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2015
05.25

家出する詩 ―若人へのある期待―

20150525029.jpg

 俳人中村苑子は少女の頃に家出を決意した。

故里

生きくる幾年
わが故里
出でむと思ひし今日なり
天城の山を眺むる我はも
故里捨てむと思ひ
幾日月睦みし人を
忘れんとはすれど
忘れかねつつ
ふと見やる心はむなし
ひろびろと
澄める秋空


 若き日には心の飢餓感がある。
 ここにいたままでは満たされないという不安や不満や予感もある。
 肉体の飢餓なら食事で消えるが、心の飢餓は何によって去るか、本人にもわからない。
 心が彷徨うだけではおさまらず、〈ここ〉にいるのに〈居場所〉を探す。
 そして、家を出る。
 故里を捨てる。
 行く先の茫漠たる広さだけが、あてもないのに、希望の受け皿となる。
 
 さて、フランスの社会学者ミシェル・ウェイビオルカ氏は、4月25日付の朝日新聞において、人と人とを「人種」や「文化」という言葉で分断しようとする思想・風潮の危うさを指摘している。

「必要なのはお互いに知り合いになることです。
 ある学校に貧しいイスラム教徒の子供しかいなくて、別の学校には中流家庭のユダヤ人の子供だけ、また別の学校には外交官や大企業のアメリカ人子弟しかいない。
 そんな風だと、みんな一緒に過ごした場合のようには、寛容で民主的になりにくい」

「異なる文化にこういう立場を採ります。
『私はあなたの特殊性を認める。あなたは私たちの文化の中で存在する権利がある』とした上でこう付け加えます。
『しかし、普遍的な価値は受け容れなければならない』

 例を挙げましょう。
 以前、アフリカのマリ系の移民の間で行われていた女子割礼について、フランスで問題になった。
 これは野蛮な行為です。
 普遍的な価値に反します。
 当事者たちには『あなたにはあなたの文化と共に暮らす権利はある。しかし、限界がある。女子割礼はそれを超える。ただ、それをわかってもらえるよう説明します』と」

「ほどほどの多文化主義というのは説明する多文化主義です。
 相当な時間もお金もやる気も民主的な精神も必要。
 しかし、この方向で進むしかないでしょう」


 今後、世界が一つになってゆく過程においては、無数の問題が出てくるに違いない。
 そうした場面では常に、先入見の縛りから離れた眼力と、柔軟な感受性や思考力、そして解決を目指して諦めない粘り強さが求められよう。
 それらは主として若い方々にある。
 異文化の人々と知り合いになり、お互いの文化の特殊性を認めつつ普遍的な価値について議論し、民主的な精神から離れず、多様で千変万化する状況へ勇敢に挑んで欲しい。
 年配者は、無謀さが何を招くか、頑なさが何を招くか、無慈悲さが何を招くか、思考停止が何を招くか、力に頼る安易な対立への傾斜がいかに危険で愚かしいか、これらのことごとを体験として語ればよいのではないか。
 
 中村苑子は87才で死を迎えるまで、この詩が納められた『表紙のとれた手帖』を持ち歩いていた。
 ならば、私たちはまっとうに老いるため、何を持ち歩こうか?




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
04.19

便利な環境で長生きしつつ危機を招く私たち

2015041900012.jpg

 4月15日の産経新聞は、曽野綾子氏のコラム『生活水準と少子化の関係』を掲載した。
 その中で、日本の人口減少傾向は危険な水準に達しているが、その原因が果たして巷間言われているように、生活水準や児童保育施設などの問題にあるのだろうかという根源的疑問を呈している。
 世界中を歩いてきた氏は証言する。

「昔、東南アジアの田舎で働いている日本人たちが一様に話していたのは、当時、人口の急激な増加に悩んでいたアジア各国で『一番いいのは、早く村に電気を引いてテレビを入れることですよ。そうすれば夜することがないなんてことはなくなるわけですから。確実に人口は減りますよ』だった。」


 だから氏は、「停電の夜」を増やせばいいが、それはもうできないと言う。
 また、「貧困になれば、もっと子供を産まなくなるだろう、というのは、恐らく間違いなのである。」とも指摘する。
 不便だと人は盛んに身体を使うので性欲も旺盛になるし、機械化されなければ働き手としての子供も自然に求められると言う。
 そして締めくくる。

