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2014
01.07

四苦八苦を生きて ─高校卒業後の半世紀─

20140107001 (2)

 昨年、酸素吸入器を着けつつ集中治療室から生還されたAさんが、「紅白しだれ桃の木 平泉寺」と題する版画の年賀状をくださった。
 涙が出るほど、嬉しかった。
 Aさんは精魂込めた作品をお送りくださった。
 Bさんも、Cさんも、Dさんも……。
 そうした方々に対して私はたった一行である。
 詫びつつ、仏神のご加護を祈り、書く。
 あまりに粗末ではあるが、何とか松の内に届くよう努力する。
 大変、申しわけないけれど、もう私には、いただいた年賀状にお返事を書くことしかできない。
 年賀状による心の便りは、一年に一度、一年間続く安心を与えてくれる宝ものである。

 さて、高校で同期だった仲間が文集を作ることになった。
 半世紀をふり返ってみた。
 以下、駄文である。
 なお、四苦八苦とは、以下のとおりである。

・生苦(ショウク)…生まれ、生むことに関する苦、ままならなさ。
老苦(ロウク)…老いに関する苦、ままならなさ。
病苦(ビョウク)…病気に関する苦、ままならなさ。
死苦(シク)…死に関する苦、ままならなさ。
・愛別離苦(アイベツリク)…愛しいものとの分かれに関する苦、ままならなさ。
・怨憎会苦(オンゾウエク)…怨み憎むものとの出会いに関する苦、ままならなさ。
求不得苦(グフトクク)…求めても得られない苦、ままならなさ。
・五蘊盛苦(ゴウンジョウク)…生きて、感じ、想うはたらき全般に関する苦、ままならなさ。

 仙台二高を卒業して半世紀経ったとはとても実感できない。
 しかし事実として、肉体は老いさらばえた。
 どう繕おうが実態は無惨である。
 精神はどうか?
 物忘れをするようになり、計算能力は落ち、意識のはたらきと言葉を発することが〈即〉とつながらず会話に躓く。

 一方で、あの頃はまったく想像すら出来なかった人間の宿命について些か、わかってきたことは確かである。
 何よりも意識の落差が大きいのは「老い」についてである。
 いかに小説を読もうが映画を見ようがお年寄りと話をしようが、老いによる生命力の全般的な減衰はまったくと言っていいほど想像も感得もし得なかった。
 また「病気」についても然りである。
 風邪をひいたり盲腸がやられたりはしても、当時における病気は治ってあたりまえの一時的災厄でしかなかった。
 自分の死への一里塚であるという意味での病苦など、どこにもなかった。
 また、愛するものとの永久の別れや、憎悪せずにいられない相手との巡り会いなど、自分の非力がまったく役立たぬ現実に打ちのめされ心身が立てなくなる体験もまだ、乏しかった。
 たとえ豊かではなくても、砂漠で乾いた喉が水を欲して得られぬような、あるいは、不治の病気に罹り子供の成人までいのちが保たぬような求不得苦(グフトクク)は知らなかった。
 もちろん生まれる苦は、妻や子の出産においてやきもきする程度しか、未だにわからない。
 そして、肉体や現象界、感受作用、想起作用、意志作用、自分という意識、それぞれが盛んにはたらき、コントロールしかねるがゆえの苦があるなど、思いもよらなかった。
 二千万人いる各種依存症は、この五蘊盛苦(ゴウンジョウク)が行きついた姿である。

 我が身の体験として、あるいは家族や他人様に起こったできごととして徐々に四苦八苦を知った。
 ここまで生きてきてようやく宿命を観たような気がする。

 最近、独り暮らしのAさんが家の中で転び、腰を痛めて動けず救急車も呼べないので、飼い犬に付き添われたままじっと二時間過ごした体験をお聞かせいただいた。
 それは大変だったでしょうと言葉をかけたところ、「住職さんにはおわかりにならない」と言われた。
 娘にいかなる時も携帯電話を離さぬよう厳命されている私には、手さえ動かせない状況を想像してみても現実性がない。
 だから、早朝の本堂でやってみた。
 微動だにせず厳寒の中で過ごしたのは僅か三十分。
 それはまるで永遠のように長い時間だった。
 いつまでそうした状況が続くかわからないAさんにとっての二時間は文字どおりの永遠であり、死へつながる可能性も考えさせる心細く怖ろしい時間だったことだろう。
 やがて私へも訪れる死苦はいかなる相貌をとって顕れるのか?

