宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

極楽

 今日も、お位牌も要らないと言い遺して亡くなった方の奥さんが来山され、位牌入魂する修法を行いました。
 あまりに嬉しいことがあると泣きたくなりますが、ちょうどそういった顔で「夫は今、とても喜んでいます。羽がはえたように浮き浮きしています」と言われます。
 続けて、「お不動様の剣と、お大師様の五鈷杵(ゴコショ)がとても耀いています」。
 振り向くと、どんよりした空模様の下で湿った空気に満たされた本堂なのに、その金色の鮮やかさはあまりに際立っています。

 不動明王の剣は、智慧に導かれず我欲妄想によって動かされる人の迷いを断ち切るものです。
 お大師様の五鈷杵は、あらゆる智慧の源である「五智」を司る五智如来の徳を発揮し、迷妄を破るための法具です。

 とても人間味にあふれた亡きご主人も、奥さんも、何かが吹っ切れたのでしょう。
 奥さんの泣き笑い、そしてご主人の「浮き浮き」。
 悲嘆の向こうにある極楽をかいま見ました。

結婚相手のご先祖様がおられる墓所へ詣でること

 角田市のBさん宅で、遠い次代に生きておられたご先祖様のご供養を行いました。
 親子三代がきちんと並んで仏前へ坐った様子は、それだけで大きな功徳となっています。
 すべて終わり、お茶をいただきながらの質疑応答になりました。
結婚相手の家のお墓へ詣でることは、どうなんでしょうか?」

 このお話は、とてもすばらしい内容を含んでいます。
 相手の先祖を敬い供養するということは、相手の存在を根っこから尊ぶことです。
 当のご先祖様方が喜び、お守りくださるのはもちろん、行為を知った相手のご家族やご親族は、感謝をもって接してくれましょう。
 信頼感が生まれるかも知れません。
 夫婦に感情のズレや考え方の違いによって軋轢が生じた時は、互いのご先祖様へ手を合わせることが、障碍を乗り越えるきっかけになるかも知れません。

 そもそも、生まれも育ちも性格も異なった同士が「惹かれ合う」という強い縁の糸一本にすがって行う結婚なので、お互いの家同士も、家風や考え方や生活慣習が異なっているのが当然です。
 相手の親を自分の親と思い、婿や嫁を自分の子供と思えるようになれば理想的ですが、お互い感情の動物なので、なかなかすんなりとはゆかないのが普通です。
 そこで、面倒だからと相手から遠ざかれば、心も離れる一方です。
 これでは淋しい話です。
 切っても切れないほど深い人間関係など、一生生きても、そうそうあるものではなく、「心を許せる相手」や「無条件に尊敬できる相手」ほど貴重なものはありません。
 好きな相手をよりよく知り、その家族や親族を知り、さらにはそのご先祖様を知ることは自分の人間性を深めます。
 新しい親族ができるという大切な縁を疎かにしてはなりません。

 以前、他人はもちろん自分自身をも欺き、ものごとから逃げてばかりいる人が積んだ悪業の報いを受けかねない人びとを護ろうと、密かにご一族の墓所を調べ、供養法を行ったことがあります。
親の因果が子に報い」といった単純なものではありませんが、たとえばタバコを例に挙げれば、主流煙(タバコから直接吸い込む煙)よりも、副流煙(タバコの先から広がる煙)の方が有害物質を多く含んでおり、喫煙者はもちろん、周囲の人にも危険が及ぶようなものです。
 悪業が強いと、場合によってはこうした救済法が必要になるのです。

 この世は大日如来の展開であり、人は人に支えられ、大日如来の徳を分け持つ守本尊様に守られ、ご先祖様に見守られてたった一度の人生を生きぬきます。
 守ってくださる三者への感謝と供養とが人倫の根本です。
 自分のご先祖様だけでなく、結婚相手のご先祖様、さらには有縁無縁の御霊を供養する心で生きれば、道を踏み外さずまっとうに生きられましょう。
 結婚相手の墓所へ詣でることを強く推奨します。

立ち上がった「風」君

 仙台市在住のHさんご夫婦がペット供養にご来山されました。
 転勤で故郷の山里を離れることになり、心臓に病気を抱えていたイヌ「」君の体調を心配しながら連れてきましたが、案の定、環の激変に適応できず、10歳にして世を去りました。

 ご主人は仕事にでかけるので、奥さんが一生懸命世話をし、肺に水がたまるようになってからは「」君と一緒になって病気と闘ってきました。
 だんだんに弱り、ついには人間と同じように体中に管をつながれた状態になりました。
 やがて、あまりの哀れさに耐えきれなくなった奥さんが、「救命措置を止めてください、家へ連れて帰ります」と頼み、「」君は束縛から解放されました。
 そのままぐったりとしてしまうのかと思いきや、「」君は必死に立ち上がりました。
 そして、奥さんの腕の中で息を引き取ったそうです。

