宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

自分のご先祖様と縁を切る話

 最近、『結婚相手のご先祖様がおられるお墓へ詣でること』のページに書きました。
「自分のご先祖様だけでなく、結婚相手のご先祖様、さらには有縁無縁の御霊を供養する心で生きれば、道を踏み外さずまっとうに生きられましょう。
 結婚相手の墓所へ詣でることを強く推奨します」

 ところが、今日はBさんから驚くべきお話を聞きました。
「女性は、結婚相手お墓へご挨拶へ行く前に、実家のお墓詣りをして、ご先祖様方としっかり縁切りをしておかなければならないそうです」
 これまで守護霊としてつき添っていてくださったご先祖様方がそのまま嫁ぎ先までついて行くと、相手方の家におられる守護霊たちに打ち負かされて、お嫁さんは大変なことになるというのです。
 開いた口が塞がらないとはこのことです。
 守護霊同士が戦うというマンガめいたバカバカしさもさることながら、祖先と縁を切れなどと宣う知らずな発想にはあきれました。
 遙かな過去からいのちを受け継ぎ、今いる自分をこの世へ送り出してくださったご先祖様方とのつながりは永遠です。
 断ち切ることなどできはしません。

 かつて、太平洋戦争を戦った方々へ「あれは誤りだった。あなた方はまちがっていた」と糾弾する機運が強まった頃、こうした子孫を祖霊方はどう思っておられるかをお訊ねしたことがありました。
「いかに」と祈り初めてちょうど30日後の朝、パソコンのキーを叩く手が自動書記のように動き、瞬く間に文章ができてしまうという体験をしました。
 そこに顕れた祖霊の言葉の一部です。

これだけは忘れないでほしい

幾億の光を放ち輝けるそなたたちの生も

後に続くものにたちによって いずれかは何色かとされよう

その時

彼らの心に 今のそなたたちの心と同じまことが宿っているよう

必ず 導いてほしい

そして

そなたたちも

やがては

我らとともに 子々孫々を護ってほしい


 こうした祖霊との縁を切るという考え方は、身の毛がよだつほど恐ろしいものです。
 仏法で言う邪見そのものです。
 こうした愚かしい見解で人心を惑わしているのが誰であるかなど、Bさんへお訊ねはしませんでした。
 たとえどんなに有名な人や超能力があるとされる人の説であろうと鵜呑みにせず、を尊ぶ「人の道」を考え、ものの道理を弁え、良心に照らしてはっきりと否定せねばなりません。

布施の三忘

 布施には、寺院からの強制という良からぬイメージがまつわりつき、根本にある「布施三忘」は意外に知られていません。

 真の布施を行うならば、三つものを忘れねばなりません。
 それは、「時」と「相手」と「物」です。
 いつ、誰に、何をしてあげたか、を忘れてしまうのです。
 つまり、布施行とは呼吸のようなものです。

 そもそも布施は、菩薩が絶えず行う六波羅密(ロッパラミツ)行の最初に挙げられているものであり、大乗仏教の教えを学び実践する者の一挙手一投足はすべてそれに叶っていなければなりません。

1 見かえりを求めずに、誰かのためにできる何かをすること。
1 戒めを守ること。
1 高慢心などによって怒らず、じっと耐えること。
1 なすべきことを弛まずやり続けること。
1 生活を慎み、身心をきちんと整え、自分で制御できること。
1 自分の利益を離れて誰かのためになれる方法を考えること。

 身・口・意がこれらの行のみではたらいており、離れたなら菩薩道からの墜落なので、もはや、行は呼吸と同じというしかありません。

 こうなると菩薩行はとてもハードルが高くて尻込みしたくなるかも知れません。
 しかし、心配ご無用です。
 文殊菩薩様や地蔵菩薩様などが「たまに羽目を外す」などという事態はあり得なくとも、凡夫は「たまに菩薩様になる」ことが大切だからです。

 当山では、「たとえ一日十分でも、み仏になり切りましょう」と申し上げています。
 布施を行った後の清々しさや充足感は、即身成仏によってもたらされる「法楽体験」です。
 布施を受けた後の感謝は、即身成仏している人によってもたらされた「慈悲体験」です。

 極楽とは、二つの体験が呼吸のように行き交う浄土ではないでしょうか。

 四国八十八霊場の聖性は、「お接待」という布施行によって支えられています。

 文化のレベルは、モノや知識ではなく、こうした聖性をもって計られるべきではないかと考えています。

釈尊の誕生日

 今日は釈尊誕生日です。
 釈尊誕生日とは人間としてこの世に生まれた日、覚りを開いて生まれ変わった日、そして、説法を始めた日があると考えています。
 甘茶の嬉しい今日、思い出すのは「甘露の法門」が開かれた場面です。

