宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

葬式仏教というけれど

 お盆を過ぎて10日も経たないうちにご依頼が相次ぎ、3人の方をお送りしました。
 法を結んでこの世あの世の区切りをつけるためには、行者としてのすべてをかけねばなりません。
 向こう側の世界を明確に感得して引導を渡すためには、自分がこちら側にとどまらねばならないだけに、自分自身が超えて行く以上のエネルギーを必要とします。
 人一倍罪が深いからこそ、こうした役割が廻ってくるのでしょう。
 修法が終わると皆さんから感謝されますが、感謝せねばならないのは、むしろ行者の方です。
 どんなにヘトヘトになっても、退場の時にご遺族から起立してお送りいただいたり、会食の法話が終わって拍手が起こったりすると、法務へ向かう気力が回復します。
 私たちの使命は、ご縁の方々に「この世幸せあの世安心」を得ていただくことにあります。
 皆さんがそれらを得てくださったと感じる瞬間があればこそ、また、励むことができます。
 ご縁の方々の幸せ安心ほど、行者を支えるものはありません。 

 とにかく、今日の地鎮式と明日の『法楽』作りが終わるまでは、まったく息が抜けません。
 一段落したなら、日本の歌や四国遍路について、また書きましょう。

戒名のいらない方

「今のお寺は信じられない。戒名葬式要らない」と言っていた方が亡くなり、ご遺族の求めでお伺いしました。
 このところ、こうした方々とのご縁が続いています。

 枕経が終わった時点で、お身内から、戒名とはどういうものですかというご質問がありました。
 故人だけでなく周囲の方々も何らかの理由でお寺へ強い不信感を抱き、その影響でいろいろなことをよく考えていなかったけれども、お不動様の結界法によって御霊をお守りする場に入り、考えが変わったそうです。

戒名とは、生まれた時に親が良き人生を歩んで欲しいと願って我が子へつける名前のようなものです。
 生前戒名にはまた別の意義がありますが、亡き方へみ仏から降りる戒名とは、肉体の束縛を離れ、魂だけの存在となって故郷であるみ仏の世界へ帰って行く旅立ちにあたって、その魂を特定するための名前です。
 だから、私ごとき一介の行者である僧侶が決められるはずはありません。
 亡き方の生き方やご遺族のご意向などをお聞きし、修法すると、必ずふさわしい名前がみ仏から授かります。
 私たち僧侶は、ただ、それをお伝えするだけです。
 だから、『降りる』というしかないのです。

 戒名をつけるかつけないかは、もちろん自由であり、戒名がなければみ仏に救っていただけないなどということはあり得ません。
 分けへだて無く、あらゆる人びとへ救いの手を差しのべるが故に〈み仏〉なのです。
 この人は救う、この人は救わないなどというみ仏はおられません。

 大事なのは、御霊安心の世界へ行くためにどうすれば良いかを、ご供養する皆さんご自身が道理をもってよくお考えになられることです。
 その結果によって、み仏と皆さんへお仕えする私たち僧侶が、供養法に区別をつけるなどということはありません。
 そもそも、すべての人びとが等しくみ仏の子なのであり、亡くなった途端に、戒名のあるなしで供養のされ方が異なったり、地獄と極楽と行く先が分かれるなどということもまたあり得ません。
 安心した上で、よくお考えください。
 そして、納得されたならお求めください」

 法の場という異次元世界を体験されたご遺族は戒名を求め、家族葬をされました。
 すべてが終わり、皆さんが安堵されたお顔は忘れられません。

散骨を思いとどまった方

 亡くなった方をお送りするのは、最も身心をすり減らす法務です。
 しかし、やり遂げた後は、役割の重さに「自分のような者がこのような大役を果たさせていただけるとは、何とありがたいことか」と感謝の心が起こります。
 そしてその思いに後押しされ、また、気力を奮い立たせて法務へ向かいます。
 送る役割を死ぬまで続けるのは、やはり、自分の因縁の結果であると深く納得できます。

