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2016
03.08

誰かの誕生日を祝おう ─明かりを届け、追い風を贈ろう─

2016-03-07-00100.jpg
〈東京の街角に〉

 誰かの誕生日には、わけもなく嬉しくなる。
 嬉しさはどこから来るか?

 自分がこの世に生まれただけでは、巡り会いはない。
 同じこの世に同じ人間として生まれてくださったからこそとなり、尚かつ、今も生きておられればこそ、共にこの世で息をし、この世を形成していられる。
 心を通じ合える誰かと共にこの世に〈在る〉ことは、他のことに代えがたいありがたさを感じる。

 私たちはいつも〈関係性〉の中にいる。
 猫と、梅と、職場と、自宅と、そして誰かと何らかの関係があればこそ、自分が自分でいられる。
 もしも100年分の食糧と100年間過ごせる空間があったとしても、たった一人で、通信手段がない月へ置き去りにされたならば、発狂するか自殺するか道は二つに一つしかなかろう。

 優しいAさん、感激屋のBさん、いつも陽気なCさん、怒りっぽいDさん、偏屈なEさん、皮肉屋のFさん、……。
 そうした方々と接し、何らかの〈反応〉をするところに〈自分〉が見出される。
 病気のGさん、しばらく会っていないHさん、誤解を解いておきたいIさん、……。
 そうした方々を〈思い出す〉ところに、心配したり祈ったり、電話をしたくなったり、会おうか会うまいか逡巡したりする〈自分〉が居る。
 目覚めた布団の中で、〝昨日、食欲がなかったクロは元気かな〟と愛猫を想う。
 顔を洗い歯を磨きながら、〝梅は咲いたかな〟と庭木を想う。

 そこにしか〈自分〉は居ない。

 だから、もしもそうした関係が次々と断ち切られたならば、〈自分〉はどんどん希薄になることだろう。
 脳は、著しく機能低下しない限り、何らかの機能不全に陥るだろう。

 今月、あるいは今日、誰かの誕生日が来る。
 何と嬉しいことだろう。
 おめでとう、と意思表示すると、ありがとう、と返って来る場合もある。
 返って来ようが来まいが、自分に湧き起こっている喜びは、心にもいのちにも力を与える。

 誕生日は、その日に生まれ、経年後のその日を迎えた当人にとってのお祝いとなるだけでなく、となったすべての人にとってのお祝いともなる。
 
 若い人々は、何かにつけ、おをやりたいので、誕生祝いは格好のチャンスとなる。
 しかし、年配者になると、自分が年をとったことを思い出したくないなどの心理から、誕生日を意識しなくなったりする。
 それは残念だ。
 たとえ自分の誕生日は気にしなくても、知っていたはずの誰かの誕生日は思い出したい。
 その人の笑顔などを思い出すだけで、心が温かくなるはずだ。
 現代医学は、体温が1度下がると免疫力が30パーセント下がるといい、筋肉の衰えを防ぎ体温を確保するために歩くことを勧める。
 心も温かくなると必ず活性化する。

 誰かの誕生日を祝いたい。
 その思いはきっと、相手の心へ明かりを届け、優しい追い風となるだけでなく、祝う自分をも元気づける。
 そもそも、お釈迦様はこう説かれている。
「ありとあらゆるものはによって現象している」
「自分がを脱したいなら、他のためを思え」




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2013
07.21

芯をつかむ ─心が豊になり周囲から一目おかれる人になる方法─

20130715029.jpg

 よく「話し上手より聞き上手」と言われます。
 なぜでしょうか?

 ちょっと考えると、うまくお話できる人の方が断然、得かなという気がします。
 臆せず前へ出て自分の意見を述べ、知識が豊富である、あるいは思慮深い人であると認められれば、尊敬され、出世もできそうです。
 それに比べて、皆といる時に、半歩退ってじっと聴いてばかりいるような人は、目立たず、主役にもなれず、あまり評価されないように思えます。
 実際はどうでしょうか?

