運命転化法13 ―何かが希望を邪魔する時は―
運気の流れがおかしいなと思った時は、『大日経』の説く四魔にやられている場合があります。
魔ものは自他の心に住み、運勢に作用して苦をもたらします。
1 煩悩魔
この魔ものが活躍すれば、「五欲」がむき出しのままで暴れます。
意志を実現させ、生活に安定と安全をもたらすべき「財欲」は、奪い、奢り、品格を失わせる醜い力になります。
恥を忘れず矜持を大切にし、社会貢献の機会を大きくする「名誉欲」は、勲章を誇り、他を見下す醜い力になります。
子孫を繁栄させ、人生を彩る「色欲」は、生活に乱れと破壊と転落をもたらす醜い力になります。
活力と身心の安寧をもたらす「食欲」は、節制を忘れさせ、身心に病気をもたらす醜い力になります。
生命力を回復させ、精神を健全にはらたかせる「睡眠欲」は、怠惰をもたらす醜い力になります。
2 天魔
この魔ものが活躍すれば、「幸せつぶし」が行われます。「他人の不幸は蜜の味」というとんでもない言葉がありますが、こうした暗いものが心のどこかに潜んでいることは確かです。
自分は他人と異なっているからこそ自分だという「自分らしさ」の意識がある一方で、周囲の人びとや周囲の生活や周囲の環境と同じだからという安心感もあるものです。
この安心感は無意識にはたらいており、誰かが急に上昇を始めると敏感に反応し、悪口を言ったり邪魔をしたくなったりします。
3 死魔
この魔ものが活躍すれば、夢は色あせます。 私たちは死へ向かって生きている存在ですが、そのことを「知りつつ、程ほどに忘れている」のが健全な精神というものです。
忘れ過ぎていれば我欲の虜になり、品位が失われます。
釈尊は『法句経』において、その醜さをくり返し説いておられます。
一方、意識させ過ぎるのが死魔のしわざであり、生きる力を害します。
4 蘊魔(ウンマ)
この魔ものが活躍すれば、能力が発揮できなくなります。
陰魔(オンマ)とも称されるとおり、運勢を陰の方向へ導き、意欲を歪ませます。
一方、歪んだエネルギーが溜まると思いもよらない形で暴発し、自他を破滅させたりもします。
校長先生が生徒へセックスを迫ったり、生徒が学校へ殺人予告をしたり、迷惑メールをばらまいたりといった行動は、この魔ものの仕業です。
み仏は私たちを魔ものから救うため、守本尊として不断にはたらいておられ、それを「獅子奮迅(シシフンジン)」と言います。
魔ものに負けないためには、教えを学び実践し、仏神のご加護をいただき、周囲へ良き縁を招き寄せることです。
ご加護をお求めの場合は、守本尊法によるご加持やご祈祷によって魔切を行います。
春になると特にはたらくのが煩悩魔です。
やられないように気をつけましょう。
魔ものは自他の心に住み、運勢に作用して苦をもたらします。
1 煩悩魔
この魔ものが活躍すれば、「五欲」がむき出しのままで暴れます。
意志を実現させ、生活に安定と安全をもたらすべき「財欲」は、奪い、奢り、品格を失わせる醜い力になります。
恥を忘れず矜持を大切にし、社会貢献の機会を大きくする「名誉欲」は、勲章を誇り、他を見下す醜い力になります。
子孫を繁栄させ、人生を彩る「色欲」は、生活に乱れと破壊と転落をもたらす醜い力になります。
活力と身心の安寧をもたらす「食欲」は、節制を忘れさせ、身心に病気をもたらす醜い力になります。
生命力を回復させ、精神を健全にはらたかせる「睡眠欲」は、怠惰をもたらす醜い力になります。
2 天魔
この魔ものが活躍すれば、「幸せつぶし」が行われます。「他人の不幸は蜜の味」というとんでもない言葉がありますが、こうした暗いものが心のどこかに潜んでいることは確かです。
自分は他人と異なっているからこそ自分だという「自分らしさ」の意識がある一方で、周囲の人びとや周囲の生活や周囲の環境と同じだからという安心感もあるものです。
この安心感は無意識にはたらいており、誰かが急に上昇を始めると敏感に反応し、悪口を言ったり邪魔をしたくなったりします。
3 死魔
