行者の心得 その4
10 結界を張ること。
結界において一番気をつけねばならないのは、自分が仏神であると思いこんで死んだ人がそのまま妄者となって現れて来る場合があるので、それを決して入れないことです。
『日本霊異記』などを読めば、意志を通したいと我を張ったまま妄者となった怨霊のすさまじさが解ります。
正統な修法で結界を結ばないと、念の力が妄者を呼び寄せてしまうことも珍しくありません。
テレビで怪しい占い師や霊能者が、何かにとりかかるとすぐに気持が悪くなったり、不安げな表情になったりするのは、自分でそうした流れを作るからであり、護身法の力を甲冑としてまとう正統な行者は何ものを相手にしても淡々としており、何ものにも怯えません。
気持が悪くなったり怯えたりしたら勝負は負けに決まっています。
だから、第三者の目から見れば、特殊な場合を除けば、何ら〈それらしい〉ところがないままに、修法は終わります。
護身法は、自分自身へ結界を張るものであり、隠形流の行者は迷わず、惑わされず、ただただ素直に伝授を信じ、励みましょう。
まず、きちんと自分の身を護られればこそ、いかなる亡者をも安心の世界へ導くことができます。
泳げない人は、溺れている人を救うことはできないのです。
11 念力ではなく法力でことを行うのが仏法を信ずる行者の務めである。
念ずることにおいて制限はなく、その内容は、善であったり悪であったりします。
なぜなら、誰でも勝手にできるからです。
しかし、法を結ぶことは、決して勝手にできはしません。
なぜなら、法力を動かせる行者からしか法力は受け継がれないからです。
だから、お大師様は、法の伝授は「器から器へ移すようなものである」と説かれ、弟子が密教を伝授されるべき器であるかどうかを見極めるのが、師となる者の大事な仕事です。
そして、受け継がれたものは、正しい修行方法によって正しく行者の血肉にならなければ決して生きません。「知った」だけになってしまい、宝は持ち腐れとなります。
法力によって事態が動いたからといって驚く必要はありません。
法力は加持力となっていのち全体へはたらきかけており、たとえ目立たないとしても心が変化していることは、何よりも大きなできごとなのです。
修法の場を体験された方が、「霧が晴れました」「心が軽くなりました」「前へ進めそうな気持になりました」などと述懐されるとおりです。
なお、仏法において「念ずる」とは、心へしまい込むべきものをきちんとしまい、努々(ユメユメ)疎かにせず、決して離さないことを意味します。
釈尊は、それを「正念(ショウネン)」と説かれました。
結界において一番気をつけねばならないのは、自分が仏神であると思いこんで死んだ人がそのまま妄者となって現れて来る場合があるので、それを決して入れないことです。
『日本霊異記』などを読めば、意志を通したいと我を張ったまま妄者となった怨霊のすさまじさが解ります。
正統な修法で結界を結ばないと、念の力が妄者を呼び寄せてしまうことも珍しくありません。
テレビで怪しい占い師や霊能者が、何かにとりかかるとすぐに気持が悪くなったり、不安げな表情になったりするのは、自分でそうした流れを作るからであり、護身法の力を甲冑としてまとう正統な行者は何ものを相手にしても淡々としており、何ものにも怯えません。
気持が悪くなったり怯えたりしたら勝負は負けに決まっています。
だから、第三者の目から見れば、特殊な場合を除けば、何ら〈それらしい〉ところがないままに、修法は終わります。
護身法は、自分自身へ結界を張るものであり、隠形流の行者は迷わず、惑わされず、ただただ素直に伝授を信じ、励みましょう。
まず、きちんと自分の身を護られればこそ、いかなる亡者をも安心の世界へ導くことができます。
泳げない人は、溺れている人を救うことはできないのです。
11 念力ではなく法力でことを行うのが仏法を信ずる行者の務めである。
念ずることにおいて制限はなく、その内容は、善であったり悪であったりします。
なぜなら、誰でも勝手にできるからです。
