--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2015
10.06

『ヒマラヤの民話を訪ねて』 ―ネズミと毘沙門天―

201510060001.jpg

 作家茂市久美子氏は、昭和52年から、標高5000メートル級の山々が連なるヒマラヤの奥地を訪ね、民話の聴き取りを行った。
 シェルパが活躍していた空間はまるで「昔話の世界」だったという。
 そして、膨大な民話から41編を選び『ヒマラヤ民話を訪ねて』にまとめた。
 その中に、私たちにもなじみの深い毘沙門天(ビシャモンテン)についての言い伝えがある。
 「前世での行い」と題された1編を読んでみたい。

 昔、トット・メルン・ドルジェというたいそう頭のよい男がありました。
 天涯孤独の身で、僧侶のような暮らしをしていました。
 また、とても貧しくて、ランマという灌木の細長い葉っぱばかり食べていたため、顔の色が茶色でした。

 あるとき、トット・メルン・ドルジェは、七日間、一心にさまのギャルプーナムディセー(毘沙門天)にお祈りしました。
 はたして、七日目に祈りは通じ、さまが現れて、
「どうしたのじゃ、何を困っておるのじゃ?」
と訊ねました。
「私は、長い間、ランマの葉っぱばかり食べて暮らしてまいりました。
 けれども、これからは少し豊かな暮らしがしたいと思います。」
 トット・メルン・ドルジェが答えて言うと、さまの手から、たくさんの宝石が出てきました。

 ところが、さまが帰ったあと、トット・メルン・ドルジェが宝石にさわると、それはただの石に変わってしまいました。
 トット・メルン・ドルジェは、ふたたび祈って、ギャルプーナムディセーをよびました。
 しかし、今度もまた、さまのくれた宝石はただの石に変わってしまいました。

 こうなったわけは、トット・メルン・ドルジェの前世での行いがあまりよくなかったためでした。
 ただ、その彼にも、前世においてたったひとつだけ、よい行いがありました。
 それはトット・メルン・ドルジェが若いころ、コンブ―村でヤギ飼いをしていたとき、蟻の巣の上に、自分の食べた麦こがし(ツァンパ)の残りを落としてあげたことでした。
 そこで、さまはトット・メルン・ドルジェに言いました。
「コンブー村に行くがよい。
 おまえの願いがかなうであろう。」

 トット・メルン・ドルジェがコンブー村にやって来て、しばらく経ったある日のことです。
 物乞いをした家で、普通の人なら二日かかるお経を一日で読んでくれる僧侶を探していました。
 わけを尋ねると、病人がいて、もしも一日でお経を読んでもらえば、病気が直るといいます。
 頭のよいトット・メルン・ドルジェには、お経を一日で読むなどわけのないことでした。
 そこでさっそく病人の枕元にすわり、二日かかるお経を一日で読んであげました。
 すると、あくる日、病人はすっかり元気になって起き上がりました。

 このうわさは、あっという間に村中に広まりました。
 トット・メルン・ドルジェの前には、次から次と病人が現れはじめました。
 トット・メルン・ドルジェはそのたびに、普通の人ならば二日かかって読むお経を一日で読みあげ病人を助けました。
 日が経つにつれ、トット・メルン・ドルジェは、コンブー村で大変有名になっていました。
 彼の直した病人は百人にものぼり、今や、その暮らしはとても豊かでした。

 じつはその病人たちは、前世でトット・メルン・ドルジェが麦こがしをやった蟻たちだったのです。
 蟻たちは、現世では人間に生まれ変わり、トット・メルン・ドルジェを助けたのでした。


 毘沙門天は、福徳・財産の神として広く信仰を集め、現地の尊像では、宝ものを吐くネズミが掌に乗っている。
 何の変哲もない民話だが、著者は実際に、神への祈りによって救われたとしか思えない人々に会っている。
 ヒマラヤならではの生活や信仰があるのだろう。

