--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2016
07.14

Q&A(その26)「最期に苦しむ人」とならないためには? ─解き放たれ、委ねる─

2016-07-14-0001.jpg

 ほとんどの人は幸せに生きたいと願う。
 そして、安心して死にたいとも、思う。

 幸せに生きるには、この世のことごとについて、この世なりの条理をつかんで処置すれば何とかなる。
 不運や不条理が大きく立ちはだかる時は、自分の心のありようを見つめれば、流れが転換できる。

 安心して死ぬには、まず、寝て、食べて過ごせるように、準備しておきたい。
 逃れられない死に対する恐怖感をどうするかが、最後の難問だ。

 森津純子医師は、医療相談とカウンセリングをもっぱらとし、たくさんの人々を見送った。
 医師が「最期に苦しむ人」と指摘したタイプのうち、二つを考えてみよう。

1 特定の思考に縛られる人

 宗教は人を救い、苦しめもする。
 仏神に守られているという確信は人を根本的に救うが、ドグマに縛られれば危うい。

 仏教の「因果応報」は道理として疑いにくく、倫理の基礎として動かせないからこそ、私たちは、自分なりの精進(ショウジン)を志向する。
 それは、1+1が2と確定していなければ計算が成り立たないのと同じ重要さを持っており、もしも人助けをして撲られ、人を傷つけて誉められるならば、私たちは意思決定できず、発狂してしまうことだろう。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通の「最後の審判」もまた、人を善行(ゼンギョウ)へと誘い、悪行(アクギョウ)を制止する思想である。
 善悪の基準がなくなれば、上記のとおりとなる。

 しかし、もしも、最期を迎えた時、自分が犯した過ちを〈上書き〉するだけの善行をしてこなかったと悔いるならば、どうなるだろうか?
 もしも、最期を迎えた時、自分の不安や苦しみを神が与えた罰と考え、押し潰されそうになったなら、逃れられようか?

 いかなる思想も宗教も、いのちと心の世界全体をつかみえない人間にとって、道しるべの一つとしての仮説であることを忘れないようにしたい。
 仮説をどう考え、どう用い、どう生きるかは、一人一人が個別に生まれ、他者と身体も心も交換し得ない絶対の個別性を持った個々人の判断にかかっており、仮説は、一人の人間が生きているという真実全体を動かす主人公ではあり得ない。

 いかなる〈道理〉も〈お告げ〉も、一人の人間の人生に対して責任を持ちようがない。
 そうしたものを生かす主体性を保つか、それとも縛られて自分を追いつめるか、結局は一人一人の問題となる。

2 狭い自分の世界に閉じこもり、他人の言葉に耳を傾けない人

 私たちのいのちは、一瞬たりとも〈おかげさま〉なしには保てない。
 無数の人々との目に見えない縁の糸で結ばれ、守られていればこそ、自分の家で起き、電灯を点し、水を飲み、歯を磨き、新聞を読み、テレビを眺め、朝食を摂り、仕事に向かえる。

 自分の手が届かないところで、お巡りさんが、電力会社の人々が、水道局の人々が、新聞配達員が、報道関係者が支えてくださっており、自分にとってそれらの人々は、言わば〈プロ〉である。
 こうしたプロへ対する畏敬の念を忘れれば、私たちは恩知らずになるばかりでなく、この面でも、あの面でも、どんどんと〈井の中の蛙(カワズ)〉になり、愚かになる。

 この愚かさを助長するのが高慢心である。
 高慢な人は、真の意味で他者をプロと認めず、いかなる面においても自分を常に最上位へ置かないと気が済まず、自分の無知に気づかない。

 しかし、私たちはそもそも、意識では自分が自分の主人公であっても、一瞬後に何が起こるかは、自分で決められない存在だ。
 歩いていれば、一瞬後に懐かしい人と再会するかも知れないし、決して顔を合わせたくない相手が不意に四つ角から現れるかも知れず、自分ではどうしようもない。

 何があっても自分を失わず、平静を保ち、適切な判断を誤らないためには、意外にも私たちは、心のどこかに〈委(ユダ)ねる〉という柔軟性を持っていなければならない。
 委ねる心理がはたらけば、好事や順境に舞い上がらず、悪事や逆境でへこたれない。

 私たちは無数の〈プロ〉たちに囲まれている。
 感謝し、信頼し、委ねた方が、自分を向上させつつ、心豊かに生きられるはずだ。

3 結論

 思想も宗教も、その究極的役割は、私たちを〈解き放つ〉ことにあるのではなかろうか?
 米大リーグのイチローは、徹底した自己管理によって、自在にボールを打てるようになった。
 私たちも、真剣に真理・真実を求め、研鑽して行けば、決して縛られるのではなく、解き放たれた地点に近づけるのではなかろうか?