 半世紀かけて、釈尊の説かれた四苦八苦を教えられつつ生きてきたが、この道は死ぬまで、更には来世まで続く。
 転生(テンショウ)のおりには、中森明菜の「恋も二度目なら」ではないが、自他のため、「少しは上手に」対処ができるようになっていたいものだと願っている。




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2012
02.23

死に神の恐怖に耐えられるか?

 Aさんは頼りにしていたはたらき者のお兄さんをガンで亡くされました。
 お兄さんは、自分の生きにを見つめる間もなく仕事に追われていました。
 気づいた時はもう手遅れといった状況にあって、ようやく自分をふり返り、Aさんからみ仏の教えを少しづつ聞き始めていた矢先のご逝去でした。
 Aさんは言われます。
「宣告にも驚かずとてもしっかりした様子で、このまましっかり生き抜くのだろうと思っていましたが、ある日を境に人が変わったようになりました。
 とにかく怯え、兄とは別人のような狼狽ぶりで、医師から付き添いを強く要請されました。
 とうとう安心を取り戻すことなく旅立ってしまいましたが、最期の様子は耐え難く、私にも恐怖感が乗り移ったようにすら思えます。
 私は法楽寺で学び、自分なりにを迎える心構えが徐々にできているような気がしていますが、兄の記憶があまりに強烈で、自信を持てなくなってきました。
 恐怖は、凡人には耐えられないのでしょうか?
 高僧にたくないと言い残したとされてもいますし……」

 お答えしました。
「お釈迦様は『法句経』でくり返し説かれています。
『どんなに長生きをしても、正しい教えを学ばなければ、学び実践したわずか一日にも及ばない』
 ここで言う『学び実践する』とは、教えがストンと腑に落ち、文字どおり自分の血肉になることまでを含んでいます。
 また『善行に勤しむ者には快眠と爽やかな寝覚めが待っている』と説くのは、日々の修行を勧めると同時に、精進していればを自然に受け入れられ、死後の心配もないという意味も含んでいそうです。
 良き生き方をイメージして生きれば生は良き形をとるのと同じく、良き死に方をイメージして生きれば死も又、良き形をとるはずです。
 この〈形〉とは、見栄や高慢心など余計なものがはさまらず、イメージそのもののなった時、自ずから成ると考えられます。
 それはちょうど、『不殺生』の戒めが心の深いところへ届いていれば、自ずからアリ一匹をも踏めなくなるのと同じです。
 当山は持戒という修行のイメージとして、『浄戒そのものになりはてる』ことを説いています。
 殺すことができない人、盗むことができない人になる以上の持戒という生き方はありません。
 これが〈形〉の意味です。
 Aさんはまじめにイメージの方向へと励んでおられるから〈その時〉の心配は要りません。
 お兄さんはお気の毒なことをしましたが、それも一つの死をかけた教えととらえましょう。
 当山は常に、『人は誰でも自分の死をもって最後の仕事をする。それは周囲の人々を立ち止まらせることである』とお話ししています。
 まっとうな人ならば、身近な人などの死に遭えば厳粛な気持になり、忙しく流れゆく日常の心のはたらきを止め、生や死そのものと向かい合う心になります。
 亡くなった方がいかなる方であり、いかなる死に方をしようとも。
 お兄さんは、Aさんへ自分の励みようをふり返らせるという大事な大事な仕事をしてくださいました。
 感謝し、学んだことを肝に銘じてやりましょう。
 結果はその先に自ずと決まるはずであり、そこはご本尊様へお任せしましょう。
 縁を生かし、努力をしたならば、あとは仏神へお任せするしかないではありませんか。
 これが自力にも、他力にもかたよらない自然な生き方です。
 安心を得る道は自覚し努力しているところに〈すでに在る〉はずですから、どうぞこのまままっすぐにお進みください」
 高僧の話は、誰であってもわけへだて無く最後は地が出るということ以上でも以下でもないでしょう。
 チューブだらけでベッドに横たわっているうちに決心し、黙ってチューブを引き抜いて従容と逝った方もおられます。
 死を迎える時は裸の一人間として逝くしかなく、平等に、その人、その人なのです」

