



今日、謙信公祭において、隠形流(オンギョウリュウ)居合の飯野師範代が武将役で登場します。
師範代は長年、往事を偲ばせる催事にかかわり、技術指導なども行ってきました。
武者行列は全国にあっても、謙信公祭のように合戦を再現するものはほとんどなく、かつてはGACKTが参加して大人気を博したりもしていました。
ぜひ、本格的な合戦の雰囲気を味わっていただきたいと思います。
不動明王と摩利支天(マリシテン)の法を中心として用い、肝腎なものを守るという隠形流居合の精神に合った役柄であると思います。
本格的な稽古で培った奮戦ぶりをぜひ、ご覧ください。
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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福島県の二本松藩は、幕末の動乱にあって最後まで薩摩・長州軍と戦い抜き、滅んだ。
そこに数え年12才から17才までの62名よりなる少年隊(通称)が結成された。
隊長は木村銃太郎(22才)である。
以下、原田伊織著『明治維新という過ち』より記す。
「現実の前線では武家クラスの藩士たちは、できるだけ少年たちを後ろへ後ろへ下げた。
最前線に立たせることを避けようと心掛け、できることなら逃げ延びることを願ったのである。
このことは、敵味方を問わず少年たちに対する情としてみられた事実である。」
納得できた。
小生は、万が一、外国から侵略を受けたなら、必ず立ち上がるであろう若者たちよりも敵前へ行き、先に死のうと覚悟している。
もちろん、素手である。
素手の年寄りたちが若者を護って死んで行く姿は、必ずや衛星を通じて世界へ流れ、観る人間たちの霊性を覚醒させ、それは日本を救う何ごとかにつながるであろうと信じている。
隊士成田才次郎(14才)は、父からたたき込まれていた。
「敵に相まみえたら、斬ってはならぬ、ひたすら突け!」
彼は重傷を負いつつも死に場所を求めて城下を彷徨い、ようやく長州兵の一団を見つけた。
「やっとの思いで身長からすれば長過ぎる刀を抜き払い、白熊(ハグマ)の冠りもの(熊毛頭…クマケガシラ)を付けた隊長と思(オボ)しき者だけを眼中に収めて突きかかった。
この指揮官が、長州藩士白井小四郎(31才)であったことが分かっている。
白井に油断があり、成田の剣は父の教え通り、白井を斬らずに真っ直ぐ突いた。
白井はその場で絶命。
絶える息の間に『己の不覚。この子を殺すな』といったらしいが、周囲の兵たちは聞こえなかったのであろう、銃を逆手にとり、成田を撲殺した。」
才次郎の父親成田外記右衛門がいかなる人物であったかはわからないが、必殺剣として〈突き〉の技を教え込んだことは納得できる。
相手から外されにくい一方、外されたならこちらのいのちはない。
また、剣と身体が一体になり突きの姿勢で突っこむ時、防備は面はほぼ、なくなっている。
だから、各流派において秘されている技の多くが突きであろうと言われている。
当隠形流(オンギョウリュウ)居合においても事情は変わらない。
藤沢周平の小説「必死剣 鳥刺し」は映画にもなった。
平成22年、主人公兼見三左エ門を演じた豊川悦司は見事な立ち回りを見せた。
彼は、秘剣を繰り出し必ず死なねばならない〈その時〉のため、日々、心身の鍛錬を欠かさず、ついに自分のいのちとひき換えに秘剣を成功させる。
ぜひ、今からでも、多くの方々に観ていただきたい大傑作である。
ところで、解剖学者の養老孟司氏は、選挙権年令が18才以上に引き上げられることについてこう述べている。
「1945年8月15日、日本が180度ひっくり返ったのに、実際には(日本人は)ケロッとしている。
だから、政治って実は大事じゃないということになるんじゃないか。
政治に何ができるのか、そこが大きな疑問になっている。
政治は一番ややこしくて、ウソが入りやすい。
18や19の若い人がそんなこと分かる訳はない。
今の人は自分の人生は自分のものだと思っているから。
『特攻』を考えてください。
(特攻隊員の人生は)自分のものじゃない、あれは将来の子どもたちのため、身近な人たちのため。
遺書にもそう書いてある。」(時事通信)
そうかも知れないが、二本松少年隊の史実に接すると、若者を信じたくなるし、年寄りの役割も認識させられる。
必ずしも剣法に限らず、自分なりの秘剣を胸に育てつつ生きることは、老若男女を問わず人間を真実体験へ導くのではなかろうか。

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ある時、運勢の話をしたところ、ご質問があった。
