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2016
07.10

神を知っている? ─ユングの神、渡辺祥子さんの体験、そして『黒い雨』─

2016-07-10-0001.jpg

 晩年の分析心理学者カール・ユングは、テレビのインタビューで、問われた。
「あなたはを信じますか?」
 彼は沈黙の後、はっきりと答えた。
「私は知っています」

 彼は幼少の頃、牧師である父親から言われていた。
「お前はいつも考えたがっている。
 考えちゃならない。
 信ずるんだ」

 父と子(キリスト)と聖霊が一体であるとする三位一体説に関心を持っていた彼は、父親の説明を待っていたが、正直な父親はこう言った。
「ここは省略しよう。
 だった、本当のところ私には少しもわからないんだから」
 彼は、生涯にわたって、そのことを知ろうと努力したという。

 このあたりの事情について、心理学者河合隼雄は指摘している。
「よりよく考え、より多く知ろうとする態度によってこそ宗教性は深められると彼は主張したいのである。
 従って、事実に関係なくただ信じているのではなく、自分の経験的事実に基づいて彼の宗教は成立しているのである。」
「彼が『知る』と述べているのは、『それ自体は未知のある要因と対峙している』ことを知っており、その『未知のある要因』を一般の同意に従って『』と呼ぶことを意味している。
 そしてその『未知のある要因』と対決し、その現象を慎重に観察することこそ宗教の本質であると考えている。」

 7月9日(土)、当山の寺子屋では「これからの生き方」という講演会を行った。
 そこで講師を務めてくださったフリーアナウンサーで朗読家の渡辺祥子氏は、こんなエピソードを紹介した。

 東日本大震災から半年経った9月11日、彼女は、ある被災地の広い葬儀会場で司会進行を行った。
 正面に向かって左手に立った彼女の左手は御霊の祭壇、右手は会葬者の席である。
 そこで彼女は不思議な体験をした。
 左側の空気が明らかに暖かい。

 彼女には、その理由がはっきりとわかった。
〝ああ、亡くなった方々の暖かい思いが私たちを見守っていてくださる〟
 彼女は「知った」と言えるのではなかろうか。

 やみくもに信じようとする、あるいは信じる態度は危うい。
 なぜなら、道理を捨てるかのような姿勢に人生上の無理があるのはもちろん、道理という動かしがたい知性がそれなりにはたらいた時、信じ、頼っていたはずの仏などがいつ、消滅するかわからないではないか。
 また、小生のような宗教者の立場からすると、そうした態度は、仏に対して無礼であり、真実から離れる道であるように思える。

 もちろん、私たちは、何かを〈信じないではいられない〉心理状態になる場合がある。
 たとえば、今村昌平監督作品の映画『黒い雨』は、広島で被曝した人々が時の経過の中で一人、また一人と死んでゆく様子を描いたが、そのラストは印象的だ。
 原爆症に悩みつつも健気に生きていた美しい娘矢須子は、ついに倒れ、救急車で運ばれる。
 付き添う青年悠一は呟く。
「きっと治る、きっと治る」
 見送る叔父の重松は、心中で思う。
「もし、向うの山に虹が出たら奇蹟が起る。
 白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気は治るのだ」
 結果を示さずに映画は終わる。

 私たちにとって、すがる情緒も、観る知性も共に真実だ。
 必要なのは、それらが新鮮にはたらきつつも、いずれにも一方的に流されない主体性の確立ではなかろうか。

 講演会でコーディネーターをつとめてくださった白鳥則郎東北大学名誉教授は、合理性に彩られた近代の弊害を克服するためのキーワードを示した。
共生環境」「共生社会」である。
 コンピューターに代表される合理性だけではなく、生身の人間が持つαとの共生である。
 ユングの「未知のある要因」も、渡辺祥子さんの「亡くなった方々の暖かい思い」も、悠一や重松の〈懸ける気持〉も、このαではなかろうか。




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2016
06.22

愚癡の人にならないために ─守本尊様の救い─

2016-06-22-0002.jpg

 私たちは、時に、過去を振り返り、時に、未来を思い描きます。

 過去は、時には恨めしいものであり、時には、ほのぼのさせるものです。
 前者に傾けば、後悔から愚癡が出て暗くなり、後者であれば、満たされた気持から感謝が生まれて明るくなります。

 では、運が悪かったり、失敗が多かったりした人は愚癡を言い、運がよかったり、順調だったりした人は感謝するのでしょうか?
 70年間、生きて人を観て来た者の感想としては、そう言えなくもないけれど、必ずしもそうでないケースが少なくないような気がします。

 たとえば、27年間の投獄生活に耐え、南アフリカ共和国の大統領になったネルソン・ホリシャシャ・マンデラは、まるで密教僧のような言葉を遺しました。
「我々が自らの内にある光を輝かせるとき、無意識のうちに他の人々を輝かせることが出来るのだ。」