この魔ものが活躍すれば、夢は色あせます。 私たちは死へ向かって生きている存在ですが、そのことを「知りつつ、程ほどに忘れている」のが健全な精神というものです。
忘れ過ぎていれば我欲の虜になり、品位が失われます。
釈尊は『法句経』において、その醜さをくり返し説いておられます。
一方、意識させ過ぎるのが死魔のしわざであり、生きる力を害します。
4 蘊魔(ウンマ)
この魔ものが活躍すれば、能力が発揮できなくなります。
陰魔(オンマ)とも称されるとおり、運勢を陰の方向へ導き、意欲を歪ませます。
一方、歪んだエネルギーが溜まると思いもよらない形で暴発し、自他を破滅させたりもします。
校長先生が生徒へセックスを迫ったり、生徒が学校へ殺人予告をしたり、迷惑メールをばらまいたりといった行動は、この魔ものの仕業です。
み仏は私たちを魔ものから救うため、守本尊として不断にはたらいておられ、それを「獅子奮迅(シシフンジン)」と言います。
魔ものに負けないためには、教えを学び実践し、仏神のご加護をいただき、周囲へ良き縁を招き寄せることです。
ご加護をお求めの場合は、守本尊法によるご加持やご祈祷によって魔切を行います。
春になると特にはたらくのが煩悩魔です。
やられないように気をつけましょう。
運命転化法 12 ―善人が八方塞がりになる時は―
とても「良い人」や「善い人」がなかなか大きく羽ばたけない場合があります。
そうすると、世間は所詮こうしたものだという独自の見解ができてしまい、同時に自分の見解への執着が強くなり、世間へ大して斜に構えるために、根は善人なのに、ますます受け容れられにくい人になってしまいます。
信徒Kさん手作りの冊子にカンボジアの民話があります。
昔、インドにビンビサーラ王という大変徳の高い方がいました。
この王子アジャッタサールは我がまま者で、まだ若いのに自分が王になりたいと考えました。
王の従弟デーバダッタは、常々王の輝かしい日々を妬んでおり、アジャッタサールの邪心につけこんで破滅させようと企みました。
「王子様、王様はあなたではなく、妹を女王にしたいと考えていますよ。
王様からそうした指示がある前に、王位を奪わねばなりません。
それはあなたにしかできないことです」
そそのかされた王子は、懐へ短剣を忍ばせ、散歩をよそおって王宮へ向かいました。もちろんたった一人です。
警備兵は咎めました。昼前に王宮へ入ることは誰も許されないからです。
ところが、王子は、子供が親へ会いに来たのに門前払いをするのは何ごとかと暴れたため、隊長は王子を捕縛しました。
そして、短剣が発見されました。
隊長は考えました。
「王の命令によれば、この時刻に宮殿へ入とうとする者はもちろん、武器を持ちこむ者も許されない。
警備兵は、命令に従わぬ者は誰であれ殺すように命じられている。
こうなれば王子と家族、そして関係者すべてを殺さねばならない」
即断できないでいるうちに、二番警備兵が言いました。
「王子は明らかに犯罪者であるが、そそのかしたデーバダッタも処刑せねばなりません。
王子を処刑する前に、厳しく詮議すべきでしょう」
もう一人の思慮深い三番警備兵は、他の意見をよく聞いた後に、意見を述べました。
「この国の法律は一般人を対象としたものであり、王家の一族に対しては慎重でなければなりません。
まして、王子様は我々の王様が愛している息子です。
王様に雇われいる我々警備兵は自分たちで結論を出さず、王子様と短剣を王様へお渡しして判断を仰ぐべきではないでしょうか」
悲しい目で王子を見た王様は、それぞれの考えを聞き、判断を下しました。
「隊長よ、王子と家族などを殺そうとしたお前は宮殿兵の資格がない。
もう、自分の村へ帰りなさい。
二番警備兵よ、お前は王子と首謀者を殺そうとした。
しかし、お前がこうした非常時の裁きをすることは許されない。
元の仕事に戻り、水牛の番をしなさい。
三番警備兵よ、お前は、王家の不幸なできごとをよく見極め、さまざまな事態をも予測し、賢い判断をした。これからは君が隊長だ」
