み仏の手
露の晴れ間をぬい、墓石業者Sさんが建て込みに入っていました。
どんな具合かと見に行ったら、三人のうち最も年配で体格の良い方が、ユンボで当該地周辺を地ならししておられます。
「重機お借りしていました。
レベルを合わせておきましょう。
でた砂利は奧へ置けば良いですね」
区画の中を処置するだけでなく、周辺へも手をいれてくださると言うのです。
お忙しいのに済みませんとお礼を申し上げたら、私は元々こうした仕事だったんですからとお腹を揺するように笑っていました。
陽に焼けた顔に合掌してから帰山しました。
午後遅く足をはこんでみたところ、さっきの方が、豪快な表情とはうって変わった神妙な様子で近づいてきました。
「住職さん、ちょっとお訊ねしたいんですが」
何ごとがあったのかと、ちょっと身構えました。
「私は霊感が強いわけではないし、こうした経験はないんですが、不思議なできごとがあったんです。
どういうことなのか知っておきたいと思いまして……」
両手でレバーを前に倒しながらユンボを動かしていたら、左手の上に誰かの手が重ねられたというのです。
温かい手がはっきりと乗ったので、思わず払いのけました。
もう一度乗ったので、今度は右手で外すように左側へ押しやったらそれっきりだったそうです。
お答えしました。
「ああ、それは、み仏のご加護です。
お寺のために、皆のためにと思ってご奉仕をしておられたからでしょう。
実は、私もここでご加護をいただいています。
すぐ横の崖から川まで重機ごと転落した時、救急車で運ばれたのに奇跡的な軽傷で済み、翌日から普通に法務を行えました。
お互いに、ありがたいことですね。
これからもよろしくお願いしますよ」
本当に不思議でしたとくり返しながら手を眺め眺め、彼が仕事に戻った後で、社長が来られました。
「あの人は、霊感がどうこうとかおかしなことを言う人ではありません。
さっき、私が様子を見に来たらいつもと全然違う雰囲気なんで、一体どうしたんだろうと心配していました。
そういうことなら本当にありがたいです。
ご加護って必ずあるんですよね」
四国八十八ヶ所第五番地蔵寺の御詠歌です。
「六道の能化(ノウケ…導くこと)の地蔵大菩薩導きたまえこの世後の世」
ご苦労様、それで良いんですよ、これからもしっかりやりなさいとのお導きだったのでしょう。
どんな具合かと見に行ったら、三人のうち最も年配で体格の良い方が、ユンボで当該地周辺を地ならししておられます。
「重機お借りしていました。
レベルを合わせておきましょう。
でた砂利は奧へ置けば良いですね」
区画の中を処置するだけでなく、周辺へも手をいれてくださると言うのです。
お忙しいのに済みませんとお礼を申し上げたら、私は元々こうした仕事だったんですからとお腹を揺するように笑っていました。
陽に焼けた顔に合掌してから帰山しました。
午後遅く足をはこんでみたところ、さっきの方が、豪快な表情とはうって変わった神妙な様子で近づいてきました。
「住職さん、ちょっとお訊ねしたいんですが」
何ごとがあったのかと、ちょっと身構えました。
「私は霊感が強いわけではないし、こうした経験はないんですが、不思議なできごとがあったんです。
どういうことなのか知っておきたいと思いまして……」
両手でレバーを前に倒しながらユンボを動かしていたら、左手の上に誰かの手が重ねられたというのです。
温かい手がはっきりと乗ったので、思わず払いのけました。
もう一度乗ったので、今度は右手で外すように左側へ押しやったらそれっきりだったそうです。
お答えしました。
「ああ、それは、み仏のご加護です。
お寺のために、皆のためにと思ってご奉仕をしておられたからでしょう。
実は、私もここでご加護をいただいています。
すぐ横の崖から川まで重機ごと転落した時、救急車で運ばれたのに奇跡的な軽傷で済み、翌日から普通に法務を行えました。
お互いに、ありがたいことですね。
これからもよろしくお願いしますよ」
本当に不思議でしたとくり返しながら手を眺め眺め、彼が仕事に戻った後で、社長が来られました。
「あの人は、霊感がどうこうとかおかしなことを言う人ではありません。
さっき、私が様子を見に来たらいつもと全然違う雰囲気なんで、一体どうしたんだろうと心配していました。