〈ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか〉
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2012
02.15

老後の仕事は〈生き仏〉になるのが一番(その2)

 前回、書きました。
「気ままに生きようとするか、それとも人間として生きるべきように生きることを考えるか」
「身体の健康管理と同時に、心を清めてこそ、賢明な生き方と言えるのではないでしょうか」
「仏様になって生きる即身成仏(ソクシンジョウブツ)こそ、お年寄りの一番の仕事ではないでしょうか」
「お釈迦様は、誰にでもすぐにできる方法を説かれました」

 肝腎の〈方法〉です。
 実は、仏教の全歴史は聖者や行者によるこの方法の探求にあったと言っても過言ではなく、8万4千の法門つまり道があるとされています。
 ここでは、文字どおり誰にでもできる二つの方法「無財の七施」と「比丘(ビク)の四法」を挙げておきます。

1 無財の七施

「生き仏になる」とは、自己中心をやめて誰かの何かのためになりならが生きるという意味です。
 それは言い方を変えれば、布施に生きることです。
 布施とは、見返りを求めない奉仕です。
 そして真の布施であるためには3つが清浄でなければなりません。
 布施をする人の心、布施を受ける人の心、二人の間でやりとりされるモノや心や労力など。
 たとえば、ボランティア活動を鼻にかけたり、他に目的があったりしてはなりません。
 たとえば、受ける人に、相手をうまく利用してやろうという気持があってはなりません。
 たとえば、いくら困っている人々のためにといっても、ネズミ小僧次郎吉や石川五右衛門のように奪い取ったものを与えるのは布施と言えません。

 では、布施として相手へ何を与えられるか?
 まず考えられるのは、東日本大震災における義援金のように財物を差し出すことです。
 これを「財施(ザイ)」といいます。
 また、肩を寄せ合って不安な日々を過ごす方々がお互いに励まし合い、あるいは慰問するなど、恐怖心を取り除く行為です。
 これを「無畏施(ムイセ)」といいます。
 また、どうしたらよいかわからない人へみ仏の教えを説くことです。
 これを「法施(ホウセ)」といいます。
 でも、自分自身が貧窮していたら財施は厳しく、現場へ行かないでは無畏施も難しく、法施も簡単ではありません。
 こうなると〈誰にでもすぐにできる〉布施はなくなってしまいそうですが、そうではありません。
無財の七施」があるのです。

 以下が、財物を伴わなくてもできる布施行です。
○眼施(ガンセ)
 思いやりのある優しいまなざしで相手を見ることです。
 眼は口ほどにものを言うのです。
和顔悦色施(ワゲンエツジキセ)
 和やかさと笑みを含んだ相貌で相手と接することです。
 医師の穏やかな顔と接するだけで気持が落ち着いたり、孫の笑顔を見るだけで励まされたりします。
○言辞施(ゴンジセ)
 思いやりを含んだ言葉を相手へ届けることです。
「ありがとう」や「おかげさま」や「おたがいさま」が心を和ませ、勇気づけ、励まし、いのちの力を引き出すことは驚異的なほどです。
○身施(シンセ)
 身体を使って相手へ何かをさせてもらうことです。
 東日本大震災で、どれだけの汗が流されたことでしょうか。
○心施(シンセ)
 相手を思いやり、心配りをすることです。
 相手の立場や気持を思いやって心を配り、気を配るところから布施行は始まります。
○床座施(ショウザセ)
 相手へ座る所を提供することです。
 乗り物の席を譲る光景は例外なく美しいものです。
○房舎施(ボウシャセ)
 相手へ雨風をしのぐ場を提供することです。
 傘のない人へ傘を貸すこともどれだけの救いになることでしょうか。