さまざまな事態を予測する判断力や全体を観る視点を持つ柔軟な思考があれば、「良い人」や「善い人」は、周囲へ芳香を広げる「佳い人」へと成長できます。 不動明王は、このように人それぞれの住む世界や考え方の違いについて深く理解する力をお授けくださいます。
そうすると、世間は所詮こうしたものだという独自の見解ができてしまい、同時に自分の見解への執着が強くなり、世間へ大して斜に構えるために、根は善人なのに、ますます受け容れられにくい人になってしまいます。
信徒Kさん手作りの冊子にカンボジアの民話があります。
昔、インドにビンビサーラ王という大変徳の高い方がいました。
この王子アジャッタサールは我がまま者で、まだ若いのに自分が王になりたいと考えました。
王の従弟デーバダッタは、常々王の輝かしい日々を妬んでおり、アジャッタサールの邪心につけこんで破滅させようと企みました。
「王子様、王様はあなたではなく、妹を女王にしたいと考えていますよ。
王様からそうした指示がある前に、王位を奪わねばなりません。
それはあなたにしかできないことです」
そそのかされた王子は、懐へ短剣を忍ばせ、散歩をよそおって王宮へ向かいました。もちろんたった一人です。
警備兵は咎めました。昼前に王宮へ入ることは誰も許されないからです。
ところが、王子は、子供が親へ会いに来たのに門前払いをするのは何ごとかと暴れたため、隊長は王子を捕縛しました。
そして、短剣が発見されました。
隊長は考えました。
「王の命令によれば、この時刻に宮殿へ入とうとする者はもちろん、武器を持ちこむ者も許されない。
警備兵は、命令に従わぬ者は誰であれ殺すように命じられている。
こうなれば王子と家族、そして関係者すべてを殺さねばならない」
即断できないでいるうちに、二番警備兵が言いました。
「王子は明らかに犯罪者であるが、そそのかしたデーバダッタも処刑せねばなりません。
王子を処刑する前に、厳しく詮議すべきでしょう」
もう一人の思慮深い三番警備兵は、他の意見をよく聞いた後に、意見を述べました。
「この国の法律は一般人を対象としたものであり、王家の一族に対しては慎重でなければなりません。
まして、王子様は我々の王様が愛している息子です。
王様に雇われいる我々警備兵は自分たちで結論を出さず、王子様と短剣を王様へお渡しして判断を仰ぐべきではないでしょうか」
悲しい目で王子を見た王様は、それぞれの考えを聞き、判断を下しました。
「隊長よ、王子と家族などを殺そうとしたお前は宮殿兵の資格がない。
もう、自分の村へ帰りなさい。
二番警備兵よ、お前は王子と首謀者を殺そうとした。
しかし、お前がこうした非常時の裁きをすることは許されない。
元の仕事に戻り、水牛の番をしなさい。
三番警備兵よ、お前は、王家の不幸なできごとをよく見極め、さまざまな事態をも予測し、賢い判断をした。これからは君が隊長だ」
さまざまな事態を予測する判断力や全体を観る視点を持つ柔軟な思考があれば、「良い人」や「善い人」は、周囲へ芳香を広げる「佳い人」へと成長できます。 不動明王は、このように人それぞれの住む世界や考え方の違いについて深く理解する力をお授けくださいます。
運命転化法 11 ―祈祷のご利益を確実に手にする方法―
さまざまな問題が重なって夫婦仲が悪くなり、ご主人が子供を連れて実家へ帰ってしまったがどうすれば良いかという人生相談がありました。
かなり危ういけれどもまだ夫婦の縁は切れていないと観たので、問題一つ一つの解決方法と、帰って来て欲しいとご主人へ訴える場合の要点についてお話しし、関係者ご一同、納得し当山を後にされました。
しかし、間もなく、また、奥さんからご依頼がありました。
ご主人のマザコンと義母の息子への執着心が邪魔をしているんだから、二人の仲を引き離す修法をして欲しいというのです。
わざわざ県外からご来山されていることもあって、何とかしてあげたい気持はやまやまでも、それじゃあというわけには行きません。