しかし、法を結ぶことは、決して勝手にできはしません。
なぜなら、法力を動かせる行者からしか法力は受け継がれないからです。
だから、お大師様は、法の伝授は「器から器へ移すようなものである」と説かれ、弟子が密教を伝授されるべき器であるかどうかを見極めるのが、師となる者の大事な仕事です。
そして、受け継がれたものは、正しい修行方法によって正しく行者の血肉にならなければ決して生きません。「知った」だけになってしまい、宝は持ち腐れとなります。
法力によって事態が動いたからといって驚く必要はありません。
法力は加持力となっていのち全体へはたらきかけており、たとえ目立たないとしても心が変化していることは、何よりも大きなできごとなのです。
修法の場を体験された方が、「霧が晴れました」「心が軽くなりました」「前へ進めそうな気持になりました」などと述懐されるとおりです。
なお、仏法において「念ずる」とは、心へしまい込むべきものをきちんとしまい、努々(ユメユメ)疎かにせず、決して離さないことを意味します。
釈尊は、それを「正念(ショウネン)」と説かれました。
行者の心得 その3
9 切っ先を飛ばすように剣を振るのは、摩利支天法だからである。
竹刀で〈打つ〉場合は切っ先三寸の速さを競いますが、真剣でモノを〈斬る〉場合は、円運動を意識した動きになります。
そうでないと剣が対象物に食い込んでしまうからです。
しかし、当流の基本は、真剣と形、重さ共にそっくりな模造刀を用いるにもかかわらず、切っ先をもってイメージした線を描きます。
それは、摩利支天(マリシテン)の隠形法をによって不動明王の力を動かし、魔除け開運を行うからです。
当流で唱える『不動尊剣功徳の文』です。
私たちの仏心もまた、何ものにも破壊されません。
自分を始め、何か大切なものを悪しきものから守りたい時は、合掌して(左手は自分、右手はご本尊様です)真言を唱えましょう。
「おん あにちや まりしえい そわか」
日天の威光と同化して陽炎のようになれば、もはや、何ものからも害されません。
心して祈りましょう。
竹刀で〈打つ〉場合は切っ先三寸の速さを競いますが、真剣でモノを〈斬る〉場合は、円運動を意識した動きになります。
そうでないと剣が対象物に食い込んでしまうからです。
しかし、当流の基本は、真剣と形、重さ共にそっくりな模造刀を用いるにもかかわらず、切っ先をもってイメージした線を描きます。
それは、摩利支天(マリシテン)の隠形法をによって不動明王の力を動かし、魔除け開運を行うからです。
当流で唱える『不動尊剣功徳の文』です。
又、密教経典には、こう説かれています。「この剣(ツルギ)には一々諸神をこもらせ給ふ。
切っ先は大摩利支天(マリシテン)、焼刃(ヤキバ)は倶利伽藍(クリカラ)龍王、鍔の丸さは日月を表し」
摩利支天は又の名を威光菩薩と申し上げ、その神徳は測ることができず、水に流されず、火にも焼かれません。「日の前に天有り。摩利支天と名づく。大神通自在の法あり。
常に日の前に行き、日、彼を見ず、彼、日を見る。
人よく見ることなし。人よく知ることなし。人よく捉えることなし。人よく害することなし」
私たちの仏心もまた、何ものにも破壊されません。
自分を始め、何か大切なものを悪しきものから守りたい時は、合掌して(左手は自分、右手はご本尊様です)真言を唱えましょう。
「おん あにちや まりしえい そわか」
日天の威光と同化して陽炎のようになれば、もはや、何ものからも害されません。
心して祈りましょう。
行者の心得 その2
5 信と解(ゲ)がそろってこそ仏法が活きる。
仏法における「信心」とは、仏宝(み仏)、法宝(教えと法力)、僧宝(仏法を学び、実践し、寺院を守る人)へ帰依するすなおな心です。
しかし、それだけでは、み仏の世界への入り口を開いて一歩入っただけのことであり、きちんと歩むためには、理解と実践が不可欠です。
ただし、この場合の理解とは、今の時代を動かす理屈を尺度にするだけの狭い理性に頼るのではなく、教えの心髄に迫ってそれをつかむことです。
