宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

蜘蛛の糸

 5月26日、お祖母ちゃんに連れられてご奉仕へ来山したKちゃん(園児)からとても良い質問がありました。
「どうして、『蜘蛛の糸』のカンダタにもう一回、糸が降りてこないんですか?可愛そうです」
 答えました。
 
 まず、なぜ糸が切れたかは知っているでしょうが、お釈迦様がせっかく救ってくださろうとしたのに糸が切れたことが何を意味しているかを考えてみましょう。

 人は善いことも悪いことも行います。
 悪いことをした場合、すぐに悪かったと気づいて謝ったり償ったりすることが最も大切ですが、の重さはそれぞれ異なっており、すぐに許してもらえる場合もあれば、なかなか許してもらえない場合もあります。
 たとえば、ボール遊びをしていてうっかりガラスを割ってしまった時などは、きちんと謝ればたいていその場で許してもらえるけれども、万引きをした場合などは警察へ連れて行かれて調べられます。
 ちょっとしたケンカで相手を傷つけた場合は牢屋へ入れられても割合早く出てこられるけれども、もしも相手が死んでしまったりしたらなかなか出てこられないどころか、死刑になるかも知れません。
 そのようにには重さがあり、も違います。
 カンダタは、殺人や放火や強盗を行った大泥棒です。
 そのがあまりに重く、蜘蛛を一匹助けたからといって、として落ちている地獄から簡単に抜け出せるわけではありません。
 いくらお釈迦様が救ってあげようと思われてもだめでした。
 善いことも悪いことも、自分で行ったことは、必ず自分へ報いがもたらすのです。

 もう少し考えてみましょう。
 芥川龍之介カンダタがまっさかさまに落ちてしまい、蓮池のある極楽は何ごともなかったかのような光景であるところまでしか書かなかったけれども、カンダタのいのちがすっかり終わってしまったわけではありません。
 また、お釈迦様を初め、み仏方は、たとえどんな悪人であれ決して見捨てません。
 カンダタはどうなるのでしょうか。

 今回はお釈迦様のお慈悲によって貴重なチャンスをいただきましたが、過去の悪行があまりにひどく、カンダタの心もまた地獄の責め苦で反省させられたにもかかわらず「自分本位」のままだったので、せっかくのチャンスを生かせませんでした。
 しかし、きっといつか又、蜘蛛の糸が降ろされるに違いありません。
 それは、地獄にいるカンダタが今回のできごとについてよく考え、自分だけが助かろうとしたことを深く反省し、地獄にいても誰かのために何かできることを行い、過去の大を償なった時です。
 カンダタ極楽往生を願う人びとの供養もまた、償いの手助けになることでしょう。
 
 善いことも悪いことも、自分の行いの結果は必ず自分へやってくることを学びましょう。
 善いことをたくさん行えば、いつかはを償えることを学びましょう。
 そして、み仏は必ず観ておられ、必ずお救いくださることを学びましょう。

?お友だちが遊んでくれない時

 お母さんと一緒に来山した女の子Mちゃんからの質問です。

「Cちゃんと遊びたいのに、なかなか遊んでくれません。どうすれば良いんでしょうか?」

 Mちゃんは3歳です。お布施はミカン3個とお小遣いから出したお金です。

 さっそくもらったミカンを使って1個は普通に置き、その横にお金を置き、さらに裏返したミカンを並べました。



 Mちゃんは好きな子がいるよね。Cちゃんだよね。それをこのミカンだとしようね。(普通に置いたミカンを指す)

 嫌いな子もいるだろう?嫌なやつって思う子だよ。えっ、いない?それはすごいなあ。

 でも、あまり遊びたくない子はいるだろう。それをこのミカンだとしよう。(逆さに置いたミカンを指す)

 どっちでもなくて、あまり関心の持てない子はたくさんいるだろう?それを真ん中のお金としようね。

 さあ、これがMちゃんにとってのお友だちだ。



 ところで、Cちゃんにも同じようにこういう3種類のお友だちがいて、それはMちゃんが好きな子や、遊びたくない子や、関心の持てない子と違うのは解るよね?