奥さんが、まだ、ご自身の生き方を変えようとあまり努力しておられないからです。
なかなか思うように精進できないのでご本尊様の後押しが欲しい、あるいは、努力しても努力しても好転しないのでご本尊様のお力を借りたい、というのならただちに修法へ入ります。
しかし、いつまでも「あの人のせいだから」という考え方にとらわれ、そしてご本尊様への「あなた任せ」の姿勢でいたのでは、運命転化はおぼつきません。
今の状態で修法しては、決して本人のためになりません。
よしんば、ご主人が帰って来たなど都合の良い変化が起きても、それはたまたま得た幸運のようなものでしかなく、そんなかりそめの幸せはまたいつか手から離れてしまうことでしょう。
辛い体験をした自分がそれをかけがえのないきっかけとして向上すれば運勢が変わり、新たな自分がご主人を変え、義母を変えてこそ明るい未来が開け、幸せな運命が創られるのです。
そうした流れの中でご加護を求めるならば、どの時点であれ、喜んで修法します。
ご本尊様はきっと大きなご加護をくださることでしょう。
問題を解決するためにまず必要なのは、み仏の教えによって新たな視点を持ち、苦の根本原因となっている貪・瞋・痴を離れようと決心し、具体的に何かを行なうことです。
誠心は必ず仏神へ通じ、行者の祈祷が仏神のお慈悲を確かなものにします。それは、病気が治るのは患者の自己快癒力のせいであり、医者がそのお手伝いをするのと同じです。
すべてはそこからしか始まりません。
だから、当山では、ご祈祷のご依頼があれば、必ず問題解決のための心構えなどをお話ししています。
ことを為そうとすれば、「自分の努力による功徳の力」「周囲の縁の力」、そして「仏神のご加護の力」が必要なのです。
この「三力(サンリキ)」で運命を転化しましょう。
かなり危ういけれどもまだ夫婦の縁は切れていないと観たので、問題一つ一つの解決方法と、帰って来て欲しいとご主人へ訴える場合の要点についてお話しし、関係者ご一同、納得し当山を後にされました。
しかし、間もなく、また、奥さんからご依頼がありました。
ご主人のマザコンと義母の息子への執着心が邪魔をしているんだから、二人の仲を引き離す修法をして欲しいというのです。
わざわざ県外からご来山されていることもあって、何とかしてあげたい気持はやまやまでも、それじゃあというわけには行きません。
奥さんが、まだ、ご自身の生き方を変えようとあまり努力しておられないからです。
なかなか思うように精進できないのでご本尊様の後押しが欲しい、あるいは、努力しても努力しても好転しないのでご本尊様のお力を借りたい、というのならただちに修法へ入ります。
しかし、いつまでも「あの人のせいだから」という考え方にとらわれ、そしてご本尊様への「あなた任せ」の姿勢でいたのでは、運命転化はおぼつきません。
今の状態で修法しては、決して本人のためになりません。
よしんば、ご主人が帰って来たなど都合の良い変化が起きても、それはたまたま得た幸運のようなものでしかなく、そんなかりそめの幸せはまたいつか手から離れてしまうことでしょう。
辛い体験をした自分がそれをかけがえのないきっかけとして向上すれば運勢が変わり、新たな自分がご主人を変え、義母を変えてこそ明るい未来が開け、幸せな運命が創られるのです。
そうした流れの中でご加護を求めるならば、どの時点であれ、喜んで修法します。
ご本尊様はきっと大きなご加護をくださることでしょう。
問題を解決するためにまず必要なのは、み仏の教えによって新たな視点を持ち、苦の根本原因となっている貪・瞋・痴を離れようと決心し、具体的に何かを行なうことです。
誠心は必ず仏神へ通じ、行者の祈祷が仏神のお慈悲を確かなものにします。それは、病気が治るのは患者の自己快癒力のせいであり、医者がそのお手伝いをするのと同じです。
すべてはそこからしか始まりません。
だから、当山では、ご祈祷のご依頼があれば、必ず問題解決のための心構えなどをお話ししています。
ことを為そうとすれば、「自分の努力による功徳の力」「周囲の縁の力」、そして「仏神のご加護の力」が必要なのです。
