死んだ人と、生きている人のように接してはいけないでしょうか
敬虔な信徒Yさんからのご質問です。
「亡くなった人といつまでも身近にいるように接していれば、迷わせてしまいますか?」
お答えしました。
基本的には、送った側の未練などの思いが御霊を迷わせることはありません。
たとえば、火葬場で、いよいよご遺体が炉へ入ろうとする時、奥さんや母親が取り縋ってなかなか離れないといったケースもあり、あるいは、恋人や娘さんのご遺骨をいつまでも自宅へ置いて放さない方もおられます。
だからといって、御霊が成仏できないことはなく、それは、引導の修法がいかに行われたかにかかっています。(ご遺骨は自然に還した方が良いのは当然です)」
社会学者の鶴見和子氏が、亡くなる21日前に詠んだ一句です。
(山茱萸は春先に黄色の花をつけ、果実には身体を温めるはたらきがあり、不妊、生理不順、冷え性などの改善、滋養強壮に用いられてます)
(鶴見氏の名誉のために急いでつけ加えておかねばなりません。氏は、亡くなる日の朝、癌による大腸の破裂という苦しみの中で、見守る人々全員へ「幸せでした」「ありがとう」とお礼を言い、静かに息を引き取られました)
このように、迷いを持ちながら死を迎えるのは人間の自然な姿であり、それを断ち切って「諸行無常」の真理に任せ、安寧の世界へ旅立つためには、真理に目覚めさせてくれる修法が欠かせません。
法によってきちんと送られた御霊は、まっすぐに旅立つことができます。
つまり、成仏はあくまでも御霊の側の問題であり、送る側が引き留めることはできません。
ただし、み仏の世界への歩みがどのようになるかについては、送る側の供養の如何が大きく作用するので、回忌供養などがねんごろに行われます。
そうでなければ、「四十九日の供養をする」など無意味になってしまいます。
さて、それならば、送った側の思いはいかなる結果をもたらすのでしょうか。
典型的なものが「夢」です。
貴女が、亡くなったおばさんが笑い転げている夢をご覧になった体験には、変わらぬ親しさがとてもよく表れており、心が和まされます。
また、御霊との「交感」もあります。
一緒にお墓詣りに行けなかったお子さんが、(亡くなった)おばさんを居間で見かけたお話などは、「お前の気持ちは解っているよ。いつでも守っているよ」とのお知らせでしょう。
いずれにしても、区切りがついた上でのことですから心配はありません。
ご家族皆さんが、「御霊を生きているように扱っていますが、成仏の妨げにならないでしょうか?」には心を打たれました。
供養の心は、まさにここに極まります。とても尊いことです。
よく、仏壇の置き方についてのご質問がありますが、いつも、このようにお答えしています。
「向きや方位をあれこれ言うのは、仏壇と神棚を中心として家の設計が行われていた時代の名残です。
円筒形のマンションや和室のない住宅などが普通になった現在、最も考慮すべきことは、日常生活において、仏壇を家族が集まる親和の場所からあまり離さないことです。
合掌が食事などと同じように生活の一部となり、御霊にとっては、気軽に皆から手を合わせられる状況が一番です。
もちろん、北へ安置して南面していただくなど、古来の形がとれればそれに超したことはありませんが、方位を第一とするために寂しい場所へ安置するなどは、こだわりが過ぎるというものです」
これからも、ぜひ、御霊を生活の〈仲間〉へ入れてあげてください。
なお、テレビで占い師が言っていたという「写真を飾っていると霊が迷う」は、成仏と供養の根本から離れた脅しでしかありません。
写真は、思い出を大切にしたい真情へ手助けをする大切なものです。
ご供養にお訪ねしたお宅で、セピア色に古びた小さな写真を見かけることが、よくあります。
それが兵隊さんの姿をした若い人だったりして、戦死のお話をお聞きし、胸を打たれることもしばしばです。
また、地方によっては、仏間の横の欄間へ代々のご当主夫婦の遺影をお祀りし、その下へ経文の書かれた掛け軸をかけてご供養しておられます。
こうしたテレビを見たご家族が怖くなって写真をかたづけたら、かたづけた方の夢に写真のおばさんが現れ、「元気でやっていますか」と励ましてくださったできごとなどは、妄言に惑わされてはならないとの貴重なお導きです。
もちろん、夢の後、写真は元通りに置かれ、ご家族は安心し元気に暮らしておられます。
実にありがたいことです。
これからも、貴家の雰囲気を大切にして、御霊と仲良くお進みください。
必ず、み仏と御霊のご加護があることでしょう。
「亡くなった人といつまでも身近にいるように接していれば、迷わせてしまいますか?」
お答えしました。
基本的には、送った側の未練などの思いが御霊を迷わせることはありません。