 それはみんな違うのも解るよね。



 そうすると、MちゃんがCちゃんを好きなのに、CちゃんがMちゃんを好きだと思ってくれていないとしても、あたりまえだよね。

 みんな好みが違うんだから、そうなるよね。

 だから、Cちゃんが遊んでくれなくてもあたりまえなんだよ。

 決してCちゃんが悪いんじゃないのは解ったよね。



 じゃあ、どうしようね。Mちゃんが遊びたいと思っても、Cちゃんがそう思わなければどうにもならないよね。

 ここで大事なのは、遊んでくれないからってCちゃんを嫌いになってはいけないということだよ。

 Cちゃんは悪くないんだから、Mちゃんに嫌われたら可愛そうでしょう?



 好きだなと思ったら、相手がMちゃんを同じように好きでも、あるいは嫌いでも関係ないよね。

 Mちゃんを好きだと思ってくれるから好きで、そう思ってくれなきゃ嫌いだというのなら、本当にCちゃんを好きだということにはならないんじゃないかな?

 解る?ああそう、良かった。



 好きなままでいたら、こんなことが起こるかも知れないよ。

 たとえば、Cちゃんがいじめられたらどうする?

 助けてあげようと思うよね?

 思う?ああ、良かった。

 もし助けられたCちゃんがMちゃんの気持を解ったら、遊んでくれるようになるかも知れないよね。

 

 こういう風に、これから先どんなことが起こるか誰も知らないんだから、誰かを好きだと思ったら、その気持ちは大事にして行こうね。

 好きな気持は嫌いな気持と比べてどう?何となく嬉しいよね。

 相手がどうであっても、こうした嬉しい気持はきっとMちゃんを幸せにするよ。
 

 ところで、嫌なやつがいないっていうのは、本当にすごいなあ。

 いつまでもそういうMちゃんでいようね。

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?皆がやるからやめられない時 ―共業(グウゴウ)の問題―

 いじめの話題になりました。クラスの何人かが誰かを標的にした場合、やめようよと口にする勇気は、悪巧みに荷担する子供たちの数によって抑えられてしまうというのです。

 皆がしているようにしないと、学校生活ができないのです。善悪の判断は脇へ追いやられています。

 こんな意見も出ました。

「ウチの姪娘は伸び伸びと育って欲しいと願っているんですが、まわりのお子さんが皆、塾へ行っているらしくて、やはり塾通いなんです。母親も問題があるのに気づいてはいるんですが、塾へ行かせないとレベルの高い中学校へ入れないらしく仕方がないようです。どこの中学校へ入るかで、もう、高校も大学もほとんど決まるそうです。小学校3年生なのに仲間をライバルと思っているようですから、心配でなりません。こういうのって、どうにもならないんでしょうか」

 Hさんが憤慨し、やがて、ため息を漏らされました。

 考えてみれば、〈時代の空気〉にも、それとははっきり認識できなくとも無言の強制力があり、私たちは知らず知らずのうちに真の自主性を失い、空気に流されているのではないでしょうか。



〈皆の行いが積み重なり私たちを縛ってしまうもの〉が、以前、書いたことのある「共業」です。

 前の原稿では、1954年に米国が水爆実験を行なった後、死の灰を浴びた被害者へ生殖機能が低下するという医学的な見解を告げていなかったことが明らかになった事件をとりあげました。

 一個人の抗し得ない日米両政府の非人道的な行いが、約半世紀の間、闇に隠れていたのです。

 また、銀行の言葉を信じて苦労したあげく肝心な場面で見捨てられ、怨みの遺書を残して自殺した経営者をとりあげました。

 交通事故による死者の4〜5倍にも上る日本の自殺者(毎日、約100人!)のいったいどれだけが、抗し得ない流れに溺れてしまわれたのでしょうか。



 釈尊は、人は「正しい行為=清浄業(ショウジョウゴウ)」と「悪しき行為=不浄業(フジョウゴウ)」とを行い、それによって必ず「楽」か「苦」を招くという因果応報の真理を悟られました。

