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2016
11.14

「霜月の空也は骨に生きにける」

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〈四国霊場の花〉

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 四国霊場の49番札所浄土寺に、正岡子規の句碑がある。
 空也上人(クウヤショウニン)を詠んだものだ。

霜月空也は骨に生きにける」


 霜月と呼ばれる11月は1年で最も印象の薄い月かも知れない。
 秋の収穫や祭や観光が終わり、人々の心は年末と新年へ向かい、足元の時間は薄く不安を忍ばせた様相で、ただ忙しく過ぎて行く。
 もの皆、枯れ果て、変わらぬ存在感を持っているのはカラスぐらいのものだ。
 だから、子規はこうも詠んだ。

霜月や石の鳥居に鳴く鴉」


 人々が寒さに縮こまり、どこへ行っても暖を求める季節。
 寒風に立つ石の鳥居は、眺めるだけで冷たさがリアルに想像され、誰一人触れたいとは思わないだろう。
 しかし、真っ黒いカラスだけは平然と止まってあたりを睥睨(ヘイゲイ)し、いつに変わらぬ声で鳴いている。
 その存在の濃さに、子規は恐怖を覚えたのではなかろうか。

 さて、冒頭の句である。
 平安時代、阿弥陀聖(アミダヒジリ)と称された空也上人は鉦(ショウ…小さなカネ)などを叩き、ただただ、南無阿弥陀仏を唱えながら踊り、全国を行脚した。
 途中で寺院を建立したり、橋をかけたりするなど、社会事業も行った。
 京都の六波羅蜜寺(ロクハラミツジ)にある有名な像では、口から出る6つの文字がそのまま小さい6体の仏像に結晶している。
 身体は極限まで枯れようと、念仏は息のある限り続く。
 その思いは骨になっても消えない。
 霜が降り、いきものたちの活動が細って行く11月こそ、遺された上人の思いが際立つ。

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 醍醐天皇の第二皇子という出生にもかかわらず、仏道修行と人々の救済に一生を捧げた上人の痩せた姿は、お釈迦様の修業時代を想像した有名なお像に結びつく。
 3~4世紀にガンダーラで作られたとされるお像は、鋳造や石造となり世界中で拝まれ、当山の境内地にも鎮座しておられる。
 印象の薄い霜月といえども、時はいつもと同じく流れている。
 こうした時期にこそ、子規のように立ち止まり、寒風にも消えず、歴史の波にも消えなかった心の灯火に想いを馳せてみたい。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2016
11.04

漢文『法句経』を読んでみる(その10) ─戒めに生きる真の安心とは?─

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〈仙北の町で赤信号の数十秒〉

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〈護摩堂・修行道場〉

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〈完璧なプロの仕事ぶり〉

 今回は『法句経(ホックキョウ)』の「戒慎品(カイシンボン)第五」を意訳してみましょう。
 実際に唱えることができるよう、すべてルビをふりました。
 幾度も唱えているうちに、お釈迦様の思いが身近なものになることでしょう。

○戒慎品(カイシンボン)とは、善道(ゼンドウ)を授与(ジュヨ)し、邪非(ジャヒ)を禁制(キンセイ)し、後(ノチ)に悔(ク)ゆる所(トコロ)無(ナ)きなり。


戒め慎みの一章では、善き道を与え、邪で非道な道へ行かせず、後から悔いるところのない生き方へと導く)

〔八八〕人(ヒト)にして常(ツネ)に清(キヨ)く、律(リツ)を奉(ホウ)じて終(オ)わりに至(イタ)り、善行(ゼンギョウ)を浄修(ジョウシュウ)せば、是(カク)の如(ゴト)くして戒(カイ)成(ジョウ)ず。


(常に身口意を清め、教団の決めごとを徹底的に守り、善き行いを清らかに修めるならば、人としての戒めが自然に成就する生き方になる)

〔八九〕慧(エ)ある人(ヒト)は戒(カイ)を護(マモ)り、福(フク)を三(ミッ)つの宝(タカラ)に致(イタ)す。名聞(メイブン)と、利(リ)を得(エ)ること、後(ノチ)に天(テン)に上(ノボ)りて楽(タノ)しむことなり。