たとえば、火葬場で、いよいよご遺体が炉へ入ろうとする時、奥さんや母親が取り縋ってなかなか離れないといったケースもあり、あるいは、恋人や娘さんのご遺骨をいつまでも自宅へ置いて放さない方もおられます。
だからといって、御霊が成仏できないことはなく、それは、引導の修法がいかに行われたかにかかっています。(ご遺骨は自然に還した方が良いのは当然です)」
社会学者の鶴見和子氏が、亡くなる21日前に詠んだ一句です。
早く死にたい早く死にたくない山茱萸(サンシュユ)の若葉は朝日の中をさ揺らぎてをり
(山茱萸は春先に黄色の花をつけ、果実には身体を温めるはたらきがあり、不妊、生理不順、冷え性などの改善、滋養強壮に用いられてます)
(鶴見氏の名誉のために急いでつけ加えておかねばなりません。氏は、亡くなる日の朝、癌による大腸の破裂という苦しみの中で、見守る人々全員へ「幸せでした」「ありがとう」とお礼を言い、静かに息を引き取られました)
このように、迷いを持ちながら死を迎えるのは人間の自然な姿であり、それを断ち切って「諸行無常」の真理に任せ、安寧の世界へ旅立つためには、真理に目覚めさせてくれる修法が欠かせません。
法によってきちんと送られた御霊は、まっすぐに旅立つことができます。
つまり、成仏はあくまでも御霊の側の問題であり、送る側が引き留めることはできません。
ただし、み仏の世界への歩みがどのようになるかについては、送る側の供養の如何が大きく作用するので、回忌供養などがねんごろに行われます。
そうでなければ、「四十九日の供養をする」など無意味になってしまいます。
さて、それならば、送った側の思いはいかなる結果をもたらすのでしょうか。
典型的なものが「夢」です。
貴女が、亡くなったおばさんが笑い転げている夢をご覧になった体験には、変わらぬ親しさがとてもよく表れており、心が和まされます。
また、御霊との「交感」もあります。
一緒にお墓詣りに行けなかったお子さんが、(亡くなった)おばさんを居間で見かけたお話などは、「お前の気持ちは解っているよ。いつでも守っているよ」とのお知らせでしょう。
いずれにしても、区切りがついた上でのことですから心配はありません。
ご家族皆さんが、「御霊を生きているように扱っていますが、成仏の妨げにならないでしょうか?」には心を打たれました。
供養の心は、まさにここに極まります。とても尊いことです。
よく、仏壇の置き方についてのご質問がありますが、いつも、このようにお答えしています。
「向きや方位をあれこれ言うのは、仏壇と神棚を中心として家の設計が行われていた時代の名残です。
円筒形のマンションや和室のない住宅などが普通になった現在、最も考慮すべきことは、日常生活において、仏壇を家族が集まる親和の場所からあまり離さないことです。
合掌が食事などと同じように生活の一部となり、御霊にとっては、気軽に皆から手を合わせられる状況が一番です。
もちろん、北へ安置して南面していただくなど、古来の形がとれればそれに超したことはありませんが、方位を第一とするために寂しい場所へ安置するなどは、こだわりが過ぎるというものです」
これからも、ぜひ、御霊を生活の〈仲間〉へ入れてあげてください。
なお、テレビで占い師が言っていたという「写真を飾っていると霊が迷う」は、成仏と供養の根本から離れた脅しでしかありません。
写真は、思い出を大切にしたい真情へ手助けをする大切なものです。
ご供養にお訪ねしたお宅で、セピア色に古びた小さな写真を見かけることが、よくあります。
それが兵隊さんの姿をした若い人だったりして、戦死のお話をお聞きし、胸を打たれることもしばしばです。
また、地方によっては、仏間の横の欄間へ代々のご当主夫婦の遺影をお祀りし、その下へ経文の書かれた掛け軸をかけてご供養しておられます。
こうしたテレビを見たご家族が怖くなって写真をかたづけたら、かたづけた方の夢に写真のおばさんが現れ、「元気でやっていますか」と励ましてくださったできごとなどは、妄言に惑わされてはならないとの貴重なお導きです。
もちろん、夢の後、写真は元通りに置かれ、ご家族は安心し元気に暮らしておられます。
実にありがたいことです。
これからも、貴家の雰囲気を大切にして、御霊と仲良くお進みください。
必ず、み仏と御霊のご加護があることでしょう。
水子の真実 ―水子供養のすべて―
1 水子とは
水子について考えることは、人間の誕生について考えることです。
私たちは、どのようにして生まれて来るのか?ここが出発点です。
この世で善悪さまざまな業を積んだ魂は、業となった「因」に対する「果」を現実のものにするため、転生の機会を待っています。
やがて、運命や性格などの「魂の色合」に共通するところを持った男女のペアを見つけると、そこに宿ろうとします。
大切なポイントは、子供が親を選ぶことであり、肉体より魂の引力が先にはたらくという点です。
