宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

『八正道』により『四苦八苦』を克服しましょう 7 ―求不得苦―

求不得苦(グフトクク)」とは、求めても得尽すことのできない苦です。
 欲望には限りがなく、一旦追われ始めれば、決して得られないゴールを求めて走り続けるしかありません。

 典型的なのがアルコールを求めないではいられないアルコール依存症であり、遺伝や環境やストレスなどが原因とされますが、克服するには本人の意志が圧倒的な役割を果たします。
 医者の指導や体験談のやりとりなどによって「抜け出せなかった場合の行く先」と「抜け出した場合の行く先」をしっかりイメージし、道を選ばねばなりません。
 そうしてもなお、自分の意志をコントロールできない地点に立ってしまったなら、如来の加持力をいただきましょう。
 お大師様は、病気の原因を三つ指摘されました。
 まず、「四大(シダイ)不調」です。
 骨格である血、血液である水、体温である火、呼吸である風、それらのバランスである空の五つに生じる乱れであり、風邪で熱がある、はたらき過ぎて疲労が抜けないなどです。
 また「鬼(キ)」によるものもあります。
 亡者の障りです。
 そして、「業(ゴウ)」によるものです。
 業は前世からつながっているものと、現世で自分が積んだものとがあります。
 お大師様は、四大不調は薬でも治るが鬼病と業病は、懺悔し、至心に真言を唱えることによって克服せねばならないと説かれました。
 意志のコントロールが難しい局面でこそ、真言の救済力が必要とされます。
 ただし、いきなり信じて行うことは難しく、やはり行者の加持法が必要になります。
 その上で至心に真言を唱えられるようになれば、かならずや依存症を克服できることでしょう。

 さて、求不得苦を脱するには「正念」、すなわち正しい教えを心に刻んでおき、おりにふれて思いおこすことが必要です。
 天地万物が大日如来の表れである以上、この世に起こるできごとはすべて教えですが、苦に押しつぶされているとそれをキャッチするアンテナが充分にはたらきません。
 前掲の依存症などもそうした状態です。
 しかし、守本尊様の真言などをしっかり唱えればアンテナの力は回復します。
 以下、私にとって大きな教えとなってたち顕れた事例を書きますので、アンテナの具合をチェックしてみてはいかがでしょうか。

〈事例 1〉

 最近、地球温暖化の影響で海面の水位が上がったために川や井戸の水が使えなくなり、桶を頭に乗せた女性たちが毎日川を渡って遠くの井戸まで水汲みに行かねばならない村を取材したテレビ番組がありました。
 村は赤道近くの小さな島にあります。
 ずぶ濡れになりながら一杯の水を汲む女性たちの様子はまことに気の毒で、番組制作者(NHK)の意図もよく解りましたが、インタビューを受けた若い母親の述懐は意外なものでした。
「私たちは、与えられた水を大切にしながら生きて行くだけです」
 その表情には、温暖化の元凶である先進国から来た取材者への非難や、苦境から逃れたいという切実な訴えなどはまるでなく、落ちついた光をたたえる眼も、微笑みを宿す口元と頬も、ゆったりと流れ出る言葉も感謝にあふれていました。
 夫らしい男性もまた、やや、やりきれないといった身振りを交えながらも、こう言いました。
「神のご加護をいただきながら、どうにかやって行こうと思っています」

〈事例 2〉

 2年前、ブログで『国民総幸福量(GNH)』について書きました。

 ブータン国王ジグメ・シンゲ・ワンチュクが国是と定めた『国民総幸福量(GNH)』をこそ大切にしようという考え方が注目を集めています。
 GNHは「持続可能で公平な社会経済開発」「自然環境の保護」「有形・無形文化財の保護」「良き統治」を柱としており、国民がこぞって理想の実現をめざす過程において、何と、年平均で約7パーセントという経済成長が伴い、国民の平均所得は南アジアでトップクラスになりました。
 精神が高められれば生活も安定するモデルケースと言えるのではないでしょうか。
 もちろん、「幸福の定義」や「幸福の量り方」など、論理と数字で納得しなければいられない私たちはそう簡単に取り入れられない面もある難しい目標ですが、精神世界は〈気まま〉、物質世界は〈弱肉強食〉へ任せるといった理念なく野蛮な日本の姿勢とは天地の差を感じます。
「徳治」という日本では死語になりかかっている言葉を思い出させられました。


