修羅と天
学識経験、人格識見、どこから見ても立派な人が、なぜ、堕ちるのか。
それは、地獄、餓鬼、畜生といった表面に出やすい三悪道を脱していても、修羅や天という迷いの部分を脱しきることは困難だからです。
修羅は、自分より上の存在を認めたがりません。
嫉妬し、「何で私はあいつより下なんだ!」と不満や怒りを抱きます。
そして、「いつかはあいつよりも上になってやろう」と戦いの炎を燃やします。
こうした険しさが修羅の正体です。
憎しみや怨みが強ければ、決して「空(クウ)」を悟れません。
嫉妬や怒りは、その対象となっている相手と自分の精神のレベルが近いから起こるのであって、「あいつめ!」という状態の時は、内心でさんざん貶めている相手と自分が同レベルであることを認識すべきです。
そうすると自分が恥ずかしくなり、黒い炎が消える場合もあります。
天人は最高の楽しみに囲まれているので、必ず慢心します。
苦しみ、悲しみ、嘆いている修羅や人間や畜生などは自分より下であるという意識があります。
そうして弱者への慈悲から離れることは悪業を生み、必ず、天から転落する時を迎えます。
転落は5つの予兆となって始まり、自分の行く先が判ります。
天界から地獄界や畜生界へ行かねばならないことを知った時の嘆きや、恐怖や、失望はいかばかりでしょうか。
楽しみが大きかっただけに、落差は心をどん底へたたき落とすのに充分すぎます。
こうして、何不自由ないかに見える天界もまた、輪廻転生を免れることはできません。
のし上がる人や、のし上がった人が、修羅や天の要素を持たないことは困難です。
知らぬ間に嫉妬や慢心の汚れが悪業を積ませ、因果応報で悪果を招きやすくなります。
清浄な心で切磋琢磨しましょう。
清浄な心で立場や財物を活かしましょう。
釈尊が清浄な心で自分を見つめ、現象世界をありのままに観たからこそ安寧を得られたことを忘れないようにしたいものです。
事故死と病死
事故の時は、一瞬にして、人生のすべてが高速スライドのように現れ、そこに登場したすべての人へ「ありがとう」と挨拶したそうです。
病気の時は、三途の川と花畑が見え、引かれてゆきそうになったけれども誰かが呼んでいる声がしてハッとなり、ベッドの上の自分に気づいたそうです。
事故で亡くなった方は、まず、十一面観音のご守護を受けてから引導を渡され、彼岸へ渡ります。
それは、十一面観音は、いかなる逆境からも救い出してくださるお力があり、状況に応じて導く十一の面がすべて阿弥陀如来の宝冠をかぶり浄土よりの使者となっているからです。
病気などで亡くなった方は、最初から大日如来のご守護の法へ入り、引導を渡されます。
交通事故で死者が出た直後に現場を通りかかった方が、なぜか背中が重くなりましたと来山されたケースはいくつもありますが、病死の場合は、部屋に留まっている気配が気になって来山されるようです。
病人を送ったら背中が重くなったというご相談はありません。
こうした事実は、事故に遭っては人生の総括をする時間がなく、行く手を見極め難いことを物語っているのでしょうか。
私たちが老い、病気になった時、何をなすべきかが教えられているとも考えられます。
もう少し、考察しましょう。
クロの向上
(前世の善行が原因となり、この世に霊性を持った人間として生まれた。「前生(ゼンショウ)に善を修して今生(ンコンショウ)に人を得。
此の生に修せずんば、かって三塗(サンズ…地獄・餓鬼・畜生)に堕ちなん。
春の種(シュ)を下さずんば、秋の実いかんが得ん。
善男善女、仰がずんばあるべからず。仰がずんばあるべからず」
今、尊い人間として生きているからといって、善行に励み徳を積まなければ、来世は地獄界や餓鬼界や畜生界に堕ちてしまうことだろう。
それは、春に種を蒔かなければ秋の実りを得られないのと同じである。
善男善女よ、み仏の教えを信じ、その道理に従って生きようではないか)
当山にはクロという小さな黒猫がいます。
5年前、妻と寝起きしているプレハブのそばで、野良猫マイケルとエリザベスの子として生まれました。
一緒に生まれた2匹は、すぐにいなくなりました。
カラスなどにやられたのでしょうか。
マイケルは別の縄張りに移り住み、白と黒の華奢な身体で高貴な気配がありながらなかなかにすばしこいエリザベスが育てました。
一年もしないうちにエリザベスもどこかへ行き、クロはプレハブの出入り口付近で冬を迎えました。
たまたま雪の深い年で、とても小さなクロは生きられないだろうと思い、中へ入れました。
こうして飼い猫となったクロは、人間を親と思ったのか、まるで犬のように人間のそばを好む性格になり、耳や目や口元などをさまざまに変化させて感情を豊かに表現でき