 結論を先に言えば、その人の〈人間としての力〉は、何を言うかではなく、何をしているかにかかっており、人をよく観る人は、聞く言葉よりも、見える行動でこそ相手の人となりを判断するので、人間としての評価は、言葉が巧みであるかどうかとあまり関係がありません。
 うまくしゃべるだけなら、第一に詐欺師、第二におかしなセミナーの講師や教団の教祖、第三におかしな弁護士や政治家などが挙げられそうです。
 彼らはいつでも、どこでも、主役になって人々を丸め込もうと躍起になりますが、人を観る眼がある人からは、すぐに見破られます。
 一方、自分の〈分際〉をわきまえて黙々と役割をこなす人は、周囲から一目おかれるだけでなく、精進の力でいつしか周囲の人々を感化してもいるものです。
 また、複数の人がいる〈場〉の雰囲気や人間関係を察知してから話す人は、どこでも決して嫌がられません。

 では、なぜ、私たちは、聞き上手になろうとするよりも話し上手になろうとするのでしょうか?
 それは、私たちには自己顕示欲があり、どうしても下心(シタゴコロ)がはたらくからです。
 論語は、「巧言(コウゲン)令色(レイショク)鮮(スクナ)し仁(ジン)」と説きました。
 (口先巧みに相手の顔色をうかがいながら自分の顔つきも変えて話すような人は、真の向上心も思いやりも少ないものである)
 高校へ行けば誰でも習う短い文章ですが、人の心理と卑しさを巧みに指摘して余すところがありません。
 そして、話すだけなら誰にでもでき、強く話せば自分が主役になれるので、常々、鬱憤(ウップン)を抱えているような人が、思わぬ場で、期待されていなかった活躍をする場合があります。 
 地域の問題などを話し合う時、ほとんどの人が賛成なのに突然、あまり意味のなさそうな反対意見を強硬に述べたり、議論のゆくえからずれた個人的見解を持ち出したりして時間を引き延ばしてしまうのです。

 こうした心理で生きていると、周囲に起こるできごとや、人々の言動からすなおに学ぶことが難しくなります。
 それでは、人間として向上するきっかけをつかみ損ない、周囲の人々から信頼も得られません。

 もしも、「あっ、私はこのタイプだ」と思い当たり、どうにかしようとするならば、克服する方法があります。
 それは、できるだけ好き嫌いを少なくする努力をすることです。
 特に〈嫌い〉を減らしてみましょう。
 落ちついてふり返ってみると、人であれ、食べものであれ、「私は~さんが嫌い」「自分は~がダメ」と判を押し、~さんは傲慢だから、あるいは、~は臭味が強いから、などと、もっともらしい理由をつけても、ほとんどの場合、まず「嫌い」があり、理由は後からついてくるものです。
 それは、誰かを好きになった時に理由は後からついてくるのと同じです。
 だから、理由は脇へ置き(アレルギーなどの物理的現象は別)、自分の心にある嫌う気持をよく眺めてみると、自分勝手にそう思っているだけであることに気づかれることでしょう。
 それが、誰かを遠ざけ、何かを遠ざけ、自分を縛り、嫌う心と一緒に(ガ)を強め、百害あって一利ない状態をつくり出しているのです。
 具体的に想像してみましょう。
 たとえば、何人かで餃子パーティーをしようと盛り上がった時、一人が「私は餃子ダメなの!」と反対してしまえば場の雰囲気が壊れ、その一人は〈やや問題ある人物〉と見なされます。
 そして、こうした場合に、自分の好き嫌いを通して〈自分は自分〉と自分を守ったような気がしても、実は、を強めるだけで、幻の自分を守れない状況になった時には一気に崩れる危険性を高め、人間関係を狭めているのです。
 東日本大震災のおり、避難所で、思わぬ人が「赤ん坊の泣き声がうるさい」と言いだし、周囲のひんしゅくをかっただけでなく、若い父親と母親を別々の避難所で暮らさせる結果になってしまったと聞きました。

 嫌い、気に入らない、などに引きずられなければどうなるか。
 不満が薄くなり、心が軽やかになり、明るくなり、怒りっぽくなくなり、結果的に、(ガ)もだんだん引っ込みます。
 結果的に、周囲に起こるできごとへ反応する心がすなおに、無色で、フラットになります。
 結果的に、人やできごとの〈芯をつかめる〉ようになります。
「あっ、この運転手さんは思いやりのある人だ。凄いなあ」
「あっ、この介護士さんは仏様のような人だ。凄いなあ」
 結果的に、軽々に運転手さんを軽蔑したり、介護士さんを批判したりできなくなります。
 心の眼がよく観えるようになり、心の耳がよく聴こえるようになり、軽々に前へ出られなくなります。
 ただ、見過ごすのではなく、よく観ること。
 ただ、聞き流すのではなく、よく聴くこと。
 そうすれば、いつしか、聞き上手になっているはずです。

