地鎮式が終わりました
ご案内が間近だったにもかかわらず駆けつけてくださった方々のお顔を見ながら、当山が次のステップへと進んでいることを実感しました。
そして、1052年に72歳で亡くなった高僧アティーシャと弟子のやりとりを思い出しました。
弟子が訊ねる。
「現世に執着すればどうなりますか?」
アティーシャは答える。
「現世のためになる、それだけである」
弟子は再び訊ねる。
「現世に執着すれば来世はどうなりますか?」
アティーシャは即答する。
「地獄、餓鬼、畜生に生まれる」
お集まりの方々は、どなたも現世的な問題と真正面から格闘しながら、そこを超えた次元を観ておられる、あるいは、当山との関係においてそれを観ようとしておられるように思われました。
テントを叩く激しい雨音は、心中で荒れ狂う内面的煩悩の嵐であり、シャワーのように魂へ降りかかる外面的煩悩の嵐です。
しかし、テントに囲まれ、八方天地へ結界を張った空間は別世界であり、皆さんの瞳は活き活きしています。
参加者全員に交代で「鍬入れ」をしていただいた時の、和やかで希望に満ちた雰囲気は忘れられません。
ご参詣された方々、また、足は運べなくともお心をお寄せくださった方々は、明らかに聖地との仏縁を強められました。
現世で地獄、餓鬼、畜生の三悪道を脱し、来世の暗い運命を打破する善行を実践された方々と共に、新たな世界へ踏み入りましょう。
不共業(フグウゴウ…個人的に積む業)と共業(グウゴウ…社会的に積まれる業)を清める世界へ──。
ほめる 6
このページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださいました。
頭が下がります。
勉強会などを通じて、ご縁の方々へご紹介しており、寺子屋の指針にさせていただきたいと願ってもいます。
二年 M・O
3月23日の朝、いっぽ足を だそうとしたら、車がきました。とおるまで、まっていると、車にのっていた人が、あたまをふってくれました。
あとから、どうしてあたまを ふってくれたのかなと、考えたら、「ありがとう」といういみだとわかりました。
やさしい おじさんだと 思いました。
◆
まさ子さん、
きょうも また、ほめほめ ありがとうね。だんだん字が きれいになるので、校長先生は、うれしいよ。
学校にくるときのことですね。どうろを、よこぎろうとしたら、車がきたのね。あぶないので 車がとおりすぎるまで、まっていたんですね。そうしたら、車のおじさんが、あたまをふって「ありがとう」をしてくれたんですね。
まさ子さんが、とまってまってあげたから、車のおじさんが、よろこんで、おれいをいってくださったんですよね。
よいことをしましたね。むりをして、みちをよこぎると、大へんなことになります。
これからも、こうつうのきまりを よくまもって、学校にきたり、おうちにかえったりしてくださいね。
歩行者が待っていてくれたからといって「ありがとう」のシグナルを発する運転手は、きっと、まれに見る好人物なのでしょう。
まさ子ちゃんは危ないから車道へ出ないだけだったので、何のことか解らなかったのは当然です。
やがて気づいて、見知らぬおじさんの優しさを知りました。
相手の「ありがとう」に対して「優しい人だな」と思ってほのぼのした気持になる、この体験が貴重です。
次は、自分が「ありがとう」を発することによって相手がほのぼのした気持でニッコリし、それを受けて自分もまたほのぼのした気持になる体験が待っていることでしょう。
「ありがとう」は、実に、こうした温かい気持の交流を起こす最高の言葉です。
宮床の子供たちは、渡らせてあげようと思って車が止まると、歩道を渡りきってから必ず振り向いて会釈してくれます。
それも、割合大声の「ありがとうございました!」を伴っています。
この「ありがとうございました!」は、宮床に住む者の誇りと思っています。
全国津々浦々の子供たちにこうした習慣がつけば、きっと、世の中は徐々に変わることでしょう。
こうして子供たちは社会を見ているんですね。三年 N・K
きのう本通りの方へいきました。と中、男の人が、赤ちゃんをだいて乗りました。バスがこんでて、すわることができなかったので、赤ちゃんをかた手にだいて、つりかわを持っていたので、とてもたいへんそうだな。と思っていました。するととなりにすわっていた女の人が、席をゆずってあげました。そのとき、校長先生が「いいことをしたら、いいことをされた人も、した人も、いい気持ちになるんだよ。」と、おっしゃったのを思い出して、「あの女の人も、男の人も、いい気持ちになったんだろうな。」と思いました。
◆
直子さん、
すばらしい字のほめほめですね。きれいな字のお手紙は、読む人の心を楽しいものにしてくれます。おかげで、きょうのほめほめが二倍楽しいものになりました。