2 比丘四法

 比丘とは男性の出家修行者を指しますが、人としての修行にそうした区別があるわけではありません。
 この教えは、他人との関係が険悪になり人の道を外れそうな場合の心がけを説くものです。
○相手を非難しても、二度とは非難しない たとえば相手から理不尽な非難を受けた時、思わず「お前こそ!」と反応し、速射砲のように非難の言葉が口をついて出たりします。
 この〈思わず〉動くのが煩悩(ボンノウ)であり、凡夫はここで苦をつくってしまいます。
 この先を煩悩に任せるか、それとも智慧で抑えるかによってその人の人生は大きく異なります。
 およそ仏道を歩もうとする者ならば、いったんは煩悩が頭を出しても、モグラ叩きのようにすぐ、叩いてしまわねばなりません。
 これをくり返すことによって悪しき〈モグラ〉はだんだんに頭を出す力を失うことでしょう。
○相手へ怒っても、二度とは怒らない
○相手へ暴力的にふるまっても、二度とは暴力的にふるまわない
○相手の過失を暴いても、二度とは暴かない

 相手からの刺激によって自分の心が乱れた場合、〈相手に原因がある〉として相手を攻撃するのが煩悩に負ける凡夫の世界です。
 怒りが渦巻いているのは自分の心であり、それは自分そのもの以外の誰もコントロールできず、誰も責任を負えないことを忘れます。
 行者は、外からいかなる情報がやってきても、それにいかに反応するかは自分の問題であり、心が乱れたならば、乱れる心になっている自分が未熟であると考えます。
 だから、心が乱された時、「これ以上乱すな!」と相手へ向かわず「あっ、乱れてしまった」と自分を省み、乱れを収めるのです。

 今回挙げた「無財の七施」と「比丘四法」は誰にでも実践できます。
 ましてや、人生経験を重ねたお年寄りには得意とする分野に思えます。
 お年寄りがいつでも、どこでも、こうした生き方をするならば、若い人々へ対する人生の先輩からの無言の贈りものになるのではないでしょうか。
「今の若いものは……」という愚癡は止めましょう。
 それよりも、生き仏として生き、死んで行くさまを見せようではありませんか。
 それが私たち年寄りのこの世で最後の務めではないでしょうか。

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2012
02.14

老後の仕事は〈生き仏〉になるのが一番(その1)

 想像してみてください。
 これから高齢化が進み人口が減るとされている日本ですが、多くなるお年寄りが希望もなくあるいは放縦に生きているのでなく、様のようになっているとしたら、いかに住みやすい世の中になることでしょうか。
 お年寄りが皆、ニコニコして暮らしていれば、はたらきざかりの壮年にも、学びざかりの青年にも、遊びざかりの子供たちにも、たくさんの笑顔が見られるのではないでしょうか。

 誰でも年をとりたくありません。
 一生のうち、「いっそ死んでしまいたい」と思う瞬間はあっても、「いっそ年をとってしまいたい」と思う人はまず、いないはずです。
 だから、お年寄りの皆さんはいつまでも若さを保とうとし、そうしたに対応する商売はいつの世にもあります。
 高度成長の消費社会では若者受けするために頭をしぼっていたあらゆる業界が、今はお年寄りの財布を狙って方針転換に余念がありません。

 それはそれで結構ですが、社会の構造が変われば、年金の問題をはじめこれまでのやり方では社会の安定が守れず、てんやわんやの騒動になっています。
 避けられない過度期の混乱というものでしょう。
 プロの方々には、国全体のバランスを考え、30年後、50年後を見据え、公の視点から良い方法を見出していただきたいものです。

 さて、否応なく年をとると否応なく肉体の耐用年数が尽き、死を迎えねばなりません。
 年を取りたくないというは、最初から覚める時期がすぐそこに来ている儚いでしかなく、それを忘れようと懸命になっているうちに、突然、あらゆる努力が幕を引かれます。
 幕の引き手は病魔であり、死に神です。
 いつ、「はい、ここまで!ご苦労さん」と言われるかわからない不安から、にしがみつこうとしますが、人生の最後をそうした健気な努力だけで過ごすのが賢明な生き方でしょうか?
 自分のを追うことが、次代を担う世代へいかなる役に立つでしょうか?

