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2016
12.03

Q&A(その32)自業自得なら廻向で救われない? ─因果応報と空の話─

2016-11-11-0191.jpg
〈四国の路傍に〉

 人生相談に来られたAさんから、ご質問をいただいた。

三回忌などの廻向(エコウ)って何ですか?
 仏教は自業自得ではないのでしょうか?
 どうして、あの世へ行った人が、この世の人の祈りで救われるのでしょう?
 それでは、死後に拝んでくれる人さえいれば、この世でさんざん悪事をやっても大丈夫、ということになりませんか?」

 もっともな疑問だ。
 お答えした。

「確かに因果応報なので、善きことを行えば善き報い、悪しきことを行えば悪しき報いがあり、それは皆、その人自身の問題です。
 ではなぜ、祈りの功徳を廻し向けられるのか?
 それは、ありとあらゆるものが本当は、いっさいの枠を離れた(クウ)だからです。
 また、私たちは、の内容をすべて把握できないことも考えておく必要があります。

 例えば、一輪のタンポポを踏んだとしましょう。
 それは一見、自分とタンポポの間で起こった小さなできごとにしか思えませんが、タンポポを当てにしていたハチやチョウチョにとっては、蜜を得る先がなくなったことを意味します。
 あるいは、タンポポの根元にいた小さなミミズまで一緒に踏み潰したかも知れません。
 また、花を踏んでしまったという小さな悔悟の念が、懺悔させ、慈悲心を育てるかも知れません。
 それまでは、いつも花を見つけたら踏まないように心がけていたはずなのに、つい踏んでしまった自分の注意力が散漫になっていると気づくかも知れないし、アッと思っても足が止まらなかったことに、〝自分は年をとってしまった〟と嘆くかも知れません。
 このように、ありとあらゆるモノもできごとも、無限の連なりの中で生じ、滅しているので、神ならぬ身には全体像など知り得ないのです。

 また、例えてみましょう。
 まず、自分のために勉強をすれば成績が上がり、精神も豊かになります。
 希望する進学も可能になるでしょう。
 これは自分に対して結果が出ている状態ですね。
 一方、病気で苦しむ人たちを見捨てられず、救いたいと一念発起して勉強し、首尾良く医師になって活躍するならば医療の力はどこまで及ぶか、はかり知れません。
 実は、御霊のために供養という善行(ゼンギョウ)の功徳(クドク)を回し向ける廻向は、後者の世界と同じです。

 我(ガ)にとらわれない清浄な心で、正しい方法を用い、そして相手を選り好みせず普く供養するならば、〈枠を離れた影響力〉は当然、あの世の相手へ届き、たくさんの御霊へ届き、供養する施主(セシュ)その人自身もまた、善き影響力によって苦や悪因縁から離れる機会になることでしょう。
 自分のために行う善行は小さな因果応報としての〈世俗的善行〉であり、相手を選ばずに行う善行は無限の力を無限に及ぼす〈菩薩(ボサツ)の善行〉であり、両方共に大切です。
 だから誰かへ供養のまことを捧げたいならば、特定の相手に向かって祈るだけでなく、無限の相手に対しても廻向の心で再度、手を合わせましょう。
 その際、イメージを明確にするための伝統的文章があります。

『願わくは、この功徳をもって普く一切へ及ぼし、我らと衆生(シュジョウ)と皆共に、仏道を成(ジョウ)ぜん』。

 こうして、の心で行う善行は、あの世にいる特定の御霊のためになるだけでなく、結果的に、生きとし生けるもの全体のためにすら、なるのです。

 お盆の故事を思い出してみましょう。
 神通力第一とされた目連尊者(モクレンソンジャ)が、あの世に行った母親の様子を観たところ、餓鬼界(ガキカイ)で苦しんでおり、自分一人では救いきれないからとお釈迦様へ相談に行ったのがきっかけでしたね。
 お釈迦様は、雨季の修行が終わったら皆で祈り、その功徳で救いましょうと指導され、その通りに母親が救われたからこそ、いまだに、廻向の祈りが続いているのです。
 きっと、お釈迦様も、行者たちも、の祈りを捧げたのでしょうね。
 私たちもまた、縁に応じて、心を広く持ち、尊い廻向となる供養を実践しましょう」