 小生も托鉢の途中で幾度となく、ご祈祷やご供養を頼まれた。
 玄関の上がり框(カマチ)にギックリ腰で立てないご婦人がおられ、一心にご加持法を行った農村の光景が懐かしく思い出される。
 団地では、ちょうど亡きご主人の命日に玄関を叩き、泣いて喜ばれつつ般若心経を唱えたこともあった。
 漁村では、出向中の船が無事、帰ってくるよう祈った。
 あいにく〈前世のネズミたち〉ほどのご利益にあずかってはいないが、中年にさしかかって開基した寺院が何とか成り立っているのは、どこかで毘沙門天が見守っておられるのかも知れない。
 そう言えば、四国八十八霊場を巡拝した際にお会いした雲辺寺毘沙門天像は今も脳裏に残っている。
 NHKの大河ドラマで、上杉謙信率いる騎馬武者たちが吹雪の中を越後へ引き返すシーンも忘れられない。
 蹄の音ではなく、謙信の守護神である毘沙門天の真言「おん べいしらまんだや そわか」を唱える僧侶たちの読経が、次々と闇へ消えて行く武者たちを追うように流れていた。
 托鉢の途中で幾度もお救いいただいた毘沙門天の真言はもう口癖に近い。
 そんな小生はこの民話に強く心をうたれ、転記した。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



スポンサーサイト
2015
09.26

輪廻転生の根拠 ―見える世界と見えない世界―

201509250006.jpg
〈彼岸供養会を終え、仏神と祖霊へ共に感謝し、お互いが生きてあることを共に喜び合いました〉

 ダライ・ラマ法王は、著書『ダライ・ラマ〈心〉の修行』のQ&Aにおいて輪廻転生(リンネテンショウ)の根拠を尋ねられ、答えておられる。

「『命あるものはみな生まれ変わる』ということについては、確かな証拠があるわけではありませんので、各個人によってものの考え方の違いがあると思います。
 しかし『前世や来世など存在しない』と思って悪い行いを平気で積み重ねていて、もし本当に来世が存在していたならば、それらの悪い行いから生じてくる苦しみは、自分自身が背負っていかなければならないことになります。
 その逆に、たとえ来世がなかったとしても、来世における良い結果を生むような良い行いをしていれば、自分には何の危険も生じてはきません。」


 法王はまず、因果応報の原理によれば必ずいつかは善業(ゼンゴウ)に対する善果、悪業(アクゴウ)に対する悪果が生じる以上、もしも来世があった場合、悪業を積んでいる人は恐ろしいことになると警告する。
 その一方で、善業を積んでいる人は、来世があろうとなかろうと何の心配もない。
 輪廻転生と並んで仏教の根幹となっている因果応報は、しっかり理解されていることが望ましい。
 法王が最初にこのことを説かれたのは、常に具体的救済をこそ目指してこられたからだろう。
 

「さらに、釈尊が説かれているように、この世に存在する現象には、実際に自分の目で見て確かめられる現象、表立ってあらわれてこない潜在している現象、さらに深いレベルで潜在している現象、という三つのカテゴリーがあるのです。
 実際に私たちの目に見える現象は、誰の目にも見えるものですから、その現象が存在することを誰もが認めることができます。
 しかし、他の二つの表立ってあらわれてこない現象については、実際には私たちの目には見えないわけですから、確かにこれらが存在するという証拠を見せることはできません。
 それらの現象の存在は、各自の推定に基づいて判断しなければならないのです。」


 私たちは「意識」と言い、「自分」と言うが、それらは普通、眠っていない状態つまり、普通に言う目覚めている状態での意識であり、その意識に支えられた自分である。
 しかし、眠っている時に夢を見れば、そこでも意識がはたらいており、そうしているのは自分だ。
 さらに、眠っていて夢を見ていない場合、決して意識も自分も無くなってしまったわけではなく、はたらきに気づかないだけである。

 また、普通、自分と意識しているのは表面の自分であり、その意識の下には、それと気づかぬうちに自分を動かしてしまう無意識の自分(育ちや生活の経験が積み重なったもいの)がいるし、さらにその下には生まれもった頑固な自分(過去の因縁が積み重なったもの)がいる。
 これだけではない。
 仏教の行者は、もっと奧に仏性として無限の世界につらなる意識を感得している。

 仏教の唯識(ユイシキガク)思想の後を追うように西洋心理学も深められ、潜在意識、深窓意識などという言葉は広く知られている。
 そうした幾重にもなっている意識という鏡に映し出される現象としてのこの世もまた、決して〈見える範囲〉にとどまるものではない。