 6月1日付の読売新聞に掲載された書評によると、今枝由郎著『ブータンに魅せられて』には、こんなことが書いてあるそうです。

 ブータンは道路や飛行場といったインフラ整備より、森林や農地の保全を優先している。
 観光公害を防ぐため、登山も禁止する。
 国民は仏教に帰依し、伝統的な民族衣装をまとって暮らす。
 この結果、国民の97パーセントが幸せだと答えた(2005年の調査)という。


〈事例 3〉

 高任和夫氏の最新作『敗者復活戦』において、世界一周旅行にでかけた主人公の一人河合健太はブラジル移民のノグチ家へホームステイし、決定的な体験をします。
 広島から移住した老夫婦は「昔の日本にいっぱい居たにちがいない穏やかな顔」で迎えてくれました。
 夫婦は、ジャングルを切り開き、野菜が育ちにくく安価なので胡椒を栽培し、やがて、アセロラやマンゴーやパパイアやドリアンなどの混植栽培をやるようになりました。
 貧乏な小作だったノグチ氏は、
「お米なんかめったに食べられず、麦やサツマイモが主食でした。
 だから密林の開拓にも耐えられた」
と言い、ろくに学校へも通えなかった奥さんは新聞で字を覚えようとし、夫婦で字引をめくりながら勉強しました。
 奥さんは移民船の中で、字引を頼りにポルトガル語を熱心に独学したため、ノグチ氏より早くマスターしました。
 そんな夫婦の息子たちは、農場経営者や医者になっています。
 真剣に勉強をしたことはなく、両親のように身を粉にしてはたらくことを嫌ってサラリーマンになり、そのくせ大学を出なかったことにコンプレックスを抱き、出世願望が満たされず不満を持っていた河合健太は、(おれは、じつは恵まれていたのだ)と知り、「ぬるま湯に漬かりつづけていたおれは、この夫婦のように凛とした老後を迎えることができるだろうか」と寡黙になります。
 やがて河合健太は、安心と真の充実感を求め、人のために役立つと確信できる道へと進むことになります。

『八正道』により『四苦八苦』を克服しましょう 6 ―病苦―

 今回は、『四苦八苦』の三番目、病苦の克服法です。
 かつて、「後厄年の過ごし方 その3」で、病苦について書きましたが、もう少しつけ加えます。

1 病気になった場合に現れる苦には三種類あります。

 一つは、痛み、だるさ、辛さ、苦しさなどの肉体的な苦です。

 もう一つは、すべてが移りゆくことを知らされることです。
 私たちは無意識の裡に「今の自分は明日もいる」と思っていればこそ、希望を持ち、励み、誠実に生きようとします。
 重い責任を担っている人などは、「自分がいなければ、この世は成り立たない」と思ってもいます。
 しかし、いざ、自分が入院してみれば、周囲の人びとは「心配しないでしっかり治してください」などと慰撫しつつたちまちにして新たな状況の中でやり始め、口では「安心したよ」などと言いながら、心中ではガッカリさせられます。
「立場」など、いつでもヒョイと脇へ置かれて何の不思議もないのに、私たちはイスがないと不安であるばかりでなく、ともすると、イスが自分そのものであると勘違いしがちです。
 無論、重篤な病気であれば、死を意識せねばならなくなります。
 自分のいのちが移りゆくと実感した時、初めて行く先を思い、亡き後を考えます。
 あの世、この世、過去世、祖先、神、仏、といったものが重い想念となってたち顕われもします。
 こうした段階で、「人生の大事を何一つ掴んではいませんでした」と当山の門をたたく方もおられます。

 もう一つは、失う苦です。
 どんなに忙しくはたらいていた人も、はたらけなくなります。
 自分の一生をかけた研究でも、中断せねばなりません。
 あるいは断念する場合もありましょう。
 可愛い子どもたちを養う生き甲斐の時を失います。
 確かだった「充実の時間」を生きることはできません。
 そして、自分のいのちを失うという恐怖は死魔を呼びこむ場合もあります。
 
2 苦は共通の言葉による呻き「愚痴」を生みます。
 
「どうして私が…」「なぜこんな時に…」「こんなことなら…」「どうしたら良いのか…」「あいつのせいで…」「俺はバカだった…」などの言葉です。
 原因のない結果はありません。
 例えば、はたらき過ぎたから、酒を飲み過ぎたから、親から病気になりやすい体質を受けたから、などなど。
 もちろん、不意の事故や、血液製剤による肝炎などの避けがたい原因もありますが、いずれにしても、原因が解ったからといって、事態を受け容れることは用意でありません。