 野球やゴルフの選手は、よく言います。
「芯を食ったスイングだった」
「芯を外したからなあ」
 芯を食うとは、球の中心をバットやクラブがきちんとつかむという意味です。
 できごとや人を前にして、最も大切なのは、その芯をつかむことではないでしょうか?
 そのためには焦らないようにしましょう。
 熱心過ぎるばかりに、前へ出ないではいられないタイプの人も、ちょっと深呼吸して、誰が何をしてどうなっているのか、場をよく眺めましょう。
 観ましょう。
 聴きましょう。
 そうすれば、できごとの本質が顕わになり、人となりが明らかになり、〈的を射た〉対応ができ、信頼も得られることでしょう。
 なお、「的を射た」という場合の「的」は、正鵠(セイコク…的のど真ん中)を意味しているので「的を得た」と言っても誤りではありません。
 的のど真ん中は芯です。
 芯をつかむようにしたいものです。
 



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2013
03.06

仏神によって必ずもたらされるご利益のお話

20130305004.jpg

 ご利益がある、ない、と言いますが、仏神がくださる「ご利益」とは何でしょうか?
 もしも、宝くじが当たるような僥倖(ギョウコウ…思いもよらない幸運なできごと)をイメージするとしたら、少々、問題です。
 なぜなら、宝くじが当たったからといって、皆が本当に幸せになれるわけではないからです。
 たとえば、まじめにはたらく気がなくなる、ギャンブルに凝る、高慢になる、人を疑うようになるなど、人生が暗転する人はたくさんいるそうです。

 まず、ご利益を願う心を考えて見ましょう。
 たとえば受験勉強を一生懸命やり、お仏壇でご本尊様やご先祖様へご加護を祈ったとしましょう。
 合格すれば、「ああ、ご利益があった」と思います。
「おかげさま」という、すばらしい心になります。
 では、落ちたならばどうでしょう。
 生前あれほど可愛がってくれていたのに、どうして助けてくれなかったのかと、お祖母ちゃんの位牌に文句を言いますか?
「おばあちゃん、せっかく応援してくれたのに、力不足でごめんね。
 また、頑張るから、見ていてね」
 これがまっとうな孫の姿勢であり、こうした気持になれることこそ、まぎれもなく、ご利益です。
 つまり、正しく祈れば、目先の結果がどう出ようと、必ずご利益は降りるのです。
 では、どう祈ればよいのか?

「──どうか、合格できますように」
 この時、心はどうなっているか?
 異次元にあるものの前で、謙虚になっています。
 合格がもたらすであろうよき未来の中に、亡きお祖母ちゃんに喜んでもらいたい、あるいは親を安心させたいという孝行な気持もあります。
 さらには、たとえば介護士になってお年寄りや身体の不自由な人のために役立とうという〈他のため〉のもあります。
 こうした心で祈れば、合格すれば「おかげさま」と祈った相手に感謝し、不合格になれば自分を省みてさらに謙虚になり、は鍛えられてさらに強くなります。

 つまり、大いなるものを深く尊崇する心は、祈願という祈りを介して、高慢心を抑え、よき結果は相手のおかげ意にそぐわない結果は自分の力不足のためという謙虚で、我を張らない人徳を育てるのです。
 また、自分のがいかなる程度なのかを試される場合もあります
 九州地方に住むAさんは、家庭の事情などで中卒でしたが、ある時、一念発起し、はたらきながら大検に合格し、さらに家庭を守りつつ通信教育で大学をも卒業し、ついには企業の幹部にまでなりました。
 その間、仏神への祈りを欠かさず、ここぞという時は祈願をかけながら二山も三山も乗り越えました。
 苦労したAさんは、困っている誰かのためにと思えば、有給休暇を用い疲れた身体にむち打っても手助けします。
 もはや、誰も、かつては暴れ者だったAさんへ後ろ指を指しはしません。
 Aさんを見ていると、仏神の存在がいかに大きいかを恐ろしいほど強く実感させられます。

 さて、本当のご利益は何か?
 それは、上記で明らかなとおり〈心のよき変容〉なのです。

 謙虚で真剣な気持で祈れば、いつしか人徳が深く高くなり、はより堅固になり、人生は必ず明るい方向へと向かいます。
 目先の結果に一喜一憂せず、地に足の着いたまっとうな人生を歩めます。


 蛇足ですが、もしも宝くじを買うなら、「──どうか、当たりますように」の前提を確かめましょう。
 当たったら自分は何をしようとしているのか?
 恥ずかしくない目的があるならば、神棚に上げたり、仏壇へ置いたりして祈りましょう。
 あるいは、どこかのご本尊様の前に置いてもらいましょう。
 そうすれば、当たっても当たらなくても、あなたの心にはよき変容がおこるはずですから……。




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2012
12.12

「あなたが欲しい」は愛なのか?

