宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

幸せを何倍にもする方法11 ―憍(キョウ)を払いましょう―

 憍(キョウ)は「おごり」であり、「自らの盛事に酔傲(スイゴウ)」することです。
 地位や学歴が高い、財産や名誉がある、若さや健康がある、学識や経験がある、人気がある、有名である、などなど、自分が他人より優れていると思われるものを探してはそれに「酔い」、「傲慢」になります。誇るのです。
 誇示せねばいられない心のはたらきが「憍」です。

 托鉢で一軒一軒お訪ねして歩き、こうした質問を何度受けたことでしょうか。
「私は、〜山で毎年修行をしています。〜十年、一度も欠かしたことはありません。おたくは何年修行しましたか?」
「私は、総本山〜で〜をいただいています。おたくはどのあたりの位がありますか?」
「私は〜寺の檀家です。総代を、もう〜十年もやっています。ウチは〜千軒の檀家があって、この間も〜億円集めて〜を造りました。ところで、おたくの檀家さんはいくらありますか?」

 質問者の前に立っているのは、寒風の中をどこからか歩いてきた見知らぬ修行僧。
 赤茶けた網代笠(アジロガサ…竹で編んだ笠)、日に灼けた墨染衣、履き古した脚絆(キャハン…足を巻いて保護する布)に白足袋、一見、哀れっぽい風体です。
 常々誇るチャンスを窺っていた第七番目の無意識は、待ってましたとばかり、ただちに反応しました。
 そして、見下しました。
 彼にとって、山登りも、高い地位も、檀那寺への奉仕活動も、憍をつくる業(ゴウ)の積み重ねでしかなかったのです。
 業によってはたらいた憍という強烈な煩悩は、釈尊もお大師様も続けられた真の修行が目の前で行なわれているにもかかわらず、その実体を覆い隠してしまいました。
 だから、煩悩の別称は「覆い隠すもの」です。

 昨日、枕経にでかけた折り、戸外で到着を待っておられた葬祭業のBさんに訊かれ、お答えしました。
「こちら様は、息子さんが亡くなられてお父さんが喪主を務められます。
 逆縁の場合、お母さんは葬式へ出られないという風習があるのでどうしたら良いかとご相談を受けましたが、どのようにご返事をすれば良いでしょうか?」

「そうしたタブーなどの慣習と、ものごとの道理、あるいはみ仏の教えとの間にギャップがあるのは仕方がありません。
 人は怖れから逃れるために、あるいは何かを欲しいが故に、勝手な因果関係をつくってそこに安住しようとするものです。

 しかし、それが根本的に人の道に反するならば、勇気を持って脱却すべきです。
 判断基準は、もちろん道理と教えです。

 この場合、最愛の息子を亡くした母親が葬儀に出られないならば、「見届けられなかった」「別れを確認できなかった」「送ってやれなかった」という悲しさや寂しさや悔しさはいかばかりでしょうか?
 そうした思いすらも脇へ置かねばならぬほど正しく強い理由がありましょうか?
 亡き息子さんの気持になってみても同じでしょう。
 無論、み仏の教えにこうしたタブーはなく、同じように、妊婦はダメとか、六歳未満の子供はダメなどというものもありません。
 誰であれ、人の死なる厳粛なものに際したならば、できる限り弔いと供養のまことを尽すのが人の道であることを、ご遺族へはっきりとおっしゃってください。
 これは、送られる御霊のためであるのはもちろん、送る人々も迷妄を脱し、人生の真実を直視する大切なチャンスです。
 
 ただし、言い回しは慎重にしてください。
 もしも、ご一族のタブー意識が非常に強い場合は、『住職からこういう回答を得ましたが、どうするかの最終判断は皆さんが行なってください。
 故人も皆さんも一番安心できると思われる方法を選んでください』と言わねばなりません。
 なぜなら、タブーは、深いところで道理に反するようなものであっても、心の傷を治す瘡蓋(カサブタ)である場合が多いからです。
 もしも無理に引きはがした場合、あまりに痛かったり出血したりすると、怨みや怖れや不安を招いてしまい、万が一何かいやなことや不幸なことが引き続いて起こった場合、そのせいにしてしまう危険性があります。
 そうすると、道理に目覚めるどころか、『やっぱり』とばかり、道理に反するものを強く信じてしまうかも知れません」

