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2015
10.25

託されたレコード盤 ―お焚きあげと人生―

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 いつの日か喫茶店を開こうと夢見ていた方のご家族から「ぜひ、聴いてやってください」とレコードをお納めいただき、小生もまた、いつの日か、と願っていた。
 それから数年が経過した最近、古いレコードプレイヤーが入手でき、ようやく〈その日〉がやってきた。
 ところがフォノイコライザーの電源コードがなく、差し込み口が特殊なので、家電量販店でもDIYの店でも手に入れようがなく、上京したおりに秋葉原で探すしかないかと思案していたところ、意外な成り行きとなった。
 コードのないイコライザーを目にとめていたAさんがたまたまゲーム関係の店へ行ったところ、中古品コーナーでぴったりのコードを発見したのである。
 深夜、Aさんはやってきた。
 日々、何かに驚いてはいるが、プラグが差し込み口にピッタリと嵌った時は、時間が止まったような気分になった。
〝――人生では何でも起こり得る〟

 さて、Aさんも一緒に聴いたのはまず、J・Rモンテローズの『ストレート・アヘッド』である。
 文章を綴るようなモンテローズのブロウ、美しい線グラフを描くようなトミー・フラナガンのピアノ。
 Aさんは、「とても古いレコードだとは思えません」と言う。
 何か重い感じがしてレコードを止め、イコライザーと針圧調整の錘(オモリ)をよくチェックしてみたら、確かに針圧がかかり過ぎていた。
 次は、藤圭子の『新宿の女』である。

 たちまち、半世紀近い昔に引き戻された。
「私が男に なれたなら
 私は女を 捨てないわ♪」
「あなたの夢みて 目が濡れた
 夜更けのさみしい カウンター♪」
 あの頃は、男も女も真剣だった。
 決して遊びではない。
 かと言って、必ずしも人生設計上の実(ジツ)は求めない。
 あとから振り返って見れば、ゲームだったと言うしかないような気もするが、ある種の〈まこと〉が宿る時間であったことは確かである。
 しかし今は、女子高生がさまざまな形で性をお金にし、若者が「コスパ(費用対効果)のあやしい恋愛に時間などかけてはいられません」と断言する時代になった。

 藤圭子は唄い上げる。
「まことつくせば いつの日か
 わかってくれると 信じてた♪」
 絞り出すような、押すような声を聴くと参ってしまう。
 それにしても、このレコードを持っていた方は、どんな思いでこれを買ったのか?
 そして、その志を知っていたがゆえに処分しかねていた方は、どんな思いで当山へ送られたのか?
 当方からは一切、詮索しない方針なので、聴きながらうっすらと忖度の心をはたらかせるしなかい。

 お焚きあげを依頼されるお品には、持ち主や、持ち主だった方の人生が宿っている。
 謹んで祈り、不動明王の火に託す。
 まれに、こうしたご依頼もあると、見知らぬ方との人生模様の共有を感じたりもする。
 南無転迷開悟(テンメイカイゴ)不動明王。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
06.01

お焚きあげしたモノの因縁は天まで届くか ―モノの世界と見えない世界―

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 お焚きあげに来られた方から、ご質問がありました。
「苦労の中で亡くなった姉の遺品をお焚きあげしていただきたいのですが、燃やした煙が天に届いて、姉はまた、苦労を思い出すのではないでしょうか?
 私たちは、死によって姉もようやく楽になってくれたかという思いでいるものですから……」
 お答えしました。
「そうですか。
 ご愁傷様でしたね。
 そうした心配は要りません。
 当山が行う修法は、モノにまつわる因縁を消し、モノと関係の深かった方の心が解き放たれるよう、お不動様のお慈悲をいただく祈りです。
 必ずこうしてからお不動様をお祀りしている炉において、モノを焚き、天地自然へ還します。
 炉の火は、お不動様がまとっている火炎であり、その炎はあらゆる迷いを解き放つ智慧の象徴とされています。
 だから、お焚きあげの根本は、心とモノの〈解き放ち〉にあるので、現存中の方も、亡くなった方も、必ず安心を得ていただくという信念でお大師様から伝わる修法を続けています。