20121212001.jpg
〈負傷した足を救ってくれた故人用のイス〉

 の文字が氾濫している。
 若者にとって、至上の価値はにありそうだ。
 では、とは何か?
 普通、AさんがBさんをしているという場合、Bさんは、あくまでも〈AさんにとってのBさん〉だ。
 そこには必ず、Bさんは自分のものという所有欲がはたらいている。
 BさんはAさんのものだからこそ、(イト)しいし、愛(メ)でようとする。

 ところが、何かのはずみでBさんとの間に隙間ができれば、Aさんの愛はたやすく憎しみに変わる。
 Bさんを恨み、その行動に嫉妬し、あげくの果てはストーカーになり、殺人事件まで引き起こしたりする。
 こうなったのは、自分のものでなくなったからだ。
 Aさんの所有欲が満足させられている間は愛し、所有欲が充たされなくなれば憎む。
 何と自己中心的であることか。

 自己中心はBさんも同様だ。
 自分を大切にしてくれるAさんだからこそ近づきたい気持を受け入れ、愛したりもする。
 しかし、期待していたほどでなければ、愛が醒めたりする。
 これは自分の都合ではないか?
 やはり、関心があったのは〈BさんのとってのAさん〉でしかない。

 いかに小説やマンガで推奨されようと、こうした自己中心的な愛に人生をかけようとするなど、若気の至りと早く気づいた方がよい。

 み仏の慈悲慈愛はまったく違う。
 自己中心ではないからである。
 み仏にとっては〈私にとってのあなた〉という構図はないし、み仏は「まず自分ありき」を離れなければ自他共に救われないと説く。
 慈悲は、自分もあなたも同じという意識のあるところにしか生まれない。
 私もあなたも、あの人もこの人も、同じく苦を厭(イト)い楽を求め、同じく喜怒哀楽し、同じく衣装をまとい、同じく語り、同じく飯を喰い、同じく大小便を出し、同じく寝る。
 私への関心とあなたへの関心に違いはなく、あなたが虫歯の痛みをうったえれば、自分の虫歯が痛い時と同じく耐えられない気持になる。
 この時、あなたは、〈私にとってのあなた〉ではなく、〈あなた自身〉として私の関心の対象であり、さらに言えば、〈あなた〉と〈私〉と二つに分ける意識すらなくなっている。

 私は妻にそのことを教えられた。
 娑婆にいたおりも、出家してからも、妻はずっと私の戦友だった。
 妻が不機嫌になったり、不調になったりすれば、私は、勝手に退却しようとしている部下を抱えて突撃せねばならない将校だった。
 傷ついた部下をいたわる衛生兵でありながら、最前線で砲火を交える歩兵でもあり、かつ、戦況を考える隊長も兼務していた。
 自分の戦いから切り離せないという意味では一心同体だったが、妻は数年に一度、まるで思い出したように「お父さんが言うように、一心同体ではないよ」と口にした。
 別にケンカしたわけでもないのにこう言われると、私はおもしろくないというよりも、「何で?」と不思議だった。
 時折、抵抗はしても、決して裏切らずについてきてくれていたからだ。

 妻が一度目に倒れた時、私は、妻が背負っていた役割を補うのに無我夢中だった。
 妻は病魔によって〈役割を解かれた人〉として、ただ、そこにいた。
 私は、それを相手に、自分の新たな任務をまっとうすべく、睡眠時間を減らして戦った。
 戦いは劇的な勝利の瞬間を迎え、また、二人して新たな戦いを始めた。
 妻が二度目に倒れた時、妻は〈役割を解かれた人〉としてではなく、私と同じ人間として、そこにいた。
 温かい味噌汁を与えれば喜ぶ──。
 今まで、私が温かい味噌汁を与えられるのは、笹倉山に黒っぽい雲がかかればやがて風が吹き、次いで雨や雪がやってくるのと同じく、当然であり、一人の人間が一人の人間へ食事を与えることの重さに気づかなかった。
 ここまで生かしてくださった仏神への感謝があらためて起こった。