そういうことなら本当にありがたいです。
ご加護って必ずあるんですよね」
四国八十八ヶ所第五番地蔵寺の御詠歌です。
「六道の能化(ノウケ…導くこと)の地蔵大菩薩導きたまえこの世後の世」
ご苦労様、それで良いんですよ、これからもしっかりやりなさいとのお導きだったのでしょう。
「夢慧チャリティコンサート」後日譚 ―お地蔵様になった話―
5月26日、奉仕活動に来山されたTさんから、ありがたいお話を聴きました。
ちょうど一ヶ月前の4月26日朝、夢慧氏をお招きしてのコンサートを迎え、常に率先してご奉仕活動に励んでおられるTさんは、いつものように早々と善行堂へ入り、掃除をしていました。
一段落した午前10時前、突然、脳天に重いものがドーンと落ちてきたような衝撃を受け、思わず倒れそうになりました。
しかし、そこは気丈なTさんのことです。
「倒れてはいられない!」と必死の思いで何かにつかまり、何とか息を整えました。
しばらくしてようやく我に返ったTさんは、「あれは何だったのだろう。住職に訊いておかねば」と思いましたが、そのまま忙しくコンサートを終えました。
後かたづけなどすべてを終えて暗くなってから家へ帰り、ビックリ仰天しました。
姉の家から入っていた電話によると、今朝倒れそうになったのとちょうど同じ時刻に姉が脳溢血で倒れ、奇跡的に一命をとりとめて治療中だというのです。
Tさんは「私が受けたのでしょうか?」と言われます。
確かに「受けた」のでしょう。
これぞ正(マサ)しく、お地蔵様の代受苦(ダイジュク)です。
経典は、釈尊が入滅された後、弥勒菩薩が救済のためにこの世へ来られるまでの間、ずっと人びとの悩み苦しみを救う役割を背負い続けるお地蔵様の覚悟を示しています。
「我、代わって苦を受けん」
お姉さんは、そのままあの世へ行かねばならないほどの出血をしたにもかかわらず、ギリギリのところでその受難の一部を妹であるTさんに負ってもらい、この世へ踏み止まったに違いありません。
お姉さんは半身不随になったものの、リハビリに励み、順調に回復しておられます。
こうした篤信の方々の存在は当山にとっての励ましとなり、壇信徒の方々にとっての手本や救いとなっています。
共に信じ、行いましょう。
ちょうど一ヶ月前の4月26日朝、夢慧氏をお招きしてのコンサートを迎え、常に率先してご奉仕活動に励んでおられるTさんは、いつものように早々と善行堂へ入り、掃除をしていました。
一段落した午前10時前、突然、脳天に重いものがドーンと落ちてきたような衝撃を受け、思わず倒れそうになりました。
しかし、そこは気丈なTさんのことです。
「倒れてはいられない!」と必死の思いで何かにつかまり、何とか息を整えました。
しばらくしてようやく我に返ったTさんは、「あれは何だったのだろう。住職に訊いておかねば」と思いましたが、そのまま忙しくコンサートを終えました。
後かたづけなどすべてを終えて暗くなってから家へ帰り、ビックリ仰天しました。
姉の家から入っていた電話によると、今朝倒れそうになったのとちょうど同じ時刻に姉が脳溢血で倒れ、奇跡的に一命をとりとめて治療中だというのです。
Tさんは「私が受けたのでしょうか?」と言われます。
確かに「受けた」のでしょう。
これぞ正(マサ)しく、お地蔵様の代受苦(ダイジュク)です。
経典は、釈尊が入滅された後、弥勒菩薩が救済のためにこの世へ来られるまでの間、ずっと人びとの悩み苦しみを救う役割を背負い続けるお地蔵様の覚悟を示しています。
「我、代わって苦を受けん」
お姉さんは、そのままあの世へ行かねばならないほどの出血をしたにもかかわらず、ギリギリのところでその受難の一部を妹であるTさんに負ってもらい、この世へ踏み止まったに違いありません。
お姉さんは半身不随になったものの、リハビリに励み、順調に回復しておられます。
こうした篤信の方々の存在は当山にとっての励ましとなり、壇信徒の方々にとっての手本や救いとなっています。
共に信じ、行いましょう。
経典に書いてあることは本当ですか
大病に罹った方へ「観音経」をお勧めしたところ、素朴な質問をいただきました。
「海で暴風雨に遭っても船が沈まないとか、高い崖から落とされても大丈夫とか、本当にそうしたことがあるんでしょうか?」
