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2015
06.05

「そのうち」を待たず…… ―相田みつをと朝比奈宗源―

20150605017.jpg

 今から30年前、友人A氏は、相田みつをが書いた『雨の日には雨の中を、風の日には風の中を』の一節を自分へ言い聞かせていた。

そのうち お金がたまったら
 そのうち 家でも建てたら
 そのうち 子供から手が放れたら
 そのうち 仕事が落ちついたら
 そのうち 時間のゆとりができたら

 そのうち……
 そのうち……
 そのうち…… と、
 できない理由を
 くりかえしているうちに
 結局は何もやらなかった
 空しい人生の幕がおりて
 頭の上に 淋しい墓標が立つ

 そのうちそのうち
 日が暮れる
 今来たこの道
 かえれない」


 当時、A氏は、「今、やらねば」と奮い立っていた。
 最近、久方ぶりに会った氏は、もう、墓標をどうするかという現実に直面していたが、選んだ「この道」をぶれずに歩んでおられた。

 小生はその頃、娑婆で商売も悪さも盛んに行っていたが、なぜかこんなことを書いていた。
「近頃、生きているということは死んでいないことにすぎないという気がしている。
 自分より先に死んだ先祖・友人などは無くなってしまったのではなくて、永遠の存在の中に戻って行ったのだと思う。」
 そして、浅沼稲次郎を刺殺した山口乙矢、割腹自殺した三島由紀夫、飛行機が墜落したポトマック川で女性に2度も命綱を譲って死んだ銀行監査官アーランド・ウィリアムスなどに理想の生死を観ていた。
 かつて、鎌倉の円覚寺で座禅の手ほどきを受けた朝比奈宗源師の言葉が、どう生きたらよいかわからない者への灯火になってはいた。

仏心の中に生死はない。
 いつも生き通しである。
 人間はその仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、また息を引きとるのだ。
 その一瞬一瞬が仏心の真只中(マッタダナカ)であると信じきれれば、生は生であって生でなく、死は死であって死ではない。」(朝比奈宗源著『仏心』より)


 問題は仏心がわからないことであり、ついに娑婆の破綻者に堕ち、即身成仏(ソクシンジョウブツ)を目ざす一密教僧となった。

 屈託無い笑顔を見せているA氏は今、一筋に歩んできた某組織のリーダーとして現役だ。
 A氏などと共に理想を目ざした仲間37人のうち、6人は鬼籍へ入った。
 もはや、「そのうち」はなく、問題は限りなく単純化されている。
 何ができるか、どう死ぬか。
 一息、一息、進みたいと思う。




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2015
05.14

クレーの『死と火』に想う ―弾圧にも揺るがぬ気高さ―

201505140003.jpg

 さる待合室で、60才の画家パウル・クレー(スイス)が、死ぬ年に書いた『死と火』を観た。
 1940年は、ドイツ軍がノルウェー、オランダ、アイスランドなどへ電撃的に侵攻し、パリを占拠する一方、ソ連はカティンの森で大虐殺を行い、リトニア・ラトビア・エストニアを併合した年である。
 昭和15年、日本もまた、紀元2600年を祝いつつ日独伊三国軍事同盟を締結して北部仏印へ侵攻し、中国に親日の南京国民政府を成立させている。

 画集は、クレーの日記を紹介している。

「何かが私の中で叫んだ。
 私は彼らに叫んで応え、しかも叫ぶことができなかった。
 ……私はひたすら叫んだ、涙ぬれて心の奥底から声をあげた。」(日記9269番S)

「私のすごす現(ウツ)し世の生よ、さらば、いつまでもそのままではいられないのだ。
 お前は気高かった。
 くもりない精神よ。
 物も言わずに一人淋しく。」(日記725番)


 中央には死に神の白い顔が大きく描かれ、細い手に魂とおぼしき黄色の玉を掲げている。
 斜め後から、角張った獄吏風の人物が棒で追い立てる。
 追い立てられる先は炎の世界。
 絵の上部から垂れ下がる3本の線は、魂を奪い去ろうとする何者かの指に見える。

 第一次世界大戦で従軍し、友人たちを戦死で失い、前衛的な作風でナチスから弾圧されたクレーは、思い通りに動かなくない手で46×44センチメートルの小さなジュート(黄麻の繊維で織られた布)へこの作品を描いた。
 もちろん、全体的に暗いのだが、絶望は感じられない。
 白い死に神はもしかすると、自分で魂をあの世へ運ぼうとするクレー自身かも知れない。
 持ち前のユーモアは最後まで失われていなかったのではないか。
 墓石に刻まれているクレーの言葉には、何となく、ゆとりすら感じられる。