この「三力(サンリキ)」で運命を転化しましょう。
魔ものの正体 ―四魔とは―
私たちの心には四種類の魔ものが棲んでいるとされています。
何度か書いたこの『四魔』について、その正体を記しておきます。
春になるとムズムズして「煩悩魔(ボンノウマ)」が動きやすくなります。
樹々の芽吹きや暖かい風に誘われ、冬の寒さで閉ざされていた心身が解放されるような気持になり、我欲がはたらき出すのです。
霞のかかった水色の空も、爛漫と咲く桜もそうした気分を昂めますが、それは〈見たり感じたりするする自分〉がこちらにいて、目という小さな窓から眺めているからです。
夏になると、深い緑色に輝く木の葉や、真っ青な空に湧き上がる雄大な雲や、強い陽ざしの暑さによって解放は最高潮に達し、高慢心による「天魔」がはたらきやすくなります。
秋になると、ひんやりとする秋風や、高く澄んだ空に舞うトンボや、舞い降りる紅葉の様子に、いのちのはたらきが下降する怖れを抱き「死魔」がはたらきます。
冬になると、寒さによって心身は萎縮し、多くの動物たちも植物たちも活躍を縮小するか休止に入るかして冷気の帳が天地を満たすのを見て、自衛のために殻へ閉じこもり、「こだわり」という「蘊魔(ウンマ)」が強くはたらきます。
いずれにあっても、春と同じく、やはり〈見たり感じたりするする自分〉がこちらにいます。
その〈自分〉は、無意識の裡に自他を対立的にとらえ、肉体に閉じこめられた範囲の自分を可愛がるもので、小我(ショウガ)といいます。
桜の薄桃色に浮き立っても、揺れるススキにもの悲しさを覚えても、その段階でとどまれば小我でしかなく、魔ものの掌に乗ることになるでしょう。
真実世界のありようとしては、桜の頃は、自分も春にあって、桜と同じく天地の一部です。秋風の頃は、自分も秋にあって、秋風と同じく天地の一部です。
たとえば松尾芭蕉は、そうした境地をこんな風に詠んでいます。
樹のもとでくり広げられる花見の華やぎの中では、汁も鱠も桜も皆渾然一体となり、自分もそこに溶けこんでいます。
秋風が吹かば吹けとばかり、栗は青いいがをもって生を主張しており、秋風も栗も自分も全部あっての秋なのです。
どこにも〈見たり感じたりするする自分〉はいません。
もう『四魔』の正体は明らかになりました。〈小我によって生まれた幻の子供〉です。
私たちは、自分で生んだ子供によって苦しみ、迷い、道を誤ります。
しかも、幻を生む小我もまた幻でしかありません。
松尾芭蕉は、そうした二重の幻を払った大我(タイガ)の人なので前の二句を詠めたのでしょう。
大我にあっては、自分と他人、自分と自然、そして自分とみ仏という小さな分別は消えます。
もちろん、修法は行者と衆生とみ仏の一体が大前提であり、そこに入らねば法力は動かず、死者へ引導を渡すこともできません。
『四魔』を克服し大我(タイガ)に生きることが、自他共に苦を脱する方法です。 そのために、善き願いを持って祈り、ご加持の法を行ない、瞑想し、四魔切の剣を振るいます。
一歩一歩と、世知辛い憂き世を極楽浄土にする歩みを進めましょう。
何度か書いたこの『四魔』について、その正体を記しておきます。
春になるとムズムズして「煩悩魔(ボンノウマ)」が動きやすくなります。
樹々の芽吹きや暖かい風に誘われ、冬の寒さで閉ざされていた心身が解放されるような気持になり、我欲がはたらき出すのです。
霞のかかった水色の空も、爛漫と咲く桜もそうした気分を昂めますが、それは〈見たり感じたりするする自分〉がこちらにいて、目という小さな窓から眺めているからです。
夏になると、深い緑色に輝く木の葉や、真っ青な空に湧き上がる雄大な雲や、強い陽ざしの暑さによって解放は最高潮に達し、高慢心による「天魔」がはたらきやすくなります。
秋になると、ひんやりとする秋風や、高く澄んだ空に舞うトンボや、舞い降りる紅葉の様子に、いのちのはたらきが下降する怖れを抱き「死魔」がはたらきます。