 このように、正しく導かれて真の安心を得るのはとても難しいことです。
 時には、一時的にちょっとした瘡蓋を利用する回り道も必要なのです。
 
 しかし、ここまで紹介してきた十の煩悩は、私たち誰でもが持っている〈まごころ〉という尊い光を覆ってしまう恐ろしいものです。
 何としても取り除かねばなりません。

 それが周囲の人々へ不幸を与えたり、悪しき共業となったりする場合はなおさらです。
 だからこそお大師様は、強突張りの悪党だった衛門三郎へ子供を失うという大きな試練を与えて生まれ変わらせ、今日行なわれている四国遍路を確立されました。

 もしも十の煩悩を克服できたならば、「あなたの幸せは私の幸せ、私の幸せはあなたの幸せ」という心になり、この世の幸せは何倍にもなることでしょう。

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幸せを何倍にもする方法10 ―『害』を払いましょう―

 釈尊は説かれました。
「衆生は相(アイ)剋(コク)して、以てその命を失う、行ずるに随って堕する所、自ら殃(オウ)福を受く」
(人はお互いに傷つけ合いながら命をすり減らしている。悪行によって殃(ワザワイ)に遭い、善行によって福を得るという理を知らずに)

「人間よ、お前たちは何と哀しい存在なのだ」と、釈尊が心で涙しておられることが偲ばれる教えです。
 
 私たちは、何かを得ようとして、また、何かを失うことに耐えられず、貪り怒りや怨みと共に他を害します。
 昔風のマンガには、夫婦げんかの象徴として奥さんが茶碗を壊すシーンがありますが、それなどは可愛いものです。茶碗に当たって済むなら大事にはなりません。
 しかし、今は〈欲しいけれどお金がないから盗む〉〈気晴らしに人を殺す〉時代になりました。
 人間を人間たらしめる崇高な「自由」は「気まま」という姿で大道を闊歩し、人間らしいいのちのはたらきである「意欲」は、「煩悩」として醜いふるまいをもたらす場面が多くなりました。
 飢餓と病気といういのちを脅かす敵にうち勝つ一方で、誰しもが、耐えることのできない人間になりつつあります。

 そもそも、文化は、上手に耐える、あるいは抑えるところでしか発展し洗練されないのではないでしょうか。
 衣食住と言いますが、衣装は身体を上手に隠しながら巧みに自己表現をする道具になります。
 食物はバランスよく摂られればいのちを充分に活かします。
 住まいもまた、それによって自分や家族が安心を得る一方で他人の私生活を尊重してこそ、暖かい町並をもたらします。

 そして、社会は他人への信頼があればこそ成り立つということを忘れるわけには行きません。
 食料品店で買った牛乳はおいしく安全であると無意識の裡に信じているから、買った牛乳の成分分析をせずにそのまま喉へ流し込むのであって、いちいち安全確認をせねばならないなら私たちの神経が安定を保てないことでしょう。
 乗り物に乗る場合も、道を歩く場合も同じです。
 家にカギをかけて眠る場合ですらそうです。ガラスを叩き割って侵入してくる暴漢を恐れねばならないなら、鋼鉄に囲まれた箱に住むしかなくなることでしょう。
 しかし、現代はどうでしょうか。
 食品の安全が脅かされているのはもちろん、世界中の街角で爆弾が人々を殺し、住居は簡単に侵入され、充分な警備態勢をとっているはずの店舗や現金自動支払機は重機で破壊されるようになりました。
 生活態度を注意されたからといって簡単に子供が親を殺し、生徒が先生の昼食へ薬物を混ぜる時代になることを、誰が想像し得たでしょうか。

 すべては、根源的欲望への抑制が薄れたことに起因しています。
 文明は進歩している風でありながら、個人個人は内心で我欲を膨張させ野蛮になりつつあります。

 うわべだけ美しい街並に、欲望を抑えきれなくなりつつある人々が、一人一人孤立して生きています。

 釈尊は、二千五百年前、欲望むき出しの物質文明に破壊されつつある美しい共同社会を憂い、人生の真実を求めずに欲望に流されて傷つけ合う人間のありさまを恐れ悲しみ、生涯をかけて
「欲望を正しく活かせ」
と説かれました。
「私たちがいかに穢れた存在として醜い世の中を夢遊病者のように彷徨っているかを直視し、その夢から覚めよ」「尊い霊性を持った者同士として、向上の道を歩め」
と説かれました。

