宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

十善戒の歌11 ―不邪見(フジャケン)―

みにかげの はなれぬがごと よしあしの わざのおしへの なかるべしやは


(身に影の 離れぬがごと 善し悪しの 業の教えの 無かるべしやは)

 邪見とは、邪(ヨコシマ)な見解です。
 ここで言う邪は善悪の悪とはちょっと異なり、道理に反すること、あるいは道理を無視することを指します。
 その最たるものが「善因善果、悪因悪果」の因果応報を信じない気まま勝手な考え方です。
 邪見にとらわれているうちは、仏縁が結べません。

 たとえば、「バレなければ良い」といった考え方をしていれば、たやすく殺し、盗み、嘘を言うようになります。
 あるいは、「この世は、所詮、運次第さ」といった考え方をしていれば、正しい見解に基づいた正しい目的のために正しい手段を考え、精進し、結果に責任を持つといったまっとうな生き方ができなくなります。

 その反対に、「この世に起こるできごとは、皆、宿命付けられている」といった考え方をしていれば、因果の糸を結ぶ力が弱くなって真の創造力がはたらかず、都合の悪いことは自分でなく他のせいにしてしまう生き方になります。

 仏法における正しい見解は以下のとおりです。

1 原因には必ず結果が伴う。
2 因果応報の理は真理であり、その連鎖は、無限の過去から、無限の未来まで続いている。
3 無明煩悩がありまだ未完成な人間は、原因と結果の糸をすべて確認することは不可能である。
4 善行の結果が、いつどのような形であれ必ず出ると信じて善行にいそしみ、悪行の結果が、いつどのような形であれ必ず出ると信じて悪行は行わない。


 仏法の入り口はここしかありません。
 ここから入って初めて、「如実知自心(ニョジツチジシン…自分自身の心の実相を正しく知る)」が可能になります。
 自心とは心の全体であり、『大日経』は、「心は内に在らず、外に在らず」と説いています。
 心を離れた自分も宇宙もなく、私たちは、自分であれ、他人であれ、社会であれ、この世であれ、あの世であれ、すべては心を通してしか認知できません。
 だから、最近の科学においては、「観る」ことによってしか観察は成り立たず、しかも「観る」行為は必ず「観られる」対象へ何らかの影響を与えずにはおかないので、私たちは「外界そのもの」を知られないのではないか、外界は推察しかできないのでないかという考え方になっています。

 しかも、心は奥底で人間とも自然とも通じており、そのレベルへ入れば、「自分と世界」も、「自分と他人」もありません。
 祈りが通じるとは、こうした次元のできごとです。

 
 日常生活における私たちの心象風景は、雲間から時折陽光が差す光景のようなものです。
 無明煩悩という厚い雲にさえぎられた暗い心で悪行を行い、陽光に導かれた明るい心で善行を行い、悲喜こもごも、喜怒哀楽転変極まりない毎日を過ごしています。
 しかし、飛行機に乗って雲を突き抜ければ、もう雲の影響はなく、そこに広がる宇宙が心の本体であり、「自心」の真姿でもあります。

 真実を求める決心が飛行機に乗ることであり、諦めないで上昇を続けるしか、真実を正しく知る方法はありません。
 雲の向こう側をきちんと観たかどうかを判断する方法は三つあります。

1 ありのままに観ているかどうか。
2 価値判断が逆さまになっていないかどうか。
3 極論、極端に走らないかどうか。


 因果応報を信じて仏法に導かれ、邪見の人、邪慳な人にならぬようにしましょう。
 不邪見戒を生きましょう。

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十善戒の歌10 ―不瞋恚(フシンニ)―

ちりばかり いからでしのべ しのびなば やまよりたかく とくはつもらん
(塵ばかり 怒らで忍べ 忍びなば 山より高く 徳は積もらん)