智慧ある人は戒めを守り、幸福を三つの宝ものとして得る。名声と、財物と、死後に天界へ上っての楽しみである)

〔九〇〕常(ツネ)に法処(ホッショ)を見(ミ)、戒(カイ)を護(マモ)るを明(アキ)らかと為(ナ)す。真(シン)の見(ケン)を成(ジョウ)ずることを得(エ)ば、輩中(ハイチュウ)の吉祥(キッショウ)たらん。
(常に、因果応報の成り行きで幸福が得られる道筋を見分け、戒めを守るのが智慧ある賢者である。賢者がこの理を理解すれば、この世の人々の中にあって吉祥の生活となる)

〔九一〕持戒者(ジカイシャ)は安(ヤス)く、身(シン)をして悩(ナヤ)み無(ナ)からしむ。夜(ヨル)臥(フ)せては恬淡(テンタン)にして、寤(サ)めては則(スナワ)ち常(ツネ)に歓(ヨロコ)ぶ。


戒めを保つ者の心は安寧で、身体のはたらきに悩まされもしない。寝所では、心に引っかかりがなく眠りへ入り、朝に目覚めては嬉しい気持になる)

〔九二〕戒(カイ)と布施(フセ)を修(シュウ)し、福(フク)を作(ナ)せば福(フク)と為(ナ)る。是(コ)こより彼(カシ)こに適(ユ)きて、常(ツネ)に安処(アンショ)に到(イタ)る。


戒めを守り、布施に勤み、功徳が積まれれば、福徳に恵まれる。この世でも、あの世でも、安寧がもたらされる。

〔九三〕何(ナン)ぞ終(オ)わりに善(ヨ)しと為(ナ)し、何(ナン)ぞ善(ヨ)く安(ヤス)らかに止(トド)まり、何(ナン)ぞ人(ヒト)の宝(タカラ)と為(ナ)し、何(ナン)ぞ盗(ヌス)びとも取(ト)らざる。


(どうすれば、人生の終わりに善き日々であったと満足でき、そこへ至る人生安寧に過ごせようか。何が人々の宝ものであり、いかなる盗人にも奪われずに済むものなのか)

〔九四〕戒(カイ)は老(オ)いに終(オ)わるも安(ヤス)く、戒(カイ)は善(ヨ)く安(ヤス)らかに止(トド)まらん。慧(エ)を人(ヒト)の宝(タカラ)と為(ナ)し、福(フク)は盗(ヌス)びとにも取(ト)られず。


(戒めを保てば老いても安寧であり、戒めを説くものが信じられれば常に安寧である。智慧は人々の宝ものであり、福徳はいかなる盗人にも奪われない)

 ここには、戒めを守ろうと自分を縛るのではなく、戒めに添った生き方が自然にできるようになった状態が説かれています。
 そもそも、苦を滅する方法の根本として示された十善戒は、反すれば罰が当たるという性質の決まりではなく、そこを目ざし、そのように生きられてようやく、苦から脱することができるという道筋に他なりません。
 しかも仏教は、盲目的に信じれば救われるノウハウを示す宗教ではなく、あくまでも、一人一人が〈道理である〉と納得して実践することを求めます。
 だから、マインドコントロールとは無縁である点を押さえておきましょう。

 智慧ある人は、本ものの宝ものを知り、偽ものを求めないので、心が乱され苦しむという迷いから離れられます。
 こうした智慧は、至心に学び、納得して実践する過程を経てこそ得られます。
 それは、み仏の子である私たち全員に与えられた可能性であると言えましょう。

 私たちの仏心が花開いて実現する福徳は、誰にも奪われません。
 苦しみ、悩み、怒り、怨み、嘆いたままで過ごし、モノ金や人やいのちなど執着していたすべてから引き離され、大いなる安らぎを得ないままであの世へ旅立つのか、それとも、学び、生き方を変えるか、一人一人の姿勢が問われています。




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2016
10.25

生き直しの小さなヒント

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 私たちは、お墓をどうするかなど、死後の準備をしていると自分の〈単独生〉に気づきます。
 お釈迦様は説きました。

