けるものは皆、如来蔵という成仏の核を持っていることを観なければなりません。
 成仏し得る一切のものたちと共に、光明の世界をめざすのです。
2 悲無量心(ヒムリョウシン)
 抜苦(バック)と言い、生きとし生けるもの一切が「苦から解放されるように」と願う心です。
 この心になるためには、皆が成仏の核を持っていることを知らず、苦の海であえぐ実態をきちんと観なければなりません。
 同胞の苦は見捨てておけないのです。
3 喜無量心(キムリョウシン)
 不害(フガイ)と言い、生きとし生けるもの一切の「輝き」を喜ぶ心です。
 この心になるためには、皆の本体が蓮華のように清浄であることを観て、そうした何ものへ対しても苦を与えることのできない心にならねばなりません。
4 捨無量心(シャムリョウシン)
 平等と言い、生きとし生けるもの一切へわけへだてなく慈無量心、悲無量心、喜無量心を起こす心です。
 この心になるためには、一切の本来的ありようが空(クウ)であることを観なければなりません。

 釈尊は、悪意や害意を持って向かってくる相手に対しても例外とせず、この四つの心をもって救おうとされます。
 そして決定的な言葉が来ます。
福徳をもたらす目に見えないパワーはいつも慈悲の心の周囲にある。
 災いをもたらす眼に見えないパワーはその反対に、害意を持つ者の周囲に集まり積もる」

 とても難しいことではありますが、相手の害意によってこちらの煩悩が反応しないよう心がけたいものです。

2012021601722.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2012
01.25

幸せを壊すものに克つ ─死を克服する道(その3)─

 ある時、釈尊は、神々、帝王、人民、そして出家在家の弟子たちのために法を説かれました。
 そこに老いた7人のバラモン行者がやってきて弟子入りを求めたので、7人を一緒に住まわせて修行させたところ、すぐに悟ったかのような気になり、ただ、世俗的なことがらにかまけて談笑しているだけです。
 釈尊は、「世間が頼りとする儚いもの」を示しました。

1 若さ。
2 美しい容貌。
3 強い活力。
4 豊かな財産。
5 良い家柄。


 そして、真実を突きつけます。

○何を喜び、何を笑っているのか。いのちはたえず燃えている。しかし、深く暗冥に覆われているのだから、悟りの灯火を求めねばならない。
「何をか喜び、何をか笑う。命、常に熾燃(シネン)なり。深く幽冥(ユウミョウ)に蔽(オオ)わるれば、錠(ジョウ)を求むるに如(シ)かず」(老耄品)

○身体の形だけを見て頼りとし、安心しているうちに、想念が多くて病気に罹ったりする。身体が人間にとって真実ではないことを知らない。
「身の形範(ケイハン)を見て、倚(ヨ)りて以(モッ)て安(ヤス)きと為(ナ)さば、多想(タソウ)にして病(ヤマ)いを致すに、豈(ア)に真に非(アラ)ずと知らん」(老耄品)

○身体が死んで、はあの世へ行くのは、御者が車をうち捨てるようなものである。肉体が消え骨が散り散りになってしまうのであれば、身体はどうして頼りとなろうか。
「身(ミ)死に、神(タマシイ)徙(オモム)くこと、御者(ギョシャ)の車を棄つるが如(ゴト)し、肉消え骨散(サン)ず、身(ミ)何ぞ怙(タノ)む可(ベ)きや」(老耄品)

○身体をあたかも城であるとでもかんちがいしているが、骨を幹として肉を泥のように貼り付けただけではないか。生まれてから老いテ死ぬまで、怒りと慢心を蓄えているだけではないか。
「身(ミ)を城の如(ゴト)しと為(ナ)すに、骨は幹にして肉は塗なり。生まれて老死に至るまで、但(タ)だ恚(イカ)りと慢とを蔵す」(老耄品)

 出家したにもかかわらず、しかも老いたにもかかわらず、いつまでも儚いものを主人公とした世界世間のことごとに関心を奪われていたバラモン行者たちは、我と我が身のありさまに気づかされ、心は儚いものから解放されて悟りを得ました。

 ある時、500人の若いバラモン行者たちに招かれた釈尊は、座り、手を洗い、食事をし、手を洗いました。
 そこで、昔は富も権力もあった夫婦の行者が落ちぶれ、行者となって物乞いに歩いているのを目にしました。
 釈尊は、若いバラモン行者たちへ、「行えば福徳が得られるのに、なかなか行えないもの」を説きました。
 気の毒な老夫婦はそれを実践できなかったので、厳しい老後を生きねばならなくなったのです。

