守本尊道場造営日記二十三 ―あるべきようは―
虚空蔵求聞持法を行った結果については前回、少々記しました。
通常法務を行いながらの「夜学行者」に与えられたものは、奇瑞や超能力ではなく、明確なお諭しであり、お導きでした。
そして、「開運不動明王」様をお迎えでき、寺子屋建立も一歩前進しました。
また、何よりもありがたいと感じるのは、当山を信じて帰依し、支えようとしてくださる新たな檀信徒さんたちの出現であり、当山に懸けようとする若い方々の出現です。
境内地などの所有権は宗教法人という公的性格を強く帯びた特別な組織にあり、宗教上の役割としては万人へ開かれていなければならないはずの寺院が事実上、住職家族の私物となり、指定するお布施を持参する檀家さん以外へ門戸が固く閉ざされている現状は、世襲制の弊害と檀家制度に頼る姿勢とによってもたらされた歪みとを否応なく曝(サラ)しています。
托鉢修行によって、この弊害と歪みへ対する世間の方々の憂い、怒り、失望などを骨の髄まで思い知らせていただき、一行者としての道と共に、真の寺院の道も深く考えるようになりました。
これまでの歩みは、明恵上人の言葉「阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ…いかにあるべきか)」に尽くされています。
「法楽寺は後継ぎがいない」との陰口はさておき、檀信徒の方々も大っぴらには口にされないまでも、「住職も歳に不足はなくなってきたし、どうなるんだろうなあ」と心配をされていたはずですが、無理に身内へ継がせようとせず、人格・識見共にもっとも責任者にふさわしい人物との縁を信じて疑わずやってきました。
運営についても、経営の専門家などからいろいろなアドバイスをいただきましたが、ただただ「ご縁の方々の常識と良識を信じ、すべてを清浄なお布施でまかない、ことの成否はご本尊様へお任せする」姿勢一筋で、愚妻共々歯をくいしばりつつやってきました。
今回のお盆供養会は、すでに得度している行者O君が主導し、行者Tさんたちが先輩方のご指導をいただきながら一丸となって支えて遂行されました。
ここに至り、あとを託せる方々が明らかになりました。
また、宮城県内外からのご縁が重なり、清浄なお布施の力によって伽藍ができる流れも明らかになりました。
虚空蔵菩薩様をはじめとする守本尊様方のご加護としか思えません。
これまで愚直に守ってきた「あるべきよう」が、いくばくかは、み仏にお認めいただけたのではないかと思うと、お支えいただいた方々とみ仏への感謝の念に満たされます。
今日から新たな修行へ入ります。
み仏のお導きと、お支え下さる方々と、託す方々とを信じつつ………。
通常法務を行いながらの「夜学行者」に与えられたものは、奇瑞や超能力ではなく、明確なお諭しであり、お導きでした。
そして、「開運不動明王」様をお迎えでき、寺子屋建立も一歩前進しました。
また、何よりもありがたいと感じるのは、当山を信じて帰依し、支えようとしてくださる新たな檀信徒さんたちの出現であり、当山に懸けようとする若い方々の出現です。
境内地などの所有権は宗教法人という公的性格を強く帯びた特別な組織にあり、宗教上の役割としては万人へ開かれていなければならないはずの寺院が事実上、住職家族の私物となり、指定するお布施を持参する檀家さん以外へ門戸が固く閉ざされている現状は、世襲制の弊害と檀家制度に頼る姿勢とによってもたらされた歪みとを否応なく曝(サラ)しています。
托鉢修行によって、この弊害と歪みへ対する世間の方々の憂い、怒り、失望などを骨の髄まで思い知らせていただき、一行者としての道と共に、真の寺院の道も深く考えるようになりました。
これまでの歩みは、明恵上人の言葉「阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ…いかにあるべきか)」に尽くされています。
「法楽寺は後継ぎがいない」との陰口はさておき、檀信徒の方々も大っぴらには口にされないまでも、「住職も歳に不足はなくなってきたし、どうなるんだろうなあ」と心配をされていたはずですが、無理に身内へ継がせようとせず、人格・識見共にもっとも責任者にふさわしい人物との縁を信じて疑わずやってきました。