ここを勘違いすると、子供が親へ「勝手に生んだ」などと暴言を吐いたり、親が子供へ「望みもしないのにできてしまった」などと妄言を口走ったりします。
さて、選んだ男女のところで無事肉体的結合も進み、順調に生まれればめでたしめでたしですが、そううまく行くものではありません。
「受け難い人身」という経文があるとおり、人間としてこの世へ生まれ出ることはとてつもない難事とされています。だから、当然、無事誕生に至るどこかの時点で失敗するケースが生じ、水子にもなります。
水子は、自分が選んで挑戦した高いバーをクリアできなかったジャンパーのようなものです。
一度や二度失敗しても、だんだんに力をつければ、やがてはクリアする日が来ることでしょう。それが、最も徳の高い生きものである人間の誕生です。
2 水子への姿勢
だから、もし水子ができてしまったなら、「次の機会にはちゃんと生まれて来れるように」と祈り、励ます気持が大切です。男女のどちらかに直接的原因があった場合は、「ごめんね」と謝ることも忘れてはなりません。
最もいけないのは、怖れることです。
世間には「水子の祟り」と称して男女を脅す人もいるようですが、これは道理にはずれた議論です。
なぜなら、水子の魂と現世の人間の魂との間には、「祟り、祟られる」といった関係の生じる接点がないからです。
その理は、魂のはたらきである意識のありようを考えればすぐに解ることです。
3 水子決してが祟らない理由
目に見える世界と直接、接するのは、見たり聞いたりしたりすることによって動く眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の前五識です。
それらは、「私」という第六識と共にあります。
ここまでの六つの意識は、それとはっきり分かるものですが、こられのはたらき方は、この世で生きた歴史が積っている第七識によって方向づけられています。
第七識は潜在したものなので、通常は、中身を知ることができません。いわば潜在意識です。
たとえば、潜在意識へ車に関する情報がたくさん入ってい人は車に強い関心を持ち、読んだ小説の感動がたくさん入っている人は言葉や心に強い関心を持ち、殺人ゲームでワクワクした記憶がたくさん入っている人は殺人に強い関心を持ち、それらの「関心」が運命の舵取りをします。
「関心」によって、前五識と第六識が森羅万象の中からつかまえる対象を選び出し、運命が創られるからです。
もしも殺人に強い関心を持った人が「非人間的な行動は許せぬ」と正義感を発揮する刑事になれば結構なことですが、ふとした争いで簡単に人を殺めてしまうかも知れません。
前者よりも後者の可能性の方がはるかに高いので、恐ろしさに気づいた人たちはこうしたゲームの恐ろしさを指摘しています。
ともあれ、第七識こそが運命を創る主役であり、「自分の運命は自分で創る」のです。
その奥には、生まれ持った過去の因縁のすべてが伝えられている第八識があり、さらに奥には、み仏の心を宿した第九識があり、それらは広大な海のような無限のみ仏の世界、第十識の表れです。
そうすると、水子の持っているものは、どれになるでしょうか。
第十識と、第九識と、第八識だけです。
第七識は、まだこの世に生まれ出ていないので空っぽだし、もちろん、第六識も、五識もありません。
最近、胎児が詳しく研究されるようになり、母胎を環境として活発な生命活動をしている様子が明らかになりつつありますが、母子間で双方向のやりとりはできませんから、水子の日々は第八識へしまい込まれるだけです。
母胎という井戸の中にいただけで外界を知らない水子が、この世の人に祟るはずがないのは明らかです。
ましてや、尊い魂だけの存在が、この世へ生まれ出るチャンスを与えてくれた男女へ凶事を与えることがあり得ましょうか。
私たちは、「水子の祟り」という妄想や、何代か遡れば誰にでもありそうな水子を悪者にして「先祖のつくった水子の祟りや呪い」を言う輩の脅しからそろそろ脱しても良いころです。
4 水子供養の意義
以上が真理であるにもかかわらず、人は水子ができると、悲しむのはもちろん、あるいは怖れ、あるいは不安になります。
「怖れる」のは見当違いであり、水子への失礼に当たり、良からぬできごとを水子のせいにするのが理のない言いがかりであることは上記の理由ではっきりしていますが、不安はどうすれば良いのでしょうか。
不安は「生んでやれなかった」「親の都合で流してしまった」という罪悪感から生じています。
この気持には素直でなければなりません。
そして、「ごめんね、今度はしっかり生まれてきてね」と謝り励ます祈り、それこそが水子供養の本旨です。
こうした心からの供養は水子となった魂へ通じ、きっと大きな力になることでしょう。
そして、やがてこの世に一人の人間が誕生したなら、何とすばらしいことでしょうか!