3 釈尊は、言葉となってやるせなく生じる思いを、言葉そのものをコントロールすることによって克服せよと説かれました。

 それが「正語(ショウゴ)」です。
 十善戒における言葉の戒め、すなわち、「不妄語」「不綺語(フキゴ)」「不悪口(フアック)」「不両舌(フリョウゼツ)」を避ける決心をしましょう。
 慈雲尊者は、抑制としての戒律に具体的な目標をつけ加えられ、不妄語は「正直」を、不綺語は「高尚」を、不悪口は「従順」を、不両舌は「交友」をイメージして実践せよと説かれました。
、正直で嘘のない言葉、志を汚さぬ飾りのない言葉、柔軟な心で状況に対応することによって生まれる柔らかで穏やかな言葉、誠の交流を貫く言葉など、周囲の人々への思いやりを忘れぬ言葉を用いるよう心がけるのです。

 さて、釈尊の言葉に関する説法は『法句経』にまとめられており、そのいくつかを記しておきます。
 経文はくり返し読むことが肝心です。
 一字一句をきちっと眼で追い、できれば声に出して読誦したいものです。
 実践なくして苦の克服は不可能です。
 経文を導きとして、自他のために、克服しましょう。

「夫(ソ)れ士の生まるるや、斧の口中に在るがごとし、身を斬る所以(ユエン)は其(ソノ)悪言(アクゴン)に由(ヨ)る」
(人は生まれながらにして、口に斧を持っているようなものである。悪しき言葉となって振るわれる斧は、相手を傷つけるだけでなく、自分をも傷つけるのである)

「諍って少利(ショウリ)を為すは、失財を掩(オオ)うが如く、彼に従って諍(アラソイ)を致し、意(ココロ)をして悪に向かわしむるなり」
(はかないこの世の利益を求めて他と争うのは、自分の徳が少ないことを覆いかくそうとするようなものである。
 我が利益を求めて争い続ければ、ますます徳を失い、心は他を傷つける悪へと向かうであろう)

「言(ゴン)をして意(ココロ)の可(ヨロ)しきに投ぜしめ、亦(マタ)歓喜を得しめ、悪意に至らしめざれば、出言(シュツゴン)するも衆(ミナ)悉(コトゴト)く可なり」
(悪意がなく好ましい言葉のみを用い、周囲の人の心を和ませ喜ばせる言葉を用い、周囲の人びとが悪意を持たぬような言葉づかいができるようになれば、そうした言葉は皆、正語である)



 なお、病苦を抜く真言は秘密となっており、伝授によらねばならず、守本尊様の御前で人の道を歩むことを誓えばお授けできます。
 ご誠心の方は、どうどお申し出ください。

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『八正道』により『四苦八苦』を克服しましょう 5 ―老苦―

 老いて行けば身体はだんだんに利かなくなり、頭のはたらきも衰えます。
 身心共にままならなくなり、やがては、自分が生きることのみで精一杯になります。
 そして、「身体をより長く保たせることが〈生きる〉ことである」という錯覚が強まる場合もあります。

 80歳まで生きた釈尊は、『法句経』で厳しく説いておられます。

「いたずらに年を重ねただけでは、人生経験によって徳が高くなった賢者とは言えない。
 姿形が年相応になり髪が白くなっただけでは、畏敬されるべき老人ではない」
「長老とは、真理に身を委ね、節制し、慈しみにあふれ、ものの道理が解り、人生の垢を落とした人を言う」
「貪っては老苦を招き、怒っては病苦を招き、愚かなままでは死苦を招く。
 三毒を除いたところに人の道は開ける」
「怠惰に過ごし、老いても色情に引きずられ、財物へ執着して施さず、仏の教えに耳を傾けない。このようにして、真実から離れた生涯を終える」

 老いの苦を克服するには、「八正道」における「正思(ショウシ)」を心がけることです。
 正しい思考とは、貪りと、怒りと、愚かさを離れ、真理・道理・原理に導かれたものの考え方です。

 年をとると生命力のはたらきが衰え、当然、摂取するエネルギーは若い時よりも少なくて済むので、老いれば、自然に「足を知る」ようになるものです。
 しかし、皆が自然の摂理に従うわけではなく、恥を忘れて欲をむき出しにする場合もあります。
 こうなると、食欲が仇となり、色欲が仇となり、財欲や名誉欲が仇となって晩年を穢しかねません。
 我がために貪ることを止め、残された貴重ないのちを、他のためにこそ用いるようにしたいものです。