 私たちは、自分があらゆる面で自分の主人公になろうとし、ありがたいプロの面々に囲まれていることを忘れているのではなかろうか?
 病気になれば病院に通いつつ、医者の言うことを信じずに、ネット上のおかしな情報に迷う。
 相手を見極めて信じ、委ねるのは、決して自分を失うことではなく、自分が柔軟になり、霊性がはたらきやすくなっていることを意味する。

 解き放たれ、委ねるならば、「最期に苦しむ人」とならずに旅立てるのではないかと思える。
 お釈迦様は、「川を渡ったならば、それまでの頼りだった筏(イカダ)は置いて、その先を自分の足で歩め」と説かれた。
 不安と苦しみの中で出会ったものを信じ、研鑽し、誠心を尽くした先にある広大で自由な世界が予感されるではないか……。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


スポンサーサイト
2015
10.28

Q&A(その12)子供が友だちと争っても謝らない時は?

201510260001.jpg
〈「因縁解脱をしたいので」と、お焚きあげに持ち込まれた方の許可を得て撮影しました。こうした紙幣を造っていた時代もあったのです〉

 ある時、寺子屋で、相手をケガさせたのに謝らない子供へどう話せばよいか、というご質問がありました。
 こんなふうにお答えしました。

「最初にB君が君の本を奪い、君がその本をとりかえそうとした時、B君が転んでケガをしたんだね。
 そして先生は、両方が相手に謝ることによって、仲直りをさせようとした。
 でも、君は、B君が先に本を取ったのだから、ケガをした原因はB君にあるので、君は謝る必要はないと思っている。
 そうだね?

 こうした場合、もちろん、争いが起こった原因がどこにあるのかを確かめて、また同じような争いを起こさないよう勉強することはとても大切です。
 そういう意味からは、まず、B君がむちゃなことをしたためにこういう結果になったのだから、B君がやったようなことは、誰でもやらないように気をつけなければなりません。
 もちろん、君もね。
 だから先生は、ケガをしたB君にも謝らせた。

 さて、問題はそれだけでは終わらないよ。
 いきさつはどうであっても、実際にB君はケガをした。
 自分で自分を傷つけたのではないのだから、B君のケガは、争った君に無関係ではない。
 こうした場合に考えなければならないのは、B君がケガをしたという事実に対する〈結果責任〉です。
 もちろん、法律の問題ではありません。
 ケガをしたり、何かを失ったりした人が出た場合、その人を〈思いやり〉、〈見捨てない〉ことが大切なんだ。
 そうでないと社会は成り立たない。
 なぜなら、必ず失敗をしてしまう人間は、助け合わないと生きて行けないからです。

 さて、立場をかえてみよう。
 成り行きしだいでは、君がケガをしていたかも知れない。
 もちろん、君が最初に争いをしかけてしまうこともあるだろう。
 そうした場合、もしもB君が、包帯を巻き手をつっている君に対して知らん顔をしているなら、君はきっと「なんてひどいやつだ!」と怒るだろう。
 絶交するかも知れない。

 しかし、もしもB君が、自分がわざとやったのでもないのに、「A君、ごめんね、大丈夫かい?」と心配してくれたならどうだろう。
 君もこう言えるかも知れない。
「ああ、大丈夫さ。
 元々、僕が悪かったんだから、もういいよ。
 また、遊ぼうね」
 これは、君が、ケガをする結果に関係したB君を許し、B君もまた、争いをしかけた君を許すことを意味しているんだ。

 つまり、B君がどういう〈態度〉をとるかによって、君の心はちがってくる。
 絶好をするのと、また、遊べるのとでは、天と地ほども、君の生きる環境がちがってくる。
 わかるね?

