自他を幸せにする『四無量心』 10 ─鶴見署長大川常吉に学ぶ その2―
今年のお彼岸も、『法楽の苑』で、あるいは本堂で、あるいはお訪ねしたお宅で、ご縁の方々とたくさんの言葉を交わしました。
感謝し、教えていただくできごとは山ほどありましたが、とりわけ、Sさんのお宅で法事を行い、いつものように法話をした結果は強く印象に残りました。
法事の数日後、Sさんがお塔婆を受け取りに来られた時のことです。
いきなり「あの時の法話は、あそこで住職さんの心に浮かんだのですか?」との質問を受けました。
「いいえ、今回のお彼岸を迎えて閃いた話をしようと、あちこちで採りあげていたできごとでした」と応えながら、何ごとだろうと考えました。
話は、関東大震災直後の混乱の中で、たくさんの朝鮮人を救った横浜鶴見署長大川常吉の捨て身の善行についてでした。(※詳しくは「お彼岸の法話 ─鶴見署長大川常吉に学ぶ─」にあります)
Sさん宅では、このできごとを知った若い方もご年配の方も熱心に質問され、とても有意義な時間を過ごしたのです。
さて、Sさんは続けて言われます。
「あの場に若い女性がいて質問したことを覚えておられますか?」
確かに、とても利発そうながらどこか控えめな女性が、真剣な目をしてまっすぐにこちらを見ておられました。
「彼女は一族のお嫁さんになった韓国の人ですが、これまでは親戚が集まってもほとんど発言せず、いつも無口でした。
ところが、この間の法要では一緒にお経を口にしていたし、終わってから住職さんと積極的にやりとりをしたので、皆が驚きました。
お話を聞いて、何かがふっきれたんでしょうかねえ」
大川常吉のできごとがあってから、もう83年の月日が経ちました。
しかし、一身を提して生き仏となった人の善行の功徳力は凄まじく、未だに私たちを導き、勇気づけ、救いをもたらしています。
誰しもが本来は仏であり、生き仏になれるはずです。
十善戒を守り、五種供養に励み、四無量心を持って身・口・意をみ仏と一致させ、即身成仏(ソクシンジョウブツ)すなわち大川常吉のような〈生き仏体験〉をくり返したいものです。
これが自他を救う確かな方法であることを、重ねて教えていただいた一件でした。
感謝し、教えていただくできごとは山ほどありましたが、とりわけ、Sさんのお宅で法事を行い、いつものように法話をした結果は強く印象に残りました。
法事の数日後、Sさんがお塔婆を受け取りに来られた時のことです。
いきなり「あの時の法話は、あそこで住職さんの心に浮かんだのですか?」との質問を受けました。
「いいえ、今回のお彼岸を迎えて閃いた話をしようと、あちこちで採りあげていたできごとでした」と応えながら、何ごとだろうと考えました。
話は、関東大震災直後の混乱の中で、たくさんの朝鮮人を救った横浜鶴見署長大川常吉の捨て身の善行についてでした。(※詳しくは「お彼岸の法話 ─鶴見署長大川常吉に学ぶ─」にあります)
Sさん宅では、このできごとを知った若い方もご年配の方も熱心に質問され、とても有意義な時間を過ごしたのです。
さて、Sさんは続けて言われます。
「あの場に若い女性がいて質問したことを覚えておられますか?」
確かに、とても利発そうながらどこか控えめな女性が、真剣な目をしてまっすぐにこちらを見ておられました。
「彼女は一族のお嫁さんになった韓国の人ですが、これまでは親戚が集まってもほとんど発言せず、いつも無口でした。
ところが、この間の法要では一緒にお経を口にしていたし、終わってから住職さんと積極的にやりとりをしたので、皆が驚きました。
お話を聞いて、何かがふっきれたんでしょうかねえ」
大川常吉のできごとがあってから、もう83年の月日が経ちました。
しかし、一身を提して生き仏となった人の善行の功徳力は凄まじく、未だに私たちを導き、勇気づけ、救いをもたらしています。
誰しもが本来は仏であり、生き仏になれるはずです。
十善戒を守り、五種供養に励み、四無量心を持って身・口・意をみ仏と一致させ、即身成仏(ソクシンジョウブツ)すなわち大川常吉のような〈生き仏体験〉をくり返したいものです。
これが自他を救う確かな方法であることを、重ねて教えていただいた一件でした。
自他を幸せにする『四無量心』 9 ―喜無量心とは―
4 他の喜びを自分の喜びとするく喜無量心(キムリョウシン)とはどういう心でしょうか。
