真の除災招福
「除災招福」とは、災いを除き、福を招くことです。
当病平癒であれ、受験合格であれ、世界平和であれ、あらゆる祈りの目的はこの一点にあります。
祈りが具体的な対象を持った時、帰依が起こります。
もしも、お不動様を信じて願いをかけたなら、それはお不動様へ帰依したことになります。
不動明王は「仏」、不動明王のお力は「法」、不動明王へお仕えし修法するのは「僧」ですから、仏法僧へ帰依したことにもなります。
では、結果はどうか。
もちろん、動脈瘤が消えたとか、とうてい無理だろうと思っていた試験に合格したとか、すぐに望んでいた結果が出る場合もあり、なかなか願うとおりにならない場合もあります。
それはなぜか。
業(ゴウ)があるからです。
生まれ持った業、そして生きているうちに積んでいる善なる業、悪なる業、これらが現在の運命を創り、運勢に深く関わっています。
帰依するとは善なる業を積むことですが、たとえば今日せっぱ詰まって祈ったからといって、善なる業を溜めた壺がいっぱいになり幸せという結果になってあふれ出るかどうかは、私たち凡夫にの判断できるところではありません。
しかし、確かなのは、帰依という清浄な行為によって、いつかは必ず福徳をもたらす業を積んだことであり、さらに祈りを続ける、あるいは困っている人へ手を差し伸べる、あるいは生きものを助けるなどの善なる業を重ねれば必ず運勢は好転し、人生丸は明るい運命を創る方向へと進むことでしょう。
これが「世俗」という目に見える世界での結果ですが、結果にはもう一つ、別次元のものがあります。
それは、私たちがこの世へ旅立つ時、み仏の世界という故郷から持って来た宝ものである「深い心」における変化です。
実は、帰依した瞬間、もう、救いは始まっています。
仏性という心の扉がはっきりと開かれたからです。
帰依の心が深まるとは、この扉がさらに大きく開かれることであり、中にある無限の福徳が流れ出ることです。
その福徳は、心の浄化であり、心の安定であり、心の勁さです。
こんな例があります。
かねて帰依の心が深かったOさんは、ある日突然、不治の病に罹っていることを知りました。
当初は頭がまっ白になったそうです。
しかし、当山を訪ねて心を定めました。
当病平癒の願をかけ、医師からの宣告期間を超える病魔との戦いの末、端然としてこの世へ別れを告げました。
ご遺族によると「ちょっと近所へでかけてくる」といった感じでしかなく、四十九日が過ぎてもまだ何となく帰ってくるような気持が消えず、遺品の整理などができないそうです。
当病平癒の祈りは病気そのものを消すことはできませんでしたが、祈りつつ死の恐怖という魔ものにうち克った心の見事さは、家族や友人や知人たちへの生きた教えとなり、救いの確かさを示しました。
Oさんが実現した真の除災招福こそが、み仏からもたらされる最高の宝ものであり、祈りの結果としてこれ以上のものはありません。
それは、生苦・老苦・病苦・死苦、あるいは愛別離苦(アイベツリク)などの八苦(ハック)が克服されているからです。
祈りは、必ず苦の根本的な解決へ導きます。
帰依に対するみ仏からのご褒美は確かなのです。
当病平癒であれ、受験合格であれ、世界平和であれ、あらゆる祈りの目的はこの一点にあります。
祈りが具体的な対象を持った時、帰依が起こります。
もしも、お不動様を信じて願いをかけたなら、それはお不動様へ帰依したことになります。
不動明王は「仏」、不動明王のお力は「法」、不動明王へお仕えし修法するのは「僧」ですから、仏法僧へ帰依したことにもなります。
では、結果はどうか。
もちろん、動脈瘤が消えたとか、とうてい無理だろうと思っていた試験に合格したとか、すぐに望んでいた結果が出る場合もあり、なかなか願うとおりにならない場合もあります。
それはなぜか。
業(ゴウ)があるからです。
生まれ持った業、そして生きているうちに積んでいる善なる業、悪なる業、これらが現在の運命を創り、運勢に深く関わっています。
帰依するとは善なる業を積むことですが、たとえば今日せっぱ詰まって祈ったからといって、善なる業を溜めた壺がいっぱいになり幸せという結果になってあふれ出るかどうかは、私たち凡夫にの判断できるところではありません。
しかし、確かなのは、帰依という清浄な行為によって、いつかは必ず福徳をもたらす業を積んだことであり、さらに祈りを続ける、あるいは困っている人へ手を差し伸べる、あるいは生きものを助けるなどの善なる業を重ねれば必ず運勢は好転し、人生丸は明るい運命を創る方向へと進むことでしょう。
これが「世俗」という目に見える世界での結果ですが、結果にはもう一つ、別次元のものがあります。
それは、私たちがこの世へ旅立つ時、み仏の世界という故郷から持って来た宝ものである「深い心」における変化です。
実は、帰依した瞬間、もう、救いは始まっています。
仏性という心の扉がはっきりと開かれたからです。