1 若く、活力があっても、驕り高ぶってはならない。
2 老いたならば、精進し、淫らなものに近づいてはならない。
3 財宝があれば、いつも布施を心がけねばならない。
4 正しい師から正しいものを学ばねばならない。


○清浄な修行を行うでもなく、財物を蓄えもしなければ、老いた白鷺が餌のない池を守り、水中を覗くように空しい境遇となる。
「梵行(ボンギョウ)を修せず、又(マ)た財を富まさずんば、老いたる白鷺(ハクロ)の、空池(クウチ)を守り伺(ウカガ)うが如(ゴト)し」(老耄品)

○今まで戒めを守らず、蓄財も行わないで生きてくれば、老いて気力が尽き果ててからいくら昔を懐かしんだとて、どうにもならない。
「既に戒を守らず、又(マ)た財を積まざれば、老羸(ロウルイ)し気(キ)竭(ツ)き、故(イニシエ)を思うも何ぞ逮(オヨ)ばん」(老耄品)

○老いて秋の落ち葉のようになり、行いはぼろ切れのように穢れている。いのちが速やかに抜け出して去って行けば、もはや後悔の余地はない。
「老ゆること秋の葉の如(ゴト)く、行いは穢れ、襤縷(ランル)なり、命(イノチ)疾(ハヤ)く脱至(ダッシ)せば、後悔を用いず」(老耄品)

 言葉を失った若いバラモン行者たちへ、釈尊は「正しい人の道を歩み、真の福徳を得て、苦から救われる4つの時期」を指摘しました。

1 若くて勢いのある時期。
2 地位も財産もある時期。
3 仏法僧という福田(フクデン…実りをもたらす田のように福徳を与えるもの)に出会う時。
4 万物が散り果てる様子を考える時期。


 つまり、いつでもその道は歩み始められるのですが、若い時期には勢いが、地位や財産に恵まれればその力が、せっかく仏法僧に会ってもその価値に気づかない心が、そして老いれば気弱さが邪魔をするのです。
 ならば、たった今、邪魔ものを取り除いて歩み始めるしかありません。
 煩悩につきまとわれている私たちにとって邪魔ものが自然に消える時期はなく、待っていても、無意味です。

寿命は日夜に減り、いつ尽きるともわからないので、しかるべき時に精進すべきである。世間のことごとは明らかに非常であり、惑って暗黒へ堕ちてはならない。
「命は日夜に尽きんと欲(ス)れば、時に及んで懃力(キンリキ)す可(ベ)し。世間は諦(アキ)らかに非常なれば、惑うて冥中(メイチュウ)に堕すること莫(ナ)かれ」(老耄品)

○学んで心の灯火を燃やし、自ら鍛錬して智慧を求めねばならない。煩悩の垢を離れ、染められぬようにせよ。心の灯火をもって、悟りの世界を観よ。
「当(マサ)に学びて意(ココロ)の灯(トモシビ)を燃やし、自(ミズカ)ら練りて智慧を求むべし。垢(ク)を離れて染汚(ゼンマ)すること勿(ナ)かれ。燭(トモシビ)を執(ト)りて道地(ドウチ)を観ぜよ」(老耄品)

 釈尊はこう説き、大光明を放って天地を輝かせました。
 若いバラモン行者たちは心から帰依して悟りを開き、村人たちも皆、悟りを得て歓喜しました。

〈四国八十八霊場雲辺寺のラカン像:「四国名刹」よりお借りして加工しました〉
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2012
01.24

幸せを壊すものに克つ ─死を克服する道(その2)─

 ここでは、釈尊老いとをどう説かれたか。『法句経』における老いの様相を考えてみましょう。

○川が速やかに流れ、過ぎゆく水は決して戻らないように、人のいのちもまた同じく、逝った者は二度とこの世へ帰ってはこない。
「河の駛(ハヤ)く流れて、往(ユ)きて返(カエ)らざるが如(ゴト)く、人命(ニンミョウ)も是(カク)の如(ゴト)し。逝(ユ)きし者は還(カエ)らず」(無常品)