きょうのほめほめは、バスの中でのことでしたね。満員のバスの中で、赤ちゃんをかた手にだいて、しっかりとつりかわをにぎっていらっしゃった男の人に、近くにすわっていらっしゃった女の人が、席をゆずってあげていたといういみのお手紙でしたね。
かわいい赤ちゃんをだいて、両足をふんばりながら、一本のつりかわを力いっぱいにぎりしめていらっしゃる男の人のようすが、目に見えるようです。
やさしい女の人がいらっしゃってよかったと、校長先生は ほっとしました。
O小の、ほめほめの心は、この女の人のように、よいと思ったことを、強い心で実行する人になりましょうということです。直子さんも がんばってね。
もし、誰も席を譲る人がいなかったなら、直子ちゃんはどうなったのでしょうか。
きっと、やるせない、悲しい、辛い気持になったことでしょう。
がっかりしたかも知れません。
席を譲った人の行為は、その人が布施行によって善業を積み、福徳を得る原因をつくっただけでなく、見知らぬ直子ちゃんの心にも大きな影響を与えました。
「いい気持ちになったんだろうな」と想像することは、自分も同じ行為ができる人間になるための第一歩だからです。
きっと、直子ちゃんの心では、善行を実践するための準備が進んでいることでしょう。
校長先生の「よいと思ったことを、強い心で実行する人になりましょう」には信念がこもっています。
ご自身がこうした心で生きておられればこそ、はっきりと指導できるのでしょう。
善き人が善き人を創るという尊い成り行きが明らかになっており、合掌したくなります。
校長先生のように生き抜きたいものです。
ヤクーバとライオン
寺子屋開始への準備を加速させねばならない。
副題が「勇気」であり、翻訳した柳田邦男氏は帯にこう書いている。
殺された側は報復のために相手を殺す。終わりのない報復の殺し合いが続いていく。その悪循環を断ち切るにはどうすればよいのか。
日本の社会に目を向けると、いじめられた子が復讐の事件を起こす。虐待された子がやがて虐待する側にまわる。これも同じ悪循環だ。
もうひとつの道──。「殺さないことだ」というライオンの問いかけは重い。
さて、物語である。
アフリカの奥地で祭の準備が始まっている。
成長した少年ヤクーバにとっては、戦士になれる晴れの日である。
たった一人でライオンを倒し、一人前の男になった証である〈勇気〉を示せるからだ。
ヤクーバは獲物を求め、山の近くを歩く。
やがて夜になってライオンと遭遇し、戦おうとする。
しかし、目が合ったライオンは無言で語りかける。
「おまえが傷ついている私を倒すのはたやすかろう。どうするか。おまえは自分で道を選ばねばならない」
そして、ライオンを殺せば賞賛されるだろうが、それは本当の名誉なのだろうか。。
殺さなければ気高い心を持った人間になれるが、きっと仲間はずれにされるだろう。
ゆっくり考えよと言って、横たわる。
夜明けまで考えたヤクーバは、ライオンをちらっと見て立ち去る。
今か今かと待っていた村人たちは失望し、ライオンを仕留めた仲間たちが賞賛される一方で、ヤクーバは牛の世話などに回される。
村の牛たちは、二度とライオンに襲われなくなったという。
これだけの物語が、白黒の絵とわずかな文字で展開される。
イラストレーターでもあるティエリー・デデューは野太いタッチで野生を残すアフリカの日常を描き、同時に「生と死」「真の勇気」「真の気高さ」といった人間の根元に迫る。
ヤクーバの物語は、決して遠い奥地でのできごとではない。
日々、私たちは、彼と同じく人間としての真の価値を問われる場面に遭遇しているはずだが、あまり気づかないだけである。
自分で根本から考えて道を選ばず、目先の損得や、好き嫌いや、快不快や、他人からの賞賛と誹謗などを天秤にかけて判断してしまうからである。
いのちが快を求め、不快を避けるようにプログラムされている以上、やむを得ない。
しかし、人間は〈立ち止まる〉ことができる。
煩悩をコントロールすることができる。
たとえば、真夏の街路を足早に歩いていて目的地を探して困っているらしい老人が目に入った時である。
早く涼しい喫茶店へ入りたくて老人を見過ごそうとするのは、快不快の原理上、当然である。
そこで「見過ごせない」と思う一瞬が訪れるかどうか。
ここで霊性のレベルが試される。
「この世は人生修行の場である」とは、畢竟、この一瞬を獲得するためにこそ人は生きるという意味ではなかろうか。
青年になったばかりのヤクーバは、とにかく立ち止まってみた。
まだ、瞬時に気高い道を選ぶところまで心が練られてはいなかったが、過たなかった。
彼はやがて、尊い一瞬一瞬に恵まれる人間になることだろう。