 さて今の状態に戻って考えてみよう。
 君は、ケガをしたB君が今後、君との関係をどうするか、君とB君との関係がどうなるか、そのカギをにぎっているんだ。
 ぼくは悪くない、と言って謝らないのか?
 それとも、B君がケガをしたという事実に〈関係した人〉として、出た結果に対する責任を感じ、「ごめんね」と謝り、「早くなおるといいね」と思いやるか?
 君の態度一つで、B君にとっての生活環境も、君にとっての生活環境も、学校に行く時の気分も決まる。
 さあ、どうしようね。

 私たちは誰でも、失敗をしてしまう人間同士なんだ。
 だから、そうしようとしたわけでもないのに、痛みや苦しみや悲しみや怒りが生じてしまう。
 問題はただ一つ、そうした時にどういう態度をとる人間になるかだ。
 結果責任を感じて謝り、あるいは相手を許し、いっしょになって痛みや苦しみや悲しみや怒りを消して行くか?
 それとも、どっちが正しいかだけを考え、自分が正しいなら相手がどうなってもかまわず、自分が正しくない時だけ謝る、こうした人間になるか?

 そもそも、人間は、自分が一番かわいいので、どうしても〈自分が正しい〉と考えがちだ。
 だから、〈正しさ〉を主張する人ばかりになったら、みんなぶつかり合い、絶好し合い、孤立し、人間社会が成り立たなくなる。
 君が結果責任を感じ、ケガで困っているB君を思いやり、争いをしかけてきたことを許すのは、君が君の住む社会をほんの少し、よくするための大切な態度なんだ。
 よく考えてみようね。」




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
10.07

立ち止まっても感謝すれば歩み出せる ―生きる目的をどこに求めるか―

2015100600012.jpg
〈「毒箭を抜かずして 空しく来処を問い 道を聞いて動かずんば 千里いずくんか見ん」髙橋高温先生書〉
(毒の箭(ヤ)で射られているのにそれを抜かず どこから誰が射たのかなどとうんぬんし せっかく仏道を聴いても実践しなければ 千里先の目的地へは決して到達できない)

 人生相談に来られる方々はどなたも、立ち止まってから、普段とは違う場所へと足を向けます。
 立ち止まる時は、立ち止まらせられている、とも考えられます。
 それは、〈普段どおり〉にやれない状況にぶつかっているからです。

 原因はいろいろあります。
 うまく行かない人間関係、テストの失敗、失恋病気など、何ごともなく過ごしていた日常生活に亀裂が入り、不安に苛まれる時、私たちは立ち止まります。
 未来はどうもよく見えない……。
 そしてようやく自分の足元を見ます。
 ――しばらくぶりに。
 あるいは、初めて。

 そして、「どうすればいいのだろう?」と迷った末に、根本的な問いを発します。
「私は何のために生きているのだろう?」
 答えが出なくて愕然とします。
 さまざまな情報に答を求めますが、得られません。
 家族や友人が答を持っているとも思えず、途方に暮れます。

 こうした皆さんの事情は、ある程度、お察しできます。
 小生も、受験の失敗で人生の目的を見失い(「目的」と手段を取り違えていたのですが、当時は気づきませんでした)、答のない問いを抱きつつ商売をやり、失敗しました。
 中年になってから出家し、また、〈探す旅〉を始めました。
 そして古希(コキ)になってつくづく、私たちは誰でも、〈誰かの何かの役に立っている〉と実感します。
 赤ん坊は100パーセント、家族などの手を借りなければ生きられませんが、その状態でもなお、生きて輝いている小さないのちとして、手をかける人々の希望や勇気などをかき立てます。
 年老いて誰かの介護がなくては生きられなくなったご老人も、「ありがとう」という心と言葉と笑顔によって、誰かの役に立てます。
 青い鳥のように、どこかで待っているのではなく、生きていることそのものに〈生きる目的〉は付随しています。

 かと言って、生きてればいいのか、と無頓着に好き勝手をしてよいとは思えません。
 一人前に社会生活をする大人ならば、生活の仕方、ふるまい方が〈その人〉を表し、その人と社会の関係を決めて行くからです。
 普段、私たちの人生は〈どう生きて行くか〉だと思っていますが、実態は〈どう生かされているか〉だからです。