 霊性に導かれた意欲を輝かすところにしか、真の文明の深化はあり得ません。
 お互いが他人を害することのないよう欲望を抑制するところにしか、信頼の保たれた社会は成り立ちません。

 塩が隠し味になって食べものの甘みが絶妙な味となるように、正しい道にそって抑制された意欲は一人一人の人生を味わい深いものにし、そうした人間によって創られる社会には、故郷としての趣が加わることでしょう。
 個人は「不害」を誓い、国家は「不戦」を誓いたいものです。

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幸せを何倍にもする方法9 ―『諂(テン)』を払いましょう―

 これは「へつらい」です。下心があって本心を隠し、相手に〈気に入られる〉自分を演ずることです。
 よく「媚び諂う」と用いられ、相手から優越感などを引き出してその気の緩みに乗じ、結果的に自分の目的を果たそうとする卑しくさもしい(見苦しく、浅ましいこと)姿勢です。
 ただし、各種営業に携わる方々にとってはそれも技術のうちでしょうから、本当にご苦労様と申し上げたい気持です。

 娑婆にいた時分、政治家を囲むグループが、ある「中央へ顔の効く人」をひんぱんに呼んでいました。
 来仙する旅費などはもちろん、連夜の宴会、それも必ず二次会・三次会まで面倒をみるという状態でした。どこへ呼ばれても王様扱いされているらしい彼の、何をしてもらっても、どんなお追従もあたりまえと感じている様子に、私は密かな軽蔑を抱いていました。
 傲慢な王様はいつも全員を注意深く観察しているらしく、そうした目障りな者を許すことはできなかったのでしょう。ある夜、何十人も取り巻きが騒いでいる最中、末席あたりで目立たなくしていた私へ「おい、唄え」と声がかかりました。
 当然、気が乗りませんという仕草で断ったのですが、幹事は慌てました。お気に召さないふるまいなど、とんでもないからです。
 幹事に恩義を感じていた私はマイクを握りました。そして、真夏のビアパーティで前川清の『雪列車』を唱い始めました。
「匂うように 笑うように 雪は降る 白い景色 逃げるように 汽車は走る♪」
 会場は一瞬シーンとなりましたが、憮然とし苛立った王様をとりなそうとするざわめきが、すぐにその静寂を消し去りました。
 私以外の全員にとって不快で不気味で不吉な歌は
「あたたかいものを 何かください こころもからだも寒すぎるので どうぞ♪」
と終わりましたが、もちろん誰一人として拍手する人はいませんでした。

 あの時、深く考えました。
「諂う」のは卑しいことですが、いかに目的があってのこととは言え、相手への尊敬があれば、そこには「もてなし」という暖かい真実が伴うはずです。
「諂い」と「もてなし」は紙一重のところで裏になり表になりつつ人の心を暗くし、明るくしています。
 双方が尊敬・礼儀・矜持などを失わず、お互いの人間性を認め合えば、卑しさ・さもしさまみれの薄汚れた時間を共有せずに済むことでしょうが、それは、慣れるという習性のある人間にはなかなか難しいのかも知れません。

 初めて四国八十八霊場を巡拝して「おもてなし」に触れた時は、心底驚きました。
 宿や食堂や土産物店や境内の出店などでいろいろサービスを受けるのはもちろん、道ばたで日向ぼっこをしているお婆さんが手作りの飾り物をくださったり、あるいは、巡拝と判ればどんな車も必ず道を譲ってくれるなど、お大師様の「お互いを尊ぼう」という教えが千二百年以上の時を経ても生活の中に生きているのです。

 もてなして喜び、もてなされて感謝することによって、諂う卑しさと、それに乗ずるさもしさをうち払いたいものです。
 そうすれば、相手の喜びが自分の感謝を深め、自分の感謝が相手の喜びを更に深めることでしょう。

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幸せを何倍にもする方法8 ―『誑(オウ)』を払いましょう―