 もちろん、お年寄りが自分できちんと健康管理をし、いわゆる〈ピンピンコロリ〉を願うのは後の世代の社会的活躍を妨げず、医療費など国家財政にも寄与する大切な生き方です。
 しかし、それだけでは賢明な生き方の片面だけです。
 あとの片面は、『父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』が教えています。

 経典は、親の恩がいかに大きく、広く、高く、深いかを説き、最後にこう断定します。
「父母をして一生遊楽に飽かしむるとも、もし、いまだ三宝を信ぜざらしめば、なおもって不幸となす」
 いかに旨いものを食べさせ、何不足ない暮らしをさせても、教に帰依(キエ)するように導かなければ親不孝だと言うのです。
 それは、いくら勉強し、いかにはたらいた人でも、年をとってなお酒食に溺れる危険性はつきまとい、煩悩(ボンノウ)を何とかしない限り人生をきちんとまっとうできないからです。
「孝養の軽重(ケイチョウ)緩急を知らざるべからざるなり」
 何が本当の親孝行なのか、よく考えねばならないと説いてこの経典は終わります。
 つまり、人の子たるものは、もしも親が年とってなお法を省みず、自分の煩悩を何とかしようとせず気ままに暮らしているなら見過ごさず、法僧へ帰依するよう勧めるのが本当の親孝行なのです。
 それは、とりもなおさず、お年寄りは何をさておいてもまず自分の煩悩と向き合い、法に依って残りの意欲を賢くコントロールすべきであるということです。

 社会で活躍する現役を離れれば、誰憚ることなく自分の心と向き合い、生きるべきように生き、死ぬべきように死ぬ努力ができます。
 長い労苦から解放されたのだから大の字になりたいのは当然です。
 そこから先を気ままに生きようとするか、それとも人間として生きるべきように生きることを考えるか。
 どちらの道を選ぶかによって、死を迎える時、天と地の違いになるかも知れません。

 身体の健康管理と同時に、心を清めてこそ、賢明な生き方と言えるのではないでしょうか。
 様になって生きる即身成仏(ソクシンジョウブツ)こそ、お年寄りの一番の仕事ではないでしょうか。

 ではどうすれば良いか?
 お釈迦様は、誰にでもすぐにできる方法を説かれました。
 それは次回に……。

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2009
10.05

食物に感謝し、心身を安定させましょう ─六波羅密における飯食と禅定─ (3)

 飯食(オンジキ…食べ物)はすべて天地自然恵みであるいのちあるものによって作られています。
 それを天地自然に遍満するみ仏へ捧げるのは、子供がお年寄りへお菓子をあげ、一緒に食べるようなものです。
 与える者は得られる者であり、得られる者は与える者です。

 食事を共にすることは親密感を深めます。
 中には、そうしてできる感情を利用して相手を思惑どおりに動かそうとする人もいますが、いかがなものでしょうか。
 人には必ず長所短所もあります。
 飯食を共にする食事によってできる親密感は、無意識のうちに互いの凸と凹が組み合わされ、円満になって行くことによって生まれます。
 そこでは、長所を自他のために活かして誰かの短所を補う供養が自然に行われているのです。

 当山では、第一例祭の後で、うどんなどを一緒に食べます。
 ほとんどの場合、そこで茹でられる材料は、み仏へ捧げられたものです。
 天地自然恵みによってみ仏を供養し、私たちがそれをいただくことによってみ仏に供養されます。
 食事一つにも大いなる意義があります。
 どうぞ例祭へおでかけください。

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