確かに「観音経」には、一見したことろ叶えられそうにない不思議なお約束が羅列されています。
しかし、疑えば唱えられません。
読誦が口先だけになるからです。
「本当かどうか」は、「それが真実を示すかどうか」ということであり、「自分」にどこまでもとらわれているか、それとも、心の底から自分の愚かさを知り、悪業を恐れ、「こんな私をお救いください」「お導きください」と、み仏へお任せできるかどうかがポイントです。
真実を求めず、煩悩を主人公としている自分の姿から眼を背け、その場しのぎで渡る人生の儚さに気づくために、「空」の教えがあります。
み仏からいただいたいのちの値打ちに見合った生き方をしたいならば、モノ(自分の身体を含めて)を頼りにしてはならず、我(ガ)を頼りにしてはならず、周囲の人を頼りにしてはならず、まちがった説を頼りにしてはなりません。
すべて、蜃気楼のようなものだからです。
因と縁によって成るものはすべて空です。
たとえば、在ると思っている手の指も空です。
たまたま事故に遭わず、病気にもやられていないから身体にくっついているだけです。
最近も、ある工場で起こった事故によって失われそうになった方の指が落ちないようご加持を行ったばかりです。
だからといって、身体を粗末にし、自分を粗末にし、周囲の人びとを粗末にし、いろいろな説を粗末にしてはなりません。
それは、人生修行のために、み仏からいただいた環境世界という道具だからです。
道具を活かすもの。
それが大我(タイガ)であり、慈悲と智慧とによって成り立ち、清浄な大欲を発します。
慈悲と智慧から成るならば、それはみ仏そのものです。
「大我=み仏」なら自分の内側へそれを求めれば良さそうですが、煩悩が凝固した我の壁は厚く、気まぐれな瞑想や自分探しの旅などで簡単に突き破れるものではありません。
だから投げ出すのです。お任せするのです。おすがりするのです。
そうすると、〈祈りの対象となっているみ仏〉と〈内心におわすみ仏〉との間で感応が起こり、内と外がなくなります。
いつしか「大我=み仏」の世界へ入っています。
修行とは、こうした過程です。
皆さんがお経や真言を読誦するのも、写経をするのも、隠形流居合の稽古をするのも、知らぬ間にこの道程を進んでいることに他なりません。
冒頭のご質問への答です。
「日常生活のひび割れを縁として愚かな自分を知ったなら、いつまでもそのままでいてはなりません。
虚構と欺瞞を離れたくなったなら、み仏の世界を信じて祈りましょう。
救いは日常的な計らいを超えています。
日常的な計らいの範囲ならそれは凡夫の世界であって、み仏の世界ではありません。
だから、般若心経で『苦・集・滅・道も無い』と説いているでしょう。
行うべきは〈苦・集・滅・道〉と現れている凡夫の世界からの超越です。
船が沈みそうになったからといって、高い崖から落とされそうになったからといって、み仏の世界はびくともしません。
観音経は、み仏の世界を説いているので、当然のことです。
般若心経も観音経も、『こだわらないで生きよう』『いつでも観音様の元へ行けるから安心だ』と理解し、信仰するならそれも結構でしょう。
しかし、せっかく「超越」が示されているのだから、そこを目ざそうではありませんか。
超越とは、日常を支配する我をうち破り、〈祈るみ仏〉と〈霊性の核となっているみ仏=大我)とが一体になることです。
さて、経典の不思議はどこにありましょうか」
「海で暴風雨に遭っても船が沈まないとか、高い崖から落とされても大丈夫とか、本当にそうしたことがあるんでしょうか?」
確かに「観音経」には、一見したことろ叶えられそうにない不思議なお約束が羅列されています。
しかし、疑えば唱えられません。
読誦が口先だけになるからです。
「本当かどうか」は、「それが真実を示すかどうか」ということであり、「自分」にどこまでもとらわれているか、それとも、心の底から自分の愚かさを知り、悪業を恐れ、「こんな私をお救いください」「お導きください」と、み仏へお任せできるかどうかがポイントです。
真実を求めず、煩悩を主人公としている自分の姿から眼を背け、その場しのぎで渡る人生の儚さに気づくために、「空」の教えがあります。