帰依の心が深まるとは、この扉がさらに大きく開かれることであり、中にある無限の福徳が流れ出ることです。
その福徳は、心の浄化であり、心の安定であり、心の勁さです。
こんな例があります。
かねて帰依の心が深かったOさんは、ある日突然、不治の病に罹っていることを知りました。
当初は頭がまっ白になったそうです。
しかし、当山を訪ねて心を定めました。
当病平癒の願をかけ、医師からの宣告期間を超える病魔との戦いの末、端然としてこの世へ別れを告げました。
ご遺族によると「ちょっと近所へでかけてくる」といった感じでしかなく、四十九日が過ぎてもまだ何となく帰ってくるような気持が消えず、遺品の整理などができないそうです。
当病平癒の祈りは病気そのものを消すことはできませんでしたが、祈りつつ死の恐怖という魔ものにうち克った心の見事さは、家族や友人や知人たちへの生きた教えとなり、救いの確かさを示しました。
Oさんが実現した真の除災招福こそが、み仏からもたらされる最高の宝ものであり、祈りの結果としてこれ以上のものはありません。
それは、生苦・老苦・病苦・死苦、あるいは愛別離苦(アイベツリク)などの八苦(ハック)が克服されているからです。
祈りは、必ず苦の根本的な解決へ導きます。
帰依に対するみ仏からのご褒美は確かなのです。
菩薩になる道 1
「救われる」とは「苦を脱する」ことです。
そのための方法が六波羅密(ロッパラミツ)という修行の実践です。
在家の方も、出家者も、いつ、どこで、誰にでも実行できるのがこの〈菩薩になる道〉です。
ただし、「決心する」というたった一つの条件を満たせばの話です。
それを発心(ホッシン)といいます。
6つある修行の最初に説かれているのが布施です。
この「施し」は、ただ与えるだけではありません。
自分のための行としては、「自分の持っているものや身体への執着心を離れるため」が目的であって、名声を得ようとか、優越感を求めようとか、天国へ生まれ変わろうなどと考えれば正しい修行にはなりません。
他のための行としては、「苦を抜き楽を与えないではいられない心に動かされた純粋な施し」でなければならず、見返りを求める恩着せではなりません。
正しく行えば、4つの福徳が待っています。
物惜しみの心に負けず自分自身で行えば、やがて、他人から手を差し伸べられるようになりましょう。
行う時を過たなければ、やがて、相応の時期に善き目的が達成されましょう。
他を害するものを与えないように気をつけていれば、やがて、自分を護る堅固な財物に恵まれましょう。
苦労をいとわず黙々と他のためになっていれば、やがて、信頼と安心に満ちた人間関係に恵まれましょう。
以上は、因果応報である以上、当然の結果です。
しかし、これらはあくまでも結果であり、み仏がくださるご褒美と考えねばなりません。
ご褒美ですから、それをもらうことが目的とはなり得ません。
もらおうと思えば邪心になり、やがて「いつまでたってももらえない」とか「これしかもらえない」とか「さっぱり通じないから信じられない」といった身勝手な不満を生じる可能性があります。
正しい目的を持って行わなければ正しい修行にはなりません。
ここで注目したいのは、他を害するものを与えないのもまた正しい施しであるということです。
たとえば、子供に教育上好ましからぬものや情報を与えないようにするのは、子供を護ることです。
麻薬や凶器となるものを売らないのは、社会を護ることです。
相手へ傷つける言葉をぶつけないのは、相手の心を護ることです。
こうした尊い行為が積み重なれば、やがては自分が護られるようになるのです。
与えることは優しさの表現ですが、与えるべきでないものは決して与えないのもまた優しさであり、本当に優しく生きるためには智慧も意志も必要であることをチェックしておきましょう。
そのための方法が六波羅密(ロッパラミツ)という修行の実践です。
在家の方も、出家者も、いつ、どこで、誰にでも実行できるのがこの〈菩薩になる道〉です。
ただし、「決心する」というたった一つの条件を満たせばの話です。
それを発心(ホッシン)といいます。
6つある修行の最初に説かれているのが布施です。
この「施し」は、ただ与えるだけではありません。
自分のための行としては、「自分の持っているものや身体への執着心を離れるため」が目的であって、名声を得ようとか、優越感を求めようとか、天国へ生まれ変わろうなどと考えれば正しい修行にはなりません。
他のための行としては、「苦を抜き楽を与えないではいられない心に動かされた純粋な施し」でなければならず、見返りを求める恩着せではなりません。
正しく行えば、4つの福徳が待っています。
物惜しみの心に負けず自分自身で行えば、やがて、他人から手を差し伸べられるようになりましょう。
行う時を過たなければ、やがて、相応の時期に善き目的が達成されましょう。