「死に迫らるれば、親とても頼むべきなし」


 死に神がやってくると、家族などいかに親しい人であっても、追い返すことはできません。
 そして、手にしているものの頼りなさもわかります。
 確かに、お金などの財産があれば最後まで安全に生きられるでしょうが、それは、安心(アンジン)の土台にはなっても、安心を生むわけではありません。
 地位や名誉も同じです。
 誰かにとってそうしたものが力として役立つうちは、近づいて来る人もいるでしょうが、力を求められなくなれば、やって来る人もいなくなります。
 麗々しい肩書は、一人間としてのおつき合い上、邪魔にこそなれ、何ら役立ちはしません。
 死を意識し、死の準備をする私たちは、だんだん、〈自分そのもの〉になります。
 それは、裸で生まれ落ちた赤児に戻るようなものであり、夢中で生きてきた過去は何だったのだろう、と人生が一夜の夢のように感じられもすることでしょう。
       ○
 そうなってみると、二つのものが胸に迫ってきます。
 一つは、やり残したことや果たしていない責務、もう一つは償っていない過ちです。
 最後の力を振りしぼってそれらに挑戦していると、〈まだやれること〉と〈もうやれないこと〉が明らかになり、諦念が固まってきます。
       ○
 次々と周囲に別れが起こり、悲嘆の体験も重ねます。
 そうしているうちに、これまではテレビや新聞で目にしても心の目に映らなかった世界が、現実のものとして見えてくるかも知れません。
 他者の苦境が〈他人ごと〉ではなくなります。
 人々はすぐ近くで苦しみ、あるいは遠い異国で苦しみつつ、日々を生きています。
 母親の胎内から生まれ落ちた時は、同じ裸ん坊だったのに、その境遇は、天と地以上に遠く離れ、生活水準はもちろん、学力も、仕事場も、寿命すらも格差は広がる一方です。
 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は鋭く指摘しました。

「人類は、より大きな力を得ることにはたけているが、その力を幸せに転換する能力は高くない」


 確かに、言葉を用いてコミュニケーションを拡大させ、農業によって食糧を安定的に確保し、科学力を用いて豊富なモノをつくってきましたが、そうしためざましい発展の割には、人類全体の幸せ度は上がっていないかも知れません。
 戦火に追われ、異国で死んで行く子供たちの姿は、相も変わらぬ人間の業(ゴウ)を私たちへ突きつけてきます。
       ○
 人間とは何か、自分とは何か、社会とは何か、問題は〈追われている日常〉からだんだん遠ざかってきました。
 ここで思い出すのは、インド古来の「四住期」です。
 子供として学び、大人として仕事に励み家庭を守り、社会的な務めを果たし終えたなら世間的価値観を離れ、林に暮らして人生の根本問題と向き合い、最後は彷徨しつつ死を待つというものです。
 最後は裸の人間として死を迎えのが、赤ん坊の姿に還ることなら、自分とは何かといった素朴で深い疑問に沈潜するのは、青春期に還ることに例えられるかも知れません。
 多感な頃、私たちは解けない疑問にとらわれて煩悶し、心の許せる友と語り合ったではありませんか。
 生きんがため、役割を果たさんがために脇へ置きっぱなしにしてきた問題に、ようやく自分なりの解答が出せる時期が訪れたとすれば、何とありがたいことでしょうか。
       ○
 このあたりで何かが見えてきたなら、それは生き直しの入り口かも知れません。
 一人間として、いかなる価値観を持ち、何をやって過ごすか?
 それはまったく、自分次第です。
 もちろん、老老介護や闘病など状況はさまざまでしょうが、現役時代とは違います。
 それは、〝死へ向かっている〟という確かな意識があるからです。
 自覚した人間にはもう、見える世界が違っています。
 悲嘆の目から見える世界より半歩、先へ行っていると言えるかも知れません。
 死を覚悟した芥川龍之介は書き遺しました。