 

 たとえば親に口応えした息子が父親に殴られたとします。

 口応えと暴力が、現われて消えた「表業(ヒョウゴウ)」です。

 その結果、息子は泣き、父親はこれで良いと思って拳骨を解きます。原因は結果を招きました。

 

 しかし、ことは、これだけでは終わりません。人の行為は目に見えるものをもたらすだけでなく、必ず後に何らかの影響力を残します。

 もしかしたら、息子は受けた暴力の恐ろしさによって心に深い傷を負ってしまい、成長と共にそれが人格に歪みをもたらすかも知れません。

 もしかしたら、父親は暴力を振るってストレスの発散を覚え、より暴力的な人間になってしまうかも知れません。

 あるいは、息子は非暴力を誓う聖者になり、父親は深く悔い改めて円満な人格者になるかも知れませんが、いずれにしても、見えぬ力が残ります。

 これを「無表業(ムヒョウゴウ)」といいます。

 人格は、生まれ持った心の核となっている「過去世の無表業」と、日々の生活と共に積み重なる「現世の無表業」とによってつくられます。



 こうした「行為と結果」、あるいは「影響力と結果」が社会的な規模でも生じており、それがこの稿の主題である「共業」です。

 非人道的な国家利益の追求は、「共業」としての「不浄業」です。それによって、無辜の被爆者たちの人生が破壊されました。

 弱肉強食思想による自分たちだけの利益の追求も、「共業」としての「不浄業」です。それによって、経営者は自殺しました。

 入学競争に走らせる社会の仕組みも、卑劣ないじめを横行させる子どもたちの非道徳的な心模様も、「共業」としての「不浄業」です。



 もちろん、一方には「共業」としての「浄業」もあります。

 「古池や蛙飛びこむ水の音」を読めば、私たち日本人のほとんどは、しいんとした静かな場所にある小さな古池の光景を思い描くことでしょう。

 そうした自然に育まれた一匹のカエルがポチャンと飛び込み、波紋がゆっくりと広がります。

 音を吸い込んで行く天地の懐の深さ、波紋に現れているゆったりした時間の流れ。音と波紋に現れている空間と時間の精妙さ。やがて、すべてが元へ戻り、何ごともなかったかのように不動のたたずまいを見せている天地自然の悠久さ。こうしたものをしみじみと感じとれるのは、無数の生き死にを繰り返したご先祖様方が、美しい「浄業」を残してくださったからです。

 それを同胞と共有しているありがたさを感じる時、祖国は何としても守らねばならないという気持になります。



 私たちは、一人一人が「共業」に関わっています。

 我欲で動けばそれを穢れた色に染め、まごころから発する思いやりで動けば、それを清浄な色に染めます。

 まごころに立てば、必ず自他を幸せにし安心させる智慧がはたらきくものです。

 確かにたった一人では抗し得ない恐ろしい「共業」はありますが、いかなる場面であっても、自分のまごころは、自分で損なわない限り決して損なわれません。

 

 たとえば、原理を発見した時のアルキメデスの喜びと確信は、何ものが壊せましょうか。

 たとえば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征したおり、暴風雨に遭った船を救おうと自らを海の神へ捧げた妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の献身の決意と喜びは、何ものが壊せましょうか。

 たとえば、5年も10年も限りなくアリの目線でアリを観察し続け、ついに左の真ん中の足から歩き出すことを発見した画家熊谷守一の境地は、何ものが壊せましょうか。

 たとえば、「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」と詠んだ明恵上人の、月にみ仏を感得する精神の深み、霊性の発露は、何ものが壊せましょうか。



「真」「善」「美」「妙」いずれの道も、不変・不動・不壊のまごころを発揮させる道です。

 悪しき「共業」に負けそうになったならば、自分に合ったどれかの道への歩みを確かめましょう。子供へ、それぞれの道を感じさせるものや機会を与えましょう。

 そうして、一人一人が美しい「浄業」を重ねることによって、共に、美しい「共業」をつくりたいものです。

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?み仏と会った人はいるんでしょうか?