水子供養は、「受け難き人身」を創るための尊い祈りなのです。
5 蛇足
もしも、水子ができてから凶事が続いたならば、それは、決して水子のせいではなく、いのちの尊さや供養への関心が薄いその人自身の生き方がもたらした結果です。
そうした人々といえども、良心はあります。第九識や第十識があるからです。
水子の生じたことが決して小さなできごとでないことに表面下の意識では気づいています。
表面では平気で知らんふりをしていても、心の底には不安が生じています。良心の警告です。
そうしたものを放っておけば、知らぬ間に「柳を幽霊と見て恐れ」「縄をヘビと見て逃げ出し」「包丁で手を切れば『あのせいだ』と怖れ」ます。
こんな真実から離れた生き方をしていれば、不幸の種との巡り会いが多くなるのは当然です。第七識がそうしたものをキャッチするからです。
水子と凶事を直接結びつけるのは、理に暗い愚かさに他なりません。
6 結論
水子に関する真実を知ったならば、正しい心で正式な供養をしましょう。
たとえ昔の水子でも、今、供養することができます。
み仏と御霊のことごとは、常に「思い立ったが吉日」です。人の生き死には、時を選ばないからです。
気づいた時に行なわねば、行なう時はありません。
誰の生であれ、確かなのは「たった今」だけではありませんか。
水子について考えることは、人間の誕生について考えることです。
私たちは、どのようにして生まれて来るのか?ここが出発点です。
この世で善悪さまざまな業を積んだ魂は、業となった「因」に対する「果」を現実のものにするため、転生の機会を待っています。
やがて、運命や性格などの「魂の色合」に共通するところを持った男女のペアを見つけると、そこに宿ろうとします。
大切なポイントは、子供が親を選ぶことであり、肉体より魂の引力が先にはたらくという点です。
ここを勘違いすると、子供が親へ「勝手に生んだ」などと暴言を吐いたり、親が子供へ「望みもしないのにできてしまった」などと妄言を口走ったりします。
さて、選んだ男女のところで無事肉体的結合も進み、順調に生まれればめでたしめでたしですが、そううまく行くものではありません。
「受け難い人身」という経文があるとおり、人間としてこの世へ生まれ出ることはとてつもない難事とされています。だから、当然、無事誕生に至るどこかの時点で失敗するケースが生じ、水子にもなります。
水子は、自分が選んで挑戦した高いバーをクリアできなかったジャンパーのようなものです。
一度や二度失敗しても、だんだんに力をつければ、やがてはクリアする日が来ることでしょう。それが、最も徳の高い生きものである人間の誕生です。
2 水子への姿勢
だから、もし水子ができてしまったなら、「次の機会にはちゃんと生まれて来れるように」と祈り、励ます気持が大切です。男女のどちらかに直接的原因があった場合は、「ごめんね」と謝ることも忘れてはなりません。
最もいけないのは、怖れることです。
世間には「水子の祟り」と称して男女を脅す人もいるようですが、これは道理にはずれた議論です。
なぜなら、水子の魂と現世の人間の魂との間には、「祟り、祟られる」といった関係の生じる接点がないからです。
その理は、魂のはたらきである意識のありようを考えればすぐに解ることです。
3 水子決してが祟らない理由
目に見える世界と直接、接するのは、見たり聞いたりしたりすることによって動く眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の前五識です。
それらは、「私」という第六識と共にあります。
ここまでの六つの意識は、それとはっきり分かるものですが、こられのはたらき方は、この世で生きた歴史が積っている第七識によって方向づけられています。
第七識は潜在したものなので、通常は、中身を知ることができません。いわば潜在意識です。
たとえば、潜在意識へ車に関する情報がたくさん入ってい人は車に強い関心を持ち、読んだ小説の感動がたくさん入っている人は言葉や心に強い関心を持ち、殺人ゲームでワクワクした記憶がたくさん入っている人は殺人に強い関心を持ち、それらの「関心」が運命の舵取りをします。
「関心」によって、前五識と第六識が森羅万象の中からつかまえる対象を選び出し、運命が創られるからです。
もしも殺人に強い関心を持った人が「非人間的な行動は許せぬ」と正義感を発揮する刑事になれば結構なことですが、ふとした争いで簡単に人を殺めてしまうかも知れません。
前者よりも後者の可能性の方がはるかに高いので、恐ろしさに気づいた人たちはこうしたゲームの恐ろしさを指摘しています。
ともあれ、第七識こそが運命を創る主役であり、「自分の運命は自分で創る」のです。
その奥には、生まれ持った過去の因縁のすべてが伝えられている第八識があり、さらに奥には、み仏の心を宿した第九識があり、それらは広大な海のような無限のみ仏の世界、第十識の表れです。
そうすると、水子の持っているものは、どれになるでしょうか。
第十識と、第九識と、第八識だけです。
第七識は、まだこの世に生まれ出ていないので空っぽだし、もちろん、第六識も、五識もありません。
最近、胎児が詳しく研究されるようになり、母胎を環境として活発な生命活動をしている様子が明らかになりつつありますが、母子間で双方向のやりとりはできませんから、水子の日々は第八識へしまい込まれるだけです。
母胎という井戸の中にいただけで外界を知らない水子が、この世の人に祟るはずがないのは明らかです。
ましてや、尊い魂だけの存在が、この世へ生まれ出るチャンスを与えてくれた男女へ凶事を与えることがあり得ましょうか。
私たちは、「水子の祟り」という妄想や、何代か遡れば誰にでもありそうな水子を悪者にして「先祖のつくった水子の祟りや呪い」を言う輩の脅しからそろそろ脱しても良いころです。
4 水子供養の意義
以上が真理であるにもかかわらず、人は水子ができると、悲しむのはもちろん、あるいは怖れ、あるいは不安になります。
「怖れる」のは見当違いであり、水子への失礼に当たり、良からぬできごとを水子のせいにするのが理のない言いがかりであることは上記の理由ではっきりしていますが、不安はどうすれば良いのでしょうか。
不安は「生んでやれなかった」「親の都合で流してしまった」という罪悪感から生じています。
この気持には素直でなければなりません。
そして、「ごめんね、今度はしっかり生まれてきてね」と謝り励ます祈り、それこそが水子供養の本旨です。
こうした心からの供養は水子となった魂へ通じ、きっと大きな力になることでしょう。
そして、やがてこの世に一人の人間が誕生したなら、何とすばらしいことでしょうか!