 どう生かされるかを決める最も根本的なものは、感謝する心のあるなしではないでしょうか。
 感謝の心がある人は、「ありがとう」の言葉一つで、いつでも誰かの役に立てます。
 感謝する→笑顔が返ってくる→心が温かくなる。
 ここに生きる目的は達成されています。
 支え合っているからです。
 支え合わなければ生きられない私たちは、支え合いさえすればもう、存在する目的を探す必要はないではありませんか。

 生きる目的を見失って人生相談に来られる方々の多くが、自分が知らぬ間に誰かの役に立っていることを忘れておられます。
 あるいは役に立てることを忘れているか、気づかないでおられます。

 自分の中にいくら探しても究極的な目的は見つかりません。
 それは誰一人として、自分だけで生きてはいないからです。
 地位も名誉も財産もすべて手段でしかありません。
 それは、病気になったり、年老いたり、失脚したり、騙し取られたりした時、ようやく明らかになります。

 自分探しなどをして、自分に目を向けているだけでなく、むしろ自分を支えてくださっているあらゆるものへ目を向けてみましょう。
 人はもちろん、ネコも、花も、青空や空気さえも支えてくださっています。
 その真実に気づき、「ありがとう」と心でつぶやく時、もう、自分探しも、人生の目的探しも、意識から消えていることでしょう。

 この感謝を保つためには、気づくこと、言葉に出すこと、そして、ネコならなでてやり、花なら水をやり、青空や空気なら環境から汚れを取り除く意識で行動することです。
 そうすれば、立ち止まったあなたはもう、歩み出しているはずです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
05.26

開かれた仏教と市場経済の話

201505260001005.jpg

 お釈迦様は説かれました。
宗教市場経済と同じであり、市場における自由売買にたとえられる」

 市場で野菜を売り買いする際に、社会的地位は問題になりません。
 売り手は買い手の身分を訊ねてから売りはしないのです。
 買い手もまた、売り手の人物とは無関係にモノを買います。
 お釈迦様は、宗教も同じであるとして、相手が王であろうと売春婦であろうと、等しく相手に必要な法を説かれました。

 バラモン教は師拳(シケン)と称し、社会的階級に合わせた宗教行為を行います。
 師の拳に隠された秘儀は階級によって選ばれた特定の人にしか明かされませんが、お釈迦様は相手を選ばず、最善を尽くされました。
 最善の手立ては、後に「方便」という仏教語となり、方便は万人に明かされ、与えられています。

 一方、お釈迦様は、宗教を医療行為にもたとえられました。
 熱冷ましや咳止めが与えられ、それを自分でまじめに飲み、指示に従って安静にしていれば風邪を治せます。
 しかし、外科手術が必要なら、技術のある執刀医に任せるしかありません。
 患者の理解と努力が関われる範囲は、病気の内容によって大きく異なります。
 それと同じように、求め、救われる道筋は万人に開かれていますが、どのように救われ得るかは千差万別です。

 教えは自由に選べるし、与えられるべきですが、求める人により、与えられる内容にはおのづから違いも限度もあります。
 5才の子供へ10才用のオモチャが与えられれば、使えず、壊すだけでなく、ケガをするかも知れないのと同じです。
 だから、それを見極める側の役割と責任は小さくありません。
 僧侶は必要な内容を説かなければ救えず、あえて説かなければ罪とされる一方で、相手の能力を超えたものを与えるのもまた、罪となります。

 こうした理由により、当山の人生相談は袈裟衣をまとい、三礼(サンライ)に始まる修法に入ってから行います。
 ちなみに、三礼とは、み仏と、教えと、み仏と教えを学び守り伝える人々、すなわち三宝を尊び、帰依(キエ)する礼拝です。

 仏教は、誰でもが求め、手に入れられる教えであり、救いです。
 しかし、教えも修法もお金に換算できず、いかにやりとりされるかは、み仏のご判断を仰ぐ行者に委ねられます。
 一方、三宝へ対する誠意として差し出されるお布施は、求める側の価値判断と経済事情に委ねられます。

 だから、お釈迦様が市場に例えてその開放性を説かれた仏教は、現実の市場経済に乗って売り買いされるべきものではありません。
 そもそも宗教は、一人一人が自分で心へ問い、人間へ問い、自然へ問い、世界へ問い、仏神へ問い、死者へ深く深く問うところからしか入れない世界ではないでしょうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
03.09