飢餓で人がばたばた死んでいるような土地の現状も見たが、そこで医師たちから聞いたもっとも驚くべき話は、飢餓状態になると人間の受胎率は上がるという話だった。
 おなかが空けば、セックスどころではなくなるだろう、と私は思っていたのだが、体の方はきちんと種の消滅の危機を察して増える方向に働くのだという。
 繁栄が人口を減らした、とすれば、私たちはどう方針を変えればいいのだろう。」


 日本家族計画協会が平成26年9月に行った「男女の生活と意識に関する調査」によれば、日本におけるセックスレスの男女は未婚・既婚を問わず増え続けている。
 既婚男性で一ヶ月以上性交渉がない人は36・2%、女性は50・3パーセントに上っている。
 その理由として男性は「仕事で疲れている」、女性は「面倒くさい」を第一に挙げる。
 また、性交経験率が50%を超える年令は男性29才、女性28才。
 性交への関心では「関心がない」又は「嫌悪している」が男性17・9%、女性45・2%、特に、25才~29才の男性が20・3%に急増した。

 曽野綾子氏の観察とこれらのデータは、暗い夜がなくなり、便利になると人間は、種を保存する生きものとしての存在から離れてゆくことを意味しているのだろうか?
 最近、東京都の豊島区が消滅可能性自治体とされた。
 若年女性の減少率が50・8パーセントに達したためである。
 1日に200万人の乗客数を誇る池袋駅を抱えていてすら、危機は忍び寄っている。

 病気や天災から逃れて長生きし、便利で楽な暮らしをしようと文明を進めて来た私たちは、それらが得られつつある状況で自分たちの数を減らし、生活の場を崩壊させつつある。
 人間は自然を相手にどこまでも勝者であり続けると思ってきたが、それはとんでもない勘違いだったのではなかろうか?
 人間が〈生きもの〉としての根源的ありようから離れることはきっと、何ものかが許さないのだろう。
 私たちは、私たちの危機から何を学び、どう乗りこえてゆけばよいのだろうか?




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2015
02.15

サツマイモによる供養 ―戦争で生き残った親の思いを継ぐ―

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〈渡辺ひろし師の寺子屋における講話では、熱のこもったお話と活発な質疑応答がありました〉

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 ご母堂様の月命日を迎える前日、大雪をものともせず、手紙を手にしたAさんがご来山された。
 印象的なことごとが縷々、綴られている中で、ぜひ、書きとめておきたい一事があった。

 A家では9月9にサツマイモを仏壇にお供えするというくだりに、をめでる重陽(チョウヨウ)の節句でイモも供える習わしがあったかと目を瞠った次の瞬間、さらに目は大きくなった。
 その日は、太平洋戦争中、亡父が南方の激戦で戦友を失った日であり、やがて米軍に投降した日でもあったという。
 父親は飢餓状態で逝った戦友のため、毎年一度、欠かさずサツマイモを供えて供養し、その心を継いだ母親も逝った今、Aさんご夫婦も同じ形で供養を続けておられる。

 重陽の節句において愛でられるは、中国伝来のものだが、後一条天皇が「花第一」とされ、藤原敏行は詠んだ。

「ひさかたの雲のうへにてみるはあまつほしとぞあやまたれける」


 宮中いっぱいに飾られたの花々は、まるで天空に広がる星々のようだ。
 なお「久方の」は雲にかかる枕詞であり、「雲の上」は、宮中を天上界になぞらえた表現である。
 源氏物語にもある。

「色まさるまがきのもをりをりに袖うちかけし秋をこふらし」


 ひときわ美しい籬(マガキ)のも、昔、共に舞ったあの秋の日を恋しく思っていることだろう。
 平安人は菊に深い情緒を覚え、菊は〈やまとだましい〉の形成に大きな役割を果たした。
 秋に咲く菊は春の桜と並んで、女花の代表とされている。
 英語の菊はchrythanthemum、〈MUM〉すなわちママが含まれており母の花でもあるのだ。