運営についても、経営の専門家などからいろいろなアドバイスをいただきましたが、ただただ「ご縁の方々の常識と良識を信じ、すべてを清浄なお布施でまかない、ことの成否はご本尊様へお任せする」姿勢一筋で、愚妻共々歯をくいしばりつつやってきました。
今回のお盆供養会は、すでに得度している行者O君が主導し、行者Tさんたちが先輩方のご指導をいただきながら一丸となって支えて遂行されました。
ここに至り、あとを託せる方々が明らかになりました。
また、宮城県内外からのご縁が重なり、清浄なお布施の力によって伽藍ができる流れも明らかになりました。
虚空蔵菩薩様をはじめとする守本尊様方のご加護としか思えません。
これまで愚直に守ってきた「あるべきよう」が、いくばくかは、み仏にお認めいただけたのではないかと思うと、お支えいただいた方々とみ仏への感謝の念に満たされます。
今日から新たな修行へ入ります。
み仏のお導きと、お支え下さる方々と、託す方々とを信じつつ………。
守本尊道場造営日記二十二 ―虚空蔵求聞持法が成満しました―
おかげさまにて、8月17日(月蝕)、虚空蔵求聞持法百八万返の行が成満しました。
108個の珠がついた数珠を一回繰って百と数える方法もあり、その場合は百万返になります。
ご本尊様は当然ですが、ご助力下さり、あるいはお見守りくださったご縁の方々、無縁の方々、そして生きとし生けるものへ心より感謝します。
まことにありがとうございました。
起床した時はどしゃぶりでした。
暗がりの中、手探りで作務衣を探し当てたところ、ぐっしょり濡れています。
ちょっとした台の上へ置いた作務衣の真上で、いつものように雨漏りがしていました。
寝起きしているプレハブは耐用年数を過ぎているのでしょう。
おかげで布団が濡れずに安眠できたのでありがたいなと思いながら、またもや、菩薩道を歩む行者の役割を教えていただいたことに、心から感謝しました。
身代わりとなって苦を受ける代受苦(ダイジュク)は、お地蔵様に代表されるとおり、菩薩の根本役割だからです。
作務衣の代わりに洗面器を置いて外へ出て台所に行ってみたら、流し台に落ちたメロンの皮へ無数のアリたちがへばりついていました。
文字どおり真っ黒に見えるほど群がっています。
このまま私が顔を洗い始めたら、彼らは全滅です。
大きなスプーンで皮をゴミ箱に移しても、未練たっぷりな連中は、まだ、水が流れ落ちる穴の上下で残物に取り付き、ウロウロしています。
警告のために少しづつ水を流したところ、2分ほどかかって退去が終わりました。
きっと穴へ落ちた者もいることでしょう。
今度は、煩悩のあさましさを教えられました。
道場へ行き、満願を迎える日に開けることになっている東側の窓から外を眺めても、暗い雨空ばかりで何も見えません。
聞こえるのは屋根を叩く雨音だけです。
行が進むうちにだんだん小雨となり、ジージー、チチチチ、コロコロコロコロなどと鳴く虫の声が高くなり、やがて、ウグイスが鳴き始めました。
昨夜の涼しさと今朝の冷たい雨のせいでしょうか、もう、蝉の声はしません。
最後の一回を唱え終わり、ご本尊様と一体になる法へ入りました。
深々とした充足感のみ──。
「一体無二なり」と確認して定(ジョウ…瞑想状態)から出ると、もう、何も要りません。すべてがあるからです。
あとは、人々のために必要な場を造り、ご参詣の方や願いをかける方に無限の福徳をお持ち帰りいただくだけです。
ご本尊様のおられるお堂は、汲めども尽きない福徳の泉です。
さて、自分の心を観ると、在るものと不足しているものとが明らかです。
お大師様も興教大師様も、繰り返し、繰り返し虚空蔵求聞持法を修されたわけが想像できます。
また、なぜ、お大師様が、「小乗仏教も、密教ではない大乗仏教もそれなりに会得した上で密教へ入るべし」と説かれたのか、当時、最高の権威を誇っていた南都六宗から尊敬されたのか、やっと本当の理由が解りました。