み仏からいただいたいのちの値打ちに見合った生き方をしたいならば、モノ(自分の身体を含めて)を頼りにしてはならず、我(ガ)を頼りにしてはならず、周囲の人を頼りにしてはならず、まちがった説を頼りにしてはなりません。
すべて、蜃気楼のようなものだからです。
因と縁によって成るものはすべて空です。
たとえば、在ると思っている手の指も空です。
たまたま事故に遭わず、病気にもやられていないから身体にくっついているだけです。
最近も、ある工場で起こった事故によって失われそうになった方の指が落ちないようご加持を行ったばかりです。
だからといって、身体を粗末にし、自分を粗末にし、周囲の人びとを粗末にし、いろいろな説を粗末にしてはなりません。
それは、人生修行のために、み仏からいただいた環境世界という道具だからです。
道具を活かすもの。
それが大我(タイガ)であり、慈悲と智慧とによって成り立ち、清浄な大欲を発します。
慈悲と智慧から成るならば、それはみ仏そのものです。
「大我=み仏」なら自分の内側へそれを求めれば良さそうですが、煩悩が凝固した我の壁は厚く、気まぐれな瞑想や自分探しの旅などで簡単に突き破れるものではありません。
だから投げ出すのです。お任せするのです。おすがりするのです。
そうすると、〈祈りの対象となっているみ仏〉と〈内心におわすみ仏〉との間で感応が起こり、内と外がなくなります。
いつしか「大我=み仏」の世界へ入っています。
修行とは、こうした過程です。
皆さんがお経や真言を読誦するのも、写経をするのも、隠形流居合の稽古をするのも、知らぬ間にこの道程を進んでいることに他なりません。
冒頭のご質問への答です。
「日常生活のひび割れを縁として愚かな自分を知ったなら、いつまでもそのままでいてはなりません。
虚構と欺瞞を離れたくなったなら、み仏の世界を信じて祈りましょう。
救いは日常的な計らいを超えています。
日常的な計らいの範囲ならそれは凡夫の世界であって、み仏の世界ではありません。
だから、般若心経で『苦・集・滅・道も無い』と説いているでしょう。
行うべきは〈苦・集・滅・道〉と現れている凡夫の世界からの超越です。
船が沈みそうになったからといって、高い崖から落とされそうになったからといって、み仏の世界はびくともしません。
観音経は、み仏の世界を説いているので、当然のことです。
般若心経も観音経も、『こだわらないで生きよう』『いつでも観音様の元へ行けるから安心だ』と理解し、信仰するならそれも結構でしょう。
しかし、せっかく「超越」が示されているのだから、そこを目ざそうではありませんか。
超越とは、日常を支配する我をうち破り、〈祈るみ仏〉と〈霊性の核となっているみ仏=大我)とが一体になることです。
さて、経典の不思議はどこにありましょうか」
幸せをもたらす五種供養 ―五輪と供養―
今回は、み仏を供養してご加護をいただくための「願(ガン)」について記します。
地・水・火・風・空の五輪に合わせて、どのように願をかければ良いか。
1 花を捧げるのは「地」の徳をいただく供養法です。
大地のように堅固な身体と生活の根である家庭の安定を願いましょう。
体調不良が続いたり、家庭生活に波風が立ったりしたなら、この供養法で修行しましょう。
※忍辱行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい きしゃんてい だりじ うん はった」
2 水やお茶などを捧げるのは「水」の徳をいただく供養法です。
水が入れ物に合わせて姿を変えるように、人間関係を含めた環境に適応した生き方ができることを願いましょう。
環境とうまくやれないなら、この供養法で修行しましょう。
※布施行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい だのう じはてい びしゃりじゃ ほらや だなん そわか」
3 灯明を捧げるのは「火」の徳をいただく供養法です。
マッチの火で灯明を点すように、み仏の智慧を分けいただくことを願いましょう。
もっと智慧があればと願うならば、この供養法で修行しましょう。
※智慧行を護る菩薩様の真言
「おん ちしり しゅろた びじゃえい そわか」
4 供物を捧げるのは「風」の徳をいただく供養法です。