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
11.27

年忌供養の麗しい光景 ─死者はいつから「ご先祖様」になるか?─

2016-11-11-0068.jpg
〈四国霊場の天井画には意外なものが……〉

 七回忌供養でAさんご一族が来山された。
 ひいお祖父さんとひいお祖母さんと、お祖父さんがもう、ご先祖様の仲間入りをしておられる。
 喪主だったお父さんを中心に、奥さん、お祖母さん、そしてお子さんと、三代にわたるご家族、ご親族が集まられた。
 にぎやかで皆さんの笑顔が好ましい。

 法要の心構えをお話しした。

七回忌阿閦如来(アシュクニョライ)様が一つの関所を越えさせてくださる時期です。
 三回忌で阿弥陀様の極楽浄土に到着し、それから4年間、このみ仏にお導きいただいてきました。
 阿閦様は、無瞋恚(ムシンニ)如来、あるいは無動(ムドウ)如来とも呼ばれ、どんなことがあってもイライラせず、怨まず、人の道を邪魔するあらゆる魔ものを降伏させます。
 動じることがありません。
 み仏の世界を歩まれている故人もきっと、不動の悟りを開き、東の浄土におられるこのみ仏のお力で、よき世界へ転生(テンショウ)する流れに乗っておられることでしょう。
 古来、七回忌法要を終える頃になると喪主を務めた人も縁者の方々も、故人の死と人生を丸ごと受け容れ、乗り越え、引き継ぎの段階をすっかり終えて、故人に見守られつつ不動の信念で新しい世界へ進むことができるとされています。
 また一つの区切として、思い出につらなるものをまとめたりするのに適した時期でもあります。

 さて、私たちは、亡くなった家族や親族をいつから〈ご先祖様〉とお呼びするのでしょうか?
 それは、四十九日忌からです。

 中陰(チュウイン)という行く先の定まらない時期を過ぎ、あの世での道が定まればもう、ご先祖様なのです。
 そして、喪主はその後、施主(セシュ)となります。
 〈喪に服する人〉から〈供養を施す人〉へと役割を進めるのです。


 しかし、三回忌あたりまでは、まだ、故人はこの世で果たした役割のイメージが強く、それぞれの人々なりに、お祖父ちゃんやお父さんといった感覚の存在です。
 〝ご先祖様になった〟とはなかなか思えないのが人情というものでしょう。
 それも七回忌あたりになると、故人に関するすべては〈よき思い出〉という1つの清浄で温かく揺るぎない結晶体となり、仏神に通じる尊さをはっきりと帯びています。
 私たちは、このあたりでようやく、ご先祖様として手を合わせられる気持になるものです。

 施主様はお1人ですが、それは、本当の意味では施す人々の代表であり、先祖様へ供養を施す人は等しく尊い役割を果たしていると言うべきです。
 だから、今日は、皆さんが施主様になったつもりで、お手元の経典をお読みください。
 経典はまず、日頃の過ちを懺悔(サンゲ)させ、私たちがみ仏の子であることを思い出させます。
 清らかな心身でこれからのご供養を行うのです。
 次に七回忌の守本尊である阿閦如来様をお讃えします。
 そして、お焼香して故人の冥福を祈り、自分もまっとうに生きて行くことを誓いましょう。
 最後に、ご供養した功徳をご先祖様と自分たちだけにいただくのではなく、広く生きとし生けるものへ廻し向け、皆共に安心の世界に生きられるよう祈りましょう。

 これが本日行う供養会の意味と意義です。
 どうぞご一緒にお手元の経文をお読みください。」

 最初は小さかったお父さんの声がだんだんはっきりしてきた。
 小学校へ入ったばかりのお嬢さんらしい一生懸命な声も聞こえた。
 こうした年忌供養の場に代わり得るものはないと思う。
 だからこそ、ご先祖様は、その時代、その時代なりに工夫し、方法を伝え、守ってきた。
 当山もしっかりと役割を果たして行きたい。




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2016
11.26

祈りと瞑想のこと ─AI(人工知能)の時代にあって─

2016-11-11-0231.jpg
〈四国霊場のお大師様〉

 人類が発祥以来続けてきたはずの祈り瞑想と、人工知能AI)について考えてみましょう。

1 目をつむる祈り

 私たちは祈る際に目をつむります。
 いかに圧倒的なご本尊様を前にしても、必死の思いで願いを込めるならば自然に合掌し、視界を塞ぐはずです。
 なぜでしょうか?