冬になると、寒さによって心身は萎縮し、多くの動物たちも植物たちも活躍を縮小するか休止に入るかして冷気の帳が天地を満たすのを見て、自衛のために殻へ閉じこもり、「こだわり」という「蘊魔(ウンマ)」が強くはたらきます。
いずれにあっても、春と同じく、やはり〈見たり感じたりするする自分〉がこちらにいます。
その〈自分〉は、無意識の裡に自他を対立的にとらえ、肉体に閉じこめられた範囲の自分を可愛がるもので、小我(ショウガ)といいます。
桜の薄桃色に浮き立っても、揺れるススキにもの悲しさを覚えても、その段階でとどまれば小我でしかなく、魔ものの掌に乗ることになるでしょう。
真実世界のありようとしては、桜の頃は、自分も春にあって、桜と同じく天地の一部です。秋風の頃は、自分も秋にあって、秋風と同じく天地の一部です。
たとえば松尾芭蕉は、そうした境地をこんな風に詠んでいます。
「木のもとに汁も鱠(ナマス)も桜かな」
樹のもとでくり広げられる花見の華やぎの中では、汁も鱠も桜も皆渾然一体となり、自分もそこに溶けこんでいます。
「秋風の吹(フク)とも青し栗のいが」
秋風が吹かば吹けとばかり、栗は青いいがをもって生を主張しており、秋風も栗も自分も全部あっての秋なのです。
どこにも〈見たり感じたりするする自分〉はいません。
もう『四魔』の正体は明らかになりました。〈小我によって生まれた幻の子供〉です。
私たちは、自分で生んだ子供によって苦しみ、迷い、道を誤ります。
しかも、幻を生む小我もまた幻でしかありません。
松尾芭蕉は、そうした二重の幻を払った大我(タイガ)の人なので前の二句を詠めたのでしょう。
大我にあっては、自分と他人、自分と自然、そして自分とみ仏という小さな分別は消えます。
もちろん、修法は行者と衆生とみ仏の一体が大前提であり、そこに入らねば法力は動かず、死者へ引導を渡すこともできません。
『四魔』を克服し大我(タイガ)に生きることが、自他共に苦を脱する方法です。 そのために、善き願いを持って祈り、ご加持の法を行ない、瞑想し、四魔切の剣を振るいます。
一歩一歩と、世知辛い憂き世を極楽浄土にする歩みを進めましょう。
運命転化法 10 ―目ざすところへ行くには―
受験シーズンのたびに書いてきたテーマですが、念のため、今一度書いておきます。
「目ざすところへ行きたい」のは当然の願いです。
受験生なら目ざす学校へ入りたい、資格を求めている方なら有資格者になりたい、仕事を求めている方ならやりたい仕事に就きたい、それぞれ尊い願いです。
目的のために力をつけること、持った力を発揮できるよう心身を調えること、そられのために集中できる心をつくること、いずれも自分を鍛え向上させるすばらしい行為です。
文字どおり頑張っていただきたいし、願をかける方々の目標の達成を我が願いとして真剣に祈っています。
ただし、そうした努力と共に練り、固め、高く保っていただきたいのは、志です。
自分がなぜそこを目ざすのか、その真の目的をはっきりとつかんでいただきたいということです。
自分がやっていることは、志を実現するために今の自分が最も有効と考える方法なのだと認識していただきたいということです。
入学も、資格の取得も、就職も、すべて方法です。手段です。
それらは、人生をかける目的、つまり志の成就そのものではありません。
入試の合格は、一つの手段を得たことであり、入試の不合格は、目先の手段を一つ得そこなったことに過ぎません。
志を忘れなければ、手段の獲得の成功は、速やかに次の段階へ誘い、やがて早い成就という果をもたらしましょう。
志を曲げなければ、手段の獲得の失敗は、謙虚さと不屈の闘志を養い、やがて成就の深い喜びという果をもたらしましょう。
大切なのは志という目的であって、それを捨てなければ、目先の手段が得られようと得られまいと、必ず人生の勝利者になれるのです。
しかし、志を忘れた獲得者は、傲慢になり、怠惰になり、いつか墓穴を掘ります。
志を忘れた非獲得者は、卑屈になり、自暴自棄になり、根無し草になります。