「自然の美しいのは、 僕の末期(マツゴ)の眼に映るからである。」


 彼の視線はきっと、哀しみという透明なフィルターを通して自然へ届いていたことでしょう。
 その哀しみは、み仏のお慈悲に通じています。
 なぜなら、み仏のお慈悲は〈哀しみ〉の共有に発しているからです。
 澄んだ心を持っている人がそばにいること、それ自体が慰めであり、救いともなります。
       ○
 このあたりで「生き直し」のポイントが一つ、見えてきます。
 それは思いやりの実践です。
 カール・ベッカー博士は、死別ケアなどにたずさわる人々の心構えについて指摘しました。

「深く哀しんでいる人と『隣に並んで歩むこと』『寄り添うこと』」。


 これは、お釈迦様が説かれたお慈悲そのものです。
「慈」は、広い友情をもって寄り添い、相手の幸せを望むことであり、「悲」は、他者の苦しみを見捨てず、取り除くことだからです。
 では、思いやりをもって生きるにはどうしたらよいでしょうか?
 優しい気持がすぐに怒りや怨みにひっくり返る私たちは、どうすれば、他者の哀しみがわかり、本心からの思いやりが持てるでしょうか?
       ○
 どうせ生き直しをやるのなら、根本からやりましょう。
自己中心」を離れて、み仏に成ってしまうのです。
 私たちの身体と心と言葉のはたらきを、み仏に一致させてしまいましょう。
 身体では合掌しましょう。
 右手をみ仏、左手を自分とみなして両方を一致させます。
 形はさまざまですが、掌をやや膨らませて、蓮華の蕾を連想するのがお勧めです。
 泥に咲いても清浄な色を失わない蓮華のような心が、私たちには必ず、具わっているのです。
 言葉では「あー」と唱えてみましょう。
「あ」はいのちと心を根源であり、故郷です。
 私たちは「あ」と生まれ「うん」と息を引き取ります。
 だから、寺院の山門には「あ」と「うん」の金剛力士像がおられます。
 合掌して目をつむり、お腹の底から息をゆっくりと吐きながら「あー」と唱えてみましょう。
 心では、口から出た「あ」という音が遠くへ遠くへと伸び、息が途切れた先へまでずうっと届いて行くと観想しましょう。
 ゆっくりと息を吸う時、宇宙のエネルギーが戻って来て自分を満たし、清めます。
 そしてまた、ゆるゆると宇宙へ伸び、広がって行く息と声は、自分をすっかり解放します。
 幾度か繰り返すうちに、自己中心的な気持など、どこかへ行ってしまうことでしょう。
       ○
 清められた心は、数々の出会いを思い出させるかも知れません。
 私たちはさまざまな人々と縁を結びながら人生を紡ぎます。
 そして、ある程度の年齢を重ねてから振り返って見ると、善い人だけでなく、酷い人との出会いも恩讐を超えた感覚で甦ることでしょう。
 色合いも大きさも異なる星々が揃って夜空という一枚のベールを織り成すように、出会った人々のすべてが人生に関わっています。
 その真実もまた、自己中心という小さな殻を忘れさせることでしょう。
       ○
 その方なりに、生き直しをじっくり考えてみてはいかがでしょうか。
 こうした生き直しは若い人にもお勧めです。




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2016
10.13

弥勒菩薩と未来

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 み仏はどなたも独特だが、お大師様が最期にその浄土を目ざされた弥勒菩薩(ミロクボサツ)の独自性も際立っている。
 お釈迦様が入滅されてから56億7千万年後に、この世へ下生(ゲショウ)して、まだ迷っている生きとし生けるものを、6万年かけて救い尽くされるという。
 50億年と言えば、太陽の寿命に近い。
 だから、未来仏(ミライブツ)や当来仏(トウライブツ)とも称される。

 その徳を讃歎する経典にはこう説かれている。

「そもそも弥勒(ミロク)の真言は○他を縁として菩提(サトリ)への〇修行を成就(カンセイ)する願と○利他を縁とす大いなる○乘(クルマ)にこの世の人々を○乘せて生死(ショウジ)の海度す○菩薩(ボサツ)の本誓(チカイ)を表象(シメ)すなり。」


弥勒菩薩の真言は、他者を自分と差別せず、苦を抜き、楽を与えたいと思う誠心によって、まっとうな人間になろうとする自分の願いを成就させ、同時に、他者を救うための大いなる教えという乗り物に皆を乗せ、この世の苦と迷いとを脱する手助けとなる菩薩本来の誓いを示している)