それには、正しく学び、施しであれ、忍耐であれ、具体的な行動を起こさねばなりません。
行動の伴わない理解は空想や机上の空論に堕する危険性があります。
仏法における理解と実践とは、「タマゴとニワトリ」のようなものであり、一人の人間が真摯に生きている真実の両面です。
それを「解」といいます。
6 煩悩を捨てるのが仏法ではない。
せっかくみ仏から授かった生命力のまっとうな使い方を知らないばかりに、それが煩悩となり、苦をもたらします。
如来の智慧によって生命力の使い方を正しく学べば、煩悩など、どこにもなくなります。
それは陽炎のようなものであり、迷いがもたらした幻だったことが解ります。
たとえば、とんでもない暴れ者だった少年が、ふとしたきっかけでとてつもない善行を行い、別人のような成長を見せて過去を知っている人びとがびっくりするといった例は少なくありません。
ちなみに、空(クウ)の教えを説いた龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は、若い頃、透明人間になる法を用いるなどしていたずらの限りを尽くしましたが、後に改心し、菩薩と称されるまでになりました。
煩悩を敵視して幻を相手に格闘するだけでなく、断固として身・口・意を教えに従わせ、生命力を燃焼させ、爆発させましょう。
7 すべてのものごとは、学び実践する縁となってくださる。
善きものを見たなら、「自分もああしよう」と元気をだし、子供は、大人がそのように実践する姿をもって導きましょう。
悪しきものを見たなら、「ああしてはいけない」と自省し、断じて行わず、子供は、大人がそのように実践する姿をもって導きましょう。
この世にむだなものは何一つありません。
心のありよう一つで、善も悪も、すべてが導きとなります。
大日如来の徳が展開してこの世がある以上、当然です。
8 皆で一緒に行うのは能力を高め、心を広くするためである。
隠形流という一つの世界へ入って一緒に行うと、一人の力がいつもの何倍も出るものです。
それが集まり全体となって出た力は足し算を超えます。
これまで何回かとりあげた渡り鳥の物語『すべてを超える翼』の真実です。
また、周囲へ合わせるのは、心にゆとりを持つ訓練になります。
他へ合わせられなければ、心が狭くなり、周囲の人びとへ心を開かせなくもなりましょう。
他へ合わせて我を捨てる稽古を重ね、自分本位の姿勢を正すことが大切です。
仏法における「信心」とは、仏宝(み仏)、法宝(教えと法力)、僧宝(仏法を学び、実践し、寺院を守る人)へ帰依するすなおな心です。
しかし、それだけでは、み仏の世界への入り口を開いて一歩入っただけのことであり、きちんと歩むためには、理解と実践が不可欠です。
ただし、この場合の理解とは、今の時代を動かす理屈を尺度にするだけの狭い理性に頼るのではなく、教えの心髄に迫ってそれをつかむことです。
それには、正しく学び、施しであれ、忍耐であれ、具体的な行動を起こさねばなりません。
行動の伴わない理解は空想や机上の空論に堕する危険性があります。
仏法における理解と実践とは、「タマゴとニワトリ」のようなものであり、一人の人間が真摯に生きている真実の両面です。
それを「解」といいます。
6 煩悩を捨てるのが仏法ではない。
せっかくみ仏から授かった生命力のまっとうな使い方を知らないばかりに、それが煩悩となり、苦をもたらします。
如来の智慧によって生命力の使い方を正しく学べば、煩悩など、どこにもなくなります。
それは陽炎のようなものであり、迷いがもたらした幻だったことが解ります。
たとえば、とんでもない暴れ者だった少年が、ふとしたきっかけでとてつもない善行を行い、別人のような成長を見せて過去を知っている人びとがびっくりするといった例は少なくありません。
ちなみに、空(クウ)の教えを説いた龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は、若い頃、透明人間になる法を用いるなどしていたずらの限りを尽くしましたが、後に改心し、菩薩と称されるまでになりました。