 年をとると頭のはたらきから柔軟性が薄れ、ガマンもきかなくなります。
 時代の変化について行けないと、何もかもが気に入らず、感謝の対象よりも不満や憤りの対象の方が大ききなり、世の中の前途に不安を覚えます。
 古き良きものは残そうとしても、新しき良きものも認めねばなりません。
 自分を基準として怒ることを止め、柔軟な思考と感性を保つ努力をしたいものです。

 年をとると、過去が懐かしくなる一方で、「ああだったら良かった」「こうしたかったのに」と過去へのこだわりが強くなる場合があります。
 こうなったのは貴方のせいだと、自分の現況への不満を誰かのせいにしたくもなります。
 こうしてグチが生じるままに過ごすと未来を拓く力が衰え、運気が尻つぼみになって不安や不満が高まります。
 自分の人生の現況は誰のせいにもできないし、今日を生き、明日をどう生きるかはすべて自分にかかっています。
 また、ここまで生きてこられたのは天地自然と社会の人びとと目に見えぬ仏神のおかげであり、「おかげさま」が一瞬たりとも休むことなくお護りくださったからに他なりません。
 過去にきちんと「おかげさま」を観るのが智慧であり、合掌の心で、自他の運勢を暗くする愚かさを離れたいものです。

 ただし、還暦は人生の大きな分岐点であり、このあたりまで懸命にやってきた方は、身心に息切れを生じる場合ががあります。
 そうした時にあまり自分を責めると心の力が病気のレベルにまで下がり、身体にも大きな変調を来す恐れがあります。
 もちろん、身体の力の急降下が先になるやも知れません。
 そうした異変を感じたならば、気晴らしをしたり、休息をとったり、あるいは気軽に医師を訪ねたりして、早めに手を打つようにしましょう。

 新しい事態へ上手に対応し、歴史が一回りするまで生きたご褒美としての「次なる人生」を活き活きと生きたいものです。
 
 なお、老苦を抜く真言は秘密となっており、伝授によらねばならず、守本尊様の御前で人の道を歩むことを誓えばお授けできます。
 ご誠心の方は、どうどお申し出ください。

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『八正道』により『四苦八苦』を克服しましょう 4

 前回は、「生・老・病・死」は、ただ時系列的に並べただけでなく、「老いや病気や死などを直視するところから、生まれることの意味が知られる」といった視点を紹介しました。
 苦である(ままならない)老いや病気などを我がこととして受けとめて初めて、「『生』とは何ごとであるか」が掴めるのです。
 こうしたことは、四苦八苦における他の苦についても言えましょう。
 
 たとえば、愛してやまない我が子を失った時、その呻きの中から『生』も『死』も観えるのではないでしょうか。
 たとえば、憎まずにはいられない相手との巡り会いに悩み、殺意すら芽生えそうになる時、『生』も『死』も観えるのではないでしょうか。
 また、死を前にした時、愛憎の意味がより明らかになるのではないでしょうか。
 また、病気になって死を意識する時、モノ金への執着が何であるかが判るのではないでしょうか。

 このように、宿命である八苦は、それぞれが「人間の根本的なありようが『苦』である」様子を示しています。

 さて、本題である「生苦」に戻りましょう。
 前回、生が苦であるのは、「いつ、どこで、誰の子として、どういう性格や性質や身体を持って生まれてくるかを自分で意識的に決めることができない(と思う)からです。また、生まれて来ないことも自分で決められない(と思う)からです。つまり、自分は、生まれてくることに関われない(と思う)からです」と書き、「(と思う)と書いたのは、それが真実ではないからであり、理由は後に述べます」としました。
 真実について述べねばなりません。

 かつで、『水子の真実』について、こう書きました。
「私たちは、どのようにして生まれて来るのか?ここが出発点です。
 この世で善悪さまざまな業を積んだ魂は、業となった『因』に対する『果』を現実のものにするため、転生の機会を待っています。
 やがて、運命や性格などの『魂の色合』に共通するところを持った男女のペアを見つけると、そこに宿ろうとします。
 大切なポイントは、子供が親を選ぶことであり、肉体より魂の引力が先にはたらくという点です。
 ここを勘違いすると、子供が親へ『勝手に生んだ』などと暴言を吐いたり、親が子供へ『望みもしないのにできてしまった』などと妄言を口走ったりします」
 しかし、私たちは、生まれた時、表面の意識には生前の過去が残っておらず真っ白なので、「自分が選んだ」ことを知り得ません。
 では選ぶ自分とは誰か?
 それが表面の意識の下の下にある「伝識」と呼ばれる深層意識です。
 ここに過去のすべてが入っており、それを持った魂が選ぶのです。
 もちろん、意識下の意識ですから、認識することはできません。しかし、それは確実に存在します。
 人間は特定の「何者か」としてしか生まれないのが何よりの証拠です。
 おとなしい子、すぐにぐずる子、よく乳を飲む子、なかなか飲んでくれない子、キョロキョロと忙しい子、ダーッと寝ている子などなど皆違うのは、「過去が違うから」以外、理由があり得ましょうか。
 男女はもちろん、重い子、軽い子、丸顔の子、角顔の子、こうした身体的特徴もまた、「生まれ持った」ものであり、どう生まれるかの理由は過去にしかありません。
 それを端的に示しているのが過去の集積体である遺伝子です。