前世や来世があるかどうかについては、実際に自分の前世のことを覚えている人がこの世界には何人もいるのです。
 そしてその人たちが、自分の前世はこのようなものであった、と述べている前世での出来事が、実際にあった事実に一致することが確かめられています。
 このような事実は、私たちの意識の流れが、はじまりなき遠い昔からずっと続いてきたものであることのひとつの証明になると思いますし、そのような人たちがいること自体が、前世の存在を示していると思います。」


 カナダでナンバーワンと称される州立トロント大学医学部の精神科主任教授を務めるジョエル・L・ホイットン博士は、昭和61年(1986年)、13年間にわたる心理療法の体験を『輪廻転生 ―驚くべき現代の神話―』にまとめた。

輪廻転生が真実だという証拠については、そのほとんどが(物的証拠ではなく)状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理屈のうえで輪廻を認めるのに特に問題はないと思われます。」

「生や死とはいったい何なのか、ひとりびとりがなぜこんなにまちまちに生まれついているのか、という不思議を考えていくと、その行き着く先は、現代の物質中心の考えのうえに成り立つ科学では答えられない問題になってきています。」

「アメリカでは大人の三分の二が死後の世界を信じています。
 1982のギャラップ社の世論調査では、アメリカ人の23パーセントが輪廻を信じていると発表されています。」

「人間のおかれた状況を理解する一助となると信じて、私は永年にわたって集めてきたデータの公開に踏み切ったのです。」

「広範囲にわたる調査研究を行いさえすれば、あの世の秘密がさらに詳しくわかるだろうし、それを人間の進歩に役立てることもできよう。
 本書は、生と死のはざまを探検した最初の記録である。」


 人の肉体は死ねば骨になり土になり、さらに細かく分解されるだろうが、意識や自分は違う。
 自分は〈何者か〉としてどこからかやってきて、変化した〈何者か〉としてどこかへ行く。
 決して無にはなりようがない。
 その真実に立った倫理こそ、人を人たらしめ、人を荒廃させない。
 分析心理学を創始したカール・グスタフ・ユングは指摘した。

「合理主義と独断主義は現代の病である。
 これらはすべて答えを知っているかのごとく自負している。
 しかし、多くのことがまだこれから発見されることだろう。
 現代の我々の狭い視野から、それらは不可能として除外されてきた。
 我々の時間や空間の概念は、大体確実であるというにすぎない……。」

 実に、あらゆる分野で、割り切り過ぎる合理主義と権威や権力を振りかざす独断主義がまかりとおっている。
 学問であれ、宗教であれ、何であれ、謙虚さこそが真実の探求に最も必要なのではなかろうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
01.16

これって輪廻転生? ─孫が生まれた後にお祖母ちゃんが亡くなって、輪廻を感じた話(その1)─

20130116039.jpg

 これからご葬儀という朝、80才を過ぎた喪主のAさんがにこやかに控え室を訪れ、挨拶をされました。
 どうぞとイスを勧めたところ、やおら切り出された。
「このたび亡くなった妹は、誕生祝いを終えてすぐの他界でした。
 誕生祝いにはもう一つの意味があり、その数日前に孫が生まれていたのです。
 孫の誕生を喜んだ私たちが、引き続き、一緒に喜んでいた妹を送ることになり、この世へやってくる者と、この世から去る者の交差を意義深く感じています。
 こうした感慨を仏教の言葉ではどう表現するのでしょう?
 何となく『輪廻』を想うのですが……」
 
 Aさんは、ご縁があって当山へご葬儀を依頼されましたが、戒名も位牌もいらない家族葬を望まれました。
 その理由をこちらからお尋ねはしません。
 しかし、会館で真言宗の本尊大日如来をお祀りして作法通り枕経とお通夜を行い、経文と僧侶へもきちんと敬意をはらわれる様子に違和感はありません。
 お答えしました。
「そうです、輪廻転生(リンネテンショウ)です}
 Aさんは重ねて、さすがの質問をされます。
「転生になるのでしょうか?」
 孫が生まれてからお祖母さんが亡くなっており、転生とするには時間的な説明がつかないのではないかと言うのです。
「仏教で説く輪廻転生は、怪しい占い師が断言するような、特定の魂が時を超えて再生するといったものではありません。
 あなたの前世は中世の騎士です、などというご託宣は仏法の本質をふまえておらず、真理とする根拠がなく、ほとんど冗談や笑い話の類です。
 もちろん、超人的なレベルへ到達された方々に関するものは、我々凡夫の認識力や判断力を超えているので、例外的にそう見えるケースがあっても不思議ではありません。