以下、やりとりの概要である。
Q:「是非善悪を見分けて行動すれば運勢を転換できるという教えですが、見分けるにはどうすればよいのでしょうか?」
A:「まず、自分の立場、自分の損得、自分の好き嫌いといったものから離れることです」
Q:「私はなかなか〈自分〉から離れられません」
A:「臨死体験における幽体離脱ではありませんが、客観的に自分の身体や心を眺めるというイメージは持てませんか?」
Q:「私はいつも、ここを何とかしよう、といった必死な気持でずっとやってきたので、そうした自分からなかなか離れられません」
A:「もちろん、量子力学の世界では、粒子の位置と運動量を同時につかめないとされているとおり、私たちは純粋に客観的な世界を知ることができるのかどうかという根本的な問題はあります。
カントもまた、私たちは客観的なモノそのものを認識できず、モノの現れである現象を、自分なりの認識の仕方でとらえられるのみであると主張しました。
だから、そういった完全性を求めるということではなく、自分の目を、客観視できる別な目に入れ替えようという話でもありません。
どうしても自己中心的になり、自分なりの強い色眼鏡を使いたくなる日常生活的視点から離れようとする姿勢が大切です。
客観的視点は、そうした努力の結果として、はたらきだすものなのです」
Q:「日常的な自分から離れる方法はいかなるものですか?」
A:「ここで説かれている是非善悪の見分けは、虚空蔵菩薩様のご守護で行われるものです。
だから、虚空蔵菩薩様の真言を一心に唱える、あるいは経典を読む、あるいは九字を切る、あるいはお詣りするといった何かを実践することが大切です。
こうした方法のうち、どれが自分にしっくりくるかは、やってみなければわかりません。
問題意識を持ち、何とかしたいと願い、説かれた教えを信じて実践しない限り、あなたにとって確かな導きとなる方法はつかみようがありません」
Q:「私に見つかるでしょうか?」
A:「私は預言者ではなく、超能力者でもないので、軽々に他人様の未来について無責任な断言はできません。
確かなのは、小生自身がこうした実践によって、おりおりに何かをつかみ、いくつもの山や川や壁を乗り越えてここまで生きてきたことです。
また、何かを見つけて乗り越えた方々がおられることです。
だから、み仏の子である私たちは誰でも見つける可能性を持っているという信念を持って、こうしたお話をしています」
以上は、隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場における一コマである。
運勢を動かしたいならば、まず〈知ること〉である。
そして自分なりに何かを行いたい。
居合の行者のような実践も、あるいは敬虔な気持でご祈祷やご加持を受けることも、いずれもまごころからの行動であることに変わりはない。
知って、行動すれば、必ず原因に結果が伴う。
よき意識、よき願いをもってよき方向を目ざしたい。
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〈鈴木芳男氏(仙台市泉区)が撮られた当山の水子地蔵様〉
ときおり、ご質問をいただきます。
「どうして僧侶が居合をやるのですか?」
仏教の修行は、身体と言葉と心のはたらきを、み仏に合わせて生きる練習である。
それは、畢竟、〈誰かのためになれる存在〉つまり、菩薩(ボサツ)を目ざすことに他ならない。
菩薩は、時に応じ、ことに応じ、相手に応じたふるまい、言葉づかい、適切な思考と感情の動きをする。
隠形流(オンギョウリュウ)居合は、気力や体力や斬る技術の錬磨を行うのではない。
菩薩の姿になり、真言や九字や経文を口にし、み仏の世界をイメージする。
だから、マンダラの中に膨大なみ仏がおられるように、斬る形も膨大にある。
剣をもって大きく斬る形が心中で結ぶ印や切る九字となって魂へ刻みつけられれば、行者はやがて剣を持たずとも、文殊菩薩にも千手観音にもなれる。
自然の一部である身体を最大限に生かして、菩薩へ近づく。
剣は怖い。
他を斬るための道具だからだ。
もちろん、稽古中に自分自身を傷つけたりもしてしまう。
それだけに、決して他人を傷つけぬよう最大限の注意をはらうのはもちろん、護身法(ゴシンポウ)を結ばずして剣を手にすることはない。
そうして剣を知れば、剣は生きる。
この世はマンダラであり、慈悲と智慧の目で観れば人は皆、み仏の子であり、モノは皆、法具となる。
古(イニシエ)の時代には、人を斬る道具だった剣が、菩薩を目ざす者にとっては九字を切る法具となる。
虚空蔵菩薩も不動明王も剣を持っておられるのには理由がある。
こうして、あらゆるものを生かすのが仏法である。