 そもそも、私たちは、〈見る〉ことによって膨大な情報が網膜から脳へもたらされるというイメージを持っていますが、一旦失った視力を回復する過程の研究などによると、そうしたイメージは覆ります。

 私たちはこの世に生まれ落ちた直後から、五感六根によって得る情報を分析し蓄積します。
 そして、自分なりの情報処理法をつくって行きます。
 なにしろ、1000億個から2000億個もの脳細胞がそれぞれ、1000個の脳細胞と複雑なネットワークを構築するというのだから驚きです。
 人工知能AI)研究者ヘンリー・マークラム氏は指摘しました。

「部屋の認識は99パーセントの脳内における情報処理と、1パーセントの外的刺激による」


 もしも、窓に白いレースのカーテンがかけられており、その右側には書棚があると認識するならば、カーテンと書棚が網膜に映った際の刺激そのものの99倍に上る情報処理が行われてようやく、そこへたどりつくと言うのです。
 情報処理がうまくゆかなければ、入った刺激は、カーテンや書棚といった意味内容を伴った認識をもたらしません。

 そうすると、私たちがご本尊様の前で目を閉じるのは、無意識のうちに情報処理そのものを深めようとしているのかも知れません。
 それは、私たちの心が、その中にあるご本尊様の世界へより近づく過程であるとも言えましょう。
 お大師様は説かれました。

「それ仏法、遥かにあらず、心中にしてすなわち近し」


 真剣に祈る時、私たちは不断に流れ込む刺激をシャットアウトし、邪魔されずに心中の思いを深めようとするのです。

2 祈り瞑想

 祈り瞑想は似ています。
 たとえば。阿字観(アジカン)のご本尊様を前にして瞑想する時は、眺めてから瞑目した世界へご本尊様をお招きし、一体になり、即身成仏(ソクシンジョウブツ)の境地を目ざします。
 心を真実世界へ解き放つのです。
 
 こうした祈り瞑想は、人間が人間であるための砦を守るようなものであるとも言えそうです。
 それは以下の理由からです。

3 人工知能AI)ができないこと

 11月25日、ロボット「東ロボくん」で知られる国立情報学研究所教授新井紀子氏は、朝日新聞へ「AIの弱点は『意味理解』」 仕事奪われぬため 人間こその力磨け」と題した一文を寄稿しました。
 AIが進歩すればその便利さによって人類は幸せになれるのでしょうか?

AIから得られる富が、地球上のすべての人に平等に分け与えられればそうかもしれない。
 しかし、そのような仕組みは、今までかつてこの地球上に築き上げられたことはない。
 むしろ、ITが社会に導入されて以降、経済格差は広がり続けている。」

「AIはどのように仕事を奪い、仕事を生み出し、社会を変えるのか。
 私がはじき出したのが、30年に現在のホワイトカラーの仕事の半分がAIに置き換えられるという予想だった(後に、それはオックスフォード大の研究グループが行った予測とぴたりと合うことになる)。」

「AIを大胆に導入し、コスト削減に成功した企業の利益率が上がる一方、雇用を守ろうとした企業は市場から退場を迫られるだろう。」


 このまま進めば、ほとんどの人間は、AIを駆使する一部の人たちによってますます搾り取られるだけの存在になってしまいます。
 どうすればよいのでしょうか?

AIには弱点がある。
 それは『まるで意味がわかっていない』ということだ。

 数学の問題を解いても、雑談につきあってくれても、珍しい白血病を言い当てても、意味はわかっていない。
 逆に言えば、意味理解しなくてもできる仕事は遠からずAIに奪われる。」

「みなさんは、どうか『意味』を理解する人になってください
 それが『ロボットは東大に入れるか』を通じてわかった、AIによって不幸にならない唯一の道だから」


 ロボットは、どこまで行っても、決まった手はずどおりにやってくれる存在であり、何のためにという目的を決めるのは人間です。
 目的は必ず意味を伴い、意味のない目的はありません。

 この意味がまっとうであるためには、世界と自分の認識が歪まず狂わず、誤った自分勝手な価値観を離れねばなりません。
 それには何が必要でしょう?
 まっとうな祈り、霊性・仏性をはたらかせる瞑想ではないでしょうか。
 意味のわからないロボットに祈りはありません。
 脳内ネットワークを深化させる瞑想もできません。