「この世では、ついに私は理解されない。
 なぜならいまだ生を享(ウ)けていないものたちのもとに、死者のもとに、私はいるのだから」


 生きながらにして、この世ならぬ世界、この世ならぬ者たちと親しく過ごしていたのではないか。

 松岡正剛師は、『千夜千冊』に書かれた。

「一言でいうのなら、クレーには『スペーシャル・オーガニズム』があったのである。
 日記にはそのことをクレーが十全に検討していたことが綴られている。
 空間的有機体への確信だ。
 それとともに、クレーは、『インディビデュアル』ということを突きとめていた。
 これも日記を読んでいて、得心がいった。
 少しだけ、説明しておく。
 いま、英語でインディビュアリティ(individuality)といえば、誰もがみんな『個性』をさしているような気になっているようだが、"individual"とは、もともとは"vidual"(分割できるもの)に対する『非分割的なもの』を意味している。
 すなわち『分割できない有機性』がインディビデュアリティなのである。
 日記にはこう書いてあった、『無理にでも分割しようとすると、その引き離された部分は死滅してしまうのだ。分割できなくて融合していることが、本来のインディビデュアリティなのだ』。」


 クレーは何を題材にしても「空間的有機体」すなわち、この世全体を描いた。
 そして、「分割できない有機性」はあの世にまで及び、ついにあの世までユーモアという救済で包んでしまったのではないか。
 世界的規模で阿鼻叫喚の戦争が行われていた時代に、不自由な手で柔らかく温かなジュートへこの作品を描いたクレーの魂は、確かに「気高く」「くもりない」ものだったに違いない。




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2015
05.12

「むかしの仲間」と「陶の器」 ―葉桜の頃に想う─

201505120001.jpg

 大正から昭和にかけて活躍した医学者、詩人、劇作家木下杢太郎(モクタロウ)の『むかしの仲間ふるき仲間)』は山田耕筰の作曲によって広く知られている。

ふるき仲間も遠く去れば、また日頃顔合せねば、知らぬ昔とかはりなきはかなさよ。
 春になれば草の雨。
 三月、桜。
 四月、すかんぽの花のくれなゐ。
 また五月にはかきつばた。
 花とりどり、人ちりぢりの眺め。
 窓の外の入日雲。」


 大学を卒業して学問の生活へ入った杢太郎は、「専門の学問と日々の業務」で過ごすようになってほどなく、絵や文学や酒を楽しんできた仲間たちがそれぞれの任地へと去り、会者定離(エシャジョウリ)の悲哀に促され、綴った。
 密かにこの歌を献じた友人とはその後二度、遭遇しただけであり、「一生のうちにもう一度会えるかどうか疑わしい」と書いた2ヶ月後、60才でこの世を去った。
 20代の若さで儚さを痛感した杢太郎は30代になると、ここまで行く。
 

「その昔の夢が、よしや譬(タト)ひ秋の日の
 大(オオ)な樟(クスノキ)の梢のやうに實(マコト)になつたからと云つて、
 それが何になる。
 それが爲めに今の此(コノ)おれが
 どれだけ幸福になつてゐる。
 どれだけ價値(ネウチ)を増してゐる。
 大都東京の街(マチナカ)で人が後を見返って、
 あれこそあの人だとささやき合つたからと云つて、それが何になる。
 人の金を借りて大きな地面を買ひ、
 それをまた人に賣る仲買人の榮耀(エイヨウ)は、
 それは取りたい人に取らせておけ、生から死までただ自分の本当の楽しみの為に本を読め
 ただ自分の本當(ホントウ)の樂しみの爲に本を讀め、
 生きろ、恨むな、悲しむな。
 空(クウ)の上に空(クウ)を建てるな。
 思ひ煩(ワズラ)ふな。
 かの昔の青い陶(トウ)の器(ウツワ)の
 地の底に埋れながら青い色で居る――
 樂しめ、その陶(トウ)の器(ウツワ)の
 青い『無名』、青い『沈默』。」


 何かで成功して財物を貯め、有名になったとて、人間の〈値打ち〉とは無関係である。
 浮き世の栄華や立身出世などに何の価値もない。
 そんなものに煩わされず、地中に埋もれた青磁が何百年経とうと、人知れぬまま、じっと青さに深みや味わいを加えてゆくさまを観よと言う。
 私たちが珍重する古代の青磁は、虐げられた無名の人々が黙々と作業した結果、その人生と汗と精進の結晶として残っている。
 私たちは、何か青磁のような〈本もの〉や〈値打ちあるもの〉を紡ぎ出しつつ生きているだろうか?
 約150年前、こう書いた人がいる。
「事物世界の価値増大にぴったり比例して、人間世界の価値低下が酷くなる」
 
 さて、還暦を過ぎると、仲間たちは加速度的に遠くなる。
 まるで「知らぬ昔とかはりなきはかなさ」で遠くなる。
 もう、死んでいて、さらに遠くなってしまっているかも知れない。
 ――お互い、何か〈青磁〉をつくっているか、あるいは何か〈青磁〉を眺めているか……。
 こうした姿勢と眼だけは失わずに老い、死んでゆきたいと願う。