煩悩を敵視して幻を相手に格闘するだけでなく、断固として身・口・意を教えに従わせ、生命力を燃焼させ、爆発させましょう。
7 すべてのものごとは、学び実践する縁となってくださる。
善きものを見たなら、「自分もああしよう」と元気をだし、子供は、大人がそのように実践する姿をもって導きましょう。
悪しきものを見たなら、「ああしてはいけない」と自省し、断じて行わず、子供は、大人がそのように実践する姿をもって導きましょう。
この世にむだなものは何一つありません。
心のありよう一つで、善も悪も、すべてが導きとなります。
大日如来の徳が展開してこの世がある以上、当然です。
8 皆で一緒に行うのは能力を高め、心を広くするためである。
隠形流という一つの世界へ入って一緒に行うと、一人の力がいつもの何倍も出るものです。
それが集まり全体となって出た力は足し算を超えます。
これまで何回かとりあげた渡り鳥の物語『すべてを超える翼』の真実です。
また、周囲へ合わせるのは、心にゆとりを持つ訓練になります。
他へ合わせられなければ、心が狭くなり、周囲の人びとへ心を開かせなくもなりましょう。
他へ合わせて我を捨てる稽古を重ね、自分本位の姿勢を正すことが大切です。
行者の心得 その1
1 隠形流居合は身体全体を用いて行うヨガであり、大きくうねる能力を創ります。
それに密教の印明が加われば精妙な能力が創られ、行の目的は達成されます。
ヨガは鍛える練行、印明を伴って本行になります。
これが老若男女を問わず実践できる理由であり、根本は守本尊法です。
昔は、武道者の多くが神社などで願をかけて難行に励んだものです。
身体は親から授かったものであり、技も誠心と工夫によって仏神から授かりますが、自分の決心なくして人間性の完成をめざす菩提心(ボダイシン)に生きることはできません。
守本尊様に帰依し、霊性を高める修行に励みましょう。
2 守本尊様と一体になる修行は、身心を整えてから行いましょう。
寝不足で頭がボンヤリしていたり、不摂生で体調が狂っていたりしては、形をなぞるだけになってしまいます。
たとえ頑健な身体でなくとも、きちんと自分管理を行い心を定めてから行えば良いのです。
まじめに準備し、心を清浄で偏らない状態にすれば、必ず守本尊様のお力をいただけます。
3 偏食は行者の敵です。
自分の好みでしか食べなければ、私たちを養ってくれるいのちの世界と円満な感応ができません。
それは、文殊菩薩のおられる東へは行くが、不動明王のおられる西へは足が向かないというのと同じです。
偏りを離れ、小さな分別を離れて大きく和する心になれば、八方天地十方世界と感応し、能力が開発されます。
もしも、やむを得ぬ身体的条件のある方は、その部分を守る守本尊様のお力をいただいて補いながら進みましょう。
4 すべての始まりは善悪の区別です。
ものごとの始まりを司る鬼門、北東におられる虚空蔵菩薩は、是非・善悪・虚実を見極める智慧の力を授けてくださいます。
居合も虚空蔵菩薩の剣から始まります。
善悪の判断を第一とし、十尊の十力(ジュウリキ)を学んで第十までの智慧を円満に磨き、和の世界を創るのが当流です。
この「和」こそが、あらゆる財物の中で最上のものです。
だから、極楽とは、和が平らかに実現されている「平和な世界」なのです。
ただし、これがすべてではありません。
心の世界が見たり聞いたりして動く表面の五つだけでなく、自分という意識があり、潜在意識や深層意識があり、そして仏心の世界へ入る扉があるように、心の修行は無限です。
「この神様だけで良い」「この仏様だけで良い」「この経典だけで良い」という姿勢は、根本的に「和」と反するものです。
円満に学び、和し、らせん階段を登るように無限の向上を続けたいものです。
それに密教の印明が加われば精妙な能力が創られ、行の目的は達成されます。
ヨガは鍛える練行、印明を伴って本行になります。