心の塵を吹き払って清らかな人間になることを願いましょう。
悪縁を祓ったり、過去の因縁から脱したいならば、この供養法で修行しましょう。
※禅定行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい さらば ばんぱかりに まかなちえい うん うん うん はった」
5 線香を捧げるのは「空」の徳をいただく供養法です。
線香が燃え尽きた後も佳い香りが漂うように、子孫や後の世代へ徳の香りを残すことを願いましょう。
未来へ良きものや善きものを残したいならば、この供養法で修行しましょう。
※精進行を護る菩薩様の真言
「おん びりやきゃり うん びりえい びりえい そわか」
このように、五種供養は、五輪の徳をいただく供養法でもあります。
願をかける皆さんに幸せがもたらされますよう。
地・水・火・風・空の五輪に合わせて、どのように願をかければ良いか。
1 花を捧げるのは「地」の徳をいただく供養法です。
大地のように堅固な身体と生活の根である家庭の安定を願いましょう。
体調不良が続いたり、家庭生活に波風が立ったりしたなら、この供養法で修行しましょう。
※忍辱行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい きしゃんてい だりじ うん はった」
2 水やお茶などを捧げるのは「水」の徳をいただく供養法です。
水が入れ物に合わせて姿を変えるように、人間関係を含めた環境に適応した生き方ができることを願いましょう。
環境とうまくやれないなら、この供養法で修行しましょう。
※布施行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい だのう じはてい びしゃりじゃ ほらや だなん そわか」
3 灯明を捧げるのは「火」の徳をいただく供養法です。
マッチの火で灯明を点すように、み仏の智慧を分けいただくことを願いましょう。
もっと智慧があればと願うならば、この供養法で修行しましょう。
※智慧行を護る菩薩様の真言
「おん ちしり しゅろた びじゃえい そわか」
4 供物を捧げるのは「風」の徳をいただく供養法です。
心の塵を吹き払って清らかな人間になることを願いましょう。
悪縁を祓ったり、過去の因縁から脱したいならば、この供養法で修行しましょう。
※禅定行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい さらば ばんぱかりに まかなちえい うん うん うん はった」
5 線香を捧げるのは「空」の徳をいただく供養法です。
線香が燃え尽きた後も佳い香りが漂うように、子孫や後の世代へ徳の香りを残すことを願いましょう。
未来へ良きものや善きものを残したいならば、この供養法で修行しましょう。
※精進行を護る菩薩様の真言
「おん びりやきゃり うん びりえい びりえい そわか」
このように、五種供養は、五輪の徳をいただく供養法でもあります。
願をかける皆さんに幸せがもたらされますよう。
良縁をつかむ方法
良縁をつかむための最も優れた方法は、良い行いをすることです。
良い行いという「因」は必ずそれを助ける「縁」を呼び、因に縁が結びつけば「果」である結果すなわち、「求めている良縁」が得られます。
良い行いといっても漠然としていますが、ポイントは他への思いやりであり「優しさ」の発揮です。
真の優しさを持った人には引力が生じます。
徳という引力には必ず品位と信頼感が宿っており、ここが色情による引力との違いです。
さて、良縁ができたなら、今度は、それをしっかり固めねばなりません。
この時点での良い行いのポイントは、自分への「厳しさ」です。
釈尊は「十二因縁」において、迷いにある私たちが免れ得ない成り行きを説かれました。
まず、「触(ソク)」すなわち、感覚器官と対象との接触が起こります。因縁の発生です。
そして、「受(ジュ)」すなわち、感受が起こります。眼は色すなわち形を見るし、耳は声すわち音を聞きます。
そして、「愛」すなわち、対象に惹きつけられて欲が起こります。
そして、「取(シュ)」すなわち、執着が起こります。