 私たちは、お釈迦様が2500年前にはっきりと指摘した勘違いや迷いから抜け出られていない。
 相も変わらず自己中心的に欲を膨張させ、正しい制御法と転換法の実践に取り組んではいない。 
 資源を食い潰しつつ寿命を伸ばしはしたが、環境が破壊される中で、生きる人々は増えたので、世界的な苦の総体が減っているとは到底、思えない。
 ついには、核というモンスターを生み出し、それを世界規模で統御する手段がないという危機的状況に陥った。
 古代ギリシャでは、廷臣ダモクレスにその幸福を讃えられたディオニュシオス1世が彼を王座に座らせ、頭上に抜き身の剣を頭髪で吊し、他者からは気づかれにくい権力者の危険性を説いたが、そうした故事に学んでいると思える権力者は少ない。
 そして、私たち自身もまた、核が〈ダモクレスの剣〉であることをどれだけ認識しているか極めて憂慮すべき状態であると思う。

 日本に住む人びとが広島・長崎で惨禍を体験しただけでなく、世界を幾度も破滅させるだけの核兵器が世界中に配備され、幾度もの原発事故にもかかわらず、日本を初めとした国々が核発電に走ってなお、ダモクレスの剣を感じとれないのだろうか。
 福島第一原発はもちろん、ロシア・アメリカ・チェコなど世界中で深刻な事故が相次いでいるのに、脱原発に舵を切った国はドイツ他わずかな国々しかない。
 平成16年、美浜原子力発電所が事故を起こし、福島原発と同じ水蒸気爆発で死者5名を出したことなど、もう忘れ去られている。
 あの時は不幸中の幸いで放射能漏れには至らなかったが、もしも北方から風が吹く時期に放射能が漏れたならば、京都も名古屋も、もちろん琵琶湖もアウトとなろう。
 机上の話は別として、膨大な住民はいったい、どうやってどこへ逃げられると言うのか?
 小生は、福島原発の事故に際して、〝自分たち夫婦と父親は逃げない〟と覚悟した時の気持を忘れられない。
 恐らく、東北に住む人びとの多くは、まだ、あの時の思いを捨てないでいるはずだ。
 だからこそ、東北の人々には、広島・長崎の方々と並んで、声を挙げ続ける歴史的使命と責任があると信じている。

 お釈迦様は、弥勒菩薩の救いを説き、それを信じたお大師様はその浄土を目ざし、私たち信徒もまたその教えを信じて人類の未来を想う。
 生きものの世界がある限り、生存環境を意識的に、かつ劇的に変え得る能力を持つ人間には、生存に適した環境を保つ責任がある。
 今、生きている人間には、まっとうな環境をバトンタッチしつつ死んで行く責務がある。
 責任、責務に生きてこそ、人間は人間たり得る。
 
 弥勒菩薩もその浄土も畢竟(ヒッキョウ)、私たちの心にある。
 心を澄ませて想像し、観想し、「おん まいたれいや そわか」と真言を唱えるところに感得の機会が訪れる。

「その真言の効験(コウケン)を○ただ誠心(ヒタスラ)に信念し○弥勒菩薩(ミロクボサツの御心(ミココロ)に○帰依(キエ)し委(ユダ)ねて憑(タノ)むなら〇この尊われらにこの世での○無上の救いと利益(シアワセ)を○必ず与え給(タモ)うなり。」


 弥勒菩薩を感得し、この世に浄土を保ったままで次代へ渡せるかどうかは、私たちの一心にかかっている。




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2016
10.12

なぜ戒めを守り、生き方を戒めに一致させようとするのか? ─持戒のご利益─

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〈『マンダラの読み方』よりお借りして加工しました。供養は修行です〉

 お釈迦様は、戒律を守ることのご利益を説かれました。

1  僧侶が和合する
 一緒に修行していながら、片方では真剣に勤行を行い、片方ではダラダラ怠けているならば、同志としての信頼や親和は望めません。
 お釈迦様は、行者一人一人の自覚と共に、修行の場が和合していることを強く求められました。
 それは本来、家庭や職場でも根本中の根本ではないでしょうか。