同時に、お大師様が唐へ行くまでの間、山林を廻りながらいかなる修行をしておられたのか、ほとんど解明されていない謎が解け始めています。
このことについては、書ける日が来るかも知れないし、確信が持てず胸にしまったままになるかも知れません。
いずれにせよ、私のような未熟者は、この先へ進む、あるいは深めるなどということではなく、基礎をやり直さねばなりません。
欠けていることを知ってしまった以上、放っておいては偽者になってしまいます。
高徳の方々は先へ進み、徳の薄い者は引き返す。
凡人の人生は二歩進んで一歩退がるものであることをやっと体得しました。
無一文になってすら、〈自分で退がる〉ことを知りませんでした。
ものごとの終わりと始めを司る虚空蔵菩薩様のお導きは確かです。
我に返って窓へ視線を向けると、ご本尊様の頭越しに、雨の上がった灰色の空をバックにした森と桜の樹が見えます。
桜の葉はピクリともしません。
灰色の空はその後側へ無限の宇宙を隠したまま、じっとしています。
どんどん、明るさが増して来ました。
いつも通り、今日も法務が始まります。
虚空蔵菩薩様は、まことに福徳と智慧の守本尊様です。
お求めの方々のためには修法によって福徳をお渡ししたいと願っています。
そして、それが実践できるよう、自分の未熟さを観る智慧をも磨きつつ修行を続けたいと願っています。
このたび、何とか真のお焚きあげをしたいと願って手がけていた『開運不動明王』のお堂が一年がかりで完成しました。
地蔵盆に当たる8月24日には地鎮祭を執り行い、いよいよ寺子屋ができる供養堂の建築に着工します。
資金は供養堂に要する半分にも満たない状態ですが、必ず完成へこぎつけられるものと確信しています。
○守本尊様のご供養申込数累計 141体
○唱えた真言の回数累計 1、080、000回
108個の珠がついた数珠を一回繰って百と数える方法もあり、その場合は百万返になります。
ご本尊様は当然ですが、ご助力下さり、あるいはお見守りくださったご縁の方々、無縁の方々、そして生きとし生けるものへ心より感謝します。
まことにありがとうございました。
起床した時はどしゃぶりでした。
暗がりの中、手探りで作務衣を探し当てたところ、ぐっしょり濡れています。
ちょっとした台の上へ置いた作務衣の真上で、いつものように雨漏りがしていました。
寝起きしているプレハブは耐用年数を過ぎているのでしょう。
おかげで布団が濡れずに安眠できたのでありがたいなと思いながら、またもや、菩薩道を歩む行者の役割を教えていただいたことに、心から感謝しました。
身代わりとなって苦を受ける代受苦(ダイジュク)は、お地蔵様に代表されるとおり、菩薩の根本役割だからです。
作務衣の代わりに洗面器を置いて外へ出て台所に行ってみたら、流し台に落ちたメロンの皮へ無数のアリたちがへばりついていました。
文字どおり真っ黒に見えるほど群がっています。
このまま私が顔を洗い始めたら、彼らは全滅です。
大きなスプーンで皮をゴミ箱に移しても、未練たっぷりな連中は、まだ、水が流れ落ちる穴の上下で残物に取り付き、ウロウロしています。
警告のために少しづつ水を流したところ、2分ほどかかって退去が終わりました。
きっと穴へ落ちた者もいることでしょう。
今度は、煩悩のあさましさを教えられました。
道場へ行き、満願を迎える日に開けることになっている東側の窓から外を眺めても、暗い雨空ばかりで何も見えません。
聞こえるのは屋根を叩く雨音だけです。
行が進むうちにだんだん小雨となり、ジージー、チチチチ、コロコロコロコロなどと鳴く虫の声が高くなり、やがて、ウグイスが鳴き始めました。
昨夜の涼しさと今朝の冷たい雨のせいでしょうか、もう、蝉の声はしません。
最後の一回を唱え終わり、ご本尊様と一体になる法へ入りました。
深々とした充足感のみ──。
「一体無二なり」と確認して定(ジョウ…瞑想状態)から出ると、もう、何も要りません。すべてがあるからです。
あとは、人々のために必要な場を造り、ご参詣の方や願いをかける方に無限の福徳をお持ち帰りいただくだけです。
