宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

役者・医者・易者・学者 3 ―学者―

4 学者であれ

「学者であれ」とは学ぶ者であれ、すなわち「人を知り、社会を知り、歴史を知れ」ということであろうと受けとめています。
 言い換えれば、社会として表れている空間のありようと、歴史として表れている時間のありようと、その接点に危うくも美しく輝きながら生き、死んで行く人間の現実を知らねば、菩薩(ボサツ)としての方便(適切な手だて)が判らないということです。
 菩薩をめざす行者の修行は、自分を清め、鍛え、この世とあの世とを問わずありとあらゆる存在のために役立つ道具を手に入れるために行われ、その道具は、現場にふさわしい用いられ方をして初めて存在意義を発揮できます。
 豆腐を切るのに研ぎ澄ました鉈(ナタ)を用いてはしょうがないし、いかに切れるカミソリでも樹木の伐採はできません。

 この「知る」は、書物を読んだり、人里離れて特殊な行に励んだりするだけでは不可能です。
 素直な心でまごころの通い合う体験を重ねる以外、方法はありません。
 釈尊もお大師様も各地を歩かれたことには、他に代え難い意味があったと考えています。
 当山も托鉢行で正式な開山をし、日々の法務によって皆さんとまごころの触れあいを続け、学ばせていただいています。おかげさまと言うしかありません。

 昨日も勉強会に始まり、遙か関西から遠隔加持のご依頼があり、車で一時間以上もかけて来られた男女や、誰にも知られず数年にわたって愛を育んでいる男女がひっそりと水子供養をされ、最難関とされる国家試験への合格祈願が申し込まれ、葬儀のご相談がありました。
 戒律と世間的できごととのギャップへの当惑、病魔へ立ち向かう悲壮な意志、祈っている間中続いた女性のすすり泣き、お子さんの人生へかける“良かれ!”との願い、近々に迫ったご家族の「その時」に備えざるを得ない気持、そうしたすべてのものが教えとなり、修法へ力を与えています。
 方便があってこそ、行者は生きられます。方便を持たぬ菩薩は、菩薩ではないからです。
 
 こうしたことごとは、行者のみにとっての問題ではありません。
 
 どなたであろうと、「社会として表れている空間のありようと、歴史として表れている時間のありようと、その接点に危うくも美しく輝きながら生き、死んで行く人間の現実」を知ることは、充実した人生を送るために欠かせないのではないでしょうか。

「素直な心でまごころの通い合う体験を重ねる」ことも、人生へ豊かな彩りを添えることでしょう。
 そして、方便は、いつ、いかなる場にも必ずあります。もちろん、相手からの要請が実践の条件ではありません。
 たとえば電車のホームを幼子が歩いているのを見たならば、線路に落ちなければ良いなと願いつつ視線を外さないのも、隣人の当病平癒を密かに祈るのも、立派な方便です。
 影が形に従うように、方便は、思いやりに伴っています。

 思いやりを持ち、方便をきちんとつかんで実践しましょう。
『大日経』は「無限の慈悲を根本とし、方便を究極の意義あるものとする」と説いています。
 仏法に生きようとする行者の理想は、きっと万人の理想につながっているはずです。

 共に、学び、方便に生きたいものです。

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役者・医者・易者・学者 2 ―易者であれ―

3 易者であれ

 菩薩であるべき僧侶は、皆さんの苦を共有し、求めに応じて対策を考慮し、教えと修法をもって対処せねばなりません。
 そのためには、現在を知り、未来を見極める必要があります。
 ただし、未来は時々刻々創り出され、方向もゆらゆらと変化しており、決して確定的なものではなく、未来を見極めるといっても「必ずこうなる」といった予知や予言ではありません。
 ある人が、性格も考え方も生活習慣も変わらず、周囲の環境にもさしたる変化がなければ「こうなり得る確立が高い」という判断です。
 あるいは、いつ、どういった行動をとれば、「いかなる結果を得る可能性が高いか」の判断です。
 現在を「因」とすれば「果」はどうなるかという見通しと言えましょう。
 僧侶におけるこうした面の修行や稽古は、日常的な頭のはたらきではなかなか気づきにくい「因果の糸を観る」訓練です。
 それは、いわゆる霊感に頼るのではなく、霊性を高める正統な方法によって行われ、信心と精進があれば、み仏は必要なものを必ずお授けくださいます。

 修法によって仏法から現在を観、未来を観、必要な人にとって必要な情報をお伝えするのが僧侶の役目ですが、それは、僧侶に限らず、日常生活でも大切なことです。
 極力、我(ガ)のフィルターを薄くして現在を観、相手の立場に立って共に将来を考え、相手に役立つと思われるポイントを思いやりと共に言葉にするのは、万人に可能な慈悲行です。
 特に気をつけるべきは、「思いやりと共に言葉にする」という面です。
「一日に3回、『顔色が悪いね』と言われれば、誰でも体調を崩しやすい」と言われるとおり、言葉の持つ影響力は私たちの想像以上に強いものです。
 他人様の未来について断定的なもの言いをして相手を不安にしたり、不調にしたり、反発させたり、怒らせたりしてはなりません。それは我(ガ)の仕業です。
 未来について語られる言葉の意義は「当てる」ところにはないとも言えます。
 あくまでも、こうなる可能性が高いからこのように話して〈勇気づけよう〉、あるいは〈新たな視点に気づいてもらおう〉、あるいは〈危険を回避させよう〉、あるいは〈開運させよう〉、あるいは〈落ちつかせよう〉といった、相手を幸せにし、安心させるものでなければなりません。
 そのためには、思いやりと智慧が欠かせません。
(このあたりの詳細は拙書『み仏は あなたのそばに』に書きました)