○たちまちに老いがやってくれば、容色は衰え、頭脳も明晰さを失う。若き日には万事、意のままになると思って生きていても、老いれば邪魔にされるだけである。
「咄嗟(トッサ)に老(ロウ)至れば、色(シキ)変じて耄(モウ)と作(ナ)る。少(ワカ)き時は意(ココロ)の如くなるも、老(オ)ゆれば蹈藉(トウセキ)せらる」(無常品)

老いると共に容色は衰え、病気に健康は破壊され、肉体は敗れて腐りゆく。いのちが終わるのは当然の成り行きである。
「老(オ)ゆれば則(スナワ)ち色(シキ)衰え、病(ヤマイ)に自(オノ)づから壊され、形(カタチ)敗れ腐朽(フキュウ)す。命終(オ)わること自然(ジネン)なり」(無常品)

○この身は何の役に立とうか。いつも汚物を漏らし悪臭を放つ場所ではないか。病気に苦しめられ、老いの憂いの元ではないか。
「是(コ)の身は何の用(ヨウ)ぞ、恒(ツネ)に漏れ臭き処(トコロ)なり、病(ヤマイ)の為(タメ)に困しめられ、老(ロウシ)の患(ウレ)い有り。(無常品)

欲望を恣(ホシイママ)にしているうちに真理からどんどん離れる。有為転変の理を示すことごとに学ばない。寿命は常にあるものではないのに。
「欲を嗜(タシナ)み自(ミズカ)ら恣(ホシイママ)なれば、非法(ヒホウ)是(コ)れ増す。変を見聞(ケンモン)せず、壽命は無常なるに」(無常品)

○子供がいても頼りにならないし、父や兄も同じである。が迫れば、肉親の誰であれ、から逃れるために頼りになるものではない。
〔一七〕
「子(コ)有るも恃(タノ)むところに非(アラ)ず、亦(マ)た父も兄も非(アラ)ず。死の為に迫(セマ)らるれば、親(シン)も怙(タノ)む可(ベ)きこと無し」(無常品)

○一日中怠惰に過ごし、老いてもセックスに耽り、財物を布施せず、仏法を学ばない。この4つの態度は人生を壊し、自分で欺瞞の生き方を選び取ることになる。
「昼夜に慢惰(マンダ)にして、老ゆるも婬を止(ヤ)めず、財(ザイ)有るも施さず、仏言(ブツゴン)を受けず、此(コ)の四弊(シヘイ)有(ア)らば、自(ミズカ)ら侵欺(シンギ)を為(ナ)す」(無常品)

○この成り行きをよく理解して自ら煩悩を静め、このようにして生が尽き果てるありさまを見極めて、行者は魔ものの軍勢を押さえ、生まれてから死ぬまでの迷いを脱する。
「此(コ)れを知りて能(ヨ)く自ら静め、是(カク)の如(ゴト)く生の尽(ツ)くるを見て、比丘(ビク)は魔兵(マヒョウ)を厭(イト)いて、生死(ショウジ)より度するを得(ウ)」(無常品)

 無常は感情や気分だけの問題ではなく、実に過酷で厳粛な理です。
 誰もここから逃げられません。
 知らぬふりをしているうちにも無常の川に流されており、ある日、泳げない自分に気づき、愕然とさせられます。
 釈尊は無自覚な生き方を厳しく指摘します。

 仏法はいのちを尊びますが、ただダラダラといのちを保つことを価値としてはいません。
 大切なのは〈いかに生きるか〉であり、生き方そのものです。
 逃れられない死を克服するには、まず、人は死ぬ生きものであり、死は一瞬後に訪れても当然であるという理を〈我がこと〉ととらえねばなりません。
 そこから、あるべき生き方が見えてくるはずです。

○もし、人が百才まで生きても、邪(ヨコシマ)なものを学び不善な方向をめざして生きるならば、たった一日、精進して正しい教えを学ぶことに及ばない。
「若(モ)し人(ヒト)寿(イノチ)百歳ならんも、邪(ヨコシマ)に学びて不善を志(ココロザ)さば、生(セイ)一日にして、精進(ショウジン)して正法(ショウボウ)を受(ウ)くるに如(シ)かず」(教学品)

○戒めにそった生き方は老いても心を安んじ、戒めはいつも善き安らぎを与える。智慧を人間にとっての宝ものとして生きるならば、生じる福徳は何者にも奪われない。
「戒は老いに終わるも安(ヤス)く、戒は善(ヨ)く安らかに止(トド)まらん。慧(エ)を人の宝と為(ナ)し、福は盗びとにも取られず」(誡慎品)