 私たちがロボットをまっとうにはたらかせられる人間であり、共にお互いの幸せを喜び合える社会をつくるために何が必要か?
 祈りと瞑想の意義は大なるものがあると言えそうです。




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2016
11.20

思いやりからお墓の未来まで ─ご質問にお答えします─

2016-11-20-0001.jpg
〈四国の霊場では、鳥居のある寺院が珍しくありません。写真はネットからお借りして加工しました〉

 このたび、皆さんからたくさんのご質問をいただいたので、大まかにお答えしておきます。
 ただし、これは一行者としての信念と、一寺院での実践を基にしたものであることを申し添えます。

Q:位牌の院の文字はついている方が良いのでしょうか?

A:位牌に書いているのは戒名です。
 戒名は3つの熟語から成っています。
 一番上にあるのは院号(インゴウ)で、魂の色合いが表れます。
 真ん中にあるのは道号(ドウゴウ)で、故人がこの世で歩んだ道が表れます。
 最後にあるのは法名(ホウミョウ)で、み仏の子として成仏への道を歩む名前です。
 だから法名は、生きながらにして、み仏の子として生き直しを行う僧侶の僧名(ソウミョウ)と同じです。

 こういうわけなので、当山では、お布施の金額にかかわりなく、3つの熟語をもってお戒名としています。
 男性なら「~居士」。女性なら「~大姉」となります。
 当山ではご本尊様へ祈り、降りるものなので、差別のしようがありません。

Q:「人の身になって思うこと」家族間では薄れて行く世の中になっています。
 友への思いやりはどこへ、何でも見て見ぬふりは悲しいです。
 なぜ、こうなってしまったのでしょうか?


A:そうですね、思いやりとは、誰かへ思いをやることで、それは、他人の苦しみや悲しみを〈他人(ヒト)ごと〉として放って人間らしい心の現れです。
 本当は、それが濃密にはたらくはずの家族や友人に対してすら薄れてしまい、暴力事件や殺人事件は後を絶ちません。
 とても残念なことです。
 原因は2つあります。

 1つは「自己中心的姿勢」です。
 戦後の日本においては誰もが賢明にはたらき、奇跡の復興を成し遂げたのはよいのですが、自由競争の影の面として、個人を絶対視する感覚が強まり過ぎたのではないでしょうか?
 それは、各国が発展を競う過程で資源をむやみと消費し、自然破壊・環境破壊を進め、このままでは地球がもたなくなるところまで来たことに似ています。
 大問題に気づいた私たちは立ち止まり、身近な人間関係においても、国際的にも、あるいは学問や研究や開発など多様な分野においても、「共生」という唯一のあるべき姿を目ざすべきだと思います。

 もう1つは「物質中心主義」です。
 これもまた、何もかもが不足していた時代を乗り越え、豊かさを求める過程で、モノ金を求め過ぎた弊害ではないでしょうか?
 しかも、自己中心とあいまってそれがあまりにも進んだために、わずかな〈持てる者〉はモノ金や地位や権力をひけらかして恥じず、勝者として謙虚さや奉仕の心を失い、多くの〈持たざる者〉は敗者として抑圧されるという、品性なく無慈悲な社会になりつつあります。
 私たちが公正な社会で、共に幸せを感じつつ生きるためには、限られたモノ金が、智慧と思いやりによって適切に分配されねばなりません。
 このまま自由競争の原理だけで突き進むめば、ケダモノの世界と同じになってしまいます。

 私たちは、自己中心の心を恥じ、モノ金にとらわれず、「共生」の尊さやありがたさを忘れぬよう、修養に心がけたいものです。

Q:お等の相場は?

A:おは石屋さんの仕事なので、当山は直接タッチしていませんが、当山では、地の永代使用料込みで約60万円~80万円、100万円~120万円、150万円~200万円といった予算で建てる方が多いように思われます。
 共同墓ならば、年間管理料込みで10万円からいろいろあります。
 地に建っている現物をあれこれとご覧になりながら、信頼できる石屋さんへ相談されてはいかがでしょうか。

Q:檀家をやめる、やめさせないで困っていますが?