 私たちが共有している仏心は、誰かが輝かせれば、他の誰かの仏心に障碍となっている邪心を祓い、それも輝かせます。
 この身このままで仏心を輝かせるのが即身成仏(ソクシンジョウブツ)であり、生き仏になった人が、他の誰かをも生き仏へと誘わないはずはありません。

 また、過去がどうであれ、〈現在〉の過酷さが、過酷であるがゆえに視点の転換をもたらし、過去を意識させないケースもあります。
 過酷な現実に何らかの価値を見出した人にとって、もはや、過去がどうであったかということは問題になりません。

 ドイツ軍によって捕虜収容所に入れられ、いつガス室へ送られてもおかしくない体験をしたユダヤ人フランクルが書いた『夜と霧』に有名な一節があります。
「現実には生に終止符を打たれた人間だったのに―あるいはだからこそ―何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。」

 過酷な労働を終えて居住棟に帰り、スープを手にして土間でへたり込んでいた時、沈む夕陽の美しさに気づいた仲間に呼ばれ、皆して空を眺め、目を転じた地上にある水たまりが夕焼けの赤々とした光景を映し出している様子に、誰かがこう言ったのです。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

 書かれたのは昭和21年、一瞬、激しく動いた心の鼓動は、フランクルと仲間たちの間で共有されただけでなく、70年を経た今も、私たちの心に共鳴、共振をもたらします。
 こうした体験をした人は、〈愚癡の人〉へと堕ちて行く可能性や危険性が少ないのではないでしょうか。

 愚癡の人は、恐ろしくも、マンデラ大統領と反対の心になります。
「我々が自らの内にある光を覆い、輝かせないとき、無意識のうちに他の人々をも輝かせない者となる」

 こうならないためにこそ、ご本尊様へ手を合わせて身体をみ仏と一体化させ、真言や経文を唱えて言葉をみ仏と一体化させ、ご本尊様の徳を観想して心をみ仏と一体化させましょう。
 そうすれば、私たちは「自らの内にある光を輝かせ」、きっと「美しい自然に魅了され」つつ生きられます。

 愚癡の人にならないために、ご本尊様へ祈りましょう。
 特に、〈理想の自分〉の一面を示す一代守本尊様は、生まれ年によって運命づけられた具体的な導き手です。

 愚癡の人にならず、生き仏になりたいものです。




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2016
05.26

仏教で幸せになれるか ─本ものの僧侶は?─

2016-05-26-0004.jpg
〈いつでも、どこでも瞑想し、生き仏だった明恵上人(ミョウエショウニン)〉

 人生相談に来られたAさんから訊かれた。

仏教を信じれば幸せになれるんですか?
 お坊さんは皆さん幸せなんですか?」

 こんなふうにお答えした。

 デカンショという言葉を現在の高校生や大学性の諸君は知っているだろうか?
 自分は何者か?自分は何のために生きているのか?なぜ戦争はなくならないのか?といった人生の根本的な問題に悩み、デカルト、カント、ショーペンハウエルなどの哲学者や聖人賢者たちに答や救いを求めずにいられない若者たちは、一昔前、こう唄った。

「デカンショー、デカンショーで半年暮らす
 よいよい
 あとの半年ゃ、寝て暮らす
 よーいよーい
 デカンショー」
 そして、到底、理解できそうにない哲学書などを読みあさった。

 その一人、ショーペンハウエルが辛辣なことを言っていた。

「純粋な僧侶は最高の栄誉に値する存在である。
 けれどもほとんど大抵の場合、僧衣は単なる仮装なのであり、この仮装のかげに本当の僧侶がひそんでいることは、あたかも、仮装舞踏会の場合におけると同じように稀なのである」

 日本の僧侶も、厳しい指摘をした。
 平安時代後期に真言宗を立て直した興教大師(コウギョウダイシ)である。

「名を比丘(ビク)に仮って伽藍(ガラン)を穢し 形を沙門(シャモン)に比して信施を受く」

(名ばかりの出家修行者として寺院に住み、形だけ出家修行者に似せて信仰を受け、布施を受ける)

 本ものの僧侶だからといって聖人君子ではない。
 本ものの僧侶でありたいと決心し、袈裟衣を穢すレベルの修法であっても、未熟を懺悔してあきらめず、本ものでありたいと願い、精進して止まないのが本ものの僧侶ではなかろうか?