他を害するものを与えないように気をつけていれば、やがて、自分を護る堅固な財物に恵まれましょう。
苦労をいとわず黙々と他のためになっていれば、やがて、信頼と安心に満ちた人間関係に恵まれましょう。
以上は、因果応報である以上、当然の結果です。
しかし、これらはあくまでも結果であり、み仏がくださるご褒美と考えねばなりません。
ご褒美ですから、それをもらうことが目的とはなり得ません。
もらおうと思えば邪心になり、やがて「いつまでたってももらえない」とか「これしかもらえない」とか「さっぱり通じないから信じられない」といった身勝手な不満を生じる可能性があります。
正しい目的を持って行わなければ正しい修行にはなりません。
ここで注目したいのは、他を害するものを与えないのもまた正しい施しであるということです。
たとえば、子供に教育上好ましからぬものや情報を与えないようにするのは、子供を護ることです。
麻薬や凶器となるものを売らないのは、社会を護ることです。
相手へ傷つける言葉をぶつけないのは、相手の心を護ることです。
こうした尊い行為が積み重なれば、やがては自分が護られるようになるのです。
与えることは優しさの表現ですが、与えるべきでないものは決して与えないのもまた優しさであり、本当に優しく生きるためには智慧も意志も必要であることをチェックしておきましょう。
清める
よく、「こんな自分を清めたい」「清めながら生きて行きたい」「お経を読誦するだけで清められるんでしょうか?」といったご相談を受けます。
「清める」とはどういうことでしょうか?
「自分の悪業が恐ろしい結果を招かないようにしたい」、あるいは「悪いことをしない人間にになって出直したい」といった感じがあることは解ります。
そうした希望は、どういう行動によって叶えられるのでしょうか。
私たちのいのちは〈今〉にしかありません。
昨日の自分は、もう、どこにも存在せず、明日の自分も、まだ不確定です。
しかし、昨日生きていた自分を因として〈今〉の自分がおり、〈今〉いる自分を因として明日の自分が決まります。
だから、清めは、過去と現在と未来の自分に関わらねば達成できません。
過去に対しては、懺悔をすることです。
仏法上の過去は、生まれてからの時間だけを指すのではありません。
過去は、いのちの発生時まで連なっています。
生まれた時はすでに無限の過去の善業も悪業もすべて因縁となって自分に結晶しているので過去を「ここまで」と区切ることはできません。
だから、「無始よりこのかた、貪瞋癡(トンジンチ)の煩悩にまつわれて、身と口と心とに造るところの、もろもろのつみとがを、みな悉く懺悔したてまつる」とみ仏の御前で唱えるのです。
現在に対しては、仏法僧の三宝へ帰依することです。
一時の癒しであれば別ですが、深く自分を省みた場合、業の積み重なった自分は自分を次元的に超えた存在によってしか根源的には救われないことが解ります。
自分の罪業の恐ろしさにおののく時、人間としての不完全さに愕然とする時、何ものかへひれ伏さないではいられない思いが起こります。
そして、み仏へおすがりし、教えと救済力によって愚かさや苦しさから抜け出たいと願い、み仏へ仕えて教えを学び実践している人びとを師とします。
それが帰依です。
礼拝は帰依の表現であり、帰依のない礼拝は自分とみ仏への欺瞞でしかありません。
だから、「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、深く三宝に帰依したてまつらん」と唱えるのです。
未来へ対しては、二度と過ちを犯さないように決心することです。
自分の罪過の恐ろしさに戦慄すれば、絶対にくり返したくないと思うはずです。
誰しもが自分を恐ろしいことろへ投げ入れたいとは思わないはずです。
だから、「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、ひたすら三宝に帰依したてまつり、とこしなえに変わることなからん」と誓い、重ねて「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、十善のみおしえを守りたてまつらん」と唱え、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見」の十善戒をくり返します。
どう生きるかというイメージを明確にします。
ここまで行かなければ、本当に自分の業と向かい合ったとは言えません。
こうして清めを発心(ホッシン)したならば、あとは正しく学び、正しく実践するのみです。
み仏と御霊への供養も、寺院への布施も、経典の読誦や瞑想などによる修行も、そして、日常生活における六波羅密の実践も、すべてが清めの力となります。
道理として理解できたなら、実践するしかありません。
清めという美しい道を歩み始めるかどうか、それを決めるのは自分です。
「清める」とはどういうことでしょうか?
