9月の真言
たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。
不動明王(ふ・どう・みょう・おう)
「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」
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8月の聖語 ─心の十段階 その5─
因縁の十二深く観念し、百劫(ヒャクゴウ)に修習(シュジュウ)して神通を具す。
煩悩及び種子を抜き、灰身滅智(ケシンメッチ)して虚空のごとし。
湛然(タンネン)として久しく三昧(サンマイ)に酔臥(スイガ)せり。
警(イマシ)めを蒙って一如の宮に廻心(エシン)す。 ─弘法大師─
(迷いの生死が生じる十二因縁の理を深く観念し、途方もない生死をくり返しつつ修行を続け、神通力を備える。
煩悩とそれが影響力を及ぼす可能力を除き、心身のはたらきを完全に滅して虚空のような悟りを獲得する。
何ごとにも動かされず、永劫に精神統一を続ける。
み仏の警めを受け、自他を一如と観て慈悲心を発する大乗の悟りをめざす)
前回は、五蘊(ゴウン)をよく観じてアラカンさんになる段階(声聞…ショウモン)を記しました。
今度は、私たちの迷いの人生がいかなる原因によって生じているかを知り、迷いを根本から断ってしまおうと探求する段階(縁覚…エンガク)です。
当山は以前、以下のとおり記しました。
釈尊は、なぜ苦があり、迷うのかを考察されましたが、それはとりもなおさず、迷う私たちを「こうあらしめている根本のもの」を見つける瞑想です。そうして見つかった正体が無明です。
無明とは智慧の明かりがないことですが、ここで言う智慧はみ仏の智慧ですから、私たち凡夫にはなくてあたりまえです。「み仏として生まれてこなかった」以上、私たちは、万人共通の無明という大地でしかこの世の生活を始められません。
釈尊は無明を観、今を生きる主体としての自分がこの大地から立ち現れる様を見透されました。それが『十二因縁』です。
1 無明(ムミョウ)
2 行(ギョウ)
3 識
4 名色(ミョウシキ)
5 六入(ロクニュウ)
6 触(ソク)
7 受
8 愛
9 取
10 有(ウ)
11 生(ショウ)
12 老死
無明は、悟りの智慧がない状態です。
行は、自分に都合良くはたらく意志すなわち我(ガ)です。
識は、意識的であれ、無意識にであれ、自他を区別してとらえる心です。
名色は、自分を初め、名をもったものとしてそれぞれが実体的に在るととらえる心です。
六入は、世界を感受する六つの感覚器官とその領域です。眼と色、耳と声などです。辟辟
触は、感覚器官と対象との接触です。
受は、感受です。眼は色すなわち形を見るし、耳は声すわち音を聞きます。
愛は、対象に惹きつけられて起こる欲です。
取は、執着です。
有は、不変の実体を持つものはないのに、自分も対象も実体であるという錯覚です。
生は、錯覚に基づいた動かぬ自分の誕生です。
老死は、そうした自分に訪れる終末です。
こうした因縁を見極め、無明を断じる方法は卓越した行者たちによってさまざまに感得され、実践されました。
そして、煩悩がなくなり、心は何ごとにも動じなくなった状態が「灰身滅智」です。
身体は灰のようにはたらかず、心は智慧が滅してしまったかのように動かなくなり、ただただ精神統一の世界に憩うのみです。
花が落ちる様子や川の水が流れ去る光景などに深く無常を観じ、死をも恐れなくなる境地は「安心したい」という欲を満たすには充分なものです。
しかし、自分一人だけが悟りすましていても、依然として隣人たちは迷い、苦しみ、悲しむ苦界の住人であり、この世は争い傷つけ合う六道輪廻の巷です。
こうした他の苦を見捨てる者の悟りなどいくばくのものでありましょうか。
お大師様は、こう突きつけられました。
大悲、闕(カ)けてなければ、方便、具せず
(大いなる慈悲を欠いている者は、他を救う手だてを知らない)
もし、声聞(ショウモン)地及び辟支仏(ビャクシブツ…縁覚のこと)地に堕するをば、これを菩薩の死と名づく。
すなわち一切の利を失ふ。
(もし、声聞や縁覚などの境地に堕ちてしまうならば、それは菩薩としては死んでしまったようなものである。