 ところで、ショーペンハウエルはこうも言っている。 

「自分の幸せを数えたら、あなたはすぐに幸せになれる」

 自分の霊性仏性(ブッショウ)に気づこうとする仏教は、「自分の幸せ」を数えさせる教えかも知れない。
 出家したか娑婆にいるかに関係なく、本ものの仏教徒であろうとしてあきらめないのは、幸せになるための極めて有力な方法の一つであろうと思う。
 小生が幸せかとも訊ねられ、答えた。
「まあ、人様なみではないでしょうか」
 全然、気がきかない返事だった。




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2016
05.01

慌てる乞食になる? ─5月の運気・運勢─

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〈日々、皆さんが墓地へお出かけになられます。共同墓や樹木葬などの見学も、本堂のお詣りも、資料の入手もオープンですが、住職から詳しい話を聴きたい場合や契約をしたい場合はぜひ、事前に日時のお約束をお願いします。突然では失礼してしまう場合が多くなりがちです。合掌〉

 5月の運気運勢、世の中の傾向です。 
 今月は、人の道にそっていると信じられるものごとを力強く行って通じやすい時期です。
 自分なりに活き活きと生きる道筋が人間として普遍的な価値を高める時、真の充実感がもたらされることでしょう。

 ただし、古代ローマの哲学者エピクテートスの言葉は覚えておきたいものです。
 彼は、目に見える成果を早く欲しいと急ぐ人に言いました。

「大事なことは何事でも突如として生ずるものではない。
 一個のいちじくでもそうだ。
 もしきみがいまわたしに、じぶんはいちじくがほしいと言うならば、わたしはきみに、時間が必要だと答えよう。
 まず花をさかせるがいい。
 次に実を結ばせるがいい。
 それから熟させるがいい。
 いちじくの実は、突如として、そして一時間のうちに出来上がらないのに、きみは人間の心の実を、そんなに短時間に、やすやすと所有したいのか。
 わたしはきみにいうが、それは期待せぬがいい」(長田弘著『最後の詩集』より)


 私たちは、エピクテートスの言わんとするところがもはや、わかりにくい心性になっているかも知れません。
〝イチジクを買えばいいじゃないか〟
〝イチジクの木を持っている人からもらえばいいじゃないか〟
〝イチジクの木を探してもぎ取ればいいじゃないか〟

 4月14日、哲学者鷲田清一氏は、明治学院大学で、学生たちと対話しました。
 そのおりに大学院生から出された質問です。
「今の大学は『どうお金を稼げるようになるか』で授業が組み立てられていて、グズグズする時間などないのでは?」
 氏は笑って答えました。
「卒業なんて無かったらいいですよね」
「自分が納得して潮時だと思ったら大学から消え、足りなければ復帰する。
 それぐらい自由な大学の例も海外にはあります。
 卒業が就職のパスポートというだけでは、みじめったらしいじゃないですか」

 そもそもなぜ、 親へ莫大な負担をかけながら大学へ行くのでしょうか?
 一つには、生き方がわからず、もう少し考え、学んでから一人前の社会人になるため。
 もう一つには、関心のある方面を深く学んで理想を実現するため。
 学問を探求することは手段でもありますが、学びつつ生きること自体に、人間を創るかけがえのない価値があります。
 何か生きられる本ものをつかみ、同時に自分も人間として本ものに近づくための貴重な人生のいっときが学生時代ではないでしょうか?

 エピクテートスは、イチジクを得ようとしている人に、こう問いかけているのです。
「君は本当のイチジクを欲しているのかい?」
 彼はイチジクの〈価値〉を問題にしています。
「イチジクが何であるか、そのことをわからぬままでは、君の求めているイチジクは食欲を満たす手段でしかない。
 もしも、君がそれだけでよいと言うならば、君はこの世を生きていることの本当の意味も価値もわからぬまま、酔生夢死(スイセイムシ…無自覚で空しく過ごすこと)の人生で終わるしかないよ」
 エピクテートスの時代はそれでもまだ、イチジクが問題にされていました。
 しかし今はイチジクではなく、イチジクを得るための手段である「お金」のみが第一の関心事となり、私たちの一生はますます人生の真実から遠ざかっているやに見受けられます。

 一国の首相をはじめ、私たちは今、どうしてこんなに急(セ)いているのでしょうか?
 セカセカとせわしなく、ピリピリと苛立ち、まるで手品のような〈素早い〉解決策を求めてやみません。
「何事でも突如として」生じさせないと気が済まないかのようです。

 しかし、気をつけましょう。
 手品は技術によって編み出されますが、それは必要条件に過ぎず、成立するための充分条件は私たちの錯覚です。
 これは気をつけ過ぎることはないというほど重い事実です。
 重要なものごとほど、単なる知恵ではなく叡智を集めて行われるべきでしょう。
 しかも実行が実のあるものとなるためには、方策の立案者や実行者への信頼が充分条件として欠かせません。