「自分の悪業が恐ろしい結果を招かないようにしたい」、あるいは「悪いことをしない人間にになって出直したい」といった感じがあることは解ります。
そうした希望は、どういう行動によって叶えられるのでしょうか。
私たちのいのちは〈今〉にしかありません。
昨日の自分は、もう、どこにも存在せず、明日の自分も、まだ不確定です。
しかし、昨日生きていた自分を因として〈今〉の自分がおり、〈今〉いる自分を因として明日の自分が決まります。
だから、清めは、過去と現在と未来の自分に関わらねば達成できません。
過去に対しては、懺悔をすることです。
仏法上の過去は、生まれてからの時間だけを指すのではありません。
過去は、いのちの発生時まで連なっています。
生まれた時はすでに無限の過去の善業も悪業もすべて因縁となって自分に結晶しているので過去を「ここまで」と区切ることはできません。
だから、「無始よりこのかた、貪瞋癡(トンジンチ)の煩悩にまつわれて、身と口と心とに造るところの、もろもろのつみとがを、みな悉く懺悔したてまつる」とみ仏の御前で唱えるのです。
現在に対しては、仏法僧の三宝へ帰依することです。
一時の癒しであれば別ですが、深く自分を省みた場合、業の積み重なった自分は自分を次元的に超えた存在によってしか根源的には救われないことが解ります。
自分の罪業の恐ろしさにおののく時、人間としての不完全さに愕然とする時、何ものかへひれ伏さないではいられない思いが起こります。
そして、み仏へおすがりし、教えと救済力によって愚かさや苦しさから抜け出たいと願い、み仏へ仕えて教えを学び実践している人びとを師とします。
それが帰依です。
礼拝は帰依の表現であり、帰依のない礼拝は自分とみ仏への欺瞞でしかありません。
だから、「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、深く三宝に帰依したてまつらん」と唱えるのです。
未来へ対しては、二度と過ちを犯さないように決心することです。
自分の罪過の恐ろしさに戦慄すれば、絶対にくり返したくないと思うはずです。
誰しもが自分を恐ろしいことろへ投げ入れたいとは思わないはずです。
だから、「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、ひたすら三宝に帰依したてまつり、とこしなえに変わることなからん」と誓い、重ねて「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、十善のみおしえを守りたてまつらん」と唱え、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見」の十善戒をくり返します。
どう生きるかというイメージを明確にします。
ここまで行かなければ、本当に自分の業と向かい合ったとは言えません。
こうして清めを発心(ホッシン)したならば、あとは正しく学び、正しく実践するのみです。
み仏と御霊への供養も、寺院への布施も、経典の読誦や瞑想などによる修行も、そして、日常生活における六波羅密の実践も、すべてが清めの力となります。
道理として理解できたなら、実践するしかありません。
清めという美しい道を歩み始めるかどうか、それを決めるのは自分です。
わかっちゃいるけどやめられない ―惑・業・苦―
私たちは霊性を持ち、子供の頃から「悪いことをしてはいけない」と教えられ、何が良いことで何が悪いことかは解っています。
「人殺しはやっちゃいけない、他人のものを盗んではいけない、弱い者は助けよう、お米を作ってくださるお百姓さんに感謝しよう」
しかし、つまらぬことで殺人者となり、盗人となり、いじめを行ない、感謝を忘れます。
なぜでしょうか?