ご本尊様のおられるお堂は、汲めども尽きない福徳の泉です。
さて、自分の心を観ると、在るものと不足しているものとが明らかです。
お大師様も興教大師様も、繰り返し、繰り返し虚空蔵求聞持法を修されたわけが想像できます。
また、なぜ、お大師様が、「小乗仏教も、密教ではない大乗仏教もそれなりに会得した上で密教へ入るべし」と説かれたのか、当時、最高の権威を誇っていた南都六宗から尊敬されたのか、やっと本当の理由が解りました。
同時に、お大師様が唐へ行くまでの間、山林を廻りながらいかなる修行をしておられたのか、ほとんど解明されていない謎が解け始めています。
このことについては、書ける日が来るかも知れないし、確信が持てず胸にしまったままになるかも知れません。
いずれにせよ、私のような未熟者は、この先へ進む、あるいは深めるなどということではなく、基礎をやり直さねばなりません。
欠けていることを知ってしまった以上、放っておいては偽者になってしまいます。
高徳の方々は先へ進み、徳の薄い者は引き返す。
凡人の人生は二歩進んで一歩退がるものであることをやっと体得しました。
無一文になってすら、〈自分で退がる〉ことを知りませんでした。
ものごとの終わりと始めを司る虚空蔵菩薩様のお導きは確かです。
我に返って窓へ視線を向けると、ご本尊様の頭越しに、雨の上がった灰色の空をバックにした森と桜の樹が見えます。
桜の葉はピクリともしません。
灰色の空はその後側へ無限の宇宙を隠したまま、じっとしています。
どんどん、明るさが増して来ました。
いつも通り、今日も法務が始まります。
虚空蔵菩薩様は、まことに福徳と智慧の守本尊様です。
お求めの方々のためには修法によって福徳をお渡ししたいと願っています。
そして、それが実践できるよう、自分の未熟さを観る智慧をも磨きつつ修行を続けたいと願っています。
このたび、何とか真のお焚きあげをしたいと願って手がけていた『開運不動明王』のお堂が一年がかりで完成しました。
地蔵盆に当たる8月24日には地鎮祭を執り行い、いよいよ寺子屋ができる供養堂の建築に着工します。
資金は供養堂に要する半分にも満たない状態ですが、必ず完成へこぎつけられるものと確信しています。
○守本尊様のご供養申込数累計 141体
○唱えた真言の回数累計 1、080、000回
守本尊道場造営日記二十一 ―ニューロン―
最近、虚空蔵求聞持法百万返が終わったことに関して「どうだったのか?」と質問をいただきます。
多くの方々は本やテレビで見聞きするような奇跡体験を期待しておられるやに見受けられますが、夜学行者である私などは、前回書いたとおり、お大師様の「谷、響きを惜しまず」が、いくらか理解できた程度でしかありません。
三密加持による法の世界へより深く入られる実感が、ご祈祷、ご加持、ご供養などの修法において、より大きな力を発揮できることにつながればありがたいと考えています。
その後、意識できる変化としては、伝授を受けたさまざまな修法における〈つながり〉の発見が挙げられます。
ちょうどニューロン(神経細胞)がシナプスによってネットワークを形成し、脳が一つのまとまった世界としてはたらくようなものであると言えそうです。
いずれにしても、すべてが菩薩行である行者としては〈得られたものがいかに皆さんのために役立つか〉がすべてであり、それ以外の関心事はありません。
いかなる修行も、抜苦与楽の具体的方便を掴めなければ、菩薩行としての意味はありません。
である以上、無事満願したならば、ささやかな発見を解りやすくまとめて残さねばならないと考えています。
たとえば、せっかく生まれ持った知恵があるのに、時として信用をすっかり失ってしまうような行動に走る人の運勢はいかにして形成されるか、弱点と克服のポイントはどこにあるか、などなど、語れる〈奇跡〉はなくとも、「そうか」と納得し「やってみよう」と〈運命転化を志すためのカギ〉が明示できればありがたいことです。
また、弟子たちへ、修法上のポイントなどを判りやすく指導したいと願っています。