すなわち、人間として生まれてきた意義の一切を失ってしまったようなものである)
だから、み仏の「警め」が降りるのです。
たとえ地獄に堕ちようと自他の苦へ立ち向かう者には究極の救済があり得るけれども、悟りすまして自分だけが安閑と虚無や無為自然を楽しむような者には、周囲の苦界が目に見えても心では決して観えず、み仏の子として生きるための〈実践〉という尊い機会が失われてしまうからです。
「菩薩の死」こそが地獄以下の状態であり、最も恐れるべき人間としての堕落であることを肝に銘じて学び、実践し続けましょう。
8月の真言
たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。
「ノウマク サンマンダ ボダナン アビラウンケン」
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7月の聖悟 ―心の十段階 その4―
(み仏は、教えを聞いて悟りを得ようとする人びとのために、「私たちの身体など、この世にあるものはすべて生滅無常のものであり、その一方で、無常なものを分析すれば、それを成り立たせている要素はいつの世も変わりない」という教えを説かれた)
ここまで、3つの心のありようを眺めてきました。
まず、自分の利となるものを求め、欲のままにふるまう心です。
次は、他人を意識して倫理的感覚をもってふるまう心です。
そして、自分と他人の他に、自分の内側や外界に超越的な何か、たとえば神と称されるようなものを「絶対に有る」として執着する心です。
仏法は、自分であれ神であれ、絶対的に「有る」と考える対象を「我(ガ)」といい、そのような本来いつまでも有り続けるものでは「無い」と気づくところからスタートします。
だから無我(ムガ)が入り口になります。
人といい、神といい、常に有り続ける実体がないことを空といいます。
有るものの代表として人を挙げ、それが空であるから「人空」と説きました。
しかし、自分も周囲のモノも死んだり壊れたりしていつかはなくなりますが、何もかも混沌としているのではなく、よく観ると、この世を成り立たせている構成要素はいつの世も変わりありません。
その根本は五蘊(ゴウン)です。
1 色蘊(シキウン)
自分が死ねば身体は灰になりますが、灰は天地へ還るだけであり、消えて無になるわけではありません。
第一、何もない場所はどこにもなく、たとえば、猫が歩いていた場合、猫がさっきまでいた所は空気が満ちているか、さもなければ他のものが必ずそこを埋めています。
ネコがいるのと同じ場所に、同時にイヌがいるわけには行きません。
このように、見えて聞こえるこの世には、必ず何かが充満しています。
それを色(シキ)といい、要素という意味の蘊をつけて色蘊といいます。
2 受蘊(ジュウン)
これは楽だ、これは苦だというふうに感じとる感受作用です。
見えたり聞こえたりするものすべてに対して、私たちはただちに反応します。
3 想蘊(ソウウン)
旅へ出て美しい光景を心へしまいこみ、帰宅してからありありと思い出すといった表象作用です。
あらゆるものは心へ取り込まれ、それが思考の材料となって生きます。
4 行蘊(ギョウウン)
因縁によって創られた心の傾向は、その人その人独自のものであり、意志や意欲はこうしよう、ああしようと千変万化します。
たとえばリンゴを手にした場合、絵心のある人は画材にし、宗教心のある人はお供えし、食欲のある人は食べます。
5 識蘊(シキウン)
自分が意識してこそ、この世はあります。
今日は晴れた、今日は雨だと解る人にしか、晴れも雨もありません。
五蘊のようにこれ以上つきつめようのないものを法といい、法は変わらずに有り続けると考えるので「法有」といいます。
ここが仏法の入り口となります。
空を深く悟って自分にも、人にも、モノにも、心の内外に想定する神にもとらわれず、構成要素を分析し尽くして納得し、「人空法有」の境地に至った行者がアラカンです。
アラカンさんになるのは大変ですが、我欲を離れた空の感覚と、五蘊というこの世への視点、そして原理や真理を探究する姿勢にはどなたも学ぶところがあるのではないでしょうか。