 物理学者の松井孝典氏は科学が「我々の存在」を理解するために必要な点を挙げました。

「科学は科学以外の他の領域(たとえば哲学)と積極的な関わりを持つことが必要だろう。
 それは科学の問題というよりは科学者の問題である。」(著書『宇宙誌』より)


 私たちは、自分であれ、他者であれ、〈いかなる人物〉として〈いかなること〉をしようとしているのか、その実態をきちんと観てから判断し、ことをなしたいものです。
 私たちは、求めている対象も、何かを求めている自分自身も、よく観てよく考えたいものです。
 自分を高め、深めるのも、停滞させ、泡(アブク)のようにさせるのも、自分次第。
 古人は言いました。
「慌てる乞食は貰いが少ない」
 青葉の輝き、力強さに学びたいものです。




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2016
03.04

【現代の偉人伝】第222話 ─親を『福祉墓』へ納めた方─

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 過日、まだ寒い日に『福祉墓』へお納骨を行った。
 雲が低く垂れた空の下、10人ほどの参列者は襟元を押さえている。
 一人、喪主の息子Aさんだけがコートも羽織らず、昂然と胸を反らし、一時間以上も前から現場へ来て掃除などの準備をしていてくださった石屋さんが手際よく白い布袋を納める様子に見入っている。
 その間、若干の説明をする。

「このご本尊様は、胎蔵界(タイゾウカイ)の大日如来です。
 本堂の本尊である金剛界(コンゴウカイ)の大日如来様とは手に結ぶ印が違います。
 金剛界はエネルギーの循環を〈動〉の世界として表現していますが、胎蔵界はバランスのとれた世界全体を〈静〉の世界として表現しています。
 胎蔵界の大日如来様は〈静〉の世界の中央におられ、世界全体を統べると共に、全体の体現者でもあります。
 手に結ぶ印は瞑想における根本印であり、心が最高に鎮まった状態を示します。
 だから私たちは、少しでもそこへ近づこうと願い、この〈定印(ジョウイン)〉を結びながら各種の瞑想を行います。
 大日如来様のご守護のもとで眠る故人は、必ず、この上ない安心の境地へ向かわれることでしょう。
 それではこれから修法に入ります。
 途中でお声をかけますので、どうぞ皆さん、その時にお線香を捧げてください」

 ご本尊様の正面に立つ。
 結界を張り、洒水(シャスイ)加持(カジ)を行い、大日如来の法に入った途端、幕が開くように陽光が射す。
 瞼の裏側が明るくなり、風にさらしている頭や首筋あたりが温度を感じる。
 今までもこうしたことはたびたび体験しているので驚かない。
 ただ、ありがたいという気持は起こる。

 正面の笹倉山から次々に黒ずんだ雲が湧き上がり、流れてくるのに、空全体を覆うには至らず、覗いた太陽はずっと輝き続けた。
 お焼香も終わり、お納骨の修法は無事、済んだ。
 皆さんの方へ向き直ると、さすがに安堵の空気を感じる。
 もちろん、小生も安堵した。
 Aさんの目がいくらか潤んでいる。

 お通夜で聞いた叔父さんの言葉を思い出す。
「こいつはたった一人で、早くに倒れた父親を看てきました。
 はたらきながら。
 愚癡一つ言わず、何もかも父親に捧げたんです」
 その時に、Aさんに漂う巖(イワオ)のような雰囲気がどこから来ているか、やや理解できた。

 お納骨が終わった今、巖はやや緩んでいる。
 心理学者河合隼雄の言葉を思い出す。

「関係を永続させようとすることが愛情ではないかというふうに考えてます。」


 この言葉は、死にたいと訴える患者さんに対してそれを押し止める自分の態度を論理的になかなか説明できないと吐露する場面で出てきた。
 一種の混乱状態にある相手に向き合っていると、自分も少しおかしくなってくる。
 それでも治療者は〈一本の線〉を通し続けねばならないと言う。
 もしも〈線〉が崩れれば、患者も治療者も危うくなる。
 この〈線〉が何であるかは言葉にしきれない。
 河合隼雄にとっての〈線〉は、相手を見捨てず「関係を永続させようとする」意思、すなわち愛情ではなかっただろうか。
 死へ赴こうとする人に対して、死んではならない理由を〈説明〉するのではなく、〝あなたとの関係を失いたくない〟と接する〈態度〉が相手を救う。
 その救済は、根気も智慧も思いやりもすべてを総動員するの仕事であるといえるのではなかろうか。

 Aさんがどのように生き、どうのように父親を見守ってきたのか、想像もつかない。
 確かなのは父親と息子の「関係を永続させよう」とし、決して見捨てなかったという事実である。
 もちろん、これからも「関係」は途切れない。
 また、生き仏にお会いさせていただいた。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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