A:そもそも檀家とはダーナという布施を意味するインドの言葉であり、布施をする人や家のことです。
 だから本来は、自発的に寺院を支え、その寺院に自分も家族もご先祖様も守ってもらうという、生きた関係をつくり、守る言葉でした。
 しかし、時代の変遷と共に内容が変化し、ご葬儀とご供養しかしない寺院は、檀家さんへ自分の都合でお布施を依頼し、檀家さんは必ずしも意にそぐわない出費を迫られて困惑するといった面が顕わになりました。
 托鉢の途中でそうしたご意見をたくさんお聴きした小生は、平成22年、「脱檀家宣言」を行い、河北新報にも掲載されました。
 真意は、檀家をなくそうというのではなく、一旦、〈縛り〉でしかなくなっていた関係を、寺院も檀家さんも見直し、本来の〈自発性〉に立つ、奉仕と感謝の生きた関係を再構築しようと提案したのです。
 そして、当山では、自由参加自由脱退のサポーター制度にし、そうした〈ゆかりびと〉の方々は自発的に「ゆかりびとの会」を作り、当山をお支えくださっています。

 こうした本来の「檀家」の意義からすれば、そして、日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」からしても、「檀家をやめる」のは自由です。
 むろん、寺院が「やめさせない」などの強制はできず、離檀料の請求に応じる必要もありません。
 布施という自発的な奉仕の思想に立つなら、生産活動を行わずこの世とあの世のご縁の方々を日々、お守りする寺院は、今までお支えくださった方が離れて行く時、これまでのご恩に感謝して送り出すべきではないでしょうか?
 一方、これまでお守りいただいた感謝の心をお布施に表してご本尊様へ差し出すのも、檀家さんの貴い姿勢です。
 いかがでしょうか?

Q:後継ぎ無しのおの祀り方は?

A:後継ぎはいないけれども自分が、あるいは夫婦で生きた証として、せめて一定期間だけでもお墓で眠りたいというご相談は多々、あります。
 当山では2つのやり方でお応えしています。
 1つは、「一代墓(イチダイボ)」です。
 普通にお墓を造り、ご希望の期間が過ぎたなら、お墓を撤去して共同墓で永代にご供養するという方法です。
 ペットも一緒のお墓を建て、とても安心される方々のお顔を見ると、小生も嬉しくなります。
 もう1つは、賃貸墓(チンタイボ)です。
 これは、転勤族の方々からもお問い合わせがあります。

 また、墓じまいをする際には、共同墓に永代供養されれば問題はありません。
 おりおりの年忌供養については、その都度、信頼できる寺院へ依頼して納得できる形のご供養をされればよいのではないでしょうか。

 いずれにせよ、み仏のご加護は相手を選びません。
 み仏の前で、ご一緒に考えれば必ず道は開けます。
 どうぞ、ご相談をお申し込みください。

Q:これからお墓はどうなっていくのか?

A:埋骨の形は時代と共に変わって来たし、これからも変わって行くことでしょう。
 ただし、スペインの思想家が「人間は、死者守(モリ)動物である」と言ったとおり、私たちは亡くなった人を決して放置できません。
 まっとうな人ならば、必ず人間としての尊厳にふさわしい方法で祈り、納め、悼み、供養して行くはずです。
 それは、非日常的な宗教的感覚であり、心を込めて行うことごとは、聖なる宗教的行為です。
 問題はお墓の形よりも、宗教的感覚がどうなるかというところにあるのではないでしょうか?
 
 人間の歴史が始まって以来、死は厳粛なものとしてとらえられ、死者は畏れられ、死の世界が表現されてきました。
 およそ人間の住むところにおいては、塚を造り、絵を画き、塔を建て、祈ってきました。
 そうして死と向き合うところに、日常生活を超えた感覚がはたらき、〈欲に追われ他者とぶつかる自分〉を超えた霊性が回復される体験を繰り返してきました。
 死を契機としてはたらく霊性の光は個人の心を深め、文化を練り上げてきました。
 その地点から戦争を否定する思想も行動も起こり、人類は全体として破滅せず歴史を刻んできたのだと思います。