来たる百八万返の成就が何をもたらすかはご本尊様へお任せし、ただただ、行じ続けます。
多くの方々は本やテレビで見聞きするような奇跡体験を期待しておられるやに見受けられますが、夜学行者である私などは、前回書いたとおり、お大師様の「谷、響きを惜しまず」が、いくらか理解できた程度でしかありません。
三密加持による法の世界へより深く入られる実感が、ご祈祷、ご加持、ご供養などの修法において、より大きな力を発揮できることにつながればありがたいと考えています。
その後、意識できる変化としては、伝授を受けたさまざまな修法における〈つながり〉の発見が挙げられます。
ちょうどニューロン(神経細胞)がシナプスによってネットワークを形成し、脳が一つのまとまった世界としてはたらくようなものであると言えそうです。
いずれにしても、すべてが菩薩行である行者としては〈得られたものがいかに皆さんのために役立つか〉がすべてであり、それ以外の関心事はありません。
いかなる修行も、抜苦与楽の具体的方便を掴めなければ、菩薩行としての意味はありません。
である以上、無事満願したならば、ささやかな発見を解りやすくまとめて残さねばならないと考えています。
たとえば、せっかく生まれ持った知恵があるのに、時として信用をすっかり失ってしまうような行動に走る人の運勢はいかにして形成されるか、弱点と克服のポイントはどこにあるか、などなど、語れる〈奇跡〉はなくとも、「そうか」と納得し「やってみよう」と〈運命転化を志すためのカギ〉が明示できればありがたいことです。
また、弟子たちへ、修法上のポイントなどを判りやすく指導したいと願っています。
来たる百八万返の成就が何をもたらすかはご本尊様へお任せし、ただただ、行じ続けます。
守本尊道場造営日記 二十 ―谷、響きを惜しまず―
6月21日は夏至、ついに百万返となりました。
ここへ来て、大龍嶽山上で求聞持法を満願したお大師様が「谷、響きを惜しまず」と書いている内容が解ったように思えます。
唱える声は小さくとも、本尊へ届き本尊から流れ出る真言は、鏡面となっている湖水へ投げ入れられた小石が作る波紋のように遠くへ遠くへ広がります。
それも単なる二次元の世界ではなく、球面となって四次元の世界を広がります。
波動は遠くへ離れていってもエネルギーが落ちません。
お大師様の言われた「響き」は、ヤッホーと返ってくる木霊ではなく、真言に共振する天地の声なのでしょう。
だから、「法を結ぶ行者のいるところが宇宙の中心である」という意味も解りました。
発信するところは、常に波動の中心です。
宇宙の中心は、同時に宇宙の涯(ハテ)でもあります。
響きは中心と涯を一つにします。
涯から宇宙を丸ごと抱え持っておられるのが法身仏大日如来です。
だから、「それ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し。真如外(ホカ)に非ず、身を棄てて何(イズ)くんか求めん」の教えも、本当の意味がいくらか解りました。
仏法の真実世界は至心に行ずるところに自ずから開けるものであり、時間的にも空間的にも決して遠くにはありません。
もはや、〈自分で〉得たいものも、〈自分が〉得るべきものもありません。
欲がなくなったのではなく、すべてがある以上、何の不自由もないからです。
伝授の時、法を結んで道場に法界を顕した師が、「ここには何でもあるじゃろう」とニッコリされた通りです。
すべてがあり、感謝があります。
これから先は、虚空に満ちている宝ものを活かすのみです。
お大師様がこの行からスタートされた意味も、宿題として残っていた半分が、おおよそつかめました。
最近、40年前に出版された寺山修司の評論集「書を捨てよ 町へ出よう」のフレーズがくり返し思い出されます。
一度も読んだことがなく、もちろん、同名の舞台も映画も観ておらず、そもそも、彼が書いた本を手に取ったことすらないので不思議です。
古来、インドには『マヌの法典』に基づく「四住期(シジュウキ)」という思想があります。
人生を学生期、家住期、林棲期、遊行期(ユギョウキ)の4つに分けて生き、悟りへ至るというものですが、この遊行期に関係があるのかも知れません。