これが老若男女を問わず実践できる理由であり、根本は守本尊法です。
昔は、武道者の多くが神社などで願をかけて難行に励んだものです。
身体は親から授かったものであり、技も誠心と工夫によって仏神から授かりますが、自分の決心なくして人間性の完成をめざす菩提心(ボダイシン)に生きることはできません。
守本尊様に帰依し、霊性を高める修行に励みましょう。
2 守本尊様と一体になる修行は、身心を整えてから行いましょう。
寝不足で頭がボンヤリしていたり、不摂生で体調が狂っていたりしては、形をなぞるだけになってしまいます。
たとえ頑健な身体でなくとも、きちんと自分管理を行い心を定めてから行えば良いのです。
まじめに準備し、心を清浄で偏らない状態にすれば、必ず守本尊様のお力をいただけます。
3 偏食は行者の敵です。
自分の好みでしか食べなければ、私たちを養ってくれるいのちの世界と円満な感応ができません。
それは、文殊菩薩のおられる東へは行くが、不動明王のおられる西へは足が向かないというのと同じです。
偏りを離れ、小さな分別を離れて大きく和する心になれば、八方天地十方世界と感応し、能力が開発されます。
もしも、やむを得ぬ身体的条件のある方は、その部分を守る守本尊様のお力をいただいて補いながら進みましょう。
4 すべての始まりは善悪の区別です。
ものごとの始まりを司る鬼門、北東におられる虚空蔵菩薩は、是非・善悪・虚実を見極める智慧の力を授けてくださいます。
居合も虚空蔵菩薩の剣から始まります。
善悪の判断を第一とし、十尊の十力(ジュウリキ)を学んで第十までの智慧を円満に磨き、和の世界を創るのが当流です。
この「和」こそが、あらゆる財物の中で最上のものです。
だから、極楽とは、和が平らかに実現されている「平和な世界」なのです。
ただし、これがすべてではありません。
心の世界が見たり聞いたりして動く表面の五つだけでなく、自分という意識があり、潜在意識や深層意識があり、そして仏心の世界へ入る扉があるように、心の修行は無限です。
「この神様だけで良い」「この仏様だけで良い」「この経典だけで良い」という姿勢は、根本的に「和」と反するものです。
円満に学び、和し、らせん階段を登るように無限の向上を続けたいものです。
枕をおさえる
宮本武蔵は『五輪書(ゴリンノショ)』に書きました。
私が兵法を会得した自覚があってから、敵と渡り合う場面では、相手が自分の意図する動きに入らぬうちにそれを察知し、相手がこちらを打(ウ)とうとする「う」の字の瞬間、こちらの技をもって制圧してしまい、相手の意図する動きを事前に封じる心がはたらくようになった。
これが「枕を抑える」という心である)
何ごとにつけても、熟練した者の行うことは、こせこせチマチマしていないものである)
枕を抑えるという心ができていれば、何ごとにつけても遅れをとるものではない。
また、人がやたらと急ぐ場合などは、あえて平静になり、他人の動きに引きずられないことが肝要である)
宮本武蔵は、枕の抑えについて
「このようにはたらく心をつくれば、敵を打っても吉(ヨシ)、敵の懐へ飛び込んでも吉(ヨシ)、打ちかかってくる剣を外しても吉(ヨシ)、先手を打っても構わない。
どのような場面でも自在に対処できる。
よくよく鍛錬せよ」
と念を押しています。
こうも書きました。
「深い道理をつかもうとして朝から夕まで鍛錬してみた結果、五十歳の頃、いつの間にか兵法の神髄を会得していた。
その後は、さらに奧へ進む道はなくなり、日々が過ぎている」
バッハとベートーベンの違いは、泉と奔流に例えられましょうか。
目に見えぬ深層海流があってはじめて親潮や黒潮が生じ、マグロやイワシが生命の饗宴を演じられます。
「最奧」の境地はこうした「最深」の境地でもありましょう。
それにしても考えさせられるのは、確かに「そうか!」「そうだったのか……」と解る瞬間はあるものですが、それは、そうした形で「気づいた」ということであって、達成は知らぬ間になされていたということです。