何よりも大切なのは、志です。
「人のいのちを救いたい」から医学部を目ざせば、あるいは立派な医者になり、あるいは立派な介護士になり、あるいは立派なライフセーバーになり、あるいは立派な僧侶になることでしょう。
「快適な住まいを造りたい」から建築士を目ざせば、あるいは立派な一級建築士になり、あるいは立派な大工さんになり、あるいは立派な林業者になることでしょう。
「人に笑いを与えたい」から娯楽産業へ飛び込めば、あるいは立派な落語家になり、あるいは立派なプロデューサーになり、あるいは立派な放送人になることでしょう。
これも何度も書きましたが、作家の高任和夫氏は、各界を代表すると信ずる方々とのインタビューを続けているうちに、巨人たちが必ず有している二つの共通点に気づいたと言われます。
一つは「謙虚さ」であり、もう一つは「志」です。
「目ざすところへ行きたい」方々、ぜひ、志をしっかり保ってください。
そうすれば、行きたい所・行くべき所へ連れて行く「遍所行智力(ヘンショギョウチリキ)」を持つ阿弥陀如来様が、必ず光のある方向を示し、手を引いてくださるにちがいありません。
「目ざすところへ行きたい」のは当然の願いです。
受験生なら目ざす学校へ入りたい、資格を求めている方なら有資格者になりたい、仕事を求めている方ならやりたい仕事に就きたい、それぞれ尊い願いです。
目的のために力をつけること、持った力を発揮できるよう心身を調えること、そられのために集中できる心をつくること、いずれも自分を鍛え向上させるすばらしい行為です。
文字どおり頑張っていただきたいし、願をかける方々の目標の達成を我が願いとして真剣に祈っています。
ただし、そうした努力と共に練り、固め、高く保っていただきたいのは、志です。
自分がなぜそこを目ざすのか、その真の目的をはっきりとつかんでいただきたいということです。
自分がやっていることは、志を実現するために今の自分が最も有効と考える方法なのだと認識していただきたいということです。
入学も、資格の取得も、就職も、すべて方法です。手段です。
それらは、人生をかける目的、つまり志の成就そのものではありません。
入試の合格は、一つの手段を得たことであり、入試の不合格は、目先の手段を一つ得そこなったことに過ぎません。
志を忘れなければ、手段の獲得の成功は、速やかに次の段階へ誘い、やがて早い成就という果をもたらしましょう。
志を曲げなければ、手段の獲得の失敗は、謙虚さと不屈の闘志を養い、やがて成就の深い喜びという果をもたらしましょう。
大切なのは志という目的であって、それを捨てなければ、目先の手段が得られようと得られまいと、必ず人生の勝利者になれるのです。
しかし、志を忘れた獲得者は、傲慢になり、怠惰になり、いつか墓穴を掘ります。
志を忘れた非獲得者は、卑屈になり、自暴自棄になり、根無し草になります。
何よりも大切なのは、志です。
「人のいのちを救いたい」から医学部を目ざせば、あるいは立派な医者になり、あるいは立派な介護士になり、あるいは立派なライフセーバーになり、あるいは立派な僧侶になることでしょう。
「快適な住まいを造りたい」から建築士を目ざせば、あるいは立派な一級建築士になり、あるいは立派な大工さんになり、あるいは立派な林業者になることでしょう。
「人に笑いを与えたい」から娯楽産業へ飛び込めば、あるいは立派な落語家になり、あるいは立派なプロデューサーになり、あるいは立派な放送人になることでしょう。
これも何度も書きましたが、作家の高任和夫氏は、各界を代表すると信ずる方々とのインタビューを続けているうちに、巨人たちが必ず有している二つの共通点に気づいたと言われます。
一つは「謙虚さ」であり、もう一つは「志」です。
「目ざすところへ行きたい」方々、ぜひ、志をしっかり保ってください。
そうすれば、行きたい所・行くべき所へ連れて行く「遍所行智力(ヘンショギョウチリキ)」を持つ阿弥陀如来様が、必ず光のある方向を示し、手を引いてくださるにちがいありません。


