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2016
11.01

花の人に出会う

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〈高橋香温先生の作品〉

 ある時、ホームページとブログを読んで当山をご指名くださったA家へ枕経にでかけた。
 ご遺族とは初対面なのに、どなたもが、友人のような親しさで迎えてくださった。
 グレーのネコがすうっと故人の枕元を通り過ぎて消えた。

 修法に入ると空気が温かくなった。
 いつものようにお不動様の結界を張り、引導を渡す時まで皆さんのまごころが強いご守護となることをお伝えした。
 故人はふんわりと横たわっていた。

 故人は几帳面に掃除をし、何ごとにもじっと耐え、弱音や愚癡をいっさい口にしない方だったという。
 かつて、仙台駅の清掃ぶりを視察する外国人一行に出会った時の光景を思い出した。
 うち合わせが終わって退出する前にもう一度、故人のそばに座った。

 醸し出している純粋さはまるで少女のようだった。
 ──ああ、〈の人〉に出会った。
 教えのとおり、確かに、忍耐は人を一輪のにする。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
08.28

アメリカの遺族カウンセリングと寺院の役割

2016-08-27-0006.jpg

 京都大学総合人間学部教授カール・ベッカー博士によると、アメリカには、遺族カウンセリングを行う病院があるという。
 

末期患者が亡くなるであろう二、三ヶ月前から、家族、そして医療従事者、患者の世話をするチーム、看護婦や医者、そしてだいたいにおいてはハワイでしたらお坊さん、本土でしたら神父、牧師などを呼んで一、二時間くらいティーパーティーをひらきます。
 お菓子を出して、場合によってはビールとか酒も出します。」(以下『日本人の死生観』より)


 驚いた。
 医者が何かを告げるといった目的ではなく、患者の話を聴くのはもちろん、集まった人たちが「お互いに話せるような場」を目ざす。
 もちろん、祈りたい雰囲気になったなら、一緒に祈ることもある。
 数回、開催するうちに本人は他界するが、その後も毎月、数回は「雑談」を続けることが理想とされている。
 そうすると「不思議なこと」がわかる。

遺族カウンセリングをやった場合、遺族がほかの一般の人と同じような比率で健康でいられるのに対して、一般の、遺族カウンセリングをもたない遺族は、死なれて一、二年もたたないうちに突然死、急病、精神異常、自殺未遂等々、悪運をずっと引きずります。」


 これはかなりきつい表現だと思うが、家族の死をどう受けとめ、咀嚼(ソシャク)するかはその人その人によるとは言え、「遺族カウンセリングのある方が健康にいい」と事実を突きつけられてしまえば、唸るしかない。
 しかも、この事実は広く知られ、アメリカでは郡や町の単位でティーパーティー代を負担する制度すらつくられている。
 せいぜい十数万円ではあるが、医師や牧師などに時間をとらせ、クッキーなどを用意すればそれなりの実費は要する。
 その経費と、遺族の運命の重さとを比べ、「みんなのほうから出しましょうということになる」そうだ。

 さらに博士は指摘する。

「私がこの話を日本人に語るというのはいささか滑稽に思えませんか。
 だって、日本ではお坊さんがずっとそういう作業をしてきたのですから。
 昔のお坊さんは、死なれてからだけではなくて、患者が危ない、最期ではないかと思う時点から家庭に出入りし始めて、そして死なれてから何度も、四十九日、一周忌、等々、宗派によって微妙に違いますが、そこでお経を唱えるだけでなくて、みんなが話し合える、悩みを聞き合えるという場を設けて、いわば祟りを無事に抜けてきたのです。 これが日本人の知恵だったのです。」


 一昔前までは、生前にお墓を建てることや、万が一の際の準備をすることは「縁起でもない」と避けられていたが、今はむしろ、先に逝く本人が、ご葬儀の準備すら〈自分の責任〉と考えるのが一般的になりつつある。
 事実、当山には、たくさんのご家族がお揃いで相談に来られる。
 もういくばくもないと宣告されている方を目の前にして、息子さんが「おやじ、これから二人とも高校進学で大変なんだから、お墓はそんなに立派なの造れないよ」と言い、父親が「じゃあ、お墓代は俺と母さんが何とかしよう。お前は永代供養料と年間管理料を払って、孫の教育のためにも墓を守って行けよ」などとざっくばらんに話し、衆議一決する場合もある。
 もちろん、送る立場の奥さんが一人で来られ、こっそり、ご夫婦の分、共同墓の契約をして「これで安心です」と穏やかな顔で帰られたりもする。
 また、四十九日の日取りをご相談に来られ、お墓のことで親族間のズレが生じていると悩みを打ち明けるご遺族もおられる。
 四十九日、百か日、一周忌、三回忌と続く一連の供養は決して形式的な慣習ではない。
 薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来という異なる役割を持つご本尊様方に導かれ、あの世の御霊が安心の世界へと向かうのみでなく、供養するこの世の人びとも又、悼み、慰め、祈るまことを尽くしつつ、それぞれの心なりに身内の死を受けとめ、知らぬ間に心を深める貴重な機会である。