 また、お通夜の修法後には戒名についての法話を行い、葬儀の修法後には五種供養についての法話を行いますが、皆さんが〈人生の根本〉、〈人生の大事〉に関して心が開いている時、肝心の教えをお伝えできることにも感謝せずにいられません。

 最近、「身内が、お寺に世話になりたくないから散骨してくれと言って亡くなりました。こうした場合もお経を唱えていただけますか?」という問い合わせがあり、もちろん、二つ返事で駆けつけました。
 修法が終わり、さまざまな質問をいただきました。

「故人の願いと遺族の考えが異なる場合は、どうすべきでしょうか?」
「誰一人、自分の死後の始末を自分でできる人はいません。
 まず、死に臨んだ方が、亡くなる前に、そのことを自覚せねばなりません。
 もちろん、自分の願いを言い遺すのは当然ながら、あとは信じて任せるよという広い心が必要です。
 そして、この世にいる方々は、故人の思いを大切にしながらも、これからずっと供養をして行く自分たちの考えや都合も勘案せねばなりません。
 きちんと納得できる方向へ進まなければ、結局、供養の誠を尽くすことが難しくなるからです」

「『俺の骨は思い出深い海へ撒いてくれと』言われ、その気持は充分に解りますが、どうしてもそうし切れない気持もあります」
「私たちは、亡くなった方の身体が唯のモノとなり、焼かれることで、無常の鬼に心を引き裂かれます。
 その一方で、白々としたお骨が残ることで無意識ながら永遠を感じ、親愛の情をどうにかそこにつなぎ留めて心のバランスを保つのが人生の真実です。
 斎場の方々が実に丁寧にお骨を取り扱い、遺族ももちろん、その最終的な帰属をどうするか真剣に考えるのは当然です。
 もちろん、お骨も長い年月の間にいつかは自然へ還りますが、少なくとも炉の猛火をのり超えた時点では『生き残った』大切な宝ものなのです。
 今回の場合、共同墓『法楽の礎』へ収めてみ仏にお守りいただき、折々に訪れて供養することを基本にし、分骨した一部だけを海へ撒かれてはいかがでしょうか」

「彼は私の人生のすべてでした」と言うAさんは、お骨を散じたならば後を追いたいと考えておられましたが、正しく供養を行いながら自分を向上させることが妻の幸せを願っていた亡夫にとって最も嬉しく安心なことであろうと気づき、当山の檀家になられました。
 花をたむけては忍耐を誓い、お線香を灯しては精進を誓い、お水を供えては布施を誓う道へ入られました。

 み仏の教えと、み仏のご加護は偉大です。
 自分のすべてを尽くして、み仏と御縁の方々へお仕えしたいと願っています。

引導とは

 葬儀なしでお骨になった御霊、葬儀に関するトラブルで寺院を離れた御霊、身よりのない御霊などのご縁が頻繁にあります。
 過日も、一人暮らしの親族が急逝し、ご友人がお骨を持参されました。
 電話を入れてすぐに火葬場から直行され、途方に暮れておられます。
 共同墓『法楽の礎』で安眠していただくことになりましたが、まだ若い方なので、葬儀について何もご存じありません。

葬儀と告別式は、結婚式と結婚披露宴のような関係です。告別式は行えずとも、み仏のお導きでこの世とあの世の区別がしっかりつくよう、引導を渡す葬儀はきちんと行った方が良いですよ。
 ただし、どうするか決めるのは、あくまでも貴男です。強制ではないし、もちろん、お布施をいくら包みなさいという指定もありません」
「そうですね。お願いします。ところで引導とは何ですか?」

 引導には二つの面があります。
「世間の引導」とは、恩に背くことなく、感謝を忘れず、人としての道をまっとうできるよう導くことです。
「出世間の引導」とは、法によって涅槃(ネハン)を示し、心におわすみ仏の心を開いてそこへ入られるよう導くことです。これが、葬儀における引導作法です。
 法を結ぶ導師は、み仏と一体にならねばなりません。即身成仏です。これができずして、御霊へ行く先をはっきりとお示しするのは不可能です。
 僧侶としての行者が己を清め法力を得る修行に励むのは、御霊に「あの世の安心」を得ていただくという面からすれば、引導を渡す一瞬の法力を得ることが最大の目的であると言って過言ではありません。
 もちろん、「この世の幸せ」を得ていただくという面からしても、法を結んで即身成仏の状態にならねば、人生相談一つ、まっとうにはできないので原理は同じですが、一瞬にいのちのすべてをかけるという厳しさでは引導に勝るものはなく、終わった後は大変です。

