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2008
08.13

欲と三毒

 またまた、研究熱心なAさんからこうした質問をいただきました。
「人間が生きものである以上、があるのは当然なのに、『をなくせ』というのはおかしいんじゃありませんか?」
 これまで何度も書いたテーマですが、もう一度確認しておきましょう。

」と「貪り」「怒り」「愚かさ」の三毒との関係を考えてみましょう。
 ご質問のとおり、私たちは生きものですから食べねばならず、食欲があるのは生きものとして健全な状態であって、食欲は善でも悪でもありません。
 若いAさんにとって悩みの種である性欲もまた、いのちのバトンタッチをしようとする自然な力であり、善でも悪でもありません。
 いのちにはリズムがあり、休息のための睡眠欲もまた、善でも悪でもありません。
 社会的動物である人間は、衣食住をきちんとするのが当然であり、志を実現するためには発言力などの社会的力も必要なので、財欲名誉欲も、善悪のどちらと色分けをすることはできません。
 ならば、なぜ、この「五欲」が三毒をもたらすのでしょうか。

 それは、欲には自分で自分をコントロールする力がなく、意識してブレーキをかけないと暴走する性質があるからです。
 食欲はたやすく「もっと」と貪りへ傾斜します。
 そして、貪るという方向へいのちのはたらきが習慣づけられると、他の欲もそうした動きをするようになりがちです。
 性欲はたやすく相手への執着を生み、思いのままにならなければたちまち怒りが渦巻きます。
 怒りもまた習慣となり、正邪の感覚に結びつくと怒りが毒であることが解らなくなる場合もあります。
 惰眠を貪れば、時間が人生であるという真理を忘れ、財産や名誉そのものにこだわれば、すべては空(クウ)であるという真実を忘れて、勝手な妄想が起こります。
 ありとあらゆるものは直接的原因である「因」と間接的原因である「縁」とが織りなす一瞬の現象であり、空がこの世の本当の姿であることを忘れ、誤ったものの見方が欲のはたらく方向を誤らせて、苦が生じます。

 こうして五欲は自他を害するので、釈尊は欲を制御する方法として慈悲智慧を説かれました。
 慈悲とは自己中心を離れた思いやりであり、智慧とは守るべきものとしてきちんと戒律を理解する智慧です。
 我を主とせずに他を思いやり、戒律をくり返しくり返し念じていれば、欲が悪業をつくらぬよう、適度なところでストップがかかります。
 み仏の教えと加持力の発露です。
 ここが、暴れ回る我欲となって悪業を積むか、自他を活かす大欲となって善業を積むかの分かれ目です。
 同じ「欲」が、心のありよう一つで地獄へも極楽へも導くのです。

 このように、「欲をなくせ」は「欲に三毒を生ませるな」であり、「慈悲智慧に生きなさい」でもあります。
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2008
06.11

本当の幸せを得る方法

 本当の幸せとは、何ものにも壊されず、時が経つにつれてたとえ無意識となっても深く心に染みわたり、どんな逆境をも乗り越えさせる力になるものです。
 だから、どれほど重なっても、いかに心で膨れあがっても毒となることはありません、
 反対に、増えたり広がったりして困るものは本当の幸せではありません。

 もしも、おいしいものを食べた満足感を際限なく求めたならどうなるでしょうか。
 もしも、セックスの満足感を際限なく求めたならどうなるでしょうか。
 もしも、睡眠の満足感を際限なく求めたならどうなるでしょうか。
 もしも、称賛される満足感を際限なく求めたならどうなるでしょうか。
 もしも、財産が増える満足感を際限なく求めたならどうなるでしょうか。

 色欲・食欲・睡眠欲・名誉欲・財欲という「五欲」の満足として得られる快楽はいつか必ず毒を生み、得た満足感の何倍もの苦しみをもたらします。
 だから、快楽は人生の味付けとしてほどほどにしておかねばなりません。
 こうした〈制限されるべきもの〉は本当の幸せではありません
 それなら、本当の幸せは何によってもたらされるか。