水子供養は、「受け難き人身」を創るための尊い祈りなのです。
5 蛇足
もしも、水子ができてから凶事が続いたならば、それは、決して水子のせいではなく、いのちの尊さや供養への関心が薄いその人自身の生き方がもたらした結果です。
そうした人々といえども、良心はあります。第九識や第十識があるからです。
水子の生じたことが決して小さなできごとでないことに表面下の意識では気づいています。
表面では平気で知らんふりをしていても、心の底には不安が生じています。良心の警告です。
そうしたものを放っておけば、知らぬ間に「柳を幽霊と見て恐れ」「縄をヘビと見て逃げ出し」「包丁で手を切れば『あのせいだ』と怖れ」ます。
こんな真実から離れた生き方をしていれば、不幸の種との巡り会いが多くなるのは当然です。第七識がそうしたものをキャッチするからです。
水子と凶事を直接結びつけるのは、理に暗い愚かさに他なりません。
6 結論
水子に関する真実を知ったならば、正しい心で正式な供養をしましょう。
たとえ昔の水子でも、今、供養することができます。
み仏と御霊のことごとは、常に「思い立ったが吉日」です。人の生き死には、時を選ばないからです。
気づいた時に行なわねば、行なう時はありません。
誰の生であれ、確かなのは「たった今」だけではありませんか。
お盆と施餓鬼
お盆に行なう施餓鬼(セガキ)会は餓鬼界に迷う諸精霊へ施しご供養するもので、万霊供養の基(モトイ)です。 その心をもって、それぞれの家の、あるいはご縁の御霊をご供養してください。
生きものとして「食べられない」という最も辛いところにおられる精霊へ施すことができれば、万霊への供養ができます。
かつて、欧米列国の世界支配計画へ抵抗して日本が断固立ち上がり、日露戦争が起った時、昭憲皇太后は自らの居所を女性たちへ提供し、前線で戦う傷兵を思いやりながら、日夜、包帯づくりに勤しまれました。
国民を思い、平和を願うそのお心は、後にノーベル平和賞の候補者に挙げられたほどです。
自分がいかなる境遇にあっても、世の中にはとても辛い思いをしている人々がいることへの想像力と、縁に応じての思いやりを忘れぬようにしたいものです。
修法では、清らかな飯食を加持して鬼神となっている方々すべてへ捧げ、貪りの心を捨てて満足が得られ、迷いの悪道から善き世界へと抜け出られるよう、三宝へ帰依して悟りを求める心を発してこの上ない安心が得られるよう、そして、その功徳によって一切の生きとし生けるものが飲食に不自由せずに済むよう願いをこめます。
導師の修法と善男善女の祈りによって、五如来様方が、
貪る心を離れて福智円満に
醜い姿を離れて円満な姿に
心身を護っていただいて心豊かに
喉を開いて飲食物を摂れるように
恐怖が消えて餓鬼界から離れるように
と、精霊の手を引き、安心の境地へとお連れくださいます。
この大きな功徳を諸精霊へ回向すれば、必ずや極楽浄土へと進まれることでしょう。
それは、この世の私たちが、布施行によってより早く迷いを脱する道でもあるのです。
生きものとして「食べられない」という最も辛いところにおられる精霊へ施すことができれば、万霊への供養ができます。
かつて、欧米列国の世界支配計画へ抵抗して日本が断固立ち上がり、日露戦争が起った時、昭憲皇太后は自らの居所を女性たちへ提供し、前線で戦う傷兵を思いやりながら、日夜、包帯づくりに勤しまれました。
国民を思い、平和を願うそのお心は、後にノーベル平和賞の候補者に挙げられたほどです。
自分がいかなる境遇にあっても、世の中にはとても辛い思いをしている人々がいることへの想像力と、縁に応じての思いやりを忘れぬようにしたいものです。
修法では、清らかな飯食を加持して鬼神となっている方々すべてへ捧げ、貪りの心を捨てて満足が得られ、迷いの悪道から善き世界へと抜け出られるよう、三宝へ帰依して悟りを求める心を発してこの上ない安心が得られるよう、そして、その功徳によって一切の生きとし生けるものが飲食に不自由せずに済むよう願いをこめます。
導師の修法と善男善女の祈りによって、五如来様方が、
貪る心を離れて福智円満に
醜い姿を離れて円満な姿に
心身を護っていただいて心豊かに
喉を開いて飲食物を摂れるように
恐怖が消えて餓鬼界から離れるように
と、精霊の手を引き、安心の境地へとお連れくださいます。
この大きな功徳を諸精霊へ回向すれば、必ずや極楽浄土へと進まれることでしょう。
それは、この世の私たちが、布施行によってより早く迷いを脱する道でもあるのです。
供養の心は距離を超えます
遠くにあるお墓まで行けない、あるいは、事情があって位牌の前で供養できないなどのご相談は、引きも切りません。
こうした場合の解決法は2種類あります。
一つは、〈お墓や位牌を近くへ持ってくる〉というやり方です。
たとえば、お墓なら行ける範囲へ移動することです。
今までのお墓を一旦解体して造りなおしても良いし、新しくお墓を建てても良いし、合祀という方法もあります。
お墓を移動したり寺院を代えたりするのは信教の自由であり、何ら問題がないことは言うまでもありません。