 さて、お釈迦様は、永遠不変の魂(アートマン)があるとは言えないとされました。
 自分はここにいるし、自分の身体も確かに有るが、それは、諸条件によってかりそめに有るだけであり、永遠不滅の〈自分の魂〉がこの心と身体を支配し存続させているわけではないのです。
 これを(クウ)と表現します。

 は〈無い〉のではなく、欠けることなく満たされている真実を指します。
 しかし、この真実は、私たちの目に見え、耳に聞こえるものをそのまま相手にしているだけではなかなかつかめません。
 表れとして見聞きできるこの世は、というありようをそのまま私たちへ示してはいません。
 私たちの心に、生き続けてたいという暗黙の前提があり、それが抜きがたいフィルターとなっているからです。

 生きものとしての私たちは、ありのままにを観られず、自分のいのちにとらわれて自己中心となり、自分の都合で愛憎を生み、他を害し、この世を苦の岐にしています。
 だから、お釈迦様は端的に、『普段、見聞きしているこの世にそのまま流されている限りは苦から解放されない。真実を観る目を持つために学び、修行せよ』と説かれました。
 決して闇雲に信じることを強制せず、学び、研究し、道理であると納得したものを身につけながら生きよと諭されました。
 だから仏教は、哲学や倫理学はもちろん、現代では心理学などの科学さえもふまえながら練られ、探求され続けています。
 仏教は、を観る目の養い方を探求し、発展してきたと言っても過言ではありません。
 世界中に地域や歴史の色合いをまとったさまざまな仏教があるのはそのためです。
 宗派が数多くあって何の不思議もないのです。
 では、お釈迦様が説かれた輪廻転生とは何か?
 不動不変の魂が生まれ変わり死に変わりするのでなければ、仏教はなぜ、輪廻転生を説くのか?
 物質的世界と精神的世界は、お互いに関わり合いながら存在しているが、一体ではないというところに問題を説くカギがあります。」

※以下、「その2」へ続きます。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2012
11.09

死後のある日

20121109001.jpg
〈つかの間のかけはし〉

 栃木県へお詣りにでかけました。
 兄弟子が新しいお寺愛敬寺を開山したのです。
 本尊が不動明王、隣には愛染明王(アイゼンミョウオウ)がおられます。
 礼拝して護身法を結び、般若心経、真言と短い修法を終えて眼を開けたところ、光景が一変しています。
 なぜか、懐かしいのです。
「どこでお会いしたお不動様だろう?」
 いくら考えても思い出せません。
 もちろん、そうです。
 仏具店で出会ったお像を安置し、住職が数回、護摩を焚いたばかりなので、私がこれまでお会いしたはずはありません。
 しかし、帰り際にお堂を外から眺めてみても、初めてお訪ねした場所なのにどことなく既視感デジャヴ)が感じられます。
 建物やご本尊様そのものの形というより、空気感の懐かしさがあります。

 昼食をいただき、日が傾き始めた柿の木のある駐車場の前で別れを告げる直前、不意に気づきました。
 托鉢から指導してくださった兄弟子は私よりずっと若く、元気で、後継者の指導にも熱心です。
 さっきの既視感は、兄弟子が人々の幸せを願って新たに始めた寺院が隆盛となり、死後の私がそこを訪れる日が来ることを告げていたのです。
 死後の私が再び訪れる日をすでに感じとっていたのでしょう。
 お大師様が説かれた影向(ヨウゴウ…見えぬ身で向かい現れる)とはこの実現なのかも知れません。

 修法は不思議です。
 時空を超えます。
 だからこそ、遠隔加持法が行えます。
 
 頼もしい親子と必ず少し退がって夫へ寄り添う奥様の笑顔に送られて帰山しました。
 もちろん、いただいたご供物の数々だけでなく、大きな安堵をお土産に。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2012
09.06