牛たちが襲われなくなったのは、彼がしっかりと清浄なる道を選んだことへの天地自然、仏神からの祝福に違いない。
ほめる 5
このページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださいました。
頭が下がります。
勉強会などを通じて、ご縁の方々へご紹介しており、寺子屋の指針にさせていただきたいと願ってもいます。
二年 K・K
きのう、学校からの 帰り道、黄色いはたをもって、おうだんほどうを わたろうとしたら、はたが、たおれていました。
ぼくは、そのはたを、きちんと、もとのところへ、入れておきました。
そして、「いいことをしたんだなあ」と 思いながら、おうちへ帰りました。
◆
けんごくん、ほめほめありがとう。
いっしょうけんめい、きれいな字を書いているので、もういっぺん うれしかったよ。
学校の帰り道、おうだんほどうの ところで、黄色のはたがたおれていたので、もとあったところへ、きとんと入れておいてくれたんだね。
よく気をつけてくれましたね。校長先生がときどき みまわりをしてみて きづくことは、おうだんほどうの 黄色いはたが、散らばったり、なくなったりしていることです。
わたしたちの いのちをまもってくれる、たいせつなはたですから、みんなで たいせつにしましょうね。
いたずらをしている人をみたら、やさしくちゅういしてあげてくださいよ。
「いいことをしたんだなあ」と思う気持は、けんご君を自然に悪行から遠ざけるはずです。
善悪は示しながらも暴力シーンが満載のゲームやテレビ番組が子どもたちをワクワクさせ、善悪をそっちのけにした暴力的行動へ駆りたてるのとは天地の違いです。
心の傾向の核が創られる時期には、相応の環境が与えられ、相応の指導がなされねばならないのに、現状は悲劇的とすら思える状況です。
すべては欲望の無限解放と、対象者を選ばない商業主義にあります。
大人が我欲のままに生き、まだ自分を自分で確立できない子どもたちの我欲を無制限にかき立ててまで儲けの対象としてはばからない人びとは、タコが自分の足を喰うように自分の老後から安心を奪い続けています。
一人で強く生きられない老人を支える人びとが非情であったなら、老人の安心はどこにもありはしません。
子どもたちへ悪しき環境を与え、与えるべき教育を施さなければ、それはやがて大人となる子どもたちにとって悲劇であるだけでなく、義務を果たさなかった大人たちにとっても悲劇であることを忘れないようにしたいものです。
子どもたちが善行に満足と喜びを覚え、それに感謝が加わるようであれば、すべての人びとにとって未来の安心は確かなものになりましょう。
二年 K・S
わたしが、一年生の、女子べんじょに いきました。
大きなうんこが、はみでていて、ながしてありませんでした。
わたしは、じぶんのをすませて、そうじどうぐを とりにいきました。そして、うんこを 中にいれて、水をながしました。
うんこがながれて、きれいになりました。
それから、この前の、木ようしゅうかいのとき、校長先生は、うんどうじょうに、しんぶんがおちていたのを、ひろっていましたね。
わたし見たんよ。
校長先生、いいことをしたね。
◆
かずみさん、
ほめほめのお手紙、ありがとうね。
校長先生は、ほめほめを書いてくれる子が大すきです。
よしおか先生との、おやくそくをまもって、トイレをきれいにしてくれたんですね。
女子べんじょに、うんこが はみでていたんよね。それで、そうじどうぐを もってきて、中にいれて、水をながして、きれいにしてくれたのね。よくやってくれましたね。気もちわるかったでしょう。校長先生からも、おれいをいいますよ。「かずみちゃん、ごくろうさま。」
校長先生の ごみひろいより、うんとうんと、たいへんなおしごとでしたね。
こんど、かずみちゃんひとりで、できないようなことがあったら、校長先生に おしえてくださいね。おてつだいするからね。これからもがんばってね。
かずみちゃんが校長先生の行為を見ていたように、自分が善きことを行う心になっていれば、他人の善行にも意識がはたらきます。
自分が悪しきことを行う心になっていれば、他人の悪行へも興味津々になります。
創造につながる想像力がはたらくか、破壊につながる妄想力はたらくか、それは自分の心と環境によります。
7月16日、多賀城市などの少年たちが決闘と傷害の疑いで逮捕、送検されました。
テレビの決闘シーンなどに感化された少年らは、ささいなことから決闘を企て、「殺せ」などと叫びながら乱闘に及び、負傷者を出したものです。
他人の心身の痛みを想像する思いやりが欠如し、思いのままに暴力をふるう妄想が肥大して起こった愚行です。
「かずみちゃん」を育てる環境は失われたのでしょうか。


