位牌ならば、自分が供養する、あるいは信頼できるお寺に供養してもらうための位牌をもう一体作るということが可能です。
分骨や複数の位牌は家運を傾かせるといった風説もあるようですが、根拠のない妄言です。
そもそも、仏教が世界宗教になる大きなきっかけは、釈尊亡き後八つの国々へ分骨されていた仏舎利を、インド統一をなし遂げたアショーカ王が8万4千に再分骨し、それぞれにお墓(卒塔婆…お塔婆の始まり)を造ったことにあります。
その結果、広大なインドに住む人々は、どこにいても釈尊を身近に感じながら供養することができるようになったのです。
もう一つは、お墓や位牌をそのままにしておいて、〈遠くから供養する〉ことです。
法力は距離を問いません。当山では、日々、九州におられる方の家内安全を祈ったり、東京の公営墓地に祀られている御霊の安寧を祈ったり、アメリカにおられる方の病気が平癒するよう祈ったりしています。
肉体の束縛がある私たちは、「見える・聞こえる」といった五感の範囲には限りがありますが、「思う→願う→祈る」というように第六感を深めれば、時間も空間も超えられます。
たとえば、『みやぎシルバーネット』3月号で紹介した「昭憲皇太后の夢」もそうした次元のできごとです。
国家の危機となった日露戦争に際して心をくだかれた昭憲皇太后は、葉山の御用邸におられたある夜、夢で坂本龍馬から告げられました。
「帝国海軍は勝利しますからご安心ください」
結果は、日本の奇跡的勝利となりました。
国を思う皇太后の心へ、やはり日本の将来を案じつつ世を去った坂本龍馬の御霊が反応したにちがいありません。
供養は常に「思い立ったが吉日」です。〈縁の時〉を失わぬよう、智慧とまごころで人の道を歩みたいものです。
こうした場合の解決法は2種類あります。
一つは、〈お墓や位牌を近くへ持ってくる〉というやり方です。
たとえば、お墓なら行ける範囲へ移動することです。
今までのお墓を一旦解体して造りなおしても良いし、新しくお墓を建てても良いし、合祀という方法もあります。
お墓を移動したり寺院を代えたりするのは信教の自由であり、何ら問題がないことは言うまでもありません。
位牌ならば、自分が供養する、あるいは信頼できるお寺に供養してもらうための位牌をもう一体作るということが可能です。
分骨や複数の位牌は家運を傾かせるといった風説もあるようですが、根拠のない妄言です。
そもそも、仏教が世界宗教になる大きなきっかけは、釈尊亡き後八つの国々へ分骨されていた仏舎利を、インド統一をなし遂げたアショーカ王が8万4千に再分骨し、それぞれにお墓(卒塔婆…お塔婆の始まり)を造ったことにあります。
その結果、広大なインドに住む人々は、どこにいても釈尊を身近に感じながら供養することができるようになったのです。
もう一つは、お墓や位牌をそのままにしておいて、〈遠くから供養する〉ことです。
法力は距離を問いません。当山では、日々、九州におられる方の家内安全を祈ったり、東京の公営墓地に祀られている御霊の安寧を祈ったり、アメリカにおられる方の病気が平癒するよう祈ったりしています。
肉体の束縛がある私たちは、「見える・聞こえる」といった五感の範囲には限りがありますが、「思う→願う→祈る」というように第六感を深めれば、時間も空間も超えられます。
たとえば、『みやぎシルバーネット』3月号で紹介した「昭憲皇太后の夢」もそうした次元のできごとです。
国家の危機となった日露戦争に際して心をくだかれた昭憲皇太后は、葉山の御用邸におられたある夜、夢で坂本龍馬から告げられました。
「帝国海軍は勝利しますからご安心ください」
結果は、日本の奇跡的勝利となりました。
国を思う皇太后の心へ、やはり日本の将来を案じつつ世を去った坂本龍馬の御霊が反応したにちがいありません。
供養は常に「思い立ったが吉日」です。〈縁の時〉を失わぬよう、智慧とまごころで人の道を歩みたいものです。
お寺はいつでも代えられます ―お布施の強要という暗黒―
今、指先から血が滲むような思いで、パソコンのキーを叩いています。
後世に僧侶がこんなことを書かねばならない時代が来るとは、いかなる祖師様方もお考えにならなかったことでしょう。
でも、書かねばなりません。仏法が歪められ、人々が救われぬ世へと退落しつつある事態を放置するわけにはゆきません。
昨夜もまた、憔悴した顔のご婦人が来山されました。
文字どおりいのちがけで看護し、看取った父親が亡くなって菩提寺へ連絡したところ、ただちに呼びつけられ、百万円単位の戒名料を請求されたそうです。
病人の長期入院などで家族全員が金銭肉体共に疲弊し切っておりとても無理です、何とか考慮してもらえませんかと必死の懇請をしたところ、お布施を値切るのかとすごまれました。
そして、お通夜までに全額そろえて仏様のそばへ置くように命じられました。
しかも、これから控えている数億円かかる計画まで聞かされました。
驚いたご遺族は慌てて何とか用意したものの、全員、今後のことが不安になりました。当然、誰もあとを継ぐ勇気がありません。