 それは、徳積みとなる行です。
 たとえば、誰しもが勤め励むべき「四正勤(シショウゴン)」です。

1 すでに生じたは除くこと
1 いまだ生じてないは生じないようにすること
1 いまだ生じていないは生ずるようにすること
1 すでに生じたは増大させること 


 こうした行は深い満足感をもたらし、いかに重なろうとも決して毒を生まず、自他の運勢を明るい方向へと導きます。
 み仏の子にふさわしい行のみが本当の幸せの源泉であり、それに伴う充実感や感謝の思いこそが本当の幸せです。
 たとえ感謝の笑顔や思いやりのある言葉をもって他人と接する「和顔愛語(ワゲンアイゴ)」といった目立たぬものであっても、誰かの苦を抜き、誰かに楽を与えない限り、自分が真に幸せにはなれません。
 もしも一人でひっそりと暮らしているならば、誰かの幸せを祈ることです。
 それは見知らぬチベットの人びとのためであっても構いません。
 明らかに、すでに生じたを除くための行いであり、いまだ生じていないを生じさせるための行いだからです。

 こうした真実を示す一例として、大恩ある親に幸せになってもらいたいと願う子供のまごころはいかにすれば現実化するかを説いた『父母恩重経(ブモオンジュウキョウ』があります。

「父母のために心と財を尽くしておいしいものを食べさせ、歌舞音曲で楽しませ、安楽に住まわせ、一生おもしろおかしく過ごさせようと、仏法僧を信じる心を起こさせないならば、親不孝である」

 快楽に満ちた生活を保障することが、親を本当に幸せにする方法ではありません。
 愚かな人間を超えた存在を畏怖し尊ぶ心を持ち、何歳になっても謙虚に人の道を学び、人の道を求めて寺院を守る人々(出家者と在家者を問いません)を尊ぶようにしむけてこそ、真の親孝行です。
 なぜなら、五欲となって現れる煩悩は、自分でそれを抑制し清浄な意欲に変えない限り埋もれ火のように心へ居ついており、いつ何どき自他へ苦しみをもたらしても不思議はないからです。

 そもそも、自分が過去の因縁によってこの世へ生まれ出たことを観るにつけても、〈どう生きるか〉はこの世の幸不幸として結実するだけではなく、あの世と次の世がいかなるものとなるかをも決めます。
 本当の幸せを得るための根本的な方法は、善行により、善果としての幸せをもたらす不壊の徳を積むしかないのは明白です。
2008
06.06

不惜身命(フシャクシンミョウ)と但惜身命(タンジャクシンミョウ)

『法華経』の一節に「若(モ)し人精進するに、常に慈心を修して、身命(シンミョウ)を惜しまざれば、乃ち為に説くべし」とあります。
 貴乃花が大相撲第65代横綱に推挙された際、「不惜身命」の心で精進しますと誓ったことで、この熟語は有名になりました。
 身命(いのち)を惜しむことなくものごとに精進するのは、いかなる道を極めようとする者にも欠かせない覚悟です。
 しかし、そうは言っても、がむしゃらに頑張れば良いというわけではありません。
 たとえば、相撲取りが寝不足なのにいつもと同じ調子でぶつかり稽古をやったり、食事後すぐに土俵に上がったりしていたのでは、いかに頑丈な身体でもケガや病気にやられてしまいましょう。
 お大師様は室戸岬で海へ向かい、虚空蔵求聞持(グモンジ)法を修するにあたり、二つの洞窟を用いられました。
 一つは観想をこらし真言を唱える修行をするためのもの、もう一つは日常生活を営むためのものです。
 健康管理をしっかり行いつつ一心に励んだからこそ、満願の日に明けの明星が口に飛び込むという奇瑞を得られたのでしょう。