 今は、占いが流行っているそうです。
 いかなる占いであれ、勉強してなにがしかの能力を身につけようとするならば、是非、仏法も学び、思いやりをもって技術力を活かしていただきたいものです。
 原理を知って作られた薬品は、善き心で用いられれば人間を救うけれども、悪しき心で用いられれば人間を殺すことにもなりかねません。
 
「今」に追われつつも、時には心を落ち着けて未来を想ってみましょう。『百年の愚行』(写真集の名前です)をくり返さぬためにも。

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役者・医者・易者・学者 1 ―役者・医者であれ―

 かつて、師から受けた「僧侶は四者であれ」との教えは、自他共に幸せに生きようとするすべての方々に共通する心構えであると考え、以前機関誌『法楽』へ書きましたが再記しておきます。

1 役者であれ

 僧侶は、相手のためになる法・言葉・表情・動き、何でもせねばなりません。
 例えばこういう人生相談があったとします。
「私は、つまずいてばかりいます。占い師から悪霊が憑いていると言われましたが、どうすれば良いでしょうか?」
 もしも、悪霊などは関係なく、自分は美人ではないから男性になかなか相手にしてもらえないという思いこみがコンプレックスとして運勢を暗くしていたたならば、まず、お世辞ではなく、貴女は男性を惹きつけるものがあるといったお話をし、自信をつけさせることです。
 そして、もしも求めるならば和合の法を結びます。
 不思議なもので、願いをかけ、法を受けた人は、いのちの輝きが強くなります。
 経典には釈尊の光り輝くお姿がたびたび登場するのは、もちろんみ仏になっておられる証ですが、正しい法に護られた人にはある種の輝きが出るように感じています
 
 お話をする際に必要なのは、必ず魅力のポイントを見つけてきちっと伝え、それを心から素晴らしいと感じつつ言葉を用いることです。
 そもそも、客観的な美などはどこにもなく、美とは「その人の感性を魅惑するもの」にしか見いだされません。
 ダリの絵にしても、ジョン・コルトレーンのサックス演奏にしても超一流としか評価のしようはないけれども、魅力を感じない人にとっては何だか解らず不気味であり、ただただ煩いものでしかないはずです。

 いのちあるもので美の要素を持っていないものはアリ一匹いません。
 まして人間です。
 太った人が好まれたり痩せた人が好まれたり、丸顔が好まれたり細い顔が好まれたり時代によって流行はさまざまであっても、必ず、その人特有のチャームポイントがあります。
 それを見つけ、そこに〈惹かれている人〉として指摘することは、役者の仕事に共通するものがありましょう。

 私たちは、相手が誰であれ、その人のかけがえのない長所や魅力を見つけて接する温かな心を持ちたいものです。

2 医者であれ


 釈尊の生涯をかけた説法の旅は「万病を治療する旅」と言えそうです。
 釈尊がある山へ行った時のことです。
 
 一軒の大きな家があり、そこには山賊の妻たちがいました。
 悪業を積んでいる人々を憐れとおぼし召した釈尊は法力で御身と明々と照らし、悟った人の来たことを知らせました。
 驚いて駆け寄った女たちへ説いたのが『法句経』にある一節です。
「慈悲をもって行い、自分を正しく律することができれば、浮き世の憂いを離れ、心安く生きられよう」
 そこへ男たちが戻りましたが、教えに耳を傾けている女たちは、誰も迎えに出ません。
 怒った男たちは弓矢で釈尊を殺そうとして女たちに止められ、礼をもって説法を受けました。
 
 頭目は釈尊へ述懐しました。
「深山に生まれた私たちは、山賊として生きるしかありませんでした。
 どうすれば罪過を清められるでしょうか?」
 これも『法句経』にある釈尊の答です。
「慈悲を実践し、広く人々のためになるならば、十一の幸いを招くであろう。
 即ち、福徳が身に従い、寝る時は心安らかで、覚めても安らかで、悪夢にうなされず、仏神に護られ、人々に親しまれ、毒物に遭わず、戦に死なず、水難や火難に負けず、どこで生きても生き甲斐があり、死後は天界へ昇るのである」

 
 このように相手のさまざまな難事を診察し、問題点を指摘し、仏法(教えと法力)という薬をもって治療し、再び難事に遭わぬよう予防法を説く釈尊は、まさに〈人生の医者〉でした。
 
 私たちも、困難にぶつかっている人がいたならば、他人ごとではなく自分のこととしてとらえ、原因を正しく把握し、できることをもってお手伝いしたいものです。
 宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」も、こうした世界ですね。
「東に 病気の子供あれば 行って 看病してやり
 西に つかれた母あれば 行って その稲の束を負い
 南に 死にそうな人あれば 行って こはがらなくても いいといい
 北に けんかや そしょうあれば つまらないから やめろといい」

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