僧侶の送り迎えはもちろん何もかも一方的に命じられるままにすべてを終え、勇気を出してご相談に来られました。
「お寺を変えることはできるんでしょうか?」
もちろんです。
仏神のことは心の問題であり、まったく自由です。行く先を告げるだけで縁を切ることができます。
墓地は、お骨を引き取り、更地にして返せば良いのです。
離檀料と称して法外な金銭を請求された話をたくさんお聞きしていますが、それは無茶というものです。
縁あってお寺を支えてくださった檀家さんが訳あって離れる場合、お寺はお礼を言って送り出すべきです。
檀家さんが「これまでお世話になりました」とご喜捨をするならともかく、縁切り料を求めるなどあってはならないことです。
身近な形に置き換えてみればすぐに解ります。
もちろん檀家さんは〈お客様〉ではありませんが、お得意さんが引っ越しなどでご挨拶に来られた時、お餞別を渡すならともかく、縁切り料を請求するお店がどこにありましょうか。
ここでまたお布施の何たるかを書かねばならないとは、情なくてなりません。
布施行は、僧侶はもちろん、人間修行の第一番目とされているものだからです。
でも、必要がありそうです。三輪清浄(サンリンショウジョウ)について簡単に復習しましょう。
まず、布施をする人の心が清らかでなければ布施ではありません。
何の下心もなく、何のわだかまりもなく、心から差し出すもの。差し出させていただくもの。それが布施です。
子供が乗りものの席を譲り、悲しんでいる友人へ優しい言葉をかけ、亡き人の弔いが終わってご喜捨をする時、いかなる曇りがありましょうか。
もちろん、布施を受ける側の心も清らかでなければなりません。
自分の都合による勝手な請求や強制は、最も布施を汚すものです。「これこれ欲しいからください」などということは、布施にはあり得ません。なぜなら、布施を受ける側は、〈完全な受け身〉でなければならないからです。
ましてやみ仏に仕える者の受ける布施は、ご縁の方からみ仏へいただくものであり、聖職者は空(クウ)の心でそれを〈み仏から〉おしいただいて生き、法務に励まねばなりません。
当山では、何かをいただいたならば、必ず「ありがたく、ご本尊様へいただきます」と申し上げ、ただちに須弥壇へお供えして合掌します。
差し出そうとする方の苦境を知りながら、ばちが当たりますよとばかり強制するなど、考えも及ばないことです。
そして、布施行に用いられるものもまた、清らかでなければなりません。
泣きの涙でかき集められた戒名料が清らかであり得ましょうか。
ご婦人の体験は、あまりに哀れであり、あまりに情けなく、あまりに恐ろしくてなりません。
人生で最大の悲しみに襲われている方々は慰撫されるべきです。
驚愕や困惑や恐怖や不安を与えるとは何たることでしょう。
亡き方をいかように送るかは、当然、ご遺族のご意向を最大限に尊重する形で決められねばならず、寺院が命令すべきではありません。
同じようなご相談が後を絶たず、このままでは仏法は滅びてしまいかねないという危惧がだんだんと深まっています。
どなたにおかれても、真の納得と安心の得られる寺院とご縁になっていただきたい、そして、仏法を大切にしていただきたいという一念で「最も書きたくなかったテーマ」について書きました。
自らを切り刻むような思いで書きました。―――嗚呼。
後世に僧侶がこんなことを書かねばならない時代が来るとは、いかなる祖師様方もお考えにならなかったことでしょう。
でも、書かねばなりません。仏法が歪められ、人々が救われぬ世へと退落しつつある事態を放置するわけにはゆきません。
昨夜もまた、憔悴した顔のご婦人が来山されました。
文字どおりいのちがけで看護し、看取った父親が亡くなって菩提寺へ連絡したところ、ただちに呼びつけられ、百万円単位の戒名料を請求されたそうです。
病人の長期入院などで家族全員が金銭肉体共に疲弊し切っておりとても無理です、何とか考慮してもらえませんかと必死の懇請をしたところ、お布施を値切るのかとすごまれました。
そして、お通夜までに全額そろえて仏様のそばへ置くように命じられました。
しかも、これから控えている数億円かかる計画まで聞かされました。
驚いたご遺族は慌てて何とか用意したものの、全員、今後のことが不安になりました。当然、誰もあとを継ぐ勇気がありません。
僧侶の送り迎えはもちろん何もかも一方的に命じられるままにすべてを終え、勇気を出してご相談に来られました。
「お寺を変えることはできるんでしょうか?」
もちろんです。
仏神のことは心の問題であり、まったく自由です。行く先を告げるだけで縁を切ることができます。
墓地は、お骨を引き取り、更地にして返せば良いのです。
離檀料と称して法外な金銭を請求された話をたくさんお聞きしていますが、それは無茶というものです。
縁あってお寺を支えてくださった檀家さんが訳あって離れる場合、お寺はお礼を言って送り出すべきです。
檀家さんが「これまでお世話になりました」とご喜捨をするならともかく、縁切り料を求めるなどあってはならないことです。