それは、一つには、他者へ幸福を与えないではいられない心です。
喜無量心が深まると、観音様にもなれるとされています。
観音様は、詳しくは「観世音菩薩」といい、人々の救いを求める声を漏らさず聞いて、ただちに救済のための手だてをしてくださる方です。
このようになれたら最高ですね。
もう一つには、他者の幸福を決して妬まない心です。
私たちは、ともすると、嫉妬心を起こします。嫉妬は人間にとって最後まで解決できない難問であると言う人さえいるほど厄介なものです。
さて、観音様には別な呼び名があります。般若心経などでおなじみの「観自在菩薩」です。
観ること自在な菩薩様とは、まず、この世のありさまをすべて観通し、そして、この世をあらしめている真理を観通し、真実世界を現してお救いくださる方です。
このようになれたら、もう、嫉妬など、どこにもなくなることでしょう。
観音様を象徴する蓮華のように清浄になる道へ入れば、どす黒く、穢れ、卑しく、品性を貶める嫉妬心は、真っ先に消え去るはずです。
5 こうした心をつくるための真言が今に伝えられ、摩利支天(マリシテン)法で修行する穏形流居合の行者たちは四無量心を求めて日々唱え、稽古をしています。
真言は祈りの言葉であり、霊性の波動をもたらすものです。
「こうありたい」と願う極限の思い、つまり「祈り」は必ず言葉を必要とします。
そうした思いに対してみ仏からお与えいただいた〈言葉の結晶〉が真言であり、真言は、祈りの心をみ仏へ伝える霊性の叫びとなります。
それが真心から発せられる時、み仏のお慈悲が動かぬはずはありません。
だからこそ「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボウジソワカ」と真言を唱える般若心経などは、仏法でも神道でも尊ばれて来ました。
教典から人生訓を得ようとするよりも、まっさらな祈りを抱き、至心に読誦したいものです。
それは、一つには、他者へ幸福を与えないではいられない心です。
喜無量心が深まると、観音様にもなれるとされています。
観音様は、詳しくは「観世音菩薩」といい、人々の救いを求める声を漏らさず聞いて、ただちに救済のための手だてをしてくださる方です。
このようになれたら最高ですね。
もう一つには、他者の幸福を決して妬まない心です。
私たちは、ともすると、嫉妬心を起こします。嫉妬は人間にとって最後まで解決できない難問であると言う人さえいるほど厄介なものです。
さて、観音様には別な呼び名があります。般若心経などでおなじみの「観自在菩薩」です。
観ること自在な菩薩様とは、まず、この世のありさまをすべて観通し、そして、この世をあらしめている真理を観通し、真実世界を現してお救いくださる方です。
このようになれたら、もう、嫉妬など、どこにもなくなることでしょう。
観音様を象徴する蓮華のように清浄になる道へ入れば、どす黒く、穢れ、卑しく、品性を貶める嫉妬心は、真っ先に消え去るはずです。
5 こうした心をつくるための真言が今に伝えられ、摩利支天(マリシテン)法で修行する穏形流居合の行者たちは四無量心を求めて日々唱え、稽古をしています。
真言は祈りの言葉であり、霊性の波動をもたらすものです。
「こうありたい」と願う極限の思い、つまり「祈り」は必ず言葉を必要とします。
そうした思いに対してみ仏からお与えいただいた〈言葉の結晶〉が真言であり、真言は、祈りの心をみ仏へ伝える霊性の叫びとなります。
それが真心から発せられる時、み仏のお慈悲が動かぬはずはありません。
だからこそ「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボウジソワカ」と真言を唱える般若心経などは、仏法でも神道でも尊ばれて来ました。
教典から人生訓を得ようとするよりも、まっさらな祈りを抱き、至心に読誦したいものです。
自他を幸せする『四無量心』 8 ―悲無量心とは―
1 他の苦を抜く悲無量心(ヒムリョウシン)とはどういう心でしょうか。
それは、他の悲しみを自分の悲しみと感じる心です。
相手の心に合わせた限りない同情です。
ちょっと考えただけでは、なぜこれがみ仏の心なのか解らないかも知れません。
たとえば長年、家族同様にかわいがっていたネコが死んで悲しんでいる場合、誰かが一緒に悲しんでくれたからといって、ネコの死という悲しみの原因はどうしようもないからです。
