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2005
07.19

生霊・死霊

 とうとうヒグラシが鳴き始めました。
 東雲の空気は明らかに昨日とは異なる冷気を含んでいます。
 今日から土用へ入ります。
 夏の勢いに翳りが生じ、秋の準備が始まりました。陽と陰が交代する変化の時です。
 
 昨日、ご加持へ来られた方から、生霊・死霊についての質問がありました。
 生霊とは、いのちあるものの持つ「障りとなる力」であり、死霊とは、いのちを失ったものの持つ「障りとなる力」です。
 怨みや妬み憎しみや怒りを発する人は生霊となっており、死んでもなおそうした暗い念の解消できない人は死霊となっています。
 生霊は、道理を知らぬ迷いが生み出し、死霊は、その迷いに、この世とあの世の区切りをきっちりとつけてもらえなかった因縁が重なって生まれます。
 
 お葬式は何のために行なうかを一言で言うならば、「死んだ人へこの世とあの世の区切りをつけるため」です。
 それは、正式な法で送られなかった御霊はいつでも死霊となり得ることを意味します。
 
 いつの時代も、暮らしが楽になると人は気ままになり、仏神へすがる心が薄れます。
 目先の欲が満たされれば、「これで良いや」となるものです。
 釈尊が、『四十二章経』において、人間にとって難しい五つのことがらを挙げられている中に「豪貴にして道を学ぶの難」があります。
 この世における力を手にした人は、仏道を学び難いものだと説かれました。
 ここでの「学ぶ」は、興味や趣味の話ではありません。
 渇く者が水を求めるがごとき姿勢を伴ったものです。
 托鉢をしていて、それが真理である現実に何度ぶつかったことでしょうか。
 はたからも苦労が偲ばれる暮らしの中でしっかりとお布施をくださっていた方が、家を新築した途端、掌を返すように托鉢を断られるのです。

 法に因らず、ただただ思いつきで安易にお送りするケースが増えていることを憂い、危ぶんでいます。
 区切りのつけられなかった御霊が成仏できないでおられることを悼ましいと思っています。
 たとえ形はどんなに質素でも、正統な法をもってお送りしていただきたいものだと切に願っています。

 さて、私たちが怨み妬み憎む存在である以上、生霊も死霊も必ず生まれますが、対処法はどうなのかということが問題です。
 生霊は「いのちあるもの」ですから、陽の世界の始まりを司る守本尊様の法で供養し、清浄な世界へ向かっていただきます。
 死霊は「いのちを失ったもの」ですから、陰の世界の始まりを司る守本尊様の法で供養し、清浄な世界へ向かっていただきます。

 み仏はそれぞれ異なった役割を持っておられるからこそ、さまざまな姿をしておられ、さまざまな尊名があります。
 守本尊として、ことに応じ、時に応じ、方位に応じ、身体に応じ、心に応じ、運勢に応じて私たちをお守りくださるお力は、人間の想像力を遙かに超えています。
 生霊や死霊を感じたならば、至心におすがりしましょう。きっと感激の時が訪れます。




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