人生に悩む、人生を悩む ―こんがらかった悩み―

201503090002.jpg
〈春の花々が笑いかけていることに気づきましょう〉

 あれこれ悩んでいるうちにこんがらかってしまった、というご相談がありました。
 人生相談にご来山される方は、大きく二つに分けられます。
 人生に悩む方もおられれば、人生を悩む方もおられます。

 人生に悩むとは、人が生きていく過程において生じる、他人との軋轢(アツレキ)や、病気や、貧困などで困る状態です。
 これをAとしましょう。
 人生を悩むとは、人が生きていることそのものについて、意味や意義や理由など、あれこれと思いを廻らして答が見つからない状態です。
 これをBとしましょう。

 Aの解決において必要なのは、知識や才覚や人のつながりなどであり、昨今、大流行のスキルアップや思考の傾向を変える訓練などが役立つ場合もあります。
 要は、自分を含め、何か因果関係が明らかな力で解決し得ます。
 最もわかりやすいのは、病院へでかけて病状を明らかにしてもらい、治療を受けて快癒することです。

 ところがBには、Aのように、誰かにケンカの仲裁をしてもらうとか、気に入らない職場でも気持を入れ替えて頑張るといった根本的あるいは具体的解決法がありません。
 自分がわからないだけでなく、誰にも教えてもらえません。
 生きていればやがて〈その時〉が来て、〈気づき〉があるとでも言うしかありません。

 だから、まず、悩みがある方は、AとBとどちらを悩んでいるか、悩みそのものをよく見つめてみましょう。
 これが案外、はっきりしているようで、そうでもないのです。
 だから、昔から、宗教で信者を獲得するには病気の人や貧困の人へアプローチすればよいとされており、事実、そうして巨大化した宗教団体もあります。

 また、科学がほとんど信仰的にまでなった現在、科学的な装いをした〈思い込ませ〉により、事業に成功する例も散見されます。
 Aの状態なのに、知らぬ間にBの状態であると思い込まされ、効かない薬を信じて病状を悪化させたりします。
 だから当山では、ご本人に、いかなる状態にあるかをまず、自覚していただくよう気をつけています。

 もしもAならば、心がけなどについてお話しし、場合によっては医者や弁護士などをご紹介もします。
 もしもBならば、話をよく聴かせていただき、当人と一緒に悩みの形を見つけ、それに合った宗教的思考や実践方法などをお伝えし、場合によってはご祈祷やご加持といった提案もします。
 当然、AとBが入り交じり、ウェイトが変化して定まらないケースもあります。

 たとえば、職場の人間関係が悪化して人間不信に陥り、世の中も自分もわからなくなってしまう。
 幼い頃に体験した家庭内のDVが、大切な人間関係に微妙な影を落とし、いざという時になかなかうまく行かない。
 夢中で仕事をしてきたのに、病気になって休んだ途端、仕事の意義が感じられなくなってしまう。

 こうした場合は、共に考え、共に祈り、世間的方法と宗教的方法とによって根気強く解決を目指すことになります。
 世間的方法はほとんど「~である」という形で力を発揮し、宗教的方法はほとんど「~と感じられる」あるいは「~と思える」などという形で力を発揮します。
 たとえば薬が効くと思えるだけでは安心できず、効くことが立証されていなければ怪しく、一方、祈りによってよき心になったように感じられるなら一歩、前進ですが、大金をお布施すれば大丈夫ですと断定されてもやはり、怪しいのです。

 私たちは悩む時、いつしか呼吸が細くなっています。
 この呼吸を胸でなく、腹で行うようにしてみましょう。
 意識的にお腹を引っ込ませながらゆっくりと吐き、吐ききったならば、反動でふくらむお腹へゆっくりと吸うのです。

 そうすると、いつしか悩みが対象として客観的に観えてくるかも知れません。
 いつしか〈自分〉が、〈観る者〉としてゆったりと〈居る〉のです。
 こうした時間の体験はきっと何かの役に立つことでしょう。

 その上でなお行く先が不安な方はどうぞ、人生相談へおでかけください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。