○この世に身体があるのは短期間であり、身体は皆、土へ還る。形ある身体が壊れ魂が去ってしまえば、どうしてこの世を当てにして住み、一体何を貪れようか。
「身(シン)有るも久しからず、皆な当(マサ)に土に帰すべし。形壊れ神(タマシイ)去らば、寄住(キジュウ)して何ぞ貪らん」(心意品)

○身体が病気になれば、いのちのはたらきが萎んでしまうのは、華がくたびれて落ちるのと同じである。生きるか死ぬかの瀬戸際がたちまちにやってくるのは、水が早瀬を過ぎる時のように早いのである。
「身(ミ)病(ヤ)めば則(スナワ)ち萎(シボ)むこと、華の零落(レイラク)するが若(ゴト)し。死命(シミョウ)の来至(ライシ)すること、水の湍(ハヤセ)に驟(ハヤ)きが如(ゴト)し」(華香品)

○もし、人が百才まで生きても、甘露のように素晴らしい教えを知らなければ、たった一日、甘露のような教えを受けて実践することに及ばない。
「若(モ)し人(ヒト)寿(イノチ)百歳ならんも、甘露(カンロ)の道(ドウ)を見ずんば、生(セイ)一日にして、甘露(カンロ)の味を服行(フクギョウ)するに如(シ)かず」(述千品)

〈仏木寺の釈迦如来像:『四国名刹』からお借りしました〉
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2012
01.20

幸せとは何か ─『法句経』の説く吉祥(その1)─

 当山は、皆さんと共に「この世の幸せとあの世の安心」を得たいと願って開山しました。
 では、幸せとは何でしょうか?
 何があれば幸せなのか?
 何がなければ幸せなのか?

 若い方ならば、欲しいものはまず財物や自分に合った職業、あるいは伴侶や子供といったところでしょうか。
 年配の方ならば、まず健康、そして財物でしょうか。
 両方に共通するものとしては家族や友人や生き甲斐ではないでしょうか。

 幸せを邪魔するものとしては、貧乏・病気・争い・孤独・生き甲斐のなさ、などが挙げられそうです。

 では、仏法の説く恵まれた幸せな人生とは何か?
 原始経典ともいわれる『法句経(ホックキョウ)』の最終章「吉祥品(キチジョウボン)第三十九」に学びましょう。

 釈尊がおられた当時インドで盛んだったバラモン教の長老は、弟子たちから質問を受けました。
「私たちは長期間、修行し、学ぶべきことに精通しましたが、いろいろな国の人々によって何がめでたいと喜ばれているのかを知りません。
 この世でめでたいものとは何でしょうか?」
 長老は答えます。
「よくぞ訊ねた。
 いろいろな国には、それぞれにめでたいものがあるとされている。
 ある所では金、あるところでは銀、あるいは、水晶、瑠璃、名月のような真珠、象や馬や車、美女、珊瑚、ホラ貝、歌舞、鳳凰、孔雀、日月、星、貴重な瓶、各種の蓮華。
 弟子たちよ、これらが瑞祥として皆に喜ばれているものであり、これらを目にすることができれば最高なのだ」
 弟子たちはさらに訊ねます。
「もっと特別にめでたく、有益で、死後は天上界へ導くものがあるのではないでしょうか?」
 長老は当惑します。
「代々、これ以上のものがあるとは伝えられていない。
 記録もない」
 そこで弟子たちは相談します。
「釈迦族で修行の結果、悟りを開き、悪魔を降服させ、最高の智慧を獲得した者があると聞いている。
 師匠には及ぶまいが、ためしに訪ねてみよう」
 釈尊のおそばへ行き、礼拝して質問しました。
「いろいろな国で人々の好むものは金や銀などさまざまあります。
 さらにこれらに勝るものはありましょうか?」
 釈尊は答えました。

「お前たちが論じているのは俗世間の事柄だけである。
 それに従えば幸いとなり、逆らえば禍となる。
 しかし、それらは人々の魂を救い、苦しみを克服させはしない。
 私が如来から聞いためでたい真理を実践すれば、幸せになって永遠に迷いの世界を離れ、自ら絶対の安寧を得られる」


 そして、詩の形で真理を説かれました。

〈雪原をキラキラと埋め尽くす小さな星たち〉
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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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