 また、亡くなっても消えてしまわない魂というものをあまり実体化しないようにしましょう。
 私たちは、一つには(ゴウ)という目に見えない影響力と、もう一つには精子と卵子の結合というモノの創造力との因縁で、この世に生まれました。
 そして、モノとしての耐用年数が過ぎれば、肉体というモノは分解されて分子になりますが、(ゴウ)は、善きものも悪しきものも、目に見えぬ世界のどこかへ刻まれ、記録されるはずです。
 もしも、それがなければ、私たちが〈唯一無二の存在〉としてこの世に生まれ出ることはあり得ません。
 やがて、私たちが亡くなってしばらく経ち、かつて生まれたのと同じように、二つの世界が交差する因縁の形成があれば、私たちはきっとこの世へ転生(テンショウ)してくることでしょう。
 私たちが亡くなった方を想い、安心を祈るのは、モノの世界でなく目に見えない世界での通じ合いを信じているからです。

 ちなみに、三回忌などの年忌供養において、亡き方用と、なかなか供養してもらえない無縁の御霊用と、供養善を二膳、捧げるのは、実際に料理を食べていただくためではありません。
 目に見えるモノの世界で〈自分にできる限りの準備〉をすることによって、〈自分にとって精一杯の誠意〉を捧げるという心になり、その心をあの世へ届けるためです。
 私たちの心は、見聞きするモノと連動しており、モノを通じての心の表現は欠かせません。
 日常生活におけるマナーもそうです。
 服装や言葉づかいや身ぶり手ぶりに、その人の社会に対する誠意が表れています。
 よき心さえあればそれでよい、のではありません。
 本当によき心のある人は必ず、たとえ目立たなくても、それらしい、その方なりの表現を実践しているはずです。
 だから、形をいいかげんにすることは、ほとんど、心をいいかげんにすることにつながっています。
 もしも、〈形式的なことは嫌い〉でも、人生や社会へ対して誠意のある人ならば、必ず、誠意を表現するその人なりのフォームを持っているはずです。

 お話が少々、脱線しましたが、貴方様がお身内の方の心と、思いのこもったモノとに対してお焚きあげという形で対応されることは、貴方様の誠意の表現です。
 ご説明申しあげたとおりに一生懸命修法しますので、どうぞご安心ください」




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2015
05.05

殺した敵の遺品で食事をする慰霊者 ―戦場のナイフ・フォーク・スプーン―

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〈ネット上にある同形の三点セット〉

 ある日、戦友ならぬ敵の遺品を大切にしておられた元日本兵Aさんのご遺族から、お焚きあげのご相談があった。
 戦艦に乗っていたAさんは太平洋戦争中、さる海域で、捕虜となった牧師を海へ突き落とすよう命じられ、心ならずも実行した。
 牧師の遺体へ太刀魚が群がり食い尽くすありさまは強く目に焼きついた。
 上官へ願い出た。
「牧師の食事道具を遺品として預からせてください」
 無事、戦争を生き抜いたAさんは、生涯、そのナイフ・フォーク・スプーンで食事をした。
 
 それぞれ長さは19センチメートル弱、銀色に光っている。
 いずれも使い込まれており、やや大ぶりのスプーンを手に取ってみると、大柄な人が急いで食べる雰囲気を感じる。
 4本あるフォークの歯は外側の2本がやや手前へ折れ曲がっている。
 こうしたのは牧師か、それともAさんか。
 ステンレス製のナイフは刃が磨き出されており、何度も何度も手がかけられたらしい。
 フォークとスプーンの手元には「U・S・」と彫られている。
 柄が分厚いナイフは同じ書体で浮き彫りになっている。
 ナイフだけは裏面に1945の数字もあるが、製造年なのだろうか。
 軍人はこれに用い、食事をして生きながら、戦場で敵のいのちを奪う。
 3つの道具が果たす役割をどう考えればよいのだろう。

 それにしても、これを使い続けたAさんの気持は、第三者が忖度できる域を超えている。
 息子さんへだけはこう言っていた。
「人殺しの私は長生きできない。
 早死にするだろう」
 事実、早過ぎる死となり、道具に込められた思いは次の世代へと伝えられたが、さらに、その次の世代が深い因縁のまつわるモノを引き継ぐにはあまりに荷が重すぎると判断され、当山へ納められた。

