宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

お寺を変える ―新たに位牌を作り亡き両親と会った方―

 一年前、事情があり、父母のお骨をある墓所へ収めたまま縁を切るしかなくなった方が相談に来られました。
が時間、空間、次元を超えて通じればこそ、三回忌などの供養会を墓地や自宅や寺院や会館などさまざまな場所で行うのであり、どこにお骨があろうと当山で供養を結ぶのに何の問題もありません。
 例えば、太平洋戦争後、遺骨南方やシベリアから帰って来ない方々の供養もできるのです。
 実際、当山では、外国にお骨のある方の供養も行っています。
 ご誠心はどこから、どこへでも届きます。
 ご安心ください」

 理解して供養を申し込み、檀家になって次の質問に移りました。
位牌も預けたままになってしまうけれど、大丈夫ですか?」
「もちろん、問題はありません。
 分骨と同じく、位牌をいくつか作って複数の方が供養するケースはめずらしくありません。
 亡き親の位牌を子どもたちがそれぞれ作って供養しているとか、お寺とトラブルになって話し合いができないから新たに作るとか、いろいろです。
 依代(ヨリシロ)が複数あることは、御霊にとって、むしろ嬉しいことでしょう。
 昔、インドのアショーカ王が、釈尊のご加護を願う人びとのためにたくさんの仏塔を造ったことや、お大師様が、何かを祀って私を呼ぶ者があればどこへでも行って救うであろうと告げられたことをよく考えてみましょう。」
 数日後、できあがった位牌へ魂入れを行い、本堂にも一対を収めてすっかり安心し、帰られました。

 最近そのお位牌を拭いてご供養していたたところ、Aさんから、しばらくぶりで手紙が来ました。
「不思議なできごとがありました。
 朝方、両親が枕元に座っています。
 父親はあぐらをかき、母親は正座しています。
 その横には愛犬太郎がいるので呼んだところ、たちまち懐へ飛び込んできましたが、匂いもなければ体温もなく、重量さえありません。
 親父へ、太郎は空気みたいに軽いぞと言ったら、あたりまえだと答えました。
 親父は、四つ足がちゃんとあることについても、最近のお化けは足があるんだと大笑いしています。
 私も、思わず一緒に笑ってしまいました。
 おふくろは黙ったままです。
 とても和やかな気持になっていたら、二人と一匹は風のようにいなくなりました。
 最近の幽霊は、映画のようにすうっと消えて行くんではないようです」

 電話をかけ、ほのぼのさせられる体験ですねと言ったら、私はどうすれば良いのですかと、またもや質問です。
 何ごとも自分の頭で納得できなければ気が済まず、謙虚に専門家の意見へ耳をかたむけてやってこられた方なので、一瞬も気を抜けません。
 ご自身で行える供養と当山で行った方が良い供養を申し上げました。
 例によって、ただちに了解と返ってきました。

 問題が起こったならば信頼できる専門家を探し、意見を聞き、遠慮無く議論することです。
 真心を持って当たればきっと正道がみつかり、ご自身も御霊も安心の日々を迎えられることでしょう。

お骨がなくともお墓でのご供養ができます

 Aさんご一家が途方に暮れて来山されました。
「事情があってどうしてもお骨を移動できませんが、『法楽の苑』にお墓を造って供養していただきたいと思います。
 可能でしょうか?
 いずれは私たちだって入るわけですから、何とかなりませんか」
 こうした場合、こちらからお困りの事情を詳しくお訊ねすることはほとんどありません。
 仏法上の可否をお伝えするのみです。

 もちろん、可です。
 仏壇が文字通りみ仏をお祀りするお堂であり、そこにおわすご本尊様によってお導きいただけるからこそお位牌に宿る御霊が安寧の地へと赴かれるのと同じく、お墓もまた、魂入れの修法によってみ仏に降りていただいてこそ、そこを「あの世の家」とする御霊が安心できるのです。
 仏壇もお墓も、み仏をお祀りすることこそが第一義である以上、たとえお位牌やお骨がどこにあろうとも、きちんと法を結ばれた仏壇やお墓で至心に手を合わせれば、その心は仏界へ、そして御霊へと届きます。
 時間・空間に縛られるのは私たちの肉体であって、み仏へ通じる異次元の世界は時間・空間を超えており、何の心配もありません。