しかし、悲しみの起こったきっかけはネコの死ですが、根本原因は自分の心にあります。
その証拠に、家族間で悲しみの具合はそれぞれ異なっているはずです。
娘さんは休校するほどうちひしがれても、息子さんは平気で登校し、家に帰ってからは何ごともなかったかのように遊びにでかけるかも知れません。
毎日餌をやっていたお母さんは落ち込んで食欲もないけれど、お父さんはちょっと手を合わせただけで、いつものようにさっそうと会社へ向かうかも知れません。
起こってしまったきっかけはどうすることもできません。時間を過去へ戻すことはできないからです。
でも、悲しみという色に染まっている自分の心を別の色で染めることはできます。
そのきっかけが、「誰かが悲しみを共にしてくれる」ことです。
いたわりへの感謝や喜びや、悲しいのは自分だけではないという一種の安心感などが悲しみを薄れさせ、場合によっては、友情を深めたりもします。
2 「なぜ私だけがこんな目に遭うのだろう?」と心がどんどん暗くなる場合があります。
何度も何度も自分の身に起こっている不幸、不運の数々を数え上げ、決して答の得られない「なぜ?」をくり返します。
こういう時こそ悲無量心が救いになります。
最初は「貴方が悲しんでくれても、私の深い悲しみは消えません」と頑なになるかも知れません。
しかし、ただ言葉で「大変でしょうねえ」と言うだけでなく、自分も大きな悲しみを乗り越えた、あるいは大きな悲しみの裡にあるので、とても他人ごととは思えないという真心を誠心誠意伝える努力をすれば、やがては通じます。
言葉が行き詰まったならば、黙ってそばにいるだけでも良いのです。
寄り添うことによって、いのちのエネルギーを分け与えられる場合もあるものです。
3 同情心のあまり、自分がいろいろ「引き受けてしまう」方がおられます。
こうした時は、
を思い出してください。
釈尊は、万人の悲しみを我が悲しみと感じておられるので、お心には次々と憂いが生じておられるはずなのに、お優しく澄んだ御眼を見る限り、そうした気配すらありません。
それは、ご自身の心の中で悲しみを解消し、その境地を見せてお導きくださっているからです。
「お前たちの悲しみは解る。我が心にもそれは映っている」とお言葉にだされない限り、まるで憂いはかけらもないようですが、そうではないのです。
では、どうすれば釈尊の境地に近づけるのか?
それが修行です。
もし、心に強さが残っている場合は、〈自分に厳しく〉しましょう。
摩利支天(マリシテン)の法を行う穏形流居合で唱える『七言法』を読誦し、心を創るのです。
もし、心が弱ってしまった場合は、〈優雅で和やかな心〉をめざしましょう。
それには、徳のある人を素直に尊敬し、善行を素直に認め、できる限りにおいて善行に参加し、向上心を忘れず、人の道を学び続けることです。
ここでくわしくは述べ切れませんが、こうした心がけによって立ち直りましょう。
そして、優しさに強さを加えて、まっとうに生きて行きましょう。
それは、他の悲しみを自分の悲しみと感じる心です。
相手の心に合わせた限りない同情です。
ちょっと考えただけでは、なぜこれがみ仏の心なのか解らないかも知れません。
たとえば長年、家族同様にかわいがっていたネコが死んで悲しんでいる場合、誰かが一緒に悲しんでくれたからといって、ネコの死という悲しみの原因はどうしようもないからです。
しかし、悲しみの起こったきっかけはネコの死ですが、根本原因は自分の心にあります。
その証拠に、家族間で悲しみの具合はそれぞれ異なっているはずです。
娘さんは休校するほどうちひしがれても、息子さんは平気で登校し、家に帰ってからは何ごともなかったかのように遊びにでかけるかも知れません。
毎日餌をやっていたお母さんは落ち込んで食欲もないけれど、お父さんはちょっと手を合わせただけで、いつものようにさっそうと会社へ向かうかも知れません。
起こってしまったきっかけはどうすることもできません。時間を過去へ戻すことはできないからです。
でも、悲しみという色に染まっている自分の心を別の色で染めることはできます。
そのきっかけが、「誰かが悲しみを共にしてくれる」ことです。
いたわりへの感謝や喜びや、悲しいのは自分だけではないという一種の安心感などが悲しみを薄れさせ、場合によっては、友情を深めたりもします。