2  僧侶を受け入れる 
 皆が真剣に勤行していてこそ、行者として加わりたい人を受け入れられます。
 加わる先の人々がお手本にならないなら、そのグループは、やる気のある人に大切なものを与えられません。
 本性を隠してはびこるブラック企業、ブラックバイトのような不誠実は許されません。 

3  悪人を調伏(チョウブク)できる
 自分を律し、自分を放恣(ホウシ)にしていなければこそ、他者の悪しきところを取り除けます。
 仏法における調伏は、悪人をやっつけたり、あるいは相手を説き伏せ、仲間に引き入れることではありません。
 太陽の暖かさが、旅人の羽織っているマントを脱がせるような、感化作用によって仏心を開花させることが真の調伏です。

4  慚愧(ザンキ)する者を安楽にさせる
 自分の罪科を悔い改めようとしている人へ本当の安楽を与えられるのは、先に過ちの川を渡った対岸にいる人です。
 自分の悪行に打ちのめされている人に、同じく悔いている人が手を差し伸べ、苦悩を和らげることはできます。
 しかし、流される人を安楽なところまで導くのは、崩れぬ対岸にいて丈夫なロープを投げ入れられる人の役割です。

5  現世の煩悶(ハンモン)をなくす
 人としての戒めが自然に生きられていれば、ままならぬことがあっても、煩わされ、悶えて悩まず、淡々と対処できます。
 この世にいる限り、病気であれ、老いであれ、裏切りであれ、争いであれ、ままならないという苦は逃れられません。
 しかし、戒めを生きていればもう、それ以外の生きようはないので、たとえままならないできごとにぶつかっても、その事態が生き方を迷わせるほどの苦しみにはなりません。

6  未来の煩悶をなくす 
 この世で戒めが生きざまとなれば、悪業(アクゴウ)を積むことなく、来世に悪果(アクカ)をもたらしはしません。
 因果応報は厳粛な真理であり、私たちが因と果の糸を見つけられようと見つけられまいと、その二つは切り離せません。
 戒めを守ることにより、この世で煩悶もたらす悪行(アクギョウ)を行わず、その結果として起こる煩悶を克服すれば、煩悶を起こす因は消え、来世に煩悶が生ずるはずはありません。

7  信じない者を信じさせる
 仏法を生きる方法は戒めを守り、戒めが生き方そのものになることであり、そうして生きている人のみが誰かを仏法へ導き入れられます。
 千万の言葉で仏法を説くよりも、仏法に生きている姿を見せる方が大きな説得力となります。
 私たちは、ごく普通の日常生活にあっても、善きにつけ、悪しきにつけ、人と接し感化されるではありませんか。

8  自分が信じるところを前進させる 
 何ごとも精進(ショウジン)なくしては実現できず、戒めが血肉となれば、精進して生きる他の生きようはないので、必ず、仏道をより先へ歩めます。
 私たちは常に、何かをやりながら生きる生きものであり、何をどうやるかが人生を紡ぐということです。
 戒めを守るならば、その人の人生はそのように紡がれており、それは同時に、選んだ道を前進していることに他なりません。

9  仏法にずっと止まらせる
 戒めを守らずして仏法を生きることは不可能です。
 お釈迦様が持戒のご利益をはっきりと説かれた原因は、ある行者が淫欲に負け、娑婆へ戻ったというできごとにあります。
 戒律の「戒」は個人的な一心内の戒め、「律」はグループ内の決まり、この二つに背けば、そのグループでは生きられません。

10 清浄心にずっと止まらせる
 世間的な価値を求めず、仏界を目ざす清浄な心は、戒めにそった生き方でなければ保てません。
 仏法によって人々の悩みや苦しみを解消する手助けとなりたい場合、世間的に価値があるとされているモノやお金や立場や名誉が役立つ場合はあります。
 たとえそうしたものを利用する場合でも、それらを正しく〈手段〉とし、それらに流されないかどうかは持戒にかかっており、こうしたポイントは、政務活動費問題などにおいても、重要であると思われます。




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