 そこで、道元禅師は、「但(タ)だ身命(シンミョウ)を惜しむ」とつけ加えられました。
 全身全霊を挙げて励むためには、自分の身心をコントロールせねばなりません。
 生活に気を配らずいのちを粗末にするような心構えでは、修行は成就できないのです。

 最近、道を求める若い方から「私は何も必要としてはいません。こうして生きているんですから、もう、充分なんですよね」と言われました。
 生活ぶりを見ても、みごとに捨てており、欲望をかき立てて止まない現代文明の悪しき影響を脱しています。
 一個人としてはそこそこのところまで行きました。
 自分と自分の持ちものへ対する〈惜しい欲しいという執着心〉を離れたという意味では、「不惜身命」へ達したのかも知れません。
 しかし、それだけでは、菩薩道を歩む者として準備万端調ったという段階であり、本番はこれからです。

 一行者として、自らを清め法力を磨く修行に邁進すると共に、相手を選ばず「苦を抜き楽を与える」実践をせねばなりません。
 そのためは、「但惜身命」に徹した生活が不可欠です。
 父母を縁としてみ仏からいただき、み仏と天地万物のおかげをもって生かしていただいているいのちを宝ものと尊び、身心を大切に守り、能力開発を怠らず日々を過ごさねばなりません。
 個人としてのいのちを惜しまずとも、菩薩としてのいのちを惜しみつつ、日々を送りたいものです。
 小欲を克服し、大欲(タイヨク)に生きる菩薩でありたいものです。
2008
04.30

食欲の問題

 拒食過食など、食欲の問題に悩んでいる方々がおられます。
 決して望んだわけではないのに、コントロールできず苦しんでおられます。
 場合によっては長期間にわたって自分との闘いが続くケースも珍しくはありません。

 直接、身心に法を受けるご加持が有効ですが、ご来山できない場合は、遠隔法が可能です。
 その場合、できることなら、真言を唱えることをお勧めします。
 ご加持において「加わる」のはみ仏の大きな慈悲であり、それを受けて「持つ」のは信心という清らかな心だからです。
 せっかくみ仏のお慈悲が陽光となって降りそそいでも、受ける心が波立っていたり、心の鏡が汚れていたりしたのでは、きちんといただくことができません。

 信心とは、特定のみ仏を無理に拝むことではありません。
 心にもないことをして結果を求めるのは、「はからい」の世界では有効であっても、「まこと」の世界では無効です。
 もちろん、自分の望みだけを持って手を擦ることでもありません。
 それでは、我欲を増しているだけです。
「自分では最善を尽くしているけれども、まだ力が及ばず、どうしても結果が得られない。是非ともみ仏のご加護をいただきたい」と決心したならば、まず、合掌することです。
 右手はみ仏、左手は自分、それを一体にしてみ仏へ近づくのです。
 次に、真言を唱えることです。
 微音でも、あるいは心中でのお唱えでも結構です。
 その響きは表面の心のはたらきを動かすだけでなく、さらに深い心へも届き、動かし、清めます。
 そして観想です。
 願いに応じた守本尊様を正しく胸に思い浮かべられるようになったなら、即身成仏は間近です。

 こうして信心ができれば、お慈悲は充分に身心へ浸透し、悪しき因縁を脱することができましょう。
 欲の問題の解決とは、因縁解脱に他ならないのです。

 なお、こうした信心は、他の仏神への信仰と何らぶつかるものではありません。
 いつも神棚へ手を合わせている方が食欲の問題を解決したいと願いお不動様の真言を唱えたからといって、神様が祟るはずはありません。
 自分だけと我を張るのは凡夫の世界であり、そうした我や対立を離れてすべてが和し、尊きものすべてが存在している浄土こそ、聖なる世界だからです。
 凡夫のはからいを離れたところに聖なる世界が待っています。