 何か、〈聴いて欲しい〉ことがあったなら、遠慮なく人生相談を申し込んでください。
 アメリカにはアメリカなりのスタイル、日本には日本なりのスタイルがあります。
 博士が「ずっとそういう作業をしてきた」と言うとおり、当山は人生相談を寺院の中心的役割と位置づけ、歴史的使命を果たさせていただきたいと願っています。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2016
04.26

僧侶の数

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 ある時、ご葬儀の申込みを受けた。
 若い頃から地域のリーダーだった方が大往生され、ご葬儀にはそれなりの人数が集まると予想されるらしい。
 喪主様へお尋ねした。
「通常は小生一人で引導を渡していますが、僧侶の頭数が必要ですか?」

 当然のことながら、行者は一人で必要な法を結ぶ。
 これまで、数百人規模のご葬儀でも一人で淡々と引導を渡し、法話を行ってきた。
 誰かの手を借りねばできないとか、何かが足りなくて法を結べない、などという言いわけは、通用しない。
 お釈迦様もお大師様も一人で歩き、説法し、修法をされた。
 しかし、娑婆の方々には立場もおありになるので、レアケースではあるが、念のためにご意向を伺ったのだ。

 喪主様は笑顔を交えながらきっぱりと言われた。
「私たちは、住職を頼りにして、お願いに来ているのです。
 大切な家族を送るのに、周囲の目や口を相手にしてはいられません。
 どうぞ、信念のままに送ってやってください。」
 ご一族は真言宗ではない。
 それでもなお当山を選ばれたので、諸々のご事情もあろうかと思って質問したのだが、ご尊家様は堂々としておられた。

「了解しました。
 ご信頼に感謝します。
 きっちりとお渡しします。」

 おしどり夫婦だった妻の名前だった花が咲く頃、後を追うように、夫もスッと旅立たれた。
 鴨居(カモイ)には手書きの慈顔が二つ並んだ。




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「おん あらはしゃのう」
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2015
10.19

安心な死へと導くポワとは何か? ―「チベットの生と死の書」に学ぶ(その1)―

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〈絶好の秋晴れとなった日、講堂を埋め尽くした善男善女が、境内地で作った芋煮を堪能しました〉

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〈手作りのおにぎりなどもふるまわれ、誰もが浮き世の憂さを忘れたひとときでした〉

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〈地球の資源を守ろうという呼びかけもありました〉

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〈『法楽米』などが当たる抽選会もあり、盛り上がりました〉

 チベット密教の聖者ソギャル・リンポチェは若い頃、師ギャムヤン・キェンツェに導かれ、テント数30ほどの小さな集団で、巡礼の旅を行った。
 そのおり、60才を超えた老修行者ラマ・ツェテンが急病に罹った。
 死がさし迫り、看護していた弟子は、ギャムヤン・キェンツェを連れてこようとした。
 しかし、ラマ・ツェテンはこう言って止めた。
「彼をわずらわせるんじゃない。
 その必要はない。
 師とともにあって、距離などというものがあるか」
 そして微笑み、「しばし、空を見つめ、息を引き取った」。
 やがてギャムヤン・キェンツェが到着し、死者の「顔を見つめ、瞳をのぞきこみ、くすくすと笑いはじめ」、「そこにいるんじゃない!」と呼びかけた。
「その行を行っていると微妙な障害が起こってくることがある。
 さあ、わたしが導いてあげよう」
 呼ばれたラマ・ツェテンは「息を吹き返し」、それを目の当たりにしたソギャル・リンポチェは「呆然と立ちつくした」という。

「師はラマ・ツェテンのかたわらに腰をおろし、彼を〈ポワ〉へと導いた。
 ポワとは死の直前にある意識を転移させる行のことである。
 この行にはさまざまな方法があるが、そのとき師がもちいたのは『アー』という音を三度唱えながら、師とともに意識の高みに昇りつめてゆく方法だった。
 師がはじめの『アー』を唱えると、ラマ・ツェテンがそれに和する声がはっきりと聞こえた。
 二度目、彼の声は遠くなり、三度目には声は返ってこなかった。
 こうしてラマ・ツェテンは逝った」