 奥さんは、あれもこれも悔やまれてならず、一週間経っても「」君の死を受け容れられません。

 修法後に申し上げました。
「数年前、生まれながらの難病によって逝った娘さんが、最期に『お父さん、お母さん、生んでくれてありがとう。お父さんとお母さんの子供で幸せでした』という言葉を遺しました。
」君が立ち上がったのは、精一杯の『ありがとう』だったはずです。
 こうして供養されれば、もう、これ以上、できることはありません。
 きっと、「」君は感謝していることでしょう。
 お地蔵様の法をむすびましたから、もう苦しみはありません。
 心配しないでください」

お地蔵様のご利益 1

 私たちは、道が見つからず「手探り状態」に陥る場合があります。
 その時に手を引いてくださるのは地蔵菩薩です。
 亡くなった場合も同じです。
 初七日を護る不動明王の魔除けを受け、7日ごとに釈尊や文殊菩薩の教によって導かれても、尚かつ迷う場合があるので、五番目に地蔵菩薩が救いの手を差しのべてくださいます。
 経典によれば、遺族などがみ仏を供養し、その功徳廻向すれば御霊は苦しみを離れることができます。
 しかも、供養する人びともまた、たくさんのご加護を受けられます。
 反対に、み仏を供養せず、たとえば遺族が誰かを恨んで殺したりすれば、その悪業は実行犯を苦しみに陥れるだけでなく、御霊をもまた苦しみの重荷を背負ってしまいます。
 
 経典は、誰かが亡くなった場合の心がけはいかなるものであるべきかを明確に示しています。
 まず、導き手であるみ仏を供養し、その心で、「御霊が安らかでありますように」と祈らねばなりません。
 私たちの心は、いつも揺れ動いています。
 常に六道を彷徨っています。
 目覚めた時は「今日もありがたい一日を迎えられる」と感謝していたのに、夕刻になると「ああ、酷いめに遭わせられた。あんな人は地獄へ堕ちてしまえ!」と恨んでいたりします。
 祈りは、自分の心のはたらきようを左右するばかりでなく、心を向ける相手(この世とあの世を問いません)の運勢にも少なからぬ影響を及ぼします。
 だから、祈りは、常に、我(ガ)を離れる清めから始まらねばならず、我を離れさせてくれるものは、み仏以外ありません。

 み仏が、み仏への供養の大切さを説かれるのは、決してみ仏自身のためではありません。
 凡夫の祈りが過たぬよう、お慈悲をもって導いておられるのです。

 さて、追福のご利益がどうなるのかは、明確になっています。
 御霊は、遺族などの作る功徳の7分の1を受けられます。
 残りの7分の6は、祈る遺族自身が受けます。
 何と尊い教えでしょうか。
 この意味について、よく考えてみたいものです。
 

読み下し文

 最近、各種の修法において読み下し文を多用しています。
 たとえば観音菩薩がお導きくださる百ヵ日忌では観音経を読みますが、終わってから皆さんの感想をお訊きすると、「何となく解る部分があります」あるいは「初めて観音経に何が書かれているかを知りました」という返事が返ってきます。

 いかなるイメージを抱いて生きるかは私たちの心の動きに大きな影響を与えるだけでなく、身体や脳の機能にも深く関わっているということは、最新の理学療法や脳科学の研究によって明らかになってきました。
 隠形流居合の稽古で「イメージをしっかり」と何度も指導するのは、そこに理由があります。

 一日は24時間しかなく、み仏からお預かりしたいのちの持ち分は砂時計の砂のように時々刻々流れ落ちています。
 因果応報の理にあって生きる私たちが「自他の幸せを」と願うならば、運勢を動かし、運命を創る主役である第七識(マナ識潜在意識)へ、〈良きもの〉や〈善きもの〉や〈佳きもの〉を入れるような生き方をせねばなりません。
 み仏の世界を彷彿させる経典を読むこと、聞くこと、書くことは、そのための方法であり、そうした行為は私たちにとって救いとなるだけでなく、清められつつ生きる私たちの姿を見ていただくことは、み仏と御霊への最高の供養となります。

 観音経は、悪しきものに害されそうになった時も、苦しい状況に陥った時も、観音菩薩は必ずお救いくださるというお約束に満ちています。
 御霊を供養するためにこの経典を読む理由は、み仏を信じ、経典を信じて救われる私たちの姿を回向(エコウ…回し向けること)するところにあります。
 読み下し文が役立つよう、これからも読誦と法話に努めます。

 蛇足。

 最近、葬祭会館で葬儀を行ったところ、「本尊のおられる本堂でやらないと本当の効果がない」と言われ、お身内の方々が呼ばれてもう一度やり直し、大変辛い思いをしたという話を聞きました。
 み仏は私たちの心にこそおわすものであり、いつ、いかなる所においてもみ仏と一体になる法を結んで修法するのがプロの行者である僧侶の務めであって、こうした暴論に耳を貸す必要はありません。
 また、伝家の宝刀のように用いられる高額の離壇料にも法的根拠はなく、信教の自由という正当な旗を掲げて拒否することができます。
 もしも無体な目に遭ったなら、仏法や寺院の全体を見捨てることなく、真の聖地と聖職者を探して縁を結ぶ選ぶ勇気を持っていただきたいと願ってやみません。
 み仏はどこででも、誰をも必ず救うと約束しておられます。
 どなた様のお近くにも、必ず見つかることでしょう。

テーマ:伝えたいこと - ジャンル:日記

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