それは、「惑(煩悩)」があるからです。
ゾウリムシにとってのこの世は、食べものとそうでないものとの二種類からなっているそうですが、人間もまた、あらゆるものを自分のためのものとそうでないものとに分け、限りなく自分のものにしようとします。
ゾウリムシと同じく、生きものである以上、「食べものでも何でも得て生きたい」という無意識の渇望があるからです。
ここで問題なのは、人間は他の生きものたちと違い、思考に基づく自由意思があるということです。
人間以外の生きものたちは皆、自然の節理に従って生きています。
人間も自然の節理を離れては生きられませんが、思考は節理を利用しようとし、時として節理の枠を超えようとします。
そこに文明が起こり文化が発達する理由がある一方で、他の生きものにはない善悪が現れます。
ライオンが鹿を殺しても悪ではなく、もちろん善でもありませんが、人間が相当の理由無くして鹿を殺せば悪であり、傷ついた鹿を助ければ善です。
ライオンは節理に従っているだけであり、人間は自分の意思で殺し、あるいは助けているからです。
ライオンには悪がないので自由に生きても罪を犯しませんが、人間は意思によって善か悪かを為し、禍福という結果を受け、そこに喜びも悲しみも生じます。善を為せば徳となり、悪を為せば罪となります。
人間にとってやっかいなのは、他のいきものたちと同じく生きたいという無意識の渇望に従えば、他の生きものたちと同じレベルでしか生きられないということです。
つまり、人間は、放っておけばたやすくケダモノになるということです。
だから、釈尊は生涯をかけて「放逸はならぬ」と説かれました。
人間が人間でなくなり、自他を不幸にするからです。
無意識の渇望は、こうして霊性に蓋をします。
この渇望を「惑(煩悩)」といいます。
さて、「惑」はなかなか抑制できません。
たとえば、腹八分が健康に良いことを解っていても、おいしいお酒や料理が目の前に並んでいれば、つい飲み過ぎ、食べ過ぎます。
頭ではやっちゃいけないと知っていながら、行動はそれに従いません。
ともすれば、考える力よりも、無意識の「飲みたい、食べたい」の方が強くはたらきます。
こうして「惑」の力に負け、飲み過ぎ食べ過ぎという「業(ゴウ)」を作ります。
この場合の「業」は決して善なるものではなく、結果として時には仕事にさしつかえ、時には身体を壊し、時にはセクハラを行ない、時には飲酒運転を行ない、時には夫婦げんかを招きます。
出た結果が「苦」です。
ままならず困った状況を招いたのは、自分に潜む「惑」と、それに負けて積んだ悪しき「業」に他なりません。
私たちの人生における「苦」は、自分の、あるいは誰かの「惑」と悪しき「業」によるものであることを忘れず、身・口・意で善きことを為し、その善業の力でお互いの悪業を清め、霊性あふれるこの世にしたいものです。
そのための扉は、み仏の教えを正しく学び、たとえ小さなことでも実践するところに開けます。
さもないと、いつまでも「わかっちゃいるけどやめられない」をくり返すだけの、情けなく、悲しく、辛く、そして不安で恐ろしい世の中になることでしょう。
「人殺しはやっちゃいけない、他人のものを盗んではいけない、弱い者は助けよう、お米を作ってくださるお百姓さんに感謝しよう」
しかし、つまらぬことで殺人者となり、盗人となり、いじめを行ない、感謝を忘れます。
なぜでしょうか?