2 「なぜ私だけがこんな目に遭うのだろう?」と心がどんどん暗くなる場合があります。
何度も何度も自分の身に起こっている不幸、不運の数々を数え上げ、決して答の得られない「なぜ?」をくり返します。
こういう時こそ悲無量心が救いになります。
最初は「貴方が悲しんでくれても、私の深い悲しみは消えません」と頑なになるかも知れません。
しかし、ただ言葉で「大変でしょうねえ」と言うだけでなく、自分も大きな悲しみを乗り越えた、あるいは大きな悲しみの裡にあるので、とても他人ごととは思えないという真心を誠心誠意伝える努力をすれば、やがては通じます。
言葉が行き詰まったならば、黙ってそばにいるだけでも良いのです。
寄り添うことによって、いのちのエネルギーを分け与えられる場合もあるものです。
3 同情心のあまり、自分がいろいろ「引き受けてしまう」方がおられます。
こうした時は、
「君看(ミ)ずや双眼の色 語らざれば憂いなきに似たり」
を思い出してください。
釈尊は、万人の悲しみを我が悲しみと感じておられるので、お心には次々と憂いが生じておられるはずなのに、お優しく澄んだ御眼を見る限り、そうした気配すらありません。
それは、ご自身の心の中で悲しみを解消し、その境地を見せてお導きくださっているからです。
「お前たちの悲しみは解る。我が心にもそれは映っている」とお言葉にだされない限り、まるで憂いはかけらもないようですが、そうではないのです。
では、どうすれば釈尊の境地に近づけるのか?
それが修行です。
もし、心に強さが残っている場合は、〈自分に厳しく〉しましょう。
摩利支天(マリシテン)の法を行う穏形流居合で唱える『七言法』を読誦し、心を創るのです。
一 我、愚痴を言わず未来を語るは、人につけいられず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、好むと好まざるを語らぬは、人に束縛されず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、自他のものの区別をするは、人に疎んぜられず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、明と闇の区別をするは、人をまどわさず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、公と私の区別をするは、人の輪をこわさず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、恩をきせず恩を忘れぬは、人の道を忘れず、 自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、権利より尊さを主張するは、人は万物の長であることを忘れず、自他の発展を願うがゆえなり。
もし、心が弱ってしまった場合は、〈優雅で和やかな心〉をめざしましょう。
それには、徳のある人を素直に尊敬し、善行を素直に認め、できる限りにおいて善行に参加し、向上心を忘れず、人の道を学び続けることです。
ここでくわしくは述べ切れませんが、こうした心がけによって立ち直りましょう。
そして、優しさに強さを加えて、まっとうに生きて行きましょう。
自他を幸せにする『四無量心』 7 ―出棺経―
火葬場へ行く前に唱える『出棺経』というものがあります。
終われば棺が封をされ、御霊は火葬場へ行かねばなりません。
このお経はわりあい短い時間で唱えられますが、なかなか難しいものです。
私たちは、自分の存在を意識で感じています。
しかし、同時に、無意識の裡に肉体でそれを確認しています。
自分とは畢竟、心ですが、肉体を離れては安心できないのです。
だから、肉体が焼かれるという超非常事態を前にした御霊に執着を離れて安心していただくためには、教えを説き、しっかり法を結ばねばなりません。
数日前の人生相談は、金銭トラブルが家族間のあつれきを生んだものでした。
もつれた糸をほぐすには、どうしても手放さねばならないものが生じます。
その順番は、第一に財物です。
しかし、大きな財物があると、それをよりどころにしたままで何とかしようともがきます。
第一に手放すべきものへ、逆にすがろうとするのです。
これではますます追いつめられ、やがて心が破綻すれば、財物は何の役にも立たない無用の長物となりはてます。