 こうして妻は負傷した戦友でありながら、同時に、私と同じ人間として、私の関心の対象となっている。
 私にとって、妻への関心は、私への関心と等しい。
 思えば、当病平癒を祈る時、願主の治りたいという思いを自分の思いとして祈ってきた。
 火葬場で最後の別れを行う時、ご遺族の身を斬られる思いを共有する気持で修法してきた。
 願主への関心も、ご遺族への関心も、私への関心と変わりはなかった。
 しかし、妻だけは戦う自分と一体であると思い込んでいたために、戦友としての関心しか持てなかったのかも知れない。
 今さらながらに、無口な妻の「一心同体ではないよ」へ込めていた思いが胸に迫ってきて切なく、情けなくなる。

 愚かな私は自分の棺桶を側へ置くような毎日を送るところまで来てようやく、勘違いに気づきました。

 定年を間近にしている方々よ、伴侶はあなたの戦友だけなのではありません。
 戦闘終結を向かえる前にできるだけ早く気づき、伴侶に対して、ご自身への関心と同じレベルの関心を持ってください。
 あなたが作った味噌汁を口にして微笑む伴侶の笑顔に、あなたが伴侶から与えられていたものの大きさを知ってください。
 そうすれば、熟年離婚の危機はかなり回避できることでしょう。
 もちろん、このあたりは、共稼ぎの方々にはとうの昔にわかっておられたことでしょうが……。

 若い方々よ、あなたが異性を欲しいと思う時、その気持をたやすく愛という名のこれ以上ない価値であると考えないでください。
 愛しいと思う気持に所有という我欲がベッタリと貼りついていれば、それは、自他を幸せにするみ仏の慈愛ではなく、性欲の発露です。
 そのレベルにとどまっている限り、性欲に伴う執着心が絶えずはたらき、自分を傷つけ、相手を傷つけ、共にズタズタになる危険性と隣り合わせで日々を送らねばなりません。
 性欲の対象は無数にあり、感情は常に変化し、執着心に染められた愛は憎悪嫉妬を裏面としたコインの表側でしかないからです。
 そこを入り口として、〈私にとってのあなた〉を超えた〈あなた自身〉という人間そのものへ深い思いやりをかけられるようになれば、本当の愛すなわち慈愛へ近づくことでしょう。

 私たちは、死ねば閻魔(エンマ)様のテストを受けねばなりません、
 洞窟へ追いやられ、仏性の輝いている人は洞窟を照らし出して安楽な道へと進めますが、輝いていない人は暗黒の世界へ行くしかありません。
 慈愛こそ仏性の発露です。
「あなたが欲しい」を超え「あなたのために」と真の愛を発揮しつつ生きたいものです。




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2012
01.25

幸せを壊すものに克つ ─死を克服する道(その3)─

 ある時、釈尊は、神々、帝王、人民、そして出家在家の弟子たちのために法を説かれました。
 そこに老いた7人のバラモン行者がやってきて弟子入りを求めたので、7人を一緒に住まわせて修行させたところ、すぐに悟ったかのような気になり、ただ、世俗的なことがらにかまけて談笑しているだけです。
 釈尊は、「世間が頼りとする儚いもの」を示しました。

1 若さ。
2 美しい容貌。
3 強い活力。
4 豊かな財産。
5 良い家柄。


 そして、真実を突きつけます。

○何を喜び、何を笑っているのか。いのちはたえず燃えている。しかし、深く暗冥に覆われているのだから、悟りの灯火を求めねばならない。
「何をか喜び、何をか笑う。命、常に熾燃(シネン)なり。深く幽冥(ユウミョウ)に蔽(オオ)わるれば、錠(ジョウ)を求むるに如(シ)かず」(老耄品)

○身体の形だけを見て頼りとし、安心しているうちに、想念が多くて病気に罹ったりする。身体が人間にとって真実ではないことを知らない。
「身の形範(ケイハン)を見て、倚(ヨ)りて以(モッ)て安(ヤス)きと為(ナ)さば、多想(タソウ)にして病(ヤマ)いを致すに、豈(ア)に真に非(アラ)ずと知らん」(老耄品)

○身体が死んで、はあの世へ行くのは、御者が車をうち捨てるようなものである。肉体が消え骨が散り散りになってしまうのであれば、身体はどうして頼りとなろうか。
「身(ミ)死に、神(タマシイ)徙(オモム)くこと、御者(ギョシャ)の車を棄つるが如(ゴト)し、肉消え骨散(サン)ず、身(ミ)何ぞ怙(タノ)む可(ベ)きや」(老耄品)