それは、「惑(煩悩)」があるからです。
ゾウリムシにとってのこの世は、食べものとそうでないものとの二種類からなっているそうですが、人間もまた、あらゆるものを自分のためのものとそうでないものとに分け、限りなく自分のものにしようとします。
ゾウリムシと同じく、生きものである以上、「食べものでも何でも得て生きたい」という無意識の渇望があるからです。
ここで問題なのは、人間は他の生きものたちと違い、思考に基づく自由意思があるということです。
人間以外の生きものたちは皆、自然の節理に従って生きています。
人間も自然の節理を離れては生きられませんが、思考は節理を利用しようとし、時として節理の枠を超えようとします。
そこに文明が起こり文化が発達する理由がある一方で、他の生きものにはない善悪が現れます。
ライオンが鹿を殺しても悪ではなく、もちろん善でもありませんが、人間が相当の理由無くして鹿を殺せば悪であり、傷ついた鹿を助ければ善です。
ライオンは節理に従っているだけであり、人間は自分の意思で殺し、あるいは助けているからです。
ライオンには悪がないので自由に生きても罪を犯しませんが、人間は意思によって善か悪かを為し、禍福という結果を受け、そこに喜びも悲しみも生じます。善を為せば徳となり、悪を為せば罪となります。
人間にとってやっかいなのは、他のいきものたちと同じく生きたいという無意識の渇望に従えば、他の生きものたちと同じレベルでしか生きられないということです。
つまり、人間は、放っておけばたやすくケダモノになるということです。
だから、釈尊は生涯をかけて「放逸はならぬ」と説かれました。
人間が人間でなくなり、自他を不幸にするからです。
無意識の渇望は、こうして霊性に蓋をします。
この渇望を「惑(煩悩)」といいます。
さて、「惑」はなかなか抑制できません。
たとえば、腹八分が健康に良いことを解っていても、おいしいお酒や料理が目の前に並んでいれば、つい飲み過ぎ、食べ過ぎます。
頭ではやっちゃいけないと知っていながら、行動はそれに従いません。
ともすれば、考える力よりも、無意識の「飲みたい、食べたい」の方が強くはたらきます。
こうして「惑」の力に負け、飲み過ぎ食べ過ぎという「業(ゴウ)」を作ります。
この場合の「業」は決して善なるものではなく、結果として時には仕事にさしつかえ、時には身体を壊し、時にはセクハラを行ない、時には飲酒運転を行ない、時には夫婦げんかを招きます。
出た結果が「苦」です。
ままならず困った状況を招いたのは、自分に潜む「惑」と、それに負けて積んだ悪しき「業」に他なりません。
私たちの人生における「苦」は、自分の、あるいは誰かの「惑」と悪しき「業」によるものであることを忘れず、身・口・意で善きことを為し、その善業の力でお互いの悪業を清め、霊性あふれるこの世にしたいものです。
そのための扉は、み仏の教えを正しく学び、たとえ小さなことでも実践するところに開けます。
さもないと、いつまでも「わかっちゃいるけどやめられない」をくり返すだけの、情けなく、悲しく、辛く、そして不安で恐ろしい世の中になることでしょう。
長男の因縁
頼もしい長男を育て上げた優しい母親二人が来山されました。
ものごとをわきまえた方々なので、自慢話はしません。
むしろ、これからどう一人前になって行くのかを見守っておられます。
そこで、一般論としての「長男の特徴」を一つ申し上げました。
母親は子供を充分にかわいがるのが使命です。
いかなる場合も絶対に子供の立場に立ちます。
良いことをしたなら誉め、悪いことをしたなら悪いことをしなければならなかった子供の気持をふまえた上で指導します。
そうしてこそ、子供は安心という宝ものを持って育ち、環境や社会への信頼と責任を自覚出来るようになります。
しかし、「子供の立場に立つ」ことが、教育上の落とし穴になる場合があります。
それは、母親が子供のために言い訳をしてしまう場合です。
特に長男に対しては、穢れずまっすぐ立派に育って欲しいと願うあまり、そうした理想像を崩したくないという心理がはたらきます。
たとえば他人の塀へ落書をした場合、「Aちゃんに無理に誘われたからなのよねえ」と弁護し、第三者へもそうした主張をします。
こうした「代理の言い訳」をくり返すならば、子供の心にどういう変化があるでしょうか。
自分のしたことに直接向き合わず、誰かのせい、あるいは何かのせいにして、自分をいつも安全なところへ置くようになります。
自分をかわいがるようになるのです。
これは人生を渡る上で決定的とも言える脆弱さになります。