だから、一番の責任者へ
「自ら無一文になってやり直してはいかがですか。
貴方がすべてを捨てて生き直せば、ご家族の皆さんも、関係者も生き直せますよ。
そうすれば、やがては財物が皆のために役立つ時が来るかも知れません。
しかし、貴方が財物へしがみついていると、誰の心にも新鮮な風が吹かず、お互いの苦は増すばかりとなるでしょう」
と申し上げました。
形あるものにすがりたいのは誰でも同じなのです。
この世に人間として生じた魂は、かりそめの肉体をよりどころとして修行します。
しかし、肉体は便利な道具である一方、魂を縛り、時には汚しもします。
そうした謂わば自分の相棒と別れることは誰にとってもこの上なく辛いものですが、無限の修行道の一里塚とあれば、必ず越えて行かねばなりません。
この放擲(ホウテキ…投げ捨てること)は、かりそめのものを実体視する迷妄を離れるための最大の試練でもあります。
肉体を失うのは御霊も辛い、お別れをする皆さんも辛い、そして四無量心を心がけて修法する私も例外ではありません。
皆さんの慟哭や悲嘆は私の心も濡らします。
その時、すべてをお救いくださるのは初七日をご守護くださる不動明王です。
一心に祈り、今日も、皆さんと共に厳しい修行をさせていただきました。
終われば棺が封をされ、御霊は火葬場へ行かねばなりません。
このお経はわりあい短い時間で唱えられますが、なかなか難しいものです。
私たちは、自分の存在を意識で感じています。
しかし、同時に、無意識の裡に肉体でそれを確認しています。
自分とは畢竟、心ですが、肉体を離れては安心できないのです。
だから、肉体が焼かれるという超非常事態を前にした御霊に執着を離れて安心していただくためには、教えを説き、しっかり法を結ばねばなりません。
数日前の人生相談は、金銭トラブルが家族間のあつれきを生んだものでした。
もつれた糸をほぐすには、どうしても手放さねばならないものが生じます。
その順番は、第一に財物です。
しかし、大きな財物があると、それをよりどころにしたままで何とかしようともがきます。
第一に手放すべきものへ、逆にすがろうとするのです。
これではますます追いつめられ、やがて心が破綻すれば、財物は何の役にも立たない無用の長物となりはてます。
だから、一番の責任者へ
「自ら無一文になってやり直してはいかがですか。
貴方がすべてを捨てて生き直せば、ご家族の皆さんも、関係者も生き直せますよ。
そうすれば、やがては財物が皆のために役立つ時が来るかも知れません。
しかし、貴方が財物へしがみついていると、誰の心にも新鮮な風が吹かず、お互いの苦は増すばかりとなるでしょう」
と申し上げました。
形あるものにすがりたいのは誰でも同じなのです。
この世に人間として生じた魂は、かりそめの肉体をよりどころとして修行します。
しかし、肉体は便利な道具である一方、魂を縛り、時には汚しもします。
そうした謂わば自分の相棒と別れることは誰にとってもこの上なく辛いものですが、無限の修行道の一里塚とあれば、必ず越えて行かねばなりません。
この放擲(ホウテキ…投げ捨てること)は、かりそめのものを実体視する迷妄を離れるための最大の試練でもあります。
肉体を失うのは御霊も辛い、お別れをする皆さんも辛い、そして四無量心を心がけて修法する私も例外ではありません。
皆さんの慟哭や悲嘆は私の心も濡らします。
その時、すべてをお救いくださるのは初七日をご守護くださる不動明王です。
一心に祈り、今日も、皆さんと共に厳しい修行をさせていただきました。
自他を幸せにする『四無量心』 6 ―心の豊かな人 心の貧しい人―
心の豊かな人は、思いやりのある人です。
誰かに〈やれる〉温かな〈思い〉のある人です。
心の貧しい人は、思いやりのない人です。
誰かにやれる温かな心のない人です。
モノがなくとも、やれる心がどんどんあふれ出る人がいる一方、モノを求めて忙しいばかりに、やれる心の枯れる人もいます。
心が豊かであるか、貧しいかは、財や地位や名誉や年齢や健康などとは関係ありません。
財があって心も豊かな人がいれば、財はふんだんにあるのに心の貧しい人もいます。
財はなくとも心が豊かな人がいれば、財がなく心まで貧しい人もいます。
どちらの人になるかは、もちろんその人次第ですが、必ずしも心がけが悪いから心の貧しい人になるとは限りません。