 さて、作家大岡昇平は『レイテ戦記』に書いた。

「人間の中の動物的なものの領域は広大である。
 平時の社会はそれを制御することによって成り立っているが、戦争はむしろそれを奨励し解放する」


 ここで言う「動物的なもの」とは、一つには、敵や競争相手を殺して自分が生き延びること、もう一つには、何としても自分の腹を満たして自分が生き延びることだろう。
 戦争で実際に殺し合いを行った兵のほとんどが黙して語らずにこの世を去りつつあるのは、自分にも戦友にも訪れた〈あの事態〉がとうてい言葉にできないからである。
 だから、自分なりのやり方で御霊へ語りかけ、思い余った人だけが最小限度の言葉で生者へ事実を伝え、「やっと俺も来たよ」と御霊の元へ逝く。
 確かに戦勝国による一方的な裁判はあったが、誰が殺したか、殺さなかったか、奪ったか、奪わなかったという膨大な事実は、現場を共にした戦友と仏神だけにしか、ほとんど知られない。
 私たちは感性と想像力を鈍らせず、こうして逝きつつある方々の思いを想わねばならない。
 さもないと再び戦争を繰り返し、〈あの事態〉が後の世代によって悲しくも追体験されることだろう。

 忘れられかけている先人、偉人方がいのちがけで守られたこの日本を物理的精神的に、いかにして守るか、文字どおり、叡智のすべてがかけられねばならない時に立ち至っているのではなかろうか。
 Aさんが言外に当山へ託されたものをよく考え、今日も不戦堂で祈りたい。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
11.06

食事の価値 ─人間が他の生きもののいのちをいただく理由─

 あらゆる生きものは、自然の節理として、他のいきもののいのちをもらいながら生きます。
 人間もクマやカラスと同じく地球上に住んでいる以上、例外ではありません。
 人間のみに当てはまる摂理、つまり自然界の法則はありません。
 しかし、人間が、思うがままに食べたり蓄えたりする姿は、「これは本当に法則なのか?」と疑問に思えます。
 特に先進国と呼ばれる国々の人々が必要以上に太ってしまい、食べものにお金をかけた上にダイエットにもせっせとお金をかけている様子は、明らかに変です。
 その一方で、国連の「世界食糧計画」によれば世界の飢餓人口は8億人、1年間に1500万人が餓死しています。
 日本でも、それも大都会で人知れず餓死する人々が現れ始めました。

 武田邦彦教授(中部大学)は、「どこまで行くの?  飢える人と残す人」(http://takedanet.com/2007/11/post_4958.html)において、日本人の食生活を鋭く批判しています。

「確かに今の社会システムでは、隣に飢えた人がいても、お金を持っている人が食べられないほどのパンを買い、2,3切れを食べて残りを暖炉にくべても逮捕されない。
 でも逮捕されるべきである」

「社会の秩序のもっとも基本は『助け合い』である。
 飢えて死んでいる人がいるのに食べられないほどの食料を買って捨てるのは間接的な殺人である。
 お金という凶器を使った殺人だ」

「人には能力の差もあるし、運不運もある。
 でも、越してはいけない一線があり、それは社会システムと倫理観で防がなければならない」

「どうしても、輸入食品の半分を食べ残すという日本の現状と、世界で8億人の人が飢えているということを認めることはできない」

国は政策を定めなければならないが、政治がどうであれ、日本人そのものがを持たなければならない。
 我々は『日本人の誠』を行動に示すときだ

 私たちは教授の〈の叫び〉に耳をかたむけねばなりません。

 ではどうやってこの正義を実現するか?
 まず、自分の食生活を省みて直すべきところは直し、各界、各層の人々がことに応じ、時に応じてやれることをやるしかありません。
 ちなみに、私たちは食事の際、『五観偈』を観想することになっています。

一(ヒトツ)には巧(コウ)の多少を計り彼(カ)の来処(ライショ)を量れ
二(フタツ)には己(オノ)が徳行の全か闕(ケツ)か多か減かを忖(ハカ)れ
三 (ミツ)には心を防ぎ過(トガ)を顕すは三毒に過ぎず
四 (ヨツ)には正(マサ)しく良薬を事とし形苦(ギョウク)を済(スク)わんことを
五 (イツ)には道業(ドウギョウ)を成(ジョウ)ぜんが為なり、世報(セホウ)は意に非(アラ)ず

①食卓にある食べものがいかに多くの人々のてによって作られ、採られ、料理され、運ばれてきたのかを推しはかります。
②食べものをいただく自分がきちんとなすべき修行をなしているか、それとも修行が足りないか、徳は多くなったか、それとも少ないままかを推しはかります。
③おいしいものへの執着や、口に合わないものへの嫌悪は煩悩であることを確認し、貪ったり粗末にしたり感謝しないなどは貪瞋痴(トンジンチ)の三毒であることを肝に銘じます。
④良薬となる適度な食べものをいただくのは、心身を養い生命を維持するための、生きものとして避けられない宿命であることを確認します。
⑤食べものをいただくのは、修行を進め成就するためであり、世間的な地位や名誉や称賛などを求めてはいないことを確認します。