まっとうな大人の社会では、言い訳や弁護は他人様がしてくださることで、自分がやるような人は信頼されません。
40歳近くにもなってから、長男として育った自分のそうした面を実感した強烈な体験があります。
一緒に問題の処置に当たっていた友人T君から、面と向かって「言い訳をしてはだめですよ」と言われたのです。
彼も長男ですが、厳しく結果を問われる仕事をしているうちに、いつしか人間ができたのでしょう。
たぶんに酒の勢いがあったのは事実でも、あの一言は応えました。
また、新年を迎え、師の前で弟子たちが今年の抱負を述べ合った時、師はまっすぐに私の目を見て「今年の目標は『言い訳をしないこと』にしましょう」と宿題をくださったのです。
いずれもが、育ちの因縁のマイナス部分を解き放とうと決心する大切なきっかけとなりました。
以後、気をつけてはいても、やはり、それがこっそりと顔を出してしまう場面があります。
因縁解脱は一生の行であり、その果のいくばくかは現世で現われましょうが、解脱を完成しない限りやはり次の世でも生まれの因縁となって引き継がれるのでしょう。
過去の因縁を背負って生まれ、育ちの因縁で心がつくられる私たちの人間修行とは、悪しき因縁を解いてその呪縛から脱すること、つまり「因縁解脱」に他なりません。
そのためには、良き因縁を「上手に」ではなく、「正しく」活かすことです。
上手にやる人は一時の栄華を得られるかも知れませんが、正しくやる人は永遠の安心を得られます。
佳い笑顔で当山を後にされた優しいお母さん二人は、きっと、息子さん方に「自分をかわいがらぬよう」「長所を活かすよう」指導されることでしょう。
ものごとをわきまえた方々なので、自慢話はしません。
むしろ、これからどう一人前になって行くのかを見守っておられます。
そこで、一般論としての「長男の特徴」を一つ申し上げました。
母親は子供を充分にかわいがるのが使命です。
いかなる場合も絶対に子供の立場に立ちます。
良いことをしたなら誉め、悪いことをしたなら悪いことをしなければならなかった子供の気持をふまえた上で指導します。
そうしてこそ、子供は安心という宝ものを持って育ち、環境や社会への信頼と責任を自覚出来るようになります。
しかし、「子供の立場に立つ」ことが、教育上の落とし穴になる場合があります。
それは、母親が子供のために言い訳をしてしまう場合です。
特に長男に対しては、穢れずまっすぐ立派に育って欲しいと願うあまり、そうした理想像を崩したくないという心理がはたらきます。
たとえば他人の塀へ落書をした場合、「Aちゃんに無理に誘われたからなのよねえ」と弁護し、第三者へもそうした主張をします。
こうした「代理の言い訳」をくり返すならば、子供の心にどういう変化があるでしょうか。
自分のしたことに直接向き合わず、誰かのせい、あるいは何かのせいにして、自分をいつも安全なところへ置くようになります。
自分をかわいがるようになるのです。
これは人生を渡る上で決定的とも言える脆弱さになります。
まっとうな大人の社会では、言い訳や弁護は他人様がしてくださることで、自分がやるような人は信頼されません。
40歳近くにもなってから、長男として育った自分のそうした面を実感した強烈な体験があります。
一緒に問題の処置に当たっていた友人T君から、面と向かって「言い訳をしてはだめですよ」と言われたのです。
彼も長男ですが、厳しく結果を問われる仕事をしているうちに、いつしか人間ができたのでしょう。
たぶんに酒の勢いがあったのは事実でも、あの一言は応えました。
また、新年を迎え、師の前で弟子たちが今年の抱負を述べ合った時、師はまっすぐに私の目を見て「今年の目標は『言い訳をしないこと』にしましょう」と宿題をくださったのです。
いずれもが、育ちの因縁のマイナス部分を解き放とうと決心する大切なきっかけとなりました。
以後、気をつけてはいても、やはり、それがこっそりと顔を出してしまう場面があります。
因縁解脱は一生の行であり、その果のいくばくかは現世で現われましょうが、解脱を完成しない限りやはり次の世でも生まれの因縁となって引き継がれるのでしょう。
過去の因縁を背負って生まれ、育ちの因縁で心がつくられる私たちの人間修行とは、悪しき因縁を解いてその呪縛から脱すること、つまり「因縁解脱」に他なりません。
そのためには、良き因縁を「上手に」ではなく、「正しく」活かすことです。
上手にやる人は一時の栄華を得られるかも知れませんが、正しくやる人は永遠の安心を得られます。
佳い笑顔で当山を後にされた優しいお母さん二人は、きっと、息子さん方に「自分をかわいがらぬよう」「長所を活かすよう」指導されることでしょう。