過酷な環境や重い病気や突然の事故などに負けて心が貧しくなってしまった人を責めてはなりません。
もちろん、負けたことは誰のせいにもできませんが、私たちは誰でも、いつ、何に負けてしまうか判らない存在であることを謙虚に見つめねばなりません。
辛い状況になった時、“どうして自分だけがこんな目に遭わねばならないのか………”という思いを簡単に払拭できる人ばかりではないのです。
私たちは、一瞬後に環境が激変するかも知れないし、発病するかも知れません。あるいは事故に遭ったとしても、何の不思議もないではありませんか。
心の豊かな人に救われる場合があり、心の貧しい人に鍛えられる場合もあります。
心の豊かな人のそばで憩える場合があり、心の貧しい人の仕打ちに心が萎える場合もあります。
そもそも、自分自身が、時には心豊かになり、時には心貧しくなってはいないでしょうか。
この世は、心の豊かな人と心の貧しい人とが万華鏡のように変化し、つながり、離れながら創っている一瞬、一瞬の連続です。
こうして生き、死ぬ人々は何と愛おしい存在でしょうか。
慈しみ合えば、この世は優しさであふれます。
人は何と哀しい存在でしょうか。
誰かの哀しみを分かち合えば、哀しみはそれだけ薄れます。哀しみは霊性が減らすのす。
人は一時の喜びに救われてこそ、哀しみの海を泳ぎ続けられます。
誰かの喜びを我がことと思えれば、喜びは何倍にもなります。喜びは霊性が増やすのす。
人は同じ時、同じ地球上に薄く漂う空気を吸う仲間によって支えられています。
生きとし生けるものは、皆、仲間です。
慈しみを抱き、悲しみを分かち合い、喜びを共にし、気まま勝手な選り好みを捨てましょう。
この「四無量心(シムリョウシン)」こそが、心を豊かにする打ち出の小槌です。
誰でも持てる小さな宝ものを、持ってみませんか。
誰かに〈やれる〉温かな〈思い〉のある人です。
心の貧しい人は、思いやりのない人です。
誰かにやれる温かな心のない人です。
モノがなくとも、やれる心がどんどんあふれ出る人がいる一方、モノを求めて忙しいばかりに、やれる心の枯れる人もいます。
心が豊かであるか、貧しいかは、財や地位や名誉や年齢や健康などとは関係ありません。
財があって心も豊かな人がいれば、財はふんだんにあるのに心の貧しい人もいます。
財はなくとも心が豊かな人がいれば、財がなく心まで貧しい人もいます。
どちらの人になるかは、もちろんその人次第ですが、必ずしも心がけが悪いから心の貧しい人になるとは限りません。
過酷な環境や重い病気や突然の事故などに負けて心が貧しくなってしまった人を責めてはなりません。
もちろん、負けたことは誰のせいにもできませんが、私たちは誰でも、いつ、何に負けてしまうか判らない存在であることを謙虚に見つめねばなりません。
辛い状況になった時、“どうして自分だけがこんな目に遭わねばならないのか………”という思いを簡単に払拭できる人ばかりではないのです。
私たちは、一瞬後に環境が激変するかも知れないし、発病するかも知れません。あるいは事故に遭ったとしても、何の不思議もないではありませんか。
心の豊かな人に救われる場合があり、心の貧しい人に鍛えられる場合もあります。
心の豊かな人のそばで憩える場合があり、心の貧しい人の仕打ちに心が萎える場合もあります。
そもそも、自分自身が、時には心豊かになり、時には心貧しくなってはいないでしょうか。
この世は、心の豊かな人と心の貧しい人とが万華鏡のように変化し、つながり、離れながら創っている一瞬、一瞬の連続です。
こうして生き、死ぬ人々は何と愛おしい存在でしょうか。
慈しみ合えば、この世は優しさであふれます。
人は何と哀しい存在でしょうか。
誰かの哀しみを分かち合えば、哀しみはそれだけ薄れます。哀しみは霊性が減らすのす。
人は一時の喜びに救われてこそ、哀しみの海を泳ぎ続けられます。
誰かの喜びを我がことと思えれば、喜びは何倍にもなります。喜びは霊性が増やすのす。
人は同じ時、同じ地球上に薄く漂う空気を吸う仲間によって支えられています。
生きとし生けるものは、皆、仲間です。
慈しみを抱き、悲しみを分かち合い、喜びを共にし、気まま勝手な選り好みを捨てましょう。
この「四無量心(シムリョウシン)」こそが、心を豊かにする打ち出の小槌です。
誰でも持てる小さな宝ものを、持ってみませんか。