 木下杢太郎が「むかしの仲間」を書いた「葉桜の頃」になると、こんなことを想う。




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2014
10.28

生きもののいのちをいただくタヌキ、そして人間 ―増野繁治師との食事―

201410090017.jpg

 木香舎(モッコウシャ)を主宰する増野繁治師の工房に招かれ、巨大な薪ストーブで調理する海鮮料理をいただいた。
 知人が浜から送ってきたというハモやホタテなど、いつ、どこで食べたか忘れているほどの食材を、師は、いとも簡単に処理し、絶妙の仕上がりで次々と机へ並べる。
「調理はいつの間に習得されたのですか?」
「私のはすべて、見よう見まね、自己流です」

 包丁捌きや火加減や間(マ)の置き方などに感心してバカなことを言った。
「まるで、アーマッド・ジャマルのピアノですね」
「何ですか?その方は」
「間(マ)をコントロールする名人ですよ」
「間(マ)ですか……」

 また、言った。
「私のようなズボラな性分では、先生のような繊細なことはやれそうにありません」
 師の笑顔で目が光った。
「なあに、私にとっては息抜きです」
 そして、近くにある制作中の作品を見つめながら続けた。
「仕事では、何百倍も繊細になるんです」
 人それぞれが持つ感覚の距離はいかに遠いものか、プロはいかに遙かなところで仕事をするものか、真実が一瞬にして突きつけられた。

 師はさっき、ホタテなどを捌いて出た残りかすを通路向こうの草むらに投げ入れていた。
タヌキたちが食べるんですよ」
 ホクホクのホタテを頬ばりながら、ふと、リアルなイメージが浮かんだ。
〝あの闇の中で、タヌキたちも頬ばっているのか……。
 生きもののいのちを口にする仲間、家族だな〟
 尋ねられた。
「何を考えておられるのですか?」
「なあに、外のタヌキたちも一緒に食べているかと思っていただけです」
 大笑いで夜は更けた。




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2014
09.24

最強のクマムシと施餓鬼の話

2014092400052.jpg

 ラジオでクマムシという小さな虫について知りました。
 体長1ミリ前後で水中でも土中でも物陰でも生きられ、真空や乾燥や超低温や絶食でも大丈夫というのだから驚きです。
 しかも、街路樹の根元にある苔の中など、よく探せば、身近なあちこちで見つけられるのです。
 普段、あまりに小さくて視野へ入らず、いること自体が知られていないし、知ってもわざわざ探す物好きは少ないので、いるという認識は持たれていません。
 しかし、事実としては、確かにいるのです。

 さて、当山には、餓鬼へ施す施餓鬼壇(セガキダン)があります。
 餓鬼は存在が非情に希薄で、見えるともなく、見えないともなく、感じとれる人には「ここか」と心を澄ませばありありとわかる場合もあるというところでしょうか。
 因果応報の理によってこの世界へ堕ちれば、飲めず、食えず、それでいて口に入りそうなものをめぐって同類と争い、しかも、人間にとっては涼しい夏の月光で身体が焼け、温かいはずの冬の陽光で身体が凍えてしまうとされています。
 お釈迦様の高弟アーナンダが、ばったり出会った餓鬼へ食べものを施す方法をお釈迦様から授かったことにより、施餓鬼の修法が始まりました。
 当山では、お盆の時にだけ生ずるのではなく、いつも苦しんでいる餓鬼界の方々へ法を結んだ水や食べものをお供えするために、壇を常設しました。
 毎日、手を合わせ真言を唱えているうちに、最近では、施餓鬼幡のあたりで時折、微かにカサカサッと物音が聞こえるようになりました。
 意識を向けていなければあると気づかない餓鬼界が少しづつ感じとれるようになったのかと考えています。

 私たちの五官六根は所詮、何もかもを、どこまでもありのままにとらえられるわけではありません。
 もしも、目や耳や鼻などが今に比べて何百倍もの情報をキャッチできるようになれば、私たちは気が触れてしまうことでしょう。
 1キロ以上も上空から小動物を見分けるワシの目と、超音波を聞き分けるコウモリの耳と、水のありかを匂いでつかむゾウの鼻を持っては生きられないのです。
 適度な限界があるからようやく、一瞬の意識において一つの情報へ意識を集中させ、おちついて感じたり、考えたりできているのです。

 だから、私たちは普段、クマムシも餓鬼も見えず、日常生活上はいないに等しいのですが、実際はいるはずです。
 このことを知ったからといって何の得もないと言えるかも知れません。
 しかし、この世の成り立ちや流れは日常生活で見聞きする範囲だけではないと思い、想像力をはたらかせていれば、何らかの徳ある考え方や行動が可能になるかも知れません。
 たとえば今こうしている時も、エボラ出血熱で死に行く人々や、その治療現場へ向かう人々や、幹部の指令で殺すべき対象を探す「イスラム国」の戦士たちや、その幹部を爆殺しようとする軍人たちが確かにいるはずなのです。

 いつか、どこかの科学館にでも立ち寄ってみれば、クマムシを視認できるのでしょうか。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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