るようになりました。
私が風呂へ入ったりトイレへ入ったりするとドアの外で待っている場合があるので、出入りには注意しています。
顔にある筋肉の関係上、イヌやネコには人間のような表情がないそうですが、感情の動きは解ります。
さて、私は、時折、彼女へこんな言葉をかけています。
「野良猫だったのが飼い猫になり、ネコ好きな皆さんに可愛がってもいただき、良かったね。
皆さんを癒しながら随分と徳を積んだね。
もっと向上しようね。
メダカだって遺伝子の6割が人間と共通しているんだから、お前と私は随分と近いんだよ。
今度は野良猫でなく、もっと人間の近くに生まれてきなさいよ」
覚海大徳の生まれ変わり
大徳とは徳の高い長老、検校とは寺務の一切をとりしきる人です。
まず天王寺の西の海で蛤だった時、海辺で遊んでいた子供に拾われ、金堂の前へ置かれました。
そこで仏舎利を讃嘆する経典を聞く功徳によって、死後は天王寺で犬として生まれ変わりました。
お経や真言を聞きながら生きる功徳によって、次は牛に生まれ変わりました。
大般若経を書写するための紙を背負って運んだ功徳によって、次は馬に生まれ変わりました。
熊野山へ参詣する人びとを乗せた功徳によって、次は柴燈者(サイトウシャ…神前で火を焚く係)に生まれ変わりました。
火を大切にして人びとへ光を与え自らの智慧の光を輝かせる功徳によって、次は高野山奥の院の承仕(ジョウジ)に生まれ変わりました。
日々、身・口・意をみ仏と一致させる行法に触れる功徳によって、ついに検校となったのです。
蛤は、初めて経典に接し、仏法を知りました。
犬は、仏法の空気を吸って過ごしました。
牛は、仏法のために汗を流しました。
馬は、人びとを聖地へ導きました。
柴燈者は、他のためにはたらいているうち、仏智が輝き始めました。
承仕は、三密の修法によって即身成仏の境地を開きました。
これは、地獄・餓鬼・畜生・修羅の要素を持った人間が、仏法に導かれて悟りを開くまでの「霊性向上の歩み」です。
釈尊は叱咤されました。
「こら!ドブ貝やシミなどのように隅っこへ隠れて我が身を可愛がり、怠惰であってはならぬぞ」
蛤から始まるのは実に象徴的です。
人間が母親の胎内で生物の発生から人間になるまでの進化を経験するように、覚海大徳は、迷界から菩薩界まで精神が向上するありようをはっきりと観られたのでしょう。
み仏によって示される輪廻転生の真実とはこのようなものです。
輪廻転生 7 ―恵果阿闍梨とお大師様―
お大師様は、そのおりのできごとを記しました。
明くる年の1月、世界各国からの弔問客を前にし、若干33歳のお大師様が、数千人と言われる遺弟たちを代表して追悼文を奉奠されました。去る年の12月15日、香しい湯を用いた沐浴によって身体を清め、法衣をまとって大日如来の印を結び、釈尊と同じく北枕で右脇を下にして逝かれた。
その夜通夜の修法を行っていると、恵果和尚が、まるでそこに居られるかのようにはっきりと前に立って告げられた。
「我は、過去世の契りにより、幾たびも生まれ変わっては汝と師弟関係を続け、密教を弘めてきた。
今度は我が東国(日本)に生まれ、必ずや汝の弟子となろう」
そもそも、恵果阿闍梨は、お大師様に会った時にこう言っておられます。
我は汝が来ることを知り、今か今かと待っていた。
今日、会えたことはこの上なく喜ばしい。
我がいのちはもはや尽きようとしているが、法を伝授される資格のある者は汝しかいない。
速やかに伝法を行おうではないか
皇帝すらも帰依する国師でありながら、異国から来たばかりの若い修行僧へ密教のすべてを伝えたことは、伝法というものが国籍や地位や年齢を超えた「器の判断」によって行われることを示しています。
東国において弘めよとの師命により、留学を中止して帰国したお大師様は、立派に役割を果たされました。
ちなみに、お大師様は恵果阿闍梨の師僧である不空(フクウ)三蔵の生まれ変わりであり、恵果阿闍梨は、290年後に、密教中興の祖と称される興教大師(コウギョウダイシ)へ生まれ変わったとされています。
異次元のレベルへ達した聖者の方々は、とてつもない種を生まれながらにして宿しておられたに違いなく、人は「何者か」としてしか誕生しないことを考えれば、「種は、そのレベルにふさわしい器を待って伝えられる」のが当然だと言えましょう。
ただし、真実の圧倒的な力に魂を揺すぶられるのは当然としても、輪廻転生といった異次元そのものについては、私たち凡夫が軽々に口にすべきではありません。
ましてや他人様の前世といったことがらを具体的に云々するのは、仏神ならぬ身を謙虚に省みて厳に慎みたいものです。