 怒りが自分へのとらわれや高慢心によって生ずることは以前、書きました。
 また、カッと頭に来る赤鬼、ウヌッと恨む青鬼、腹の底に憎しみがとぐろを巻く黒鬼のことも書きました。
 それらを退治する方法として、川の水に相手の名前を書いたり、砂浜に書いた相手の名前が寄せる波で消えるのを見たりすることも書きました。
 今回は、怒りを徳とする明王について述べます。

 怒りといえば不動明王です。
 不動明王は奴隷の姿で私たちを下から持ち上げ頭上の蓮華へ乗せてお救いくださる方であり、密教行者の理想ですが、怒っておられるのは、優しく教えていただいただけでは必ずしも正しく行動できないのが私たちの常だからです。
 それは、小さな子供へしつけをするために親が叱るようなものであって、憤怒は、「まだ解らないのか」と悲しみつつ怒る慈悲の極地を示しています。
 
 不動明王は不動使者とも申し上げ、大日如来の使者として私たちを危険な道へ進まぬようお導きくださいます。
 若者のようなはつらつとしたお姿でおられるのは、最初に迷いを解き放ってくださるためであり、どうしても悟れぬ者を最後に救うのが老年者のお姿になった降三世明王(ゴウザンゼミョウオウ)です。
 三世とは、時間的には過去・現在・未来であり、世界的には欲望世界・物質世界・精神世界であり、迷いの根本原因としては貪・瞋・癡であり、要は「どんな人をももらさずに」迷いを降伏してくださるのです。

 降三世明王は、両足でそれぞれ夫と妻を踏みつけています。
 夫は世界を支配する神でマケイシュラといい、私たちがそれによって支配されている煩悩の障りを表しています。
 妻はウマー妃といい、私たちが周囲のものをありのままに知ることのできない無知の障りを表しています。
 また、マケイシュラは感情的な怒りを、ウマー妃は果てしない貪りを象徴するものでもあり、それらを踏みつぶそうとしている降三世明王は、まさに「叱ってくれる親」そのものです。
 なお「踏みつぶそうとしている」だけなのは、大日如来が、明王の叱責によって改悛した夫婦を苦からお救いくださったからです。
 いのちのはたらきが誤った形で表れれば我欲、清浄な形で表れれば大欲(タイヨク)としていのちの勢いを尊び、悪神をもマンダラから追い出さずに救い尽くす密教らしさが感じられます。

 私たちは、マケイシュラに支配されて煩悩に流され、感情的に怒っては自他を傷つけ苦しめてはいないか、ウマー妃に支配されて真実を観ず、自分だけを大事にして醜く貪ってはいないか、自戒したいものです。
 また、明王様に叱ってくれる親の恩を観、至心に合掌して懺悔し、帰依し、不瞋恚戒に生きたいものです。


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十善戒の歌12 ―弘法大師の十善戒―

「十善戒の歌9 ―不慳貪―」を読んだ方から、お大師様の説いた十善戒についてもっと知りたいというご希望があり、簡単に書いておきます。

 十善戒そのものを説く前に、このような一節があります。

「諸仏・如来、この大慈悲、勝義(ショウギ)、三摩地(サンマジ)をもって戒となし、時としてしばらくも忘るることなし。何が故にこれをもって戒と名づくるや。戒に二種あり。一には毘奈耶(ビナヤ)、これ調伏(チョウブク)と翻ず。二には尸羅(シラ)、翻じて清涼寂静という」

(あらゆるみ仏、如来様は、大慈悲、勝義、三摩地の心をもって戒とし、一時も忘れることはない。なぜこの三種の心を戒と名づけるかといえば、戒には二つの種類があり、一つには毘奈耶すなわち悪しきものを調伏する「律」であり、二には尸羅すなわち澄み切って穏やかな清涼寂静の「戒」である)

「大慈悲」とは、恩を忘れず、他を先にし己を後にして、人々へ苦を抜き楽を与える心です。

「勝義」とは、より深く、より高い真理を求めて止まぬ深い智慧のはたらく心です。

「三摩地」とは、修行によって、迷いをもたらす無明(ムミョウ)が明智となり、心身を悩ます毒薬は良薬となり、み仏方にお会いできる境地のことです。



 お大師様にとっての戒律とは、煩悩を一つづつ潰して行こうとする努力目標ではなく、み仏の悟りの世界にある「悪しきものが生ぜず、清らかな状態」を示すものです。

 私たちは、自分が本来み仏であることに気づきさえすれば、戒律は自(オノズ)ずから明らかになります。
 この「気づき」をもたらすのが、即身成仏の修行であり、修法です。