法典は、遊行期についての心構えをこう説いています。
「死を希(ネガ)ふことなく、生を希ふこと勿れ」
「怒れる者には怒りを以って報ゆる勿(ナカ)れ。呪われたる時には祝福すべし」
こうした意味も、追々、明らかになることでしょう。
百万返という関門はくぐりましたが、満願の日と定めた8月17日(満月・月食)を目ざして、さらに精進します。
おかげさまにて、ようやく、お焚き上げの本尊不動明王像へ屋根がかかるところまで来ました。
本尊のお姿は、密教の奥義を携えて唐から帰国する途中、暴風雨に見舞われたお大師様が修法した時に波間から航路を示してくださった波切り不動明王と同じであり、いかなる因縁の荒波も乗り越えさせていただけるよう修法を重ねます。
お像の周辺も、「山の工房村」さんからいただいた数十トンの石や樹木などによって整備されつつあります。
いかなることになるか、満願が楽しみです。
[お焚き上げ場周辺]

[お焚き上げ不動堂]

[波切り不動明王]

[守本尊道場の睡蓮]

[守本尊道場の睡蓮]

[守本尊道場の皐]

○守本尊様のご供養申込数累計 138体
○唱えた真言の回数累計 1、001、160回
ここへ来て、大龍嶽山上で求聞持法を満願したお大師様が「谷、響きを惜しまず」と書いている内容が解ったように思えます。
唱える声は小さくとも、本尊へ届き本尊から流れ出る真言は、鏡面となっている湖水へ投げ入れられた小石が作る波紋のように遠くへ遠くへ広がります。
それも単なる二次元の世界ではなく、球面となって四次元の世界を広がります。
波動は遠くへ離れていってもエネルギーが落ちません。
お大師様の言われた「響き」は、ヤッホーと返ってくる木霊ではなく、真言に共振する天地の声なのでしょう。
だから、「法を結ぶ行者のいるところが宇宙の中心である」という意味も解りました。
発信するところは、常に波動の中心です。
宇宙の中心は、同時に宇宙の涯(ハテ)でもあります。
響きは中心と涯を一つにします。
涯から宇宙を丸ごと抱え持っておられるのが法身仏大日如来です。
だから、「それ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し。真如外(ホカ)に非ず、身を棄てて何(イズ)くんか求めん」の教えも、本当の意味がいくらか解りました。
仏法の真実世界は至心に行ずるところに自ずから開けるものであり、時間的にも空間的にも決して遠くにはありません。
もはや、〈自分で〉得たいものも、〈自分が〉得るべきものもありません。
欲がなくなったのではなく、すべてがある以上、何の不自由もないからです。
伝授の時、法を結んで道場に法界を顕した師が、「ここには何でもあるじゃろう」とニッコリされた通りです。
すべてがあり、感謝があります。
これから先は、虚空に満ちている宝ものを活かすのみです。
お大師様がこの行からスタートされた意味も、宿題として残っていた半分が、おおよそつかめました。
最近、40年前に出版された寺山修司の評論集「書を捨てよ 町へ出よう」のフレーズがくり返し思い出されます。
一度も読んだことがなく、もちろん、同名の舞台も映画も観ておらず、そもそも、彼が書いた本を手に取ったことすらないので不思議です。
古来、インドには『マヌの法典』に基づく「四住期(シジュウキ)」という思想があります。
人生を学生期、家住期、林棲期、遊行期(ユギョウキ)の4つに分けて生き、悟りへ至るというものですが、この遊行期に関係があるのかも知れません。
法典は、遊行期についての心構えをこう説いています。
「死を希(ネガ)ふことなく、生を希ふこと勿れ」
「怒れる者には怒りを以って報ゆる勿(ナカ)れ。呪われたる時には祝福すべし」
こうした意味も、追々、明らかになることでしょう。
百万返という関門はくぐりましたが、満願の日と定めた8月17日(満月・月食)を目ざして、さらに精進します。
おかげさまにて、ようやく、お焚き上げの本尊不動明王像へ屋根がかかるところまで来ました。