2005
11.25

五欲の問題 5 ―天人五衰 5―

5 食欲
 私たちは、普段、あまり食欲について考えないものです。
 それは「食べる」のは生きものとしてあたりまえであり、日本では、飢饉や人口爆発などで「食べられない」という食糧難の事態が起こることはなくなり、社会保障も充実しているからです。
 そして、食べものへの感謝が薄れました。
 天の恵みとして自らのいのちを差し出してくれる生きものたちへの感謝が薄れました。
 
 学校では、「いただきます」「ごちそうさま」がどんどんなくなり、無論、食事の前後に手を合わせるなどという学校は、仏教系のところ以外ではほとんどなくなりました。
 「子供に合掌させるのは宗教の押しつけだ」というお定まりの議論はもちろん、「親がお金を払い弁当を持たせて学校へ行かせているのに、食べものを他の誰かからもらったかのように感謝させるとは何ごとか」といった暴論すら叫ばれ、まかり通っているそうです。

 さて、私たちは何のために仏前へご供物を捧げるのでしょうか?
 「ウチのお寺では、上げた水がどんどんなくなる。仏様がお飲みになるからです」と言った僧侶がおられるそうですが、それはともかく、御霊が透明人間のように生前好きだった食べものをパクパクと食べるところを見た話は聞いたことがありません。
 
 これまで何度も書いたように、ヒントは花にあります。
 捧げる花は、ご本尊様や御霊の方を向かず、必ず捧げる人の方を向いています。
 それは、ご本尊様を美しい花々で荘厳したい、御霊に好きだった花を楽しんでもらいたいといった素朴な願いだけでなく、〈花の心を捧げる〉という供養の根本があるからです。
 花を目にする私たちが
「この花のような心を忘れないで生きて行きます。
 だから安心してください。
見守っていてください」

と誓い、雨風に耐えて咲く花のような忍耐の実践をする心をつくることこそが最大の供養であり、そうした場をつくってくださったご本尊様や御霊への恩返しになるのです。
 人は誰しも、自分の死をもって人生最後の大仕事をします。
 それは、人々が身近な人の死に際して立ち止り、生死の一大事を感じ、考え、供養という尊い報恩と修行の行為を思い立つからです。
 生前、縁のあった人々へ位牌や仏壇の前でそうした行為をする機会をつくること、これが大仕事でなくて何でしょうか。

 そうすると、ご供物を捧げる意味と意義が解ります。
「食べものとして自らのいのちを捧げてくれる生きものたちに感謝し、心身を整えて人間としての道をまっとうします」と誓い、実践することです。
 霊性を持った人間にとって、食欲といういのちのはたらきの尊さはここにあります。

 ご本尊様へ捧げる時だけでなく、食欲によって食事をする時は、同じように感謝し、報恩を誓いたいものです。
「いただきます」と「ごちそうさま」は、その心をつくるすばらしい習慣です。
 いただくものは、生きもののいのちです。
 ごちそうになったものもまた、すべて生きもののいのちです。
 そして、それらは、すべて天地自然のお恵みです。
 感謝と報恩の心があってこそ人間であり、食欲にまかせてただ貪るだけならば畜生と変わりないではありませんか。
 むしろ、畜生の方が摂理に合った自然な生き方をしているとさえ言えます。
 彼らは決して必要以上には貪らないからです。
 あの獰猛なライオンでさえ、空腹でなければ無用の殺生はしません。
 それなのに、美食を貪り、一方でダイエットに励む現代人はどうかしているのではないでしょうか。
 いのちの無駄づかいという原因は、必ず何ごとかとしての結果を生みます。
 それはすでに個々の人々に悩みや病気として現れているだけでなく、世界的な悪しき結果も広がっています。自然破壊であり、食糧難です。

 私たちは、太りすぎて食欲と向かい合います。
 あるいは病気になって向かい合います。
 食べられなくなって初めて、食べもののありがたさに気づきます。
 いのちの尊さに気づきます。
 できることならば、そうした形ではなく、先人の智慧に学び、日々の「いただきます」「ごちそうさま」、そして「おかげさま」という言葉と合掌で食欲といういのちのはたらきを活かしたいものです。




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