 悟りを開いた釈尊は法楽に憩い、「この法は、相当の智慧がなければ理解しがたい。煩悩にまみれた人びとには無理であろう」と考えました。
 それを知ったバラモン教の最高神ブラフマンは跪いて願いました(勧請…カンジョウ)。
「この世には、智慧の眼があまり覆われていない人びともいる。
 そうした人びとすら、法を聴かねば皆と共に堕ちゆくであろう。
 穢れた者が教えを説くこともある。
 悲しみに沈む人びとを、生と死に敗れた人びとを哀れみ救いたまえ。
 あなたの法は、必ずや理解者を得るであろう」
 請われた釈尊があたらめて仏眼で世間を観るとさまざまな人がおり、来世の恐ろしさを知りながら生きている人すらありました。
 それはまるで色とりどりの蓮華が咲く池であり、水面から出られないものも、水面でとどまるものも、そして、水面から抜け出して泥水に濡れることなく屹立しているものもあります。
 ついに、釈尊ブラフマンへ告げました。

「彼らに甘露の門は開かれたり耳ある者は聞け。古き信を去れ」

 安心したブラフマンは、礼拝して消えました。

 釈尊は、甘露の門を開くためにこの世へ来られました。
 それから2500年。
 この世の苦を見つめ、そこから脱する方法を信じて行い悟りを開く「声聞(ショウモン)」、因縁のつながりを見極め、過去から未来へつながるいのちの流れをつかんで悟りを開く「縁覚(エンガク)」、布施行や精進行などの六つを実践して自他を救う「菩薩(ボサツ)」と、道は明確になりました。
 しかし、私たちは「耳ある者」や「古き信を去る」人になっているでしょうか。
 教えを学び、実践し、救われ、救っているでしょうか。
 仏弟子としての誓いをあらたにしたいものです。

私たちは何者なのか、どこへ向かうべきか 2

 私たちは、誰かを、あるいは何かを心の底から愛おしいと思う時、哀しみややるせなさが伴うものです。
 それは、思いはつながっていても個体として離れているという事実がもよおさせる情感なのでしょう。
 前回「私たちは何者なのか、どこへ向かうべきか」に書いたとおり、私たちの根本的なありようが「ままならないという苦を抱えた病人」であると気づかれた釈尊の心には、涙の雨が降っていたのではないでしょうか。

 経典は、釈尊が降魔成道(ゴウマジョウドウ…魔ものたちの妨害をはね返して悟りを開いたこと)をなし遂げた際の力強い様子と、その後に訪れた法楽の世界を説いていますが、み仏の境地に達した釈尊の心がただただ五月晴れだったとはとうてい想像できません。
 一点の曇もない心の鏡にありありと映った人間も生きものも野山も、愛おしく、かつ、哀しかったことでしょう。
「苦」という言葉の裏には「嗚呼(アア)」という慨嘆が感じられてなりません。

 み仏の教えを学ぶ時は、経典にある言葉を私たちの日常生活にそのままあてはめて表面的な判断をしないよう、気をつけたいものです。
 経典にあるのは凡夫の言葉ではなく、み仏の言葉だからです。
 苦の問題についても、「苦があると言ったって楽もあるだろう」「苦楽いろいろで構わないさ」などと上辺だけで判断してしまえば、み仏の次元をかいま見ることはできません。
 苦へ立ち向かう勇猛心は湧いてきません。
 言葉を何度も咀嚼し、言葉に表現されている心をおもんばかりましょう。
 そうすれば、言葉の奧に広がる世界への扉が静かに開く瞬間がやってきます。
 経典や真言の読誦、あるいは写経も、そして瞑想もその手段です。
 
 み仏の眼から観た私たちが病人であり、その原因も明らかであるならば、私たちはいかに生きるべきでしょうか。
 希望へ向かって生きるために必要なのは何でしょうか。
 嬉しく潤いを得られる人間関係、楽しい家庭、やりがいのある仕事、安定した毎日の土台は何でしょうか。

「解消されない不満、やり場のない怒りや怨み、空しい愚痴、これらを離れた活き活きし揺るがない心の状態」


 これが人生という絵を描くための白いカンバスであり、演奏会が始まる前の会場の静寂であり、誤りのない決断を生む落ち着きをもたらすものです。
「貪・瞋・癡(トン・ジン・チ)の三毒を離れること」
 ここに立脚しない限り、まっとうな人生は歩めません。