○身体をあたかも城であるとでもかんちがいしているが、骨を幹として肉を泥のように貼り付けただけではないか。生まれてから老いテ死ぬまで、怒りと慢心を蓄えているだけではないか。
「身(ミ)を城の如(ゴト)しと為(ナ)すに、骨は幹にして肉は塗なり。生まれて老死に至るまで、但(タ)だ恚(イカ)りと慢とを蔵す」(老耄品)

 出家したにもかかわらず、しかも老いたにもかかわらず、いつまでも儚いものを主人公とした世界世間のことごとに関心を奪われていたバラモン行者たちは、我と我が身のありさまに気づかされ、心は儚いものから解放されて悟りを得ました。

 ある時、500人の若いバラモン行者たちに招かれた釈尊は、座り、手を洗い、食事をし、手を洗いました。
 そこで、昔は富も権力もあった夫婦の行者が落ちぶれ、行者となって物乞いに歩いているのを目にしました。
 釈尊は、若いバラモン行者たちへ、「行えば福徳が得られるのに、なかなか行えないもの」を説きました。
 気の毒な老夫婦はそれを実践できなかったので、厳しい老後を生きねばならなくなったのです。

1 若く、活力があっても、驕り高ぶってはならない。
2 老いたならば、精進し、淫らなものに近づいてはならない。
3 財宝があれば、いつも布施を心がけねばならない。
4 正しい師から正しいものを学ばねばならない。


○清浄な修行を行うでもなく、財物を蓄えもしなければ、老いた白鷺が餌のない池を守り、水中を覗くように空しい境遇となる。
「梵行(ボンギョウ)を修せず、又(マ)た財を富まさずんば、老いたる白鷺(ハクロ)の、空池(クウチ)を守り伺(ウカガ)うが如(ゴト)し」(老耄品)

○今まで戒めを守らず、蓄財も行わないで生きてくれば、老いて気力が尽き果ててからいくら昔を懐かしんだとて、どうにもならない。
「既に戒を守らず、又(マ)た財を積まざれば、老羸(ロウルイ)し気(キ)竭(ツ)き、故(イニシエ)を思うも何ぞ逮(オヨ)ばん」(老耄品)

○老いて秋の落ち葉のようになり、行いはぼろ切れのように穢れている。いのちが速やかに抜け出して去って行けば、もはや後悔の余地はない。
「老ゆること秋の葉の如(ゴト)く、行いは穢れ、襤縷(ランル)なり、命(イノチ)疾(ハヤ)く脱至(ダッシ)せば、後悔を用いず」(老耄品)

 言葉を失った若いバラモン行者たちへ、釈尊は「正しい人の道を歩み、真の福徳を得て、苦から救われる4つの時期」を指摘しました。

1 若くて勢いのある時期。
2 地位も財産もある時期。
3 仏法僧という福田(フクデン…実りをもたらす田のように福徳を与えるもの)に出会う時。
4 万物が散り果てる様子を考える時期。


 つまり、いつでもその道は歩み始められるのですが、若い時期には勢いが、地位や財産に恵まれればその力が、せっかく仏法僧に会ってもその価値に気づかない心が、そして老いれば気弱さが邪魔をするのです。
 ならば、たった今、邪魔ものを取り除いて歩み始めるしかありません。
 煩悩につきまとわれている私たちにとって邪魔ものが自然に消える時期はなく、待っていても、無意味です。

寿命は日夜に減り、いつ尽きるともわからないので、しかるべき時に精進すべきである。世間のことごとは明らかに非常であり、惑って暗黒へ堕ちてはならない。
「命は日夜に尽きんと欲(ス)れば、時に及んで懃力(キンリキ)す可(ベ)し。世間は諦(アキ)らかに非常なれば、惑うて冥中(メイチュウ)に堕すること莫(ナ)かれ」(老耄品)

○学んで心の灯火を燃やし、自ら鍛錬して智慧を求めねばならない。煩悩の垢を離れ、染められぬようにせよ。心の灯火をもって、悟りの世界を観よ。
「当(マサ)に学びて意(ココロ)の灯(トモシビ)を燃やし、自(ミズカ)ら練りて智慧を求むべし。垢(ク)を離れて染汚(ゼンマ)すること勿(ナ)かれ。燭(トモシビ)を執(ト)りて道地(ドウチ)を観ぜよ」(老耄品)

 釈尊はこう説き、大光明を放って天地を輝かせました。
 若いバラモン行者たちは心から帰依して悟りを開き、村人たちも皆、悟りを得て歓喜しました。

〈四国八十八霊場雲辺寺のラカン像:「四国名刹」よりお借りして加工しました〉
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