 因縁を解く修法が終わり、眺めてみたが、使う気にはなれない。
 ネットで調べると、こうした現場の気配を持つミリタリー・グッズは人気があるらしい。
 いったい、いかなる目的で手に入れ、使うのか?
 想像できない。
 今、三点セットはモノそのものとして鈍い銀色を放ち、黙したまま、目の前でじっと並んでいる。
 このモノたちは、このままモノとして天地へ還る工程へ入れられるべきか、それとも、まだ、何らかの形で誰かの心に関わってゆくべきか。
 よくわからない。

 戦争にまつわるお焚きあげのお品は、手紙であれ、軍刀であれ、勲章であれ、いつもこうなる。
 しばらく、祈りを続けようと思う。




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2015
03.17

魂入れって何ですか?お焚きあげって何ですか? ―〈かけがえのなさ〉や〈聖性〉の世界へ―

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〈笑いかけてくる花〉

 これまで最も多いご質問の一つが「魂入れって何ですか?」でした。

 お墓を建てたり、ご本尊様やお位牌を作ったりした善男善女は「魂入れをしてください」とご来山されます。
 そして、修法が終わると皆さんとても安心され、修法した小生も「ご安心なことでしたね」と、我がことのように嬉しくなります。
 どこにあるお墓であれ、どのように入手されたいかなるご本尊様であれ、特別な支障のない限り、分け隔て無く法を結びます。
 では、魂入れとは何でしょうか?

1 一つのモノに二つの世界を共存させる

 イメージとしては、一つのモノに二つの世界を共存させることです。
 たとえば、お墓は、いかに丹念に造られたとしても、できあがったままでは、目に見えるモノという世界の存在に過ぎません。
 法を結んだお墓は、モノであると同時に、目に見えぬみ仏の世界にある存在となります。
 だから、開眼供養(カイゲンクヨウ)が終わると、このように申しあげたりします。
「これでお墓は、み仏に守っていただく聖地になりました。
 ここで眠る御霊が守られるだけでなく、訪れ合掌する方も、あるいは遠方の地にあって瞼の裏へ思い描きつつ合掌する方も、等しく守られます。
 どうぞ、末永く、大切にしてください」

 もしも「一つのモノに二つの世界」がイメージできない方は、身近にある何かを考えてみてください。
 たとえば、長年、そばにおいた人形は、いつしか自分が眺めるだけでなく、人形も自分へ視線を向け、励ましてくれるように思われたりします。
 それが小さなお地蔵様だったりすると余計に、相手の存在感が増すものです。
 もはや、一般的商品としての人形、お地蔵様ではありません。
 そこに観じる〈かけがえのなさ〉は、単なる愛着心を超え、ある種の〈聖性〉をまとう場合もあります。
 この〈聖性〉こそがモノとは異なる世界の顕れであり、自分の霊性がはたらいて〈聖性〉をきちんと感じとった方にとっては、人形もお地蔵様も、決してうち捨てにしてはおけません。
 大切に扱い、どうにもならぬ状況になれば、お焚きあげを申し込まれます。

2 聖性の付与が魂入れ聖性を抜くのがお焚きあげである

 つまり魂入れとは、修法の世界でみ仏と一体になった行者による〈聖性〉の付与に他なりません。
 お焚きあげとは、〈聖性〉を抜き、単なるモノとなった仏像やお位牌を燃やして天地へ還す修法なのです。
 相手が亡くなった人間の場合には、火葬炉へ入れる前に必ず、この修法を行います。
 人間が人間たる尊厳そのものをきちんと〈その世界〉へ還した後、モノとなった身体を燃やすのです。
 それなのに、大震災から4年が過ぎた昨今、またまた、大震災以前のようにあれも要らない、これも要らないと、経済第一の世相に合わせた論調を振りかざす人々が増えました。
 そして、便利に、簡単に、お金をかけないで済まそうと、火葬する前の大切な修法までもが疎(オロソ)かにされ始めました。

 皆さんによく考えていただきたいのです。
 いつも自分をじっと眺めてくれていた人形を、もう要らないと焚き火へ放り込めますか?
 心が乱れた時に合掌し、深呼吸してはお救いいただいたお地蔵様を、もう要らないとゴミ収集に出せますか?
 有名な人がああ言ったから、こう言ったから、と他人の話や流行の情報に流されず、胸に手を当て、ご自身の頭でよく考えていただきたいのです。