 まず、食事をもたらしたすべての人々へ感謝します。
 次に、生きものたちからいのちをもらう資格が自分にあるかどうかを自分へ問います。
 次に、食べものとなってくれている生きものたちを、自分の好き嫌いなどによって分け隔てするのは身勝手な煩悩であると知り、私たちのためにいのちを差し出す生きものたちへ等しく感謝します。
 次に、心を養う為には身体を養わねばならず、そのためにやむを得ず他の生きもののいのちをいただくのであるという宿命を再確認します。
 最後に、他の生きもののいのちをいただくのは修行し、まっとうに生きるためにやむを得ないのであり、いただいたいのちの代価として地位や名誉などを求めては申しわけないと肝に銘じます。

 これは行者の心構えですが、まっとうな人間として生きようとするならば、どなたにとっても、あまりにも当然な心構えであると言えないでしょうか。
 私たち一人一人がこのように自分を省みながら食卓へ向かうならばは清められ、行動も清められ、それは当然、環境を良きものに変えてゆく力になり、ひいては地上から飢餓をなくす方向へと文明を変化発展させる力ともなることでしょう。
 共に、小さな、しかし確かな一歩を始めませんか。


〈共に生きてこそ〉
2211062 047




「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2010
09.07

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その2)

 このページでは、江戸時代における日本の高度な文化を下支えした寺子屋で広く用いられていた『実語教童子教』を現代風に読み解きます。
 家庭でも学校でも学びきれないでいる道徳心の基礎づくりに役立ててください。

2 人間の尊さ

「人(ヒト)肥(コ)えたるが故(ユエ)に貴(タット)からず。
智(チ)有(ア)るを以(モッ)て貴(タット)しとす。」


(人は太り、貫禄のある体つきをしていれば貴いのではありません。
 智慧があればこそ貴いのです)

 メタボリックシンドロームを気にする現代人にはあまりピンと来ないかも知れませんが、真実を伝える教えです。
 多くの人々が餓える心配のない日本になったのは、そう昔のことではありません。
 人類にとって、遠いご先祖様が樹上生活から草原へ降り立ち、二本足で立った時代からずっと、必要なだけ食べられ身体と心に余裕のあることが幸せの証でした。
 日本に住む私たちはこの証に慣れてしまい、ありがたさをあまり意識しませんが、今でも世界各地で何十億人という人々が証を得られず苦しんでいることを忘れてはなりません。

 さて、こうした事情から、この証を持った人、つまり、飢餓に追われてやせ細りガツガツせず、ゆったりと構えている布袋(ホテイ)様や大黒(ダイコク)様のようなタイプの人が憧れられていました。
 だから「福々しい」という言葉には、ゆったりとした顔つきや体つきといったイメージがあります。
 反対に「貧乏神」はいつも、幽鬼のように描かれるものです。
 名前は失念しましたが、農民の家族を描いた江戸時代あたりの名画は忘れられません。
 粗末な開け放った家の中で、でっぷりとしたお父さんが寝そべっています。
 お母さんは家事を行い、子供は走り回っています。
 いつの時代も、幸せの原点は変わりありません。

 冒頭の教えに戻りましょう。
 こうしたことごとを考えると、「体」と「智慧」だけが問題でないことに気づきます。
 いかに衣食住に恵まれていようと、それだけでは人間としての貴さを生きられないと指摘しているのです。
 客観的に観てみれば、確かにそうです。
 ネコでも、サルでも、あるいは鯉でも、生きる糧を得られていればこそ生きています。
 私たち人間も、このレベルでは彼らと同じではありませんか。
 教えは、人間がケダモノと同じ次元でなく、霊性を持った存在として本来の生を生きるには、智慧がなければならないと説いているのです。

 この場合の智慧とは、霊性に気づき、霊性を学び、霊性を生きる知性感性であると考えられます。
 大人であると子供であるとを問わず、「実語教」も「童子教」も、知性感性を磨く教えです。
 一緒に学んで行きましょう。

〈愛おしそうに大樹の肌をなぞる方〉
220903 008



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