 ソギャル・リンポチェはこの体験を振り返り、「精神の勝利」と考えている。
 小生も一度、忘れがたい体験をした。
 親の臨終に間に合わなかったお子さんが駆けつけたばかりの枕経において、〈通じる法〉を結んだ瞬間、死者がフーッと長い息をつき、その場に安堵の空気が広がったのだ。
 以来、小生はますますその修法に意識を集中している。
 引導を渡す葬儀では、もちろん、死者の気配をつかんでから法力を動かす。
 また、「アー」と唱える阿息観(アソクカン)は、阿字(アジ)に象徴される根本仏大日如来の世界へ融け入る修行であり、当山でも行われている。
 正統なポワの伝統はしっかりと受け継がれている。
 死に行く生きものたちの中で人間のみに許された「精神の勝利」は確かである。

 ソギャル・リンポチェは長じてデリー大学とケンブリッジ大学で比較宗教学を学び、ダライ・ラマ法王からこう評される「チベットの生と死の書」を著した。

「いかにして人生の真の意味を理解し、死を受容するか、死にゆく者や死者に救いの手をさしのべるか、に焦点をあわせた、まことに時宜を得た書物である」


 あまりにも大きく深い示唆に富んだ本書を、おりおりに読み進めて行きたい。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2015
09.26

ご葬儀は誰のために行うのか? ―送り方送られ方を考える―

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〈雨続きでも花が絶えない『自然墓』〉

 ご葬儀は、仏神のお導きによって死者が無事、あの世へ旅立つことを第一の目的とする。
 それは、生まれてから死ぬまで、親を初めとし、ありとあらゆる〈おかげ〉なくして過ごせないのと同じである。
 この世を〈おかげさま〉、〈お互いさま〉と生きる私たちが、死んだ途端に自力だけで安心世界へ逝けようはずはない。
 だから有史以来、目に見えぬものの力によって、目に見えぬ世界へ死者を確実に送ることごとが文化の根底を成してきた。
 送り方、送られ方にこそ、その時代、その場所で暮らした人々の文化の色合いが濃く映し出されている。

 また、ご葬儀は、〈おかげさま〉と感謝する人々へその思いを届ける人生最後のチャンスである。
 死に行く人にとっても、送る人にとっても。
 生まれるとは、社会との関わりが始まることであり、死ぬとは、社会との直接的な生きた関わりが消えることである。
 人は社会的動物であり、いかなる社会で、いかに社会と関わるかが人生であるとも言えよう。

 流行の家族葬を一概に否定するものではないが、こうした肝腎のところが蔑(ナイガシ)ろにされつつあるように思えてならない。
 一個人の死を、一個人に起こるできごととして考え、一個人のできごととして送るだけならば、それは、生きて在る人々がそれぞれの人生を一個人のできごととして過ごす態度に結びついては行かないだろうか?
 現代に顕著な個人主義の悪しき面はますます増長するのではなかろうか?
 こんにちわ、さようなら、この挨拶をきちんと行うところから私たちのまっとうな生活が創られるのではなかったか?
 ならば、膨大な〈おかげさま〉への最後の「さようなら」もそれなりに行われてこそ、まっとうな人生のまっとうな締め括りになるのではなかろうか?

 9月25日付の産経新聞に専門誌『SOGI』の碑文谷創編集長の所感が掲載された。

「死者と身近な関係者は血縁者とは限らない。
 死者と深く関わった人を『家族でない』と排除するのは、死者中心の弔いという観点からは大きく離れている。
 流行や経済的な理由だけで家族葬を選択すべきではないだろう」


 死に行く人としても、生きてこの世に残る人々にとっても、見過ごせない指摘であるように思えてならない。

 今朝も、路傍にご逝去とお別れを表示する掲示板が立っていた。
 小生が大和町宮床に居着いて間もなく掲げた「寺子屋建立」の傍に共鳴し、賛同し、ご指導もご助力もくださったAさんが逝かれた。
 機関紙「ゆかりびと」と機関誌「法楽」はずっとお送りしてきたものの、久しくお会いしていない大恩人の寛(ユル)やかな口調と落ちついた声が思い出され、溜息が出た。
 Aさんと小生には細(ササ)やかな接点しかなかった。
 しかし、Aさんはまぎれもなく〈師〉である。
 これまでも、これからも……。
 師のご冥福を心から祈りたい。
 そして、師のお導きに恥ずかしくない日々を送りたい。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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