 ものごとをご自身でちゃんと考えるGさんから、率直なご質問をいただきました。

「仏神がほとんど人の形をしてるのは疑問」そして、(誰か見たのか?)というものです。

 Gさんは、「神も仏もないものか」と言いたくなるような理不尽なできごとを正面から相手にしておられ、低い呻きを含んだ問いを発しないではいられないのも解ります。

 

 この欄ではちょっと失礼かと思いつつ、世の親御さんたちにも考えていただきたいと願い、書くことにしました。

 

 美術史家や宗教学者の説がどうなっているのかはよく判りませんが、一行者としては、まず第一に、

「亡き聖者と会うことのできる行者はいくらでも存在したにちがいないし、今もいる」

という実感があります。

 釈尊やお大師様にあこがれる人々の中に、その境地の追体験を求めるうちに御霊との共鳴が起こって、まざまざと「おられること」を感じたり、お声を聞いたり、お姿を見た人がいたことは確かです。

 具体的な例としては、世界大百科事典にも掲載されている「念写」の大家三田光一氏が、昭和5年3月16日に、重ねた乾板の7枚目に写し出した弘法大師像があります。

 そうした特殊な能力を待つまでもなく、たくさんの方々が、さまざまな形で亡き親や友人とお会いになっておられるはずです。

 聖者と会った魂の震えるような体験が文章となり、絵や彫像となって結晶することには、何の不自然さも不思議さもありません。。



 次は、じゃあ、お不動様や観音様はどうなのか?ということになりましょうか。

 人間のいのちは五感六根ではたらいていますが、人間の眼はカメラではなく、人間の耳は録音機ではありません。 風景は眼識を通じて「見えたもの」として認識され、声は耳識を通じて「聞こえたもの」として認識されます。

 この眼識や耳識に反応を起こさせる風景や声は、その人その人によって千差万別です。

 キノコ採りの名人は、普通の人の眼に映らないキノコを待っているものと出逢うがごとく的確に見つけ、亡き師を慕う弟子は、山道ですれちがった見知らぬ人の後姿に、変わらぬ師の励ましを感じたりするものです。

 島崎藤村は、海岸へ流れ着いた一個の椰子の実に、日本人のルーツとなったであろう南方の景色を見ました。

 悟りの不動を信じ、罪悪を滅ぼし尽してくださる智力の絶大なることを感じている行者が、ある日、そうした徳の権化であるお不動様を感得しても、み仏のお慈悲の絶対無限に随喜している行者が、ある日、慈母のごとき観音様を感得しても、これまた何の不思議もありません。

 そうした感得体験が経典となり仏像となり、さまざまな仏像として表現されました。

 後代の行者たちも、お像を眼にし印を結び真言を唱えているうちに、先人たちの経験をありありと追体験できます。



 また、五感六根を通して心に映る世界の感動は、「人間としての感動=人格的な彩り」となって心へ喜びをもたらすことも考えねばなりません。

 それは、何らかの人格としてまとまった印象をもたらしもします。

 たとえば、ベートーベンの「英雄」を聴けば、激動・高貴・悲嘆・上昇・歓喜・生死などの印象が生じ、横山大観の「霊峰不二」を観れば、雄大・清浄・荘厳・高貴・高踏・平安などの印象を生じますが、それらはすべて人格的印象です。

 「人間を超えたもの」もまた、私たちは「人間的に」しか感じ得ません。

 純粋な心が超越者に接すれば、心の深奥にある高貴・清浄・広大・深遠・精妙な部分(み仏の心)が音叉のように反応します。そして、感得されるものと感得する者との境界はなくなります。

 「み仏は心におわします」とはこのことです。

 音叉の霊動が音楽になれば「英雄」となり、絵になれば「霊峰不二」となり、文章になれば「不動経」「観音経」になります。

 