 Aさんご一家は、お墓ができあがったならば故人の遺品を納め、塔婆を立ててご供養することにされました。
 永年の懸案は解決し、安心に満ちた一歩が踏み出されました。

お墓はあの世の家です

 今年1番の大風が吹いた4月1日、小野家の開眼納骨を行いました。
 暴風警報が発令されており、吹き飛ばされそうになるほどの状況なのでいつも用いる修法机は置けませんでしたが、たまたま特製物入(下の写真です)を作っておられたので使わせていただきました。
 当山では、どんな悪天候でも、修法が延期になったことはありません。
 
 一天かき曇り、あっという間に細かな霙が降り始めましたが、結界を張りご本尊様に降りていただく法を結び終えた時は墓石に陽光が差し、確かな手応えを感じました。
 当然、天候やお布施の金額によって修法が長くなったり短くなったりすることはありません。
 精進しておられるご主人は般若心経を唱和され、建墓にこめられた皆さんの思いが大きな力となって、いつも通り、すべてを終えることができました。
 長時間震えていた皆さんは口々に「ありがとうございました」と言われましたが、一つ一つの法をきちんと結ばせていただくのは、皆さんの尊い思いを受ければこそです。
 言葉では「ご苦労様でした」とお返ししても、心には「こちらこそ、ありがとうございました」の感謝が伴っています。
 法を結び続けられることは、行者にとっての生き甲斐です。

 ところで、お墓が一基できあがるたびに、それぞれの方々の考えや気持が表れていて感心しますが、何度も何度も打ち合わせをしたという今回のお墓も、斬新な形の中に古風な「塚」の雰囲気が込められ、実にユニークで印象的なものとなりました。
 故人の大好きだった猫もピアノも上手に表現されています。
 お墓はあの世の家です。
 皆さんがお墓というものを考えるヒントを見つけていただきたいと願い、小野家のご了解を得て、ここに公開しました。

[現代的な塚です。ペットもいます]
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[玉手箱のようです]
s-200401haka2.jpg



 

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お墓と仏壇の関係

 お墓についての疑問集の最後に、仏壇についても、以前公開した文章を転記し基本的なことを記しておきます。

 仏壇お寺のミニチュア版です。
 それは、古い時代の仏壇には三角の屋根がついており、正にお寺そのものの形をしていたことからも判ります。
 今日一般的になっている箱形の仏壇も、正式な形をふまえたものは中に屋根のような形の部分があり、ご本尊様を安置する一番上の台はまさに須弥壇(シュミダン…寺院の正面にある大きな壇)であって、お寺と何ら変わりありません。
 つまり、仏壇の意義は、そこにご本尊様がおられ、法と教えがあり、それによって御霊も生者も共に成仏への道を歩む場であることです。

 かつて、お寺には寺子屋がありました。
 文化年間(1804年〜1818年)には江戸だけで1200〜1300軒もの寺子屋があったとされ、そこで習う「読み書きそろばん」と僧侶の指導が教育の基礎であり、同時に社会人となるための基盤づくりともなっていました。
 もちろん、寺院ですから、子供たちは心が浄められみ仏も御霊も身近な存在だったことでしょう。
 江戸時代の識字率は世界最高だったというのも頷けます。
 私たちが仏壇の前に座るのは寺子屋にいるのと同じだとも言えましょう。

 さて、そこで学ぶものは何でしょうか。
 それは、何はさておいても「六波羅蜜(ロッパラミツ)」であり、そのためにそ「六種供養」が行われます。
 水をお供えしては「布施」を念じましょう。
 手へ塗香を塗っては「持戒」を念じましょう。
 花の供養では「忍辱」を念じましょう。
 お線香を立てては「精進」を念じましょう。
 ご供物をお供えしては「禅定」を念じましょう。
 灯明に明かりを灯せば「智慧」を念じましょう。
 こうして、日々のご供養がそのまま供養をする人自身の行になります。
 一心に念じていれば、凡夫の身・口・意がみ仏の身・口・意と一致し、迷いの三業(サンゴウ)が如来の三密(サンミツ)となります。
 つまり、仏壇の前は、この身このままでみ仏の世界へ入るための場です。