 今回は、「たぶらかすこと、たばかること、騙すこと」です。

 騙すのは、「騙し取る」と言うとおり、他人を欺いて不当に何かを得ようとすることです。
 得ようとせずに騙すことはあり得ません。
 たとえばおもしろ半分に嘘をつくにしても、それは愚かしい快感を得ようとするからであり、世間をごまかして生きるのは、自分勝手に仮構した自分を得ようとするからです。

 本来手にすべきでない、あるいは手にしてはならないものを手に入れようとする人は、当然他人から信用されなくなり、人々は周囲から遠ざかります。近づいてくるのは、同類だけです。

 騙すといえば、偽電話による詐欺事件にしても、ライブドア事件にしても、姉歯事件にしても、なぜ、こうも罪悪感が薄れ、恥を忘れた世の中になったのかを考えているうちに、子どもたちの環境に思い当たりました。
 親が「教育は人間づくりである」と正しく認識していれば結構ですが、そうではないと思われるケースがあまりにも多いのです。
 子供を勉強漬けにしておくことによって親自身が安心したいのではないかと考えざるを得ないような場合すらあります。
 こうしたパターンにはまると、子供は苦痛のあまり、親へ勉強する格好だけ見せておこうとするようになります。
 こうして、騙しが始まります。

 業(ゴウ)として生まれ持った悪の種が、幼少の時代にどす黒い芽を出してしまうのです。
 親がうまく騙されると子供は親を尊敬しなくなり、表面はどうであれ、内心では親をバカにするようになります。
 親が騙されずに子供を叱れば、子供は親を怨むようになります。
 いかに「お前自身のためだから!」と口が酸っぱくなるほど言っても、子供の気持を理解せずに苦しめるだけの親を、子供は絶対に認めません
 
 一方、勉強のできる子は、成績さえ良ければ親は意のままになると知り、自分が王様になります。本心を隠し、表面的な優等生を演ずることによって、親を初め世間を欺き、自己欺瞞の虚構に生きます。
 やがては高慢が昂じて騙しの通じる限界を見誤り、破滅します。
 まっとうな人々は「あんなことをすれば必ず嘘が露呈するはずなのに、何でああした幼いことをやったんだろう?」といぶかりますが、高慢心は、実に、人を愚かにするものです。
 こうして「優等生の破綻」が起こるのです。

 さて、心も身体も、弛緩と緊張のバランスがうまくとれてこそ健全にはたらきます。
 遊びは弛緩であり、勉強は緊張です。
 それがどういうバランスであればその子供にとって一番良いのかをよく見極めて、健全に育つ環境を与えようと努力するのが親の務めではないでしょうか。
 ある子は三時間遊び、一時間勉強すれば満足な一日だったのかも知れないし、ある子は三時間勉強して一時間遊べば安心な一日であるかも知れません。
 親がそれを把握するためには、子供の様子を注意深く観ることと、子供の話をよく聞いてやることが大切です。

 僧侶になりたてのころ苦労したことの一つに、托鉢へ出発するタイミングのとり方がありました。
 朝に供養をし、祈祷をし、勉強をしてから出発するのですが、準備万端整え〈満を持して〉でかけないと、うまく歩けないのです。
 満を持することの意義は、気持に引っかかりのない平静な時間を持つところにあります。
 ご縁の方の病状が深刻だからもう一度法をかけたお守を送ってあげたいなどのやり残しがあってはなりません。
 何かを考えている途中で妻に急かされたり、難題の電話が入ったり、不意の来客があったりすればリズムをつくりなおすことになります。
 それは、走り幅跳びなどの選手それぞれが、瞑想をしたり、深呼吸をしたり、音楽を聴いたり、身体でリズムをとったりし、〈満を持して〉スタートを切るのと同じです。
 いざ!という瞬間に観衆がざわめいたり、何かが視界を横切ったりしたなら、もう一度やり直しをせねばなりません。

 もちろん、現在は、どういう状況であれいつでも平然と出発できますが、ここへ来るまでの道のりは、それ相応のものがありました。
 そうした体験があるだけに、自分のリズムと無関係に机へ向かわねばならない子どもたちの苦痛は、手に取るように解ります。
 自由に弛緩の時間を持てない子どもたちは、悲惨としか言いようがありません。
 世の親御さんたちには、子供が自分に合った良いリズムで遊びと勉強を両立させることができるよう環境を整え、適切な指導をしていただきたいと切に願っています。
 無垢な子供を、親を騙さねば自分を守れない環境においてはなりません。
 子供が伸び伸びと健全に育てば、子供の幸せは親の幸せとなり、親の幸せは子供の幸せとなり、それぞれの幸せは何倍にもなることでしょう。