本尊のお姿は、密教の奥義を携えて唐から帰国する途中、暴風雨に見舞われたお大師様が修法した時に波間から航路を示してくださった波切り不動明王と同じであり、いかなる因縁の荒波も乗り越えさせていただけるよう修法を重ねます。
お像の周辺も、「山の工房村」さんからいただいた数十トンの石や樹木などによって整備されつつあります。
いかなることになるか、満願が楽しみです。
[お焚き上げ場周辺]

[お焚き上げ不動堂]

[波切り不動明王]

[守本尊道場の睡蓮]

[守本尊道場の睡蓮]

[守本尊道場の皐]

○守本尊様のご供養申込数累計 138体
○唱えた真言の回数累計 1、001、160回
守本尊道場造営日記 十九 ―是所非所智力(ゼショヒショチリキ)―
6月5日は芒種でした。
百万返の行は、いよいよ最終コーナーへさしかかりました。
生死の分かれ目を象徴する北東を守り、人間が霊性をもった存在らしく生きるために不可欠の善悪・虚実などを見極める是所非所智力(ゼショヒショチリキ)を司っておられる虚空蔵菩薩と一体になるこの修法が、なぜ、お大師様の修行人生を開く形で行われたのか。
お大師様も、真言密教中興の祖といわれる興教大師(コウギョウダイシ)も、なぜ、心の位置を確認するかのように何度もこの修法を行われたのか。
その本当の理由が、ようやく解りかけてきました。
ありがたいことです。
そもそも、虚空蔵求聞持法(コクゾウグモンジホウ)については、成満すれば超人的な記憶力が身につくという面だけが後世の研究者たちから注目され、経典を読み解いたり、真言を暗唱したりするための能力開発を行おうとして最初にこの修法をされたのだろうと理解されてきました。
(私もまた、超人的な力うんぬんはさておき、密教行者としてやっておかねばならぬと考えて挑戦しました)
それならば、成満したお大師様も、興教大師様も、一度その力を得てしまった以上、くり返し修法する必要はないはずです。
しかし、お二人とも、生涯において何度も修法しました。
この謎を解くカギは、是所非所智力にありました。
是所非所智力から観る善悪や虚実とは世間的なものではなく、み仏のレベルにおける善悪や虚実なのです。
こんなことは気づいてしまえばあまりに当然ですが、凡人にとっては、「知っていたはずなのに実は知らないでいた。やっといくらか理解できた」といった感があります。
まっとうな人たちは「人を叩いてはならない」「嘘をつくのは悪い」と考え、暴力的な人や嘘ばかりついている人はどんどん世間から見放され、やがては犯罪者へと堕ちていったりします。
正しく生きる人や虚構に騙されない人と、悪行を重ねる人や虚構の世界で騙し騙される人は、はっきり別々の世界で生き、接点はどんどんなくなります。
ものごとを正しく考える人は明るい世界と暗い世界を峻別し、より、太陽へ近づこうとします。
もちろん、これは正しい生き方であり、人はこのようにあるべきですが、ここまでの正しさで止まれば〈世間的に正しい人〉でしかありません。
なぜなら、悪人との対立はいつでも起こり得るだけでなく、正しさの主張だけで頑なな悪人の持つ悪因縁を解消できるとは限らないからです。
それなら、み仏のレベルにおける善悪や虚実とは何か。
大日経は「大悲を根本とす」と説いています。
大悲すなわち相手を選ばない無限の慈悲心に生きることが善であり、慈悲心を持たないのはもちろん、自分勝手に取捨選択をして慈悲心をかける人と見放す人とを区別するのもまた、善ではありません。
大日経は「現象は陽炎(カゲロウ)のようなものである」と説いています。
すべては因果応報の法によって存在している空(クウ)なるものであることをきちんと認識し、諸悪の根源である自己中心を離れるのが虚実の見分けというものでしょう。
また、大日経は「方便を究境(クキョウ)と為す」と説いています。
菩薩として生きるためには何をすれば良いかを知るということ、つまり、真実の智慧がはたらくことです。
虚空蔵求聞持法は、虚空蔵菩薩様の世界へ入って是所非所智力を分けいただき、「世間的な是非・善悪の判断も出世間的な是非・善悪の判断もできるようになり、なすべきことが見えてくる」、こうした道へ導くのではないかと朧気ながら考えています。