 さて、十善戒です。

1 一切の衆生を観るに、なおし己身(コシン)及び四恩(シオン)の如し、このゆえにあえてその身命を殺害せず。
2 衆生を観ることなおし己身の如し、ゆえにあえてその所有の財物を奪盗(ダットウ)せず。
3 衆生を観ることなおし四恩の如し、ゆえにあえて凌辱汗穢(リョウジョクカンオ)せず。
4 衆生を観ることなおし己身と四恩の如し、ゆえにあえて欺誑(ギオウ)せず。
5 衆生を観ることなおし己身と四恩の如し、ゆえにあえて麁悪語(ソアクゴ)をもって罵詈(メリ)せず。
6 衆生を観ること己身と四恩の如し、ゆえにあえて離間(リカン)せず。
7 衆生を観ること己身と四恩の如し、ゆえにあえて綺語(キゴ)せず。
8 衆生を観ること己身と四恩の如し、ゆえにあえて所有(ショウ)の財色(ザイシキ)を貪求(トング)せず。
9 衆生を観ること己身の如し、ゆえにあえて前人(ゼンニン)を瞋恚(シンニ)せず。
10 衆生を観ること己身の如し、ゆえにあえて愚癡(グチ)の心行(シンギョウ)を起こさず。

 生きとし生けるものは皆、恩のある相手であり、み仏のいのちを分け合っている存在は本質的に自分と同じなので、誰かを傷つける悪しき行為はできません。 
 恩人であり、自分でもある存在を殺せましょうか。
 自分で自分の持ち物を盗むということもあり得ません。
 このように、ひとりでに、悪しき行為を行わせる悪しき心を離れてしまうので、「調伏」と言います。
 そして、悪しき心がなくなれば、澄み切って穏やかな心境が現れるので「清涼寂静」と言うのです。
 十善戒は、いつの日か実現するかも知れない遙かな理想ではなく、私たちそのものにすでに授かっている仏性の表れです。
 即身成仏をめざし、十善戒に生きたいものです。

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十善戒の歌9 ―不慳貪―

さくをまち ちるをばおしむ くるしみは はなほりうへし とがとこそしれ
(咲くを待ち 散るをば惜しむ 苦しみは 花掘り植えし 咎とこそ知れ)

 花の咲く時期が来れば、〈いつ咲いてくれるだろうか〉と気になり、寒い日が続いたりすると、〈ああ、なかなか咲かないなあ〉と気にかけます。
 そして、咲いた後は、ちょっとした風が吹いても、〈せっかく咲いたのに、もう散ってしまう〉と残念に思います。
 こうした気がかりは、すべて、自分で花をつける植物を植えたからこそ発生しており、自分の心がもたらすものであって、気温のせいにするのも、風のせいにするのも「お門違い」というものです。
 
 しかし、咲いた花の佳さを無心に楽しみ、散り行く佳さもまた楽しむ境地には、なかなかなれるものではありません。
 また、花を植え、美しい花を家族や友人と楽しみたいと願う心に曇や穢れはありません。
 そして、ものごとに意欲的な青年や壮年の人々に達観した心を求めるのは、土台、無理な話です。
 ならばどう考え、何を理想とすべきなのでしょうか。

 お大師様は、こう説かれました。
「衆生を観ること己身(コシン)と四恩の如し。ゆえにあえて所有(ショウ)の財色(ザイシキ)を貪求(トング)せず」
(他人と自分を澄んだ眼で観ると、いずれもみ仏のいのちと心をいただいている者として何の違いもない。
 また、他人は、あるいは平穏な社会をもたらす統治者であり、あるいは現世や過去世の父母であり、あるいは輪廻転生しながら他のいのちを養う生きものであり、あるいは、仏法僧として導いてくれる三宝であって、四恩(シオン)をもたらさぬ人は一人もいない。
 だから、他人の持っているものを見て自分も欲しがる心は起こらない)