 だから、「超越者」が「最高人格者」としての姿をもって表現されるのは当然なのであり、「仏像は人の形をしている」のです。

 そして、貴方も私も等しくみ仏の子なので、願い、祈り、心を澄ませせば誰でもお姿を「見る」ことができるはずなのです。

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?『マッチ売りの少女』を読みましょう

 毎年、この時期になるとアンデルセン童話『マッチ売りの少女』を思い出します。

 通りすがりの書店で立ち読みすることもありますが、何といっても昭和3年に発行された菊池寛編『アンデルセン童話集』を白眉とせねばなりません。

 この本は、さる人が書庫の整理にあたり処分したいと言われるのでもらい受けていた『小学生全集』の一冊です。



 昭和3年7月、菊池寛は冒頭でアンデルセンをこう紹介しています。

「彼はそのお伽噺によって世界中に知られ、愛された人、そして此の後も永久にそれによって生きる人なのです」

「アンデルセン、この小父さんの書いてくれたこれ等の可愛い美しいお話を、皆さん、お互ひに大人になってからも忘れないやうにしませう」



 後書(アトガキ)は、菊池寛の言葉を伝えています。

「児童の心はしばしば教室の窓を通して、青草の野を慕ってゐる。私の小学童話読本も青草の野でありたい。だが、この青草の野は、私の趣味と信念によって管理され、児童を誘惑する未熟の黒樹や毒草は一本一茎もない筈である」

 

 ここに言うところの「趣味」は、私たちのいわゆる「好み」ではありません。言葉は控え目でも、超一流の文学者としての感性と誇りをかけて行なわれた「選択」のことでしょう。そして、「信念」の内容は、感受性豊かな青少年たちの健全な育成のために、清浄で滋養にあふれた青草を与えねばならないという一心に他なりません。

 戦後情けないほどに失われた、〈公のために恬淡として自分自身をかける〉という日本人らしい潔さが感じられ、目頭の熱くなる思いがします。

 我が利を貪るあさましい姿を平然と人前にさらす人々が英雄視される日本になるとは、英霊の想像もできなかった事態にちがいありません。

「かくばかりみにくき国となりたれば捧げし人のただに惜しまる」

 戦争未亡人の詠んだこの一句には肺腑をえぐられます。



 さて、この本では『幼いマッチ賣り』となっている『マッチ売りの少女』です。

「寒さと餓(ヒモジ)さに、少女は其處(ソコ)の道ばたに踞(シャガ)んでしまひました。可哀さうに其の肩の上に捲き垂れている長いきれいな髪に雪がどんどん降りかかるのを、かき拂ふ力もありません」

 薄倖さと寒さの厳しさと雪の白さが、少女の哀れさと美しさを際だたせています。



「シュッ!火花が跳ねた、跳ねた!少女が手をその上にかざすとそれは小さな蝋燭(ロウソク)の様に温い輝かしい光を投げかけたのでした」

 一本のマッチの火が別世界を顕わすシーンです。



 これでこの本は終わります。

「お祖母さんは子供をその腕に抱き上げ、それから二人は一緒にその明るみの中を高く高く地を離れて行きました。寒さも餓(ヒモジ)さも苦しみもない神の國の方へ。

 其の夜も明けた時、哀れな少女は壁に倚(ヨ)りかかって倒れてゐました。頬の血は失せ、それでも口には微笑みを浮かべながら、彼女は寒さに凍え死んだのです。

 初日が昇って、小さな亡骸を照らしました。けれども彼女は固く強ばった身を伸ばした儘、手には燃えたマッチの束を持ってなほも其処に寝てゐます。

『この子はこれで身を温めようとしたんだね。』

と通行人は言ひ合いました。けれども、彼女がこの新年の暁方(アケガタ)、どんなに美しいものを見たか、そしてお祖母さんと一緒に何(ド)んなにいい處へ行ったか、それを想像できた人は一人もありませんでした。」



 生と死、この世と天国、貧しさと豊かさ、ひたむきさ、家族愛、美。ここには子どもたちの想像力と創造力を高める宝ものがたくさんあります。

 佳い文章でつづられた〈黒樹や毒草〉でない良い物語が、子供を楽しませるだけでなく、家族・師弟・友人間で行なわれる真剣な対話のきっかけになりますよう。

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