そして、「有(ウ)」すなわち、不変の実体を持つものはないのに、自分も対象も実体であるという錯覚が起こり、執着が抜き差しならぬものとなります。
こうなった暁に、心はどうなっているでしょうか。
相手を自分の思い通りにしよう、我がものにしておこうと相手を求める、あるいは相手へ「こうあって欲しい」と求めていますね。
これでは、せっかく「相手のための思いやり」から始まった良縁が、「自分のための満足」を主とした関係になってしまいます。
だからうまく行かないのです。
さて、我(ガ)という迷いによって失敗しないためにどうすれば良いか。
それは、「自分に厳しく」することです。
隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者たちは、日々、そのための誓いをくり返しています。
皆さんも、み仏へ誓い、実践し、せっかくの良縁をしっかり固めてください。
そして、お互いのためになろうとする良い行いの人同士が幸せになりますよう祈っています。
良い行いという「因」は必ずそれを助ける「縁」を呼び、因に縁が結びつけば「果」である結果すなわち、「求めている良縁」が得られます。
良い行いといっても漠然としていますが、ポイントは他への思いやりであり「優しさ」の発揮です。
真の優しさを持った人には引力が生じます。
徳という引力には必ず品位と信頼感が宿っており、ここが色情による引力との違いです。
さて、良縁ができたなら、今度は、それをしっかり固めねばなりません。
この時点での良い行いのポイントは、自分への「厳しさ」です。
釈尊は「十二因縁」において、迷いにある私たちが免れ得ない成り行きを説かれました。
まず、「触(ソク)」すなわち、感覚器官と対象との接触が起こります。因縁の発生です。
そして、「受(ジュ)」すなわち、感受が起こります。眼は色すなわち形を見るし、耳は声すわち音を聞きます。
そして、「愛」すなわち、対象に惹きつけられて欲が起こります。
そして、「取(シュ)」すなわち、執着が起こります。
そして、「有(ウ)」すなわち、不変の実体を持つものはないのに、自分も対象も実体であるという錯覚が起こり、執着が抜き差しならぬものとなります。
こうなった暁に、心はどうなっているでしょうか。
相手を自分の思い通りにしよう、我がものにしておこうと相手を求める、あるいは相手へ「こうあって欲しい」と求めていますね。
これでは、せっかく「相手のための思いやり」から始まった良縁が、「自分のための満足」を主とした関係になってしまいます。
だからうまく行かないのです。
さて、我(ガ)という迷いによって失敗しないためにどうすれば良いか。
それは、「自分に厳しく」することです。
隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者たちは、日々、そのための誓いをくり返しています。
一 我、愚痴を言わず未来を語るは、人につけいられず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、好むと好まざるを語らぬは、人に束縛されず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、自他のものの区別をするは、人に疎んぜられず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、明と闇の区別をするは、人をまどわさず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、公と私の区別をするは、人の輪をこわさず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、恩をきせず恩を忘れぬは、人の道を忘れず、 自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、権利より尊さを主張するは、人は万物の長であることを忘れず、自他の発展を願うがゆえなり。
皆さんも、み仏へ誓い、実践し、せっかくの良縁をしっかり固めてください。
そして、お互いのためになろうとする良い行いの人同士が幸せになりますよう祈っています。