お大師様も興教大師も、み仏のレベルにおける善悪や虚実の判断が高まるよう、真実の智慧がはたらくよう無限の向上をはかられたのではないでしょうか。
○守本尊様のご供養申込数累計 136体
○唱えた真言の回数累計 950、400回
百万返の行は、いよいよ最終コーナーへさしかかりました。
生死の分かれ目を象徴する北東を守り、人間が霊性をもった存在らしく生きるために不可欠の善悪・虚実などを見極める是所非所智力(ゼショヒショチリキ)を司っておられる虚空蔵菩薩と一体になるこの修法が、なぜ、お大師様の修行人生を開く形で行われたのか。
お大師様も、真言密教中興の祖といわれる興教大師(コウギョウダイシ)も、なぜ、心の位置を確認するかのように何度もこの修法を行われたのか。
その本当の理由が、ようやく解りかけてきました。
ありがたいことです。
そもそも、虚空蔵求聞持法(コクゾウグモンジホウ)については、成満すれば超人的な記憶力が身につくという面だけが後世の研究者たちから注目され、経典を読み解いたり、真言を暗唱したりするための能力開発を行おうとして最初にこの修法をされたのだろうと理解されてきました。
(私もまた、超人的な力うんぬんはさておき、密教行者としてやっておかねばならぬと考えて挑戦しました)
それならば、成満したお大師様も、興教大師様も、一度その力を得てしまった以上、くり返し修法する必要はないはずです。
しかし、お二人とも、生涯において何度も修法しました。
この謎を解くカギは、是所非所智力にありました。
是所非所智力から観る善悪や虚実とは世間的なものではなく、み仏のレベルにおける善悪や虚実なのです。
こんなことは気づいてしまえばあまりに当然ですが、凡人にとっては、「知っていたはずなのに実は知らないでいた。やっといくらか理解できた」といった感があります。
まっとうな人たちは「人を叩いてはならない」「嘘をつくのは悪い」と考え、暴力的な人や嘘ばかりついている人はどんどん世間から見放され、やがては犯罪者へと堕ちていったりします。
正しく生きる人や虚構に騙されない人と、悪行を重ねる人や虚構の世界で騙し騙される人は、はっきり別々の世界で生き、接点はどんどんなくなります。
ものごとを正しく考える人は明るい世界と暗い世界を峻別し、より、太陽へ近づこうとします。
もちろん、これは正しい生き方であり、人はこのようにあるべきですが、ここまでの正しさで止まれば〈世間的に正しい人〉でしかありません。
なぜなら、悪人との対立はいつでも起こり得るだけでなく、正しさの主張だけで頑なな悪人の持つ悪因縁を解消できるとは限らないからです。
それなら、み仏のレベルにおける善悪や虚実とは何か。
大日経は「大悲を根本とす」と説いています。
大悲すなわち相手を選ばない無限の慈悲心に生きることが善であり、慈悲心を持たないのはもちろん、自分勝手に取捨選択をして慈悲心をかける人と見放す人とを区別するのもまた、善ではありません。
大日経は「現象は陽炎(カゲロウ)のようなものである」と説いています。
すべては因果応報の法によって存在している空(クウ)なるものであることをきちんと認識し、諸悪の根源である自己中心を離れるのが虚実の見分けというものでしょう。
また、大日経は「方便を究境(クキョウ)と為す」と説いています。
菩薩として生きるためには何をすれば良いかを知るということ、つまり、真実の智慧がはたらくことです。
虚空蔵求聞持法は、虚空蔵菩薩様の世界へ入って是所非所智力を分けいただき、「世間的な是非・善悪の判断も出世間的な是非・善悪の判断もできるようになり、なすべきことが見えてくる」、こうした道へ導くのではないかと朧気ながら考えています。
お大師様も興教大師も、み仏のレベルにおける善悪や虚実の判断が高まるよう、真実の智慧がはたらくよう無限の向上をはかられたのではないでしょうか。
○守本尊様のご供養申込数累計 136体
○唱えた真言の回数累計 950、400回