3 宗教の発祥を想う

 母を失い、友人を失い、恩人を失い、日々、大切な人を失った方々の側に座る小生は、人間が宗教心に目覚めたのは、人の死がきっかけであったに違いないと感じています。
 私たちの「誕生」とは、まぎれもなく、どこからか〈やって来た〉できごとです。
 また、私たちの「死」とは、まぎれもなく、どこかへ〈還って行く〉できごとです。
 それに気づき、送り、悼む心が歴史と共に深まり、宗教が形成されました。
 送り、悼む行為が、民族なりに、地域なりに、宗教なりに洗練され、現在の日本において結実したのがご葬儀であり、ご供養です。
 そこにあるのは、縁者たちが心から同じ〈行為〉を行うことによって、亡き人の安心を願うと同時に、互いを思いやる尊い時間です。
 この〈行為〉を気まぐれに行うか、それとも歴史と文化をふまえた伝統的方法で行うか、もしくは何もやらないか。
 これは私たち一人一人の心のありようにとって、あるいは文化や社会のありようにとって、あるいは国の未来にとって小さくない分かれ目ではないでしょうか?

 もう一度、問わせてください。
 あなたは、使わなくなった人形やお地蔵様をどう、処置しますか?
 あなたは、かけがえのない家族や友人の亡骸(ナキガラ)をどう、天地へ還しますか?
 本当に「どうせモノだから」と思えますか?

4 魂入れお焚きあげ、ご葬儀、ご供養はつながっている

 上記のように、魂入れ、お焚きあげ、ご葬儀、ご供養はつながっています。
 モノの世界以外に、私たちが〈かけがえのなさ〉や〈聖性〉を感じる世界があり、その世界こそ私たち人間にとって霊性の故郷であり、わたしたちが人間としてまっとうに生きるには、その世界を忘れてはならないと思います。
 時として、私たちの心にこうした疑問が湧いてはこないでしょうか?
「どうしてこんな世の中になったのか?」
 その時はまず、自分自身が〈かけがえのなさ〉や〈聖性〉を感じる世界にどう向き合っているか、考えてみましょう。
 世の中を変えようとするならば、世の中に変わって欲しいと願うならば、そこが第一歩ではないでしょうか?




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2014
06.12

「願解き」はどうすればよいか?

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〈仙台市青葉区桜ヶ丘にある『春昼堂』で出会った明善寮の絵はがき〉〉

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 当山は、お焚きあげを行っており、いわゆる〈願解き〉についてのご質問も受けるので、少々、書いておきます。

1 本質論

 まず、根本的なところから考えてみましょう。

 私たちは、どうしてもやらねばならないことや、やるべきことに直面し、「自分にはとてもできそうにない」、「自分には荷が重すぎる」などと感じ、重圧感に眠れなくなったり、落ち込んでしまったり、逃げ出したくなったりする場合があります。
 また、住宅のローンを抱えたまま大病に罹り、「このまま死んではいられない」と悲壮な思いになったりします。
 あるいは、恋の行方を決める重大な場面を迎え、悶々として狂いそうになったりします。
 このように追いつめられた時、心のどこかに発する気持が「――神様!」「――仏様……」ではないでしょうか。

 これはとても自然なことです。
 なぜならば、私たちは、「自分で考えられる範囲など、たかが知れている」、「この世は目に見える世界だけではない」、「個々の人間や国などを超えた地球や宇宙全体の動きにかかわっている何ものかがある」と感じているからです。
 平成25年11月から26年1月にかけ、宮城県多賀城市の東北歴史博物館において「神さま仏さまの復興 ―被災文化財の修復と継承―」と題する特別展が行われました。
 被災した仏像などが修復された様子を伝えようとする試みです。
 発行されたカタログにあるメッセージです。