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幸せを何倍にもする方法7 ―『慳(ケン)』を払いましょう―

 今回は「もの惜しみ」です。
 自分が手に入れたものを離したくないのは人情というものです。
 よく誤用されている「情けは他人(ヒト)のためならず」の問題も、ここにからんできます。

 この慣用句は、そもそも
「他人へモノやお金をあげたり、何かを手伝ったりして情けをかけるのは、決して他人のために自分が損をすることではない。他人へ何かをしておけば、その徳はいつか必ず自分へ返って来るものである。善行は、畢竟、自分のためである」(「解釈1」とします)
という意味です。
 現在では、
「へたに他人へ情けをかけると、その人のためにならないことがあるから気をつけねばならない」(「解釈2」とします)
と誤解・曲解されることが多いようです。
 
 いつぞや『法句経』の講座で、これが議論の種になりました。
「結局は〈自分のため〉だからというのでは、見かえりを求めぬ清らかな布施行にはならないんじゃないでしょうか?」
というものです。
 そのとおりです。「善因が善果を生み、悪因が悪果を生む」ことを信じればこそ良心の声に従えるわけですが、そこに我(ガ)が顔を出せば、信じながら穢れることになりかねません
〈我がため〉こそが煩悩の姿
だからです。

 そこで、「1」でも「2」でもない、み仏の教えから観る第三の解釈と第四の解釈とをお話しました。

「解釈3」
「他人へ思いやりをかければ、助かった他人は喜びます。
 もちろん、善因善果ですから、いつかはきっと自分のためにもなるはずです。
 他人が喜んで幸せになり、自分にもやがて幸せが来るならば、〈自他共に〉苦を脱しよう、〈自他共に〉幸せになろうという菩薩行そのものではないでしょうか」

『自分のためだから』と目的意識を持つのではなく、『いずれ自分のためでもあるのだから』と、自分の損得は、あくまで〈結果的に〉と信じ放り出すことによって、打算という我の呪縛に負けない考え方です。

「解釈4」
「他人へ思いやりをかけられる自分であること、思いやりをかけずにはいられない自分であることが、すでに救いの中にいる証拠です。
 それは、必ず悟りを得ようと決心する『発心(ホッシン)』の時点で、すでにみ仏の御手に抱かれているのと同じです」

 自然に他人へ情けをかけられるならば、その人は、ある意味で人間修行の達成者です。
 そもそも、人間修行の目的は、殺せない人・盗めない人・嘘をつけない人・愚かな考えを持てない人・愚痴を言えない人・嫉妬できない人・情けをかけずにいられない人、などになることではないでしょうか。
 不殺生や不邪見などの戒律は、「〜してはいけない」が入り口であり、「〜できない」が出口です。
 無益な殺生を行なうまいと決心し、気をつけているうちに、いつしか、無益な殺生のできない人になっています。これが行の達成であり、み仏のお導きというものです。

 かなり回り道をしてしまいました。
 自分のためでなければ何もしたくない、何も差し出したくないというもの惜しみは、心の成長を止めます。友情が芽生える機会を壊します。
 どんなに財があっても、いかなる高位にあっても、軽蔑されるとも決して尊敬はされません。
 尊敬される人格者は〈投げ出せる人〉です。
 スッとこだわりなく他人のためになれる人です。

 こういう人の回りには、自然に人の輪ができます。
 もちろん、中には利用しようと近づく不逞の輩もいるでしょうが、清水の流れは、必ず泥を払い去るものです。〈投げ出せる人〉の運勢が明るい方向を目ざす力の大きさは、はかり知れません。
 しかし、我が邪魔をしてこれがなかなか実行できないからこそ、釈尊は行の最初に布施行を置かれたのでしょう。
 もの惜しみをしないことが自他共に幸せになるための行の始まりであり、ある意味では到達点なのです。
 感謝しつつ他人様のためになろうではありませんか。

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