 私たちは、明らかに、自らの過去を因とし、両親となる男女を縁として、自らこの世へ生まれ出ているのです。
 この「自分の存在についての正しい見解」つまり、八正道における「正見(ショウケン)」こそが、生苦を克服する一番の方法です。

法楽寺のサイトも是非ご覧ください

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『八正道』により『四苦八苦』を克服しましょう 3

 いよいよ、具体的に四苦八苦を考えてみましょう。
 まず、『生苦』です。
 この場合の『生』が持つ本来の意味は、「生きること」ではなく「生まれること」です。

 なぜ、生まれることが苦(ままならないこと)なのか?
 それは、いつ、どこで、誰の子として、どういう性格や性質や身体を持って生まれてくるかを自分で意識的に決めることができない(と思う)からです。
 また、生まれて来ないことも自分で決められない(と思う)からです。
 つまり、自分は、生まれてくることに関われない(と思う)からです。
(と思う)と書いたのは、それが真実ではないからであり、理由は後に述べます。
 その結果、「私なんか生まれて来なければ良かったのに」「どうしてこんな親の子供として生まれたんだろう」などという、愚痴(愚かな考え)を抱いたりします。
 これが、人間における迷いの根本です。
 
 この考えに立てば、すべてがままならないばかりでなく、苦しみになります。
「生まれて来たばっかりに、年取って辛い思いをする。
 生まれて来たばっかりに、病気で苦しむ。
 生まれてきたばっかりに、死ななければならない。
 生まれて来たばっかりに、愛する人と別れねばならない。
 生まれて来たばっかりに、憎らしい人と出会わねばならない。
 生まれて来たばっかりに、欲しいものが得られずにがっかりする。
 生まれて来たばっかりに、いろいろやって思い通りにならない」

 確かに、釈尊はこう説かれました。
「実に生があるときに老死があり、生に縁りて老死がある」
 これを、「生まれたから、老いて死ぬ」と単純に考えれば、ほとんど何の意味もありません。
 そんなことは誰でも知っており、わざわざ聖者が教えとして説くまでもなく、聖悟として残るはずはありません。
 では、釈尊は何を言おうとしておられたのか?

 60歳になる私は、もう立派に老人の仲間入りをしており、肉体の衰えを感じています。
 若かりし頃のようにはゆきません。
 病気も持っています。
 もちろん、死神がそばに待っていることも認識しています。
 こうした「老・病・死」が我がこととなった地点から「生まれる」ということを考えてみると、「生まれて来たばっかりに」という意識はかけらもないことに気づきます。
 
 自分たち夫婦で生んだ子どもたちは、一人前になりました。ロクでもない親だったのに、他人様へ大した迷惑をおかけすることもなく、ちゃんと生きています。ありがたいことです。
 孫も見る見るうちに育っています。動きを見ていると、エネルギーの大きさに驚嘆してしまいます。
 もうこうしたことを知っているのか、もうこんなことが言えるのか、と驚くことばかりです。凄まじい生命力の伸長です。
 子や孫の成長は、自分の老いと平行して進んでいます。
 自分が老いることは、別の生命が伸長することと同じなのです。
 老いが苦であり得ましょうか。


 もちろん、我が子や我が孫のことだけではありません。
 登校する子どもたちに「おはよう」と声をかけてはじけるような笑顔を見ると、ここまで生きて来て、老い、病気を我が身に受けたからこそ、生まれ育つもののいのちの輝きがよく観えるのだろうと思います。
 やっと「生まれる」ことが解りかけたような気持になるのです。
 こうした真実にうたれるのは、まさに、自分が「生まれた」からに他なりません。
 生まれなければ老いも病気も死もなく、「生」を知ることはなかったのです。


 なお、生苦を抜く真言は秘密となっており、伝授によらねばならず、守本尊様の御前で人の道を歩むことを誓えばお授けできます。
 ご誠心の方は、どうどお申し出ください。



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