 仏壇の意義を活かすには用意した仏壇をどうすれば良いのでしょうか。
 仏壇は小さなお寺ですから、何よりも先にご本尊様をお祀りすることです。
 ご本尊様のおられないお寺はありません。
 ですから、ただ位牌を置くのは謬りです。
 ご本尊様がおられてこそ、手を合わせる私たちも位牌をよりしろとする御霊もお救いいただけるのです。
 こうした本義からすれば、当然、位牌がなくご本尊様だけがおられる仏壇はあってしかるべきです。
「お地蔵様が好きだなあ。ちゃんとご供養して手を合わせたいなあ。お経も読みたいなあ」「自分はなぜかお不動様にお護りいただいているような気がするから、お不動様をお祀りしたい」などと思えば、仏壇を用意すれば良いのです。

 また、「姓の異なる位牌を置くと家庭が乱れる」といった話がおかしいこともすぐ分かります。
 お慈悲の深いご本尊様が「お前は導いてあげよう」「君は嫌だよ」などとわけへだてすることがあり得ましょうか。
 せっかくみ仏がおられるお寺なのに、人間の好き嫌いや都合などを主とするのは愚かしいことです。
 供養とはわけへだてなく縁に応じて互いのためになろうとする慈悲行である以上、万霊供養が根本的な形であって、もしも代々の御霊のみを祀るならば、ご本尊様にお導きいただけないだけでなく、そうした狭い了見はそれこそ一家一族の繁栄の障害になり、仏壇は空虚な死後の家でしかなくなってしまいます。
 御霊成仏できず、一家の人々もお護りいただけません。

 こうして、お墓仏壇寺子屋お寺はつながっています。生きている間も死後も魂のよりどころとなるかけがえのないものを、大切に護りたいものです。

法楽寺のサイトも是非ご覧ください

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墓地を動かすと罰が当たりますか

 県内外各地からお骨を持って来られる方が五月雨式に続いています。
 すべての方が事前に来山し、いろいろな事情を述べられます。
 最も多いパターンは、仕事などの関係上仙台市や富谷町や大和町などに落ちついた結果、遠方にあるお墓をそのままにしてはおけず移動するというものですが、寺院や親族とのトラブルが原因となるケースも決して少なくはありません。
 いずれにしても、御霊が一番安らかでおられ、実際に供養する方が清らかな心で手を合わせられることを第一にお考えいただきたいとお話し申し上げています。
 最近も「お骨を移動すると罰が当たる」と脅かされた方が人生相談に来られたので、この際、以前記した文章をもって、そのあたりの問題について述べておきます。

 雪深い他県にお墓があってなかなかご供養に行けない方が、五月(!)の雪解けを待って『法楽の苑』へお骨を移動することになりました。
 お骨を取り出しお墓を解体するに際してこれまでの旦那寺に法を解いてもらえないので、こちらから行くという段取りになりました。
 来山されるまでの間はいろいろ心配しておられたようですが、お骨の移動は、もちろん吉凶に結びつくことはありません。
 もしも宗派が変わっても、兄弟の家へ引っ越すようなものですから心配ご無用です。
 そもそも、宗派の一つだけが、同時にすべての人にとって最高であるなどということはあり得ません。
 長い仏教の歴史にあって、それぞれの時代の宗教的天才たちが、それぞれ異なった問題に苦しむ人々を救うために、膨大な教えの中から必要なものを選び出し(み仏に選んでいただいて)理解可能な形で説いたものが教典として残っているのです。
 それに、真理を体現しておられる法身仏から発せられている真理を未完成の人間が完全に表現することなど不可能であって、これからも人間の能力の向上にあいまって無数の教典が出現することでしょう。
 また、伝えられた教えを活かす方法も研究され続けることでしょう。
 お墓移動する場合は、何よりも、建墓の本来の目的を考えて、より良い場所へ移さねばなりません。
 生きている人が不快な家に住みたくないのと同じで、御霊も、本尊のおられない、教えのない、生気のない、汚れた場所では喜ばれないでしょう。
 自分がそこを拠り所として心の底から安心できるかどうかよくよく考えることです。
 また、誰しも引っ越しにはなにがしかの苦痛を伴います。
 必ずより良い所へお移し申し上げますとの信念をもってやれば、御霊は癒され、その真心をきっとお喜びになられます。
 御霊の喜びこそが家運隆盛への追い風であることを忘れないようにしましょう。

法楽寺のサイトも是非ご覧ください

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