 修行によって大楽(タイラク)の心になれば、財物を持って裕福な暮らしをしている人の喜びも、健康なスポーツマンの喜びも、もてる美人の喜びも、散歩を楽しむお年寄りの喜びも、あるいは日向ぼっこを楽しむネコの喜びも、皆、自分自身の喜びであって、世に満ちるそうした喜びに囲まれていれば、あえて「自分の」喜びを貪ろうなどという気持にはなりません。
 もしも喜びをもたらすものを必要と感じるならば、必ず「自他のために」という思いが根本にあるはずです。
 そこから出る真の意欲こそが大欲(タイヨク)です。
『理趣経』が、大欲を清浄と説くのはこうした理であり、当山が「法灯に因り法友と共に法楽に住せん ―み仏の教えに導かれ、仏たる我らみな共に、喜びの世を生き抜かん―」と願っているのは、この世界を求めているからです。

 欲を敵視し、欲のない人間になろうとするのは現実逃避であり、責任回避であり、恩知らずであり、もったいない人生となりましょう。
 正しい「知足(チソク)」とは、〈もう、これで良いや〉という諦めでも、居直りでも、逃避でもありません。「自分だけの」ものなどは、いかほども必要ないことを知る心です。
「自他のために」なら、安全な食品であれ、より高い医療技術であれ、子供を正しく導く方法であれ、五種供養の意義を知ることであれ、霊性の向上であれ、必要なものは果てしなくあるではありませんか。
 大いなる意欲を持ち自他のために未来を切り拓こうとしてこそ、霊性は磨かれます。

 不慳貪の扉を開き、大楽と大欲の世界をめざしましょう。


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十善戒の歌8 ―不両舌―

とにかくに あしくいひもて あしがきの なかをへだつる ことぞいやしき
(とにかくに 悪しく言いもて 葦垣の 中を隔てつる 言ぞ卑しき)

「慈悲」という言葉は、「慈」と「悲」から成っています。
「慈」の原語マイトリは、ミトラ(友情)の抽象名詞です。
 いわば最高の友情が「慈」であり、人々へ楽を与えたいという「与楽(ヨラク)」の心とされています。
「悲」の原語カルナーは、衆生の悲しみを共にすることです。
 悲しんでいる人のそばにそっと寄り添い、悲しみを和らげたいという「抜苦(バック)」の心とされています。

 こうしてみると、慈悲の根本には、他人を「他人だから」と突き放さず、人々はもちろん生きとし生けるものは皆いのちを分かち合っている友であるという姿勢があります。
 自分と無関係ないのちは、どこにもありません。
 
 仏法における「唯願わくば慈悲をもって哀れみを垂れたまえ」という祈りの文は、サンスクリット語の「どうぞ」に発します。
 考えてみれば「どうぞ」には浅からぬ意味があります。
 仏神へ「どうぞ、この病気を治してください」と祈る場合は、自分の幸せを求めており、誰かへ「どうぞ、どうぞ」と勧めたり承諾の返事をする時は、相手へ幸せを与えようとしています。

 良かれと思う純粋で強い気持が起こった時、私たちは「どうぞ」と言うようです。
 そこに、自他を分ける分別はありません。自分が自分にとってかけがえのない存在であるならば、他人も同じくかけがえのない存在なのです。
 この「存在」を友というのではないでしょうか。

 自分可愛さや誰かを貶めようとする憎しみなどから相手によって使い分ける二枚舌は、慈悲心すなわち仏心に背く醜いものです。
 僧月照は「二枚舌は、寄り添い合って生きている葦たちをバラバラにして枯れさせるような卑しいものである」と説き、慈雲尊者は「交友を尊び、二枚舌を離れよ」と説かれました。
 不両舌戒を守り、誠の道を生きたいものです。

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