もしも、宮本武蔵が階段を一段づつ登るように同じテンポで上達していたのであれば、未熟な時点できっと上手(ウワテ)の相手に負けていたはずです。
求道のどこかで、異次元へワープしてしまうような飛躍があったに違いありません。
飛躍の前に凄腕の兵法者との勝負がやってこなかったことは、彼の強運でしょう。
飛躍の後は上達とはいっても異次元にあるステージ上のできごとであり、そのステージを知らぬ兵法者は束になってかかっても勝負にならなかったと推測されます。
異次元の存在をありありとを感じさせ、天皇すらもひれ伏さないではいられなかったお大師様の修法。
宮本武蔵の達した次元に思いを馳せる時、一気にステージを替える「即身成仏」法に入っておられるお大師様のお姿がだぶります。
(「枕を抑える」とは、こういうことである。枕をおさゆるといふは、我(ワレ)実(マコト)の道を得て敵にかゝるあふ時、敵何ごとにてもおもふ気ざしを、敵のせぬ内に見知りて、敵のうつといふうつのうの字のかしらをおさへて、跡をさせざる心、是枕をおさゆる心也
私が兵法を会得した自覚があってから、敵と渡り合う場面では、相手が自分の意図する動きに入らぬうちにそれを察知し、相手がこちらを打(ウ)とうとする「う」の字の瞬間、こちらの技をもって制圧してしまい、相手の意図する動きを事前に封じる心がはたらくようになった。
これが「枕を抑える」という心である)
(最も上達した者がふるう剣は、ゆったりしているように見えながら、描くべき軌跡をきちんと作って動き、隙がない。最も上手のする事は、緩々(ユルユル)と見へて、間のぬけざる所也。
諸事しつけたるもののする事は、いそがしく見えざる物也
何ごとにつけても、熟練した者の行うことは、こせこせチマチマしていないものである)
(早く早くと急ぐのは悪い心である。はやくいそぐ心わろし。
枕をおさゆるといふ心にては、少しもおそき事はなき也。
亦(マタ)人のむさとはやき事などには、そむくといひて、静かになり、人につかざる所肝要なり。
枕を抑えるという心ができていれば、何ごとにつけても遅れをとるものではない。
また、人がやたらと急ぐ場合などは、あえて平静になり、他人の動きに引きずられないことが肝要である)
宮本武蔵は、枕の抑えについて
「このようにはたらく心をつくれば、敵を打っても吉(ヨシ)、敵の懐へ飛び込んでも吉(ヨシ)、打ちかかってくる剣を外しても吉(ヨシ)、先手を打っても構わない。
どのような場面でも自在に対処できる。
よくよく鍛錬せよ」
と念を押しています。
こうも書きました。
「深い道理をつかもうとして朝から夕まで鍛錬してみた結果、五十歳の頃、いつの間にか兵法の神髄を会得していた。
その後は、さらに奧へ進む道はなくなり、日々が過ぎている」
バッハとベートーベンの違いは、泉と奔流に例えられましょうか。
目に見えぬ深層海流があってはじめて親潮や黒潮が生じ、マグロやイワシが生命の饗宴を演じられます。
「最奧」の境地はこうした「最深」の境地でもありましょう。
それにしても考えさせられるのは、確かに「そうか!」「そうだったのか……」と解る瞬間はあるものですが、それは、そうした形で「気づいた」ということであって、達成は知らぬ間になされていたということです。
もしも、宮本武蔵が階段を一段づつ登るように同じテンポで上達していたのであれば、未熟な時点できっと上手(ウワテ)の相手に負けていたはずです。
求道のどこかで、異次元へワープしてしまうような飛躍があったに違いありません。
飛躍の前に凄腕の兵法者との勝負がやってこなかったことは、彼の強運でしょう。
飛躍の後は上達とはいっても異次元にあるステージ上のできごとであり、そのステージを知らぬ兵法者は束になってかかっても勝負にならなかったと推測されます。
異次元の存在をありありとを感じさせ、天皇すらもひれ伏さないではいられなかったお大師様の修法。
宮本武蔵の達した次元に思いを馳せる時、一気にステージを替える「即身成仏」法に入っておられるお大師様のお姿がだぶります。