 引導を渡す際に偈文(ゲモン)を唱えるのは、釈尊が亡くなった親族を火葬する祭に香木を用いて法を結び、送る文言を唱えたことに由来します。

「一切の行(ギョウ…この世に現象として現れているもの)は無常なり。生ずる者は必ず滅することあり。生ざれば死せず。この滅を最楽となす」

 無常という真理を体得せねば、自分の肉体を含め儚いものに執着して迷うので、導師は自分のすべてをかけて法力を用い、体得と覚悟を迫るのです。

 引導は渡さねばなりません。

テーマ:伝えたいこと - ジャンル:日記

友引のお葬式

 N家から相談がありました。
「遺族の都合上も、来てくださる方の関係上も、友引に葬儀をしなければならないんですが、いかがなものでしょうか?」
 
 お答えしました。
「人間の生死は、大安や仏滅と関係ありません。大安に亡くなる人もあれば、仏滅に生まれる人もあります。
 無常は迅速であり、時を選びません。
 だから、友引の葬儀は、御霊の成仏とも、関係者の吉凶とも何の関係もないので、皆さんがそう希望されるならばそれで結構でしょう。
 ただし、考慮すべき点は、やはり来てくださると思われる方々の問題です。
 友引にお葬式へ行って引っ張られたら大変だと考えるような方々が多い場合は慎重を期した方が良いでしょうね」

「私たちは、ご住職からそう教えてもらえれば安心です。
 連絡する方々は皆さんご高齢なので、今さら何やかやと気にする人もいないでしょうから、これでお願いします」
という次第で、決定しました。
 当山を信じて檀家になり生前戒名も受けたご夫婦のご一族が自分たちの頭で考え、プロの僧侶から聞いた道理を咀嚼して因習を離れたことは、まことに感慨深いものがあります。
 
 斎場はさすがに閑古鳥が鳴いていましたが、それでも何組かは利用者がある様子でした。
 お骨になったNさんは係官が驚くほど崩れがなく、いつもそばで看病していた妹さんに至っては、頭蓋骨の美しさに感動しておられました。
 何ごともきちんきちんと進め、迷いのなかったNさんは最後の最後までみごとなふるまいでした。

 さて、友引を含む六曜について書いておかねばなりません。
 これは唐における時刻の吉凶占法である「六壬時課(ロクジンジカ)」が「小六壬」として渡来したもので、日本以外、歴注になっている国はありません。
 しかも、現在の六曜は、本来のものとかなり異なっています。

○速喜→先勝 諸事急ぐことによし。午後より悪し。
○留連→友引 朝夕よし。正午悪し。
○将吉→先負 諸事静かなることによし。午後大吉。
○空亡→仏滅 万事凶。口舌を慎むべし。患えば長びく。
○大安→大安 移転開店等万事利あらざることなし。大吉日。
○赤口→赤口 諸事ゆだんすべからず。用いるは凶。正午少しよし。


 今回問題となった友引、すなわち留連は「相打ち友引とて勝負なし」という意味で、葬式に友を引いてあの世へ連れて行くなどという意味はまったくありません。
 仏滅もかつては「物滅」と表記され、仏様が滅するなどという意味はなく、現在のような六曜による吉凶判断は、江戸時代の庶民の語呂合わせがもたらしたとされています。

 以上が、ことの真相であり、当山が「仏法上、六曜を考慮する必要はありません」としている根拠の一つです。
 ただし、長い間行われている因習・慣習は潜在意識へ影響を及ぼしているので、その点だけは多少留意する必要があります。
 だから、あくまでもケースバイケースですが、N家のように道理で判断する方々が増えれば、無意義な因習は自然に消えて行くことでしょう。

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