ただし、人間が欲と好奇心から生み出した道具の中には、なかなか菩薩たり得ない人間に使いこなしきれない道具もある。
それが明白なのは核である。
道具が世界の主人公となって磁石のようにありとあらゆる欲を集め、人類を破壊させかねない危険が広く承知されつつも、既得権者は容易に手放そうとしない。
もう一つは貨幣ではないか。
貨幣が偏在することによって心に慢心、頽廃、怨恨、絶望が生じ、社会は軽薄で無慈悲になり、欺瞞的な希望の鐘が打ち鳴らされつつ、人はばらばらになって行く。
稽古の冒頭に誓う言葉の一つである。
「我、権利より尊さを主張するは、人は万物の長であることを忘れず、自他の発展を願うがゆえなり」
自己中心の我欲に流されず、他のためになろう。
人が霊性を持っていることを忘れず、皆と共に向上心を持って生きよう。
一同、こう誓ってから、剣をふるう。
当山において居合を行うのは、おおよそこうした理由によります。

〈仙台国包(クニカネ)の直刃(スグハ)を目ざし、七つ森の主峰笹倉山の麓で錬磨の一生を送った幻の刀工葉山丸(ヨウザンマル)の作品が納められました〉

〈研ぎ上がりが楽しみです〉
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〈高橋香温先生の書道教室における来年の書き初め(1月4日)は自分や家族などの守本尊様です。どなたも自由に参加できます〉
隠形流(オンギョウリュウ)居合の昇段試験を行った。
チャレンジしたのは60代の方と80代の男性である。
いずれも剣を握ったこともないまま、還暦を過ぎてから入門された方々である。
テストは25通りに剣を振るものだが、経文を暗誦する観想が楽ではない。
じっと構えたまま、2分ほど続く観想もある。
しかし、お二人共、見事、やり抜かれた。
Aさんが笑顔で言われる。
「途中で、あっ、違う、と思ったらもう、どこをやっているのか、わからなくなりました。
観想を口にしているうちに、足がプルプルになってきました」
Bさんが深刻な顔で言われる。
「抜けた言葉に気づきませんでした。
うーん、そうですか」
テスト中、お二人は、気迫と尊厳に満ちた姿になっておられた。
いい年をした男性が、自分に厳しい人、他人に優しい人、角張らない人、正義を貫く人、調和のとれた人になろうと真剣に過ごされたであろう準備期間は、見事な結実をもたらした。
最近、読んだ神戸女学院大学名誉教授内田樹氏の著『街場の戦争論』にあるパッサーについて簡単な法話を行った。
「内田樹師は言います。
月謝を払って伝授を受ける行為は、対価を払って商品を買う行為とは違う。
買えば、買い手はエンドユーザーになります。
しかし、弟子が師について学べば、師から何かを受け取り、自分もそれを誰かへ受け渡すパッサーになるのです。
私はこの文章を読んで考えました。
確かに私は師から受け取りお弟子さんたちへ渡しながらここまで来たパッサーである。
しかし、お弟子さん方は、誰しもが道場を開いて〈伝授する人〉になるわけではない。
私も引退したらどうなるのか?
そしてこう気づきました。
今、学んでいるとおり、実の良縁にめぐり会ったおりに、舞い上がらず、自分へ厳しく生きられる人間になれば、その生きざまそのものが、接する人々へ無言で大切なものを渡していることになるはずだ。
実の悪縁に苦しむ人へ、『こういう時こそ、心のどこかに和やかさを保ちながら生きてみましょう。周囲の善行に手を貸してみましょう』と言えるはずだ。
剣法そのものを教えずとも、立派なパッサーになっているではないか……。
皆さんは、必ずや、仮の良縁にあってはこれまでより優しく、仮の悪縁にあってはこれまでよりも正しく対応できるはずです。
人生が変わり、大切な何ものかのパッサーになりました。
今日の日を忘れずに、次の段位を目指して励みましょう」
人間をつくる隠形流居合の目的は、仏法と剣法に導かれてよきイメージを持ち、その方向へ向かって生きることである。
通称「高齢者」である方々がテストで見せた青年のようなまじめさ、終わって隠しきれなかった弾ける嬉しさに接したひとときは、師として弟子から受け取ったこの上ない宝ものだった。
Aさん、Bさん、本当にご苦労さまでした。
そして、ありがとうございました。
また、やりましょう!
◎12月13日午後1時30分より行う寺子屋『法楽館』では、ダライ・ラマ法王が般若心経について説かれたDVDに学びます。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8
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