 苦を観て原因を突きつめ渇愛をつかんだ釈尊は、原因があって結果があるならば、原因となっているものを取り除けば、望まぬ結果はもたらされないと悟り、一人一人が貪ったり、怒ったり、愚かな考えを持ったりしなくなれば、「ままならない」という心の覆いも人間同士のぶつかり合いも解消されると確信しました。
 その方法が八正道です。
(悟った釈尊の最初に知った内容が正しい生き方、つまり八正道だったという説もありますが、前後はどのようであっても、「苦・集・滅・道」の四諦の中のことです)

 さて、誰しも自分を中心にして「〜しよう」と考え、行動します。
 狭い道路へ向かい合うように車が進入すれば身動きがとれなくなってしまうのと同じく、自己中心と自己中心がぶつかり合えば、トラブルにならざるを得ません。
 この状況を克服するには、いつでも、どこでも、どちらへ向かっても決してぶつからない通行にならねばなりませんが、それは、自分一人では達成できません。
 しかし、自分から始めない限り永遠にトラブルは解消されません。
 この状況を頭で考えただけでは、「自分が道を譲っても、自分が損をするだけだ」「皆が譲り合うようになることなどあり得ない」となり、実践できない可能性があります。
 せっかく釈尊が苦を脱する八正道を示されても、実践されない限り宝の持ち腐れになってしまいます。
 ここを突破する方法をもって最終回とします。

テーマ:伝えたいこと - ジャンル:日記

私たちは何者なのか、どこへ向かうべきなのか

 仏法は何であるかと問うならば、答は
「私たちは何者であるか、どこへ向かうべきかを教え、導くものである」
となりましょう。
 社会が新年度へ入る時期に際し、三回にわたり、その内容をかいつまんで記します。

 釈尊は、悲喜こもごもの人間を観て深い哀れみと悲しみとを感じられました。
 それは、誰しもがままならず、苦しんでいるからです。
 釈尊は、私たちの存在を「ままならないという苦を抱えた病人」と喝破されました。
 病人といっても、寝てばかりいるわけではありません。
 元気に走り回る場合もあり、笑ったり泣いたりしているのですが、そのありよう全体が苦という定めにからめとられており、カラリと解放されていないのです。
 それは、単に、事実としてどうであるかという問題ではなく、喜怒哀楽を見せながら生きている人間の存在に顕れている真実が、釈尊の魂の鏡へはっきりと映ったということでありましょう。

 釈尊は、あらゆる方面からそのありようを確かめました。

 生も苦である。
 老も苦である。
 病も苦である。
 死も苦である。
 憎い人と出会うのも苦である。
 愛する人と別れるのも苦である。
 求めて得られないのも苦である。
 とらわれを離れられない身心があるのも苦である。


 こうした病気の原因はどこにあるのでしょう。
 釈尊は、自分自身の心に病気を引きおこす毒があると気づかれました。

 欲しい・惜しいと貪ってやまない欲。
 驕り高ぶり、意にそわぬものにガマンできず爆発する怒り。
 道理に合わぬ自分勝手な考え方から離れられない愚かさ。


 私たちの心にはこうした毒を生み出してしまう根源的・盲目的な欲求があります。
 意識を持った生命体としての「生」にぴったりと貼りついている「いつも自分を第一にしないではいられない欲求」。
 釈尊が渇愛(カツアイ…喉が渇いた時に水を求めるような欲求)と呼ばれた欲求です。

 現代のようにあらゆる立場、あらゆる職業、あらゆる階層の人びとが渇愛を解き放った時代はなかったと思われます。
 はやり言葉のように「ジコチュウ」と軽々しく言われている現状は深刻であり、どの方面を観ても、世の中全体が無慈悲な方向へと進んでいることは確かです。

 これまで幾度となくこうした教えについて書いてきました。
 仏法に何かの手がかりを求めようとする方は、ここまでの土台について、よくよく考えていただきたいと思います。
 根本的なものは、意外と単純な姿をしており、「ああ、そうか」と解ったような気になって流してしまえばそれまでです。
 たとえば「愛する人と別れるのも苦である」という指摘一つをとってみても、自分に起こったこと、起こり得ること、周囲の人びとに起こっていること、起こり得ること、マスコミの情報で知ったこと、あるいは、イラクやパレスチナやボツワナなどで戦争のために絶え間なく人びとが斃れつつあること。
 こうした場面を具体的に想像し、その気持をおもんばかるならば、釈尊が説かれた「苦」の真実が腑に落ちることでしょう。
 思いやりに裏打ちされた想像力を枯渇させる「ジコチュウ」こそが万人にとって最も恐ろしい魔ものであることに、深く思い至るのではないでしょうか。

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