身近な形に置き換えてみればすぐに解ります。
もちろん檀家さんは〈お客様〉ではありませんが、お得意さんが引っ越しなどでご挨拶に来られた時、お餞別を渡すならともかく、縁切り料を請求するお店がどこにありましょうか。
ここでまたお布施の何たるかを書かねばならないとは、情なくてなりません。
布施行は、僧侶はもちろん、人間修行の第一番目とされているものだからです。
でも、必要がありそうです。三輪清浄(サンリンショウジョウ)について簡単に復習しましょう。
まず、布施をする人の心が清らかでなければ布施ではありません。
何の下心もなく、何のわだかまりもなく、心から差し出すもの。差し出させていただくもの。それが布施です。
子供が乗りものの席を譲り、悲しんでいる友人へ優しい言葉をかけ、亡き人の弔いが終わってご喜捨をする時、いかなる曇りがありましょうか。
もちろん、布施を受ける側の心も清らかでなければなりません。
自分の都合による勝手な請求や強制は、最も布施を汚すものです。「これこれ欲しいからください」などということは、布施にはあり得ません。なぜなら、布施を受ける側は、〈完全な受け身〉でなければならないからです。
ましてやみ仏に仕える者の受ける布施は、ご縁の方からみ仏へいただくものであり、聖職者は空(クウ)の心でそれを〈み仏から〉おしいただいて生き、法務に励まねばなりません。
当山では、何かをいただいたならば、必ず「ありがたく、ご本尊様へいただきます」と申し上げ、ただちに須弥壇へお供えして合掌します。
差し出そうとする方の苦境を知りながら、ばちが当たりますよとばかり強制するなど、考えも及ばないことです。
そして、布施行に用いられるものもまた、清らかでなければなりません。
泣きの涙でかき集められた戒名料が清らかであり得ましょうか。
ご婦人の体験は、あまりに哀れであり、あまりに情けなく、あまりに恐ろしくてなりません。
人生で最大の悲しみに襲われている方々は慰撫されるべきです。
驚愕や困惑や恐怖や不安を与えるとは何たることでしょう。
亡き方をいかように送るかは、当然、ご遺族のご意向を最大限に尊重する形で決められねばならず、寺院が命令すべきではありません。
同じようなご相談が後を絶たず、このままでは仏法は滅びてしまいかねないという危惧がだんだんと深まっています。
どなたにおかれても、真の納得と安心の得られる寺院とご縁になっていただきたい、そして、仏法を大切にしていただきたいという一念で「最も書きたくなかったテーマ」について書きました。
自らを切り刻むような思いで書きました。―――嗚呼。
目次
- 《今月の守本尊様・真言・聖語》 (116)
- 《今月の運勢》 (45)
- 《行事・お知らせ》 (99)
- 《映画「チベット チベット」を観る会》 (14)
- 《今月の俳句》 (42)
- 《現代の偉人伝〜隣にいる英雄たち〜》 (63)
- 《世相あれこれ万華鏡》 (132)
- 悩みを相談したい方へ (18)
- 《日本の歌》 (71)
- 《法句経に心の耳をかたむけましょう》 (6)
- 《四十二章経に目を覚ましましょう》 (3)
- 《四国八十八か所遍路日記》 (6)
- 《少女の夢―信徒さんの投稿イラスト》 (1)
- ご加護を求めている方へ (46)
- お焚きあげ (7)
- お祓い・供養を考えている方へ (15)
- ご祈祷、加持を受けたい方へ (5)
- 結婚式を挙げたい方へ (1)
- 御霊の供養を考えている方へ (29)
- 墓地やお墓や永眠の場を求めている方へ (20)
- 葬儀を必要としている方へ (20)
- 御仏の教えを学びたい方へ (70)
- あの世の安心を願う方へ (6)
- 住職の法話を聞きたい方へ (64)
- 仏法・密教について (64)
- 寺子屋建立運動について (42)
- 本堂建立計画 (33)
- ご寄進をされたい方へ (1)
- 隠形流居合 (25)
- □子供の疑問に答えるために (9)
- □厄年のすべて (12)
- □守本尊様に学ぶ (8)
- □色情因縁の解決法 (4)
- □幸せを何倍にもする方法 (12)
- □救われる道 (10)
- □運命転化法 (15)
- □自他を幸せにする『四無量心』 (10)
- □四苦八苦の克服 (7)
- □五欲 (11)
- □理想を実現する五力 (19)
- □輪廻転生 (11)
- □十善戒の歌 (12)
- □十三仏様のご加護 (12)
- □生前戒名 (3)
- □役者・医者・易者・学者 (3)
- □小さきもの (8)
- 寓話 (1)
- 日想 (41)
過去の記事
- 2010年01月 (1)
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プロフィール
Author:住職 遠藤龍地
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