心の強い人と心の弱い人 ─因果応報・輪廻転生は救われる道─

20120906013.jpg


 まじめに町内会の行事に参加しておられるAさんから質問がありました。

「私は意志が弱く、良いことをしようと思ってもなかなか実行できません。
 話し合いでも考えを主張できず、悔しいけど、いつも小さくなっているだけです。
 大きな声でどんどんやる人がいつも良いことをしているようには思えないのに、どうしようもありません。
 どうしたら良いでしょうか」

 この世には心の強い人と、心の弱い人がいます。

強い人
 強い人は、自分が打たれ強いので、なかなか心の弱い人の気持になれない場合があります。
 このケースでは、自分が正しいと思うやり方を譲らず、正しいことを通すためには、自分と違う考えを持っている人がどういう気持でいようが、あまり気になりません。
 弱い人を容易に傷つけ、そのことに気づかない場合もあり、気づいても無意識の意識へ追いやり、自分の方向性についての妥協はしません。
 行動は周囲のためになっていても、心にはトゲがどんどん伸びています。
 こうしたタイプの方は、このままでは「良いことをした人生なのに、なかなか極楽へ行けない人」になりかねません。

 強い人地獄行きを避けるための方法はたった一つ、弱い人の心になってみることです。
 たとえば、堂々と乗り物の席を譲れる人は、もじもじしながらも勇気を持って譲れない人の気持を察し、決して高慢な態度をとってはなりません。
 たとえば、ハキハキと受け答えできる人は、自分だけがどこででも主導権を握ろうとせず、謙虚にふるまう気持が必要です。
 そうすれば、功績に人徳が加わり、地獄行きにはならず、堂々と極楽へ向かえることでしょう。 

弱い人
 弱い人は、どうしても人前で上手に自分を主張できず、積極的に前へ出られず、せっかく善い意志を持っていてもなかなか実行できません。
 せっかく善い心があるのに、行動ではさしたる善行もできず、いやいやながら悪行にはまる場合もあります。
 しかし、弱い他人の苦しみは手に取るようにわかり、自分と同じように打ちのめされている人を労ったりもします。
 こうしたタイプの方は、強い人の陰に隠されて目立つ善行がなくても、「あまり良いこともしない割には、極楽へ向かいやすい人」になります。
 しかし、その可能性と同じように、地獄行きになってしまう可能性もあります。

 最も恐ろしいのは嫉妬です。
 強い人へ嫉妬を抱き、ともすれば邪魔したり引きずり下ろしたくなる時、自分の意志が薄汚れている事実に気づき、嫌悪したいものです。
 他を貶めることによって自分が浮かび上がるという発想は、権力闘争の修羅場ならいざ知らず、心の真実としては幻想です。
 他を貶める行為は、自分の運気を弱めるだけでなく、穢れにふさわしく暗い方向へと導くことでしょう。
 だから、必要なのは嫉妬ではなく、強い人の持つ能力をすなおに認め、同時に強い人の陥りやすいマイナスの可能性も冷静に見つめることです。
 そうすれば、強い人と比較せずとも、自分なりに歩む心の余裕が出てくることでしょう。
 少しづつでも自分の心を鍛えようとするかも知れません。
 あるいは、決してああした厚顔で心配りのできない人にはならないようにしようと、反面教師とするかも知れません。
 それらはすべて人格を練り、魂を向上させる道となります。
 あの世でいかなる世界へ行くかの心配はもう、要りません。

○結論
 強く自分を押し出せる人も、押し出せない人も、因果応報輪廻転生の理から観れば、結果がどう出るかの可能性は平等です。
 心の強い人も、弱い人も、自分のカラーを生かすと同時に弱点を克服する気持で人生を歩めばよいだけのことです。
 Aさん、「良かれ」「善かれ」と思う気持を捨てず、これからも町内内の活動へ参加し続けてください。
 最後に、ダライ・ラマ法王が、ホームレスが売る雑誌『ビッグイシュー日本版』で語られた言葉を引用しておきます、

「困難な状況に直面している人々と会った時は必ず、私は次のようなことを話します。
 多くの困難が眼の前に立ちはだかっていたとしても、一人の人間としての誇りを持ち続け、前を向いていかなければならないと。
 困難にくじけ、誇りや希望、願いを完全に失ってしまえば、困難から逃げることはできず、そしてその困難は、本物の絶望へと変化していきます。
 ですから、希望と決心を胸に抱き続けることは、何よりも重要なことなのです」






 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんざんざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。