 私たちがお墓と死者のありようを真剣に考えるのは、霊性をはたらかせることに他なりません。
 固定したお墓を守りにくいからといって、かけがえのない宗教的感覚までも忘れてしまうならば、それは人間が人間でなくなる過程になりかねません。
 日本人の宗教的感覚は、聖地で、仏神や聖職者と共に、清浄で温かな空気を吸い、日常生活の汚れや穢れや疲れを落とし、いのちと心のはたらきをリフレッシュするという感じであると考えています。
 ここを大切にし、宗教宗派でいがみ合わず、他の宗教を邪教として排除せず、独善的な主張でぶつかり合わないのが、明治までは神社と仏閣が並んでいた日本本来のありようではないでしょうか?
 その方、その方なりの死生観を磨き、子々孫々のためを思い、最善の行動を目ざしたいものです。
 



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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2016
11.19

生きている間だけが問題か? ─今の自分と死後の自分─

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〈当山近くにある『ペット霊園やすらぎ』様で、恒例の供養会を行いました〉

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〈ストーブの前は極楽〉

 よく、「人事(カン)を蓋(オオ)うて定まる」と言います。
 人の評価は、死後にはっきりするという意味です。
 生きているあいだは、義理や人情や損得勘定などがからみ、人物そのものの正確な評価は行われにくいものです。
 権力者や裕福な人は「大したものだ」と持ち上げられていても、その〈人となり〉については、身近にいる人々から厳しい目で見られていたりします。
 死後、身にまとっていた諸々がなくなると、その人そのものの真姿が明らかになります。

 死後は関係ない、自分が生きている間だけが問題だ、と考える方もおられるでしょう。
 そうでしょうか。

 少なくとも、自分の子供や孫、あるいは後の世代のことを考慮する人ならば、そうは言えないはずです。
 なぜなら、若い人たちの未来を考えながら生きるかどうかは、自分の今をどう生きるかという問題そのものだからです。
 後の世代に思いをいたしつつ生きる人は、生きている間はもちろん、死後にはますます評価を高めることでしょう。 

 ある時、ある田舎町のご葬儀導師を務めました。
 ご家族だけの質素なお別れでしたが、学生服を着たお孫さんがよてもよい姿勢でお別れの言葉を述べました。
 ご本人の了解を得てその一部を掲載しておきます。
 

「おじいちゃんから学んだ一番のことはあいさつ。
 人と接する上で大切な事はあいさつをきちんと出来る事だと、何度も教えてくれたよね。
 そのおかげで、どこに行っても、礼儀正しく立派だと僕はいつも誉められます。
 これはおじいちゃんのおかげだね!!
 ありがとう。

 おじいちゃんはいつも自分の事より、皆の事を優先して考える人だったから、入院した時だって、本当はおじいちゃんが病気で辛いはずなのに、僕達の心配ばかりしていたね。
 そんな思いやりのあるお祖父ちゃんが僕は大好きです。

 おじいちゃんにしてもらった事はたくさんあるけれど、僕は何も返してあげられなかったから、おじいちゃんの代わりにおばあちゃんの事は僕が守って行くから、安心して僕に任せてよ。
 だからおじいちゃん!!
 天国から僕達の事を見守っててね。
 僕もおじいちゃんみたいな立派な大人になれるように頑張ります。」


 おじいちゃんは、現場で汗をかくことをいとわないまじめな普通のサラリーマンだったそうです。
 戦後の混乱と競争の中で生き抜き、子供たちを育て上げました。
 特に名を立てたわけではなく、莫大な財産も遺しませんでしたが、家族や友人に囲まれつつ静かに逝きました。
 そして、と共に、この上なく高い評価が一つ、下されました。
 礼儀正しく、おばあちゃんを思いやる中学生が一人できあがることに大きくかかわっていたのです。
 一人の若者のお手本になっていたのです。
 しかも、その真実を、当の中学生が厳粛な場で堂々と証言しました。
 これ以上確かに「定まる」ことは望み得ましょうか?

 私たちは、望もうと、望むまいと、お(ヒツギ)に横たわってから、送った人生が顕わになります。
 しかも、自分以外の人によって観られ、思い出され、語られる真実は、〈死後の自分〉という永遠なる未来を定めます。
 生きた自分だけでなく死後の自分も、それを記憶する人々と、その人々とになる人々の生きざまにかかわって行きます。
 決して「自分が生きている間だけが問題」ではありません。

 滔々たるいのちと心の連鎖、という時間的・空間的に無限大なる網の繋ぎ目である一瞬を今、生きていることを忘れずに日々、過ごしたいものです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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