「神像や仏像は信仰の対象です。
 尊くありがたいものとしてふだんは人目を避けてまつられることも少なくありませんが、常に人目を避け、人との関わりを拒んでいりわけではありません。
 これらの像が作られた時はもちろんのこと、今日までまもり伝えられる間、関係者やコミュニティの絶え間ない努力がありました。」
東日本大震災という未曾有の事態に直面した今日、こうしたコミュニティのすがたがこれまでになく明確に表れています。
 地震や津波などの被害を乗り越え、像を未来に伝えようとする地域の強い意志や行動が各地でみられ、それに多くの人々が呼応しました。」
「神さま仏さまの復興はじつに人によるものであり、このことは地域の復興への気運と方向性を同じくするものといえます。」


「歴史を振り返ると、いつの時代も、神さまや仏さまは地域コミュニティとともにあり、地域コミュニティは神さま仏さまとともにあります。
 両者は決して引き離すことのできない関係といえます。」
「あの日、多くの像が失われたり傷ついたりしました。
 それが今、無数の善意や努力によって修復が進み、神さま仏さまが復興を迎えつつあります。
 これは、地域との関係から言い換えると、地域の復興への灯りが徐々ではありますが輝きを増してきたということができそうです。」


 たとえ普段はそれほど身近に感じていなくても、仏神のおわす聖地があることは、知らず知らずのうちに心の御守になっているものです。
 個々人がどの神様を信じているか、どの仏様を信じているかというレベルではなく、地域にある神社やお不動様などの復興は、皆が吸う空気に清浄さやエネルギーを取り戻させました。
 泥の原になった場所でも小さなお地蔵様が立て直され、復興の願文が書かれた朱い衣を掛けられました。
 通るトラックの運転手は勇気を与えら、歩く人は手を合わせました。
 被災地の復興は、仏神の復興と共にあります。

 このように、私たちには、神様や仏様と呼ぶしかない方々に通じる心があり、普段はともあれ、人生の重大事に当たってすがる気持になるのは当然です。
 具体的にどこの神社や仏閣でどうするかというだけでなく、〈すがる〉気持が発した時点で願掛けは行われていると言うべきです。

 さて、こうした自然な願掛けに対して、願解きは必要か?
 結論から言えば、成就という結果、あるいは叶わなかったという結果が出た時点で、願いは結果に完結したので、願いそのものはもうどこにもなく、かけた願いをどうこうするという考えには意味がありません。
 たとえば当山でも、善男善女の思いと一体になって各種のご祈祷を行いますが、一切、結果について祈ることはありません。
 それは、祈祷は帰依(キエ)し、お任せ申しあげる誠心(マゴコロ)によって行われるので、願いをかけた人の思い通りになるかどうか、なったかどうかという〈人間のレベル〉で結果を判断するわけにはゆかないからです。
 唯一の例外は、お礼参りにこられる方、あるいはお礼の心をお示しいただいた方の感謝を体して祈る場合のみです。
 願いそのものを〈解く〉必要はないのです。
 ただし、御札や御守など法を結んだモノについては、結果が出たからといって、お役ご免とばかりにゴミと一緒に捨ててはなりません。
 それは、自分の必死の思いもゴミと一緒に捨てるようなものであり、仏神を穢すだけでなく、自分の心も穢すからです。
 そうした粗雑な心では仏神へ通じにくくなり、それは、他人や生きものたちや自然におわす仏神とも通じにくくなる道だからです。
 思いを大事にする人は、思いのこもったモノも大事にしないではいられません。
 「願いをこめた御札をそのままにしておけば、せっかく成就したのに悪いことが起こる」などと心配する必要はありませんが、しかるべき時がきたならば、どこかの神社や仏閣へ処分を頼むのが自然な姿ではないでしょうか。

2 倫理論

 いわゆるお礼参りについては、宗教的行為と言うよりは、むしろ倫理的な〈人の道〉としての、あるべき姿と言うべきです。
 人間社会でも同じです。
 重大な頼みごとをしておいて、後は放ったままにするならば、「なんという人だろう」と思われ、二度と頼みごとができなくなるかも知れません。
 何よりも、感謝や礼儀を知らぬ人となることが恐ろしいのです。

 御札や御守というモノについてのタブーなどを怖れるのではなく、自分が人間的レベルを落とすことをこそ恐れ、願いを込めた時の誠心(マゴコロ)を忘れず、後の処置をされればよろしいのではないでしょうか。
(かく言う私は、自分自身で行うべき謝恩や報恩の社会的行動については忸怩たる思いを抱いており、必要とする方々のために恥を忍んで書きました)




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