宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

五力 12 ―念力 8 癒し、救うもの―

 これまで幾度となくテーマとした釈尊の説かれた真理「こは苦なり」の持つ意味をもう一度考えてみましょう。

 釈尊は、とても恵まれた環境に育ちながら、老い、病気になり、死ぬ人々の悩み苦しむさまを見て耐えられず、その苦と闘うために修行の道へ入られました。
 自分が我がままをしたいから家を出たのではなく、他人の苦を見過ごせずに何不自由ない暮らしを捨てたところが大きなポイントです。
 そして、苦は避けられず、それには原因があり、正しく生きれば原因を滅して苦を離れた世界へ入られることを悟り、その道筋を明確に説かれました。
 それが四諦と呼ばれる「苦・集・滅・道」であり、最初にあるのが冒頭の苦に関する真理です。
 
 私たちは、ともすると、「私たちの人生はままならない」「この世は思う通りにはならない」のはあたりまえではないか、そこで起こる悲喜こもごもが人生でありいつの世も変わらないではないかと考えがちです。
 そうすると、何でわざわざそんなことを勉強しなければならないのか?という疑問が湧くかも知れません。

 しかし、自分が強い苦しみに襲われた時、あたりまえと考えられる人がどれだけいるでしょう?
 身近な人が病気の痛みで苦しみ、財を失って苦しみ、何をやってもうまく行かないと苦しんでいる時、あたりまえだと考え、放っておかれましょうか?

 普段「この世は思う通りにはならない」のはあたりまえと考えているのは本当の苦に直面していない時の観念でしかなく、深い納得ではないことが解ります。
 だから、ことに当たればどうにもならないのは当然です。
 そうして人は、時には笑い、喜びながらも、他人を傷つけ、苦しめ、害しながら歴史を刻んできました。殺し、盗み、犯し、騙し、争ってきました。
 釈尊の時代と何も変わっていないかのようです。

 世の中のできごとを、自分の心と行いを、心の眼でよく観てみましょう。
 これで良いでしょうか?このままの社会、このままの自分で良いでしょうか?
 よく観れば良心の痛むもの、悲しいもの、恥ずべきもの、悲憤のわき上がるものがたくさんあり、釈尊が歩き始めた時の「このままではいられない」心が理解できるのではないでしょうか。
 苦は避けがたいものであると魂で感得すれば、あるいは親しい人の人生にも苦がぴったりと貼りついていることに深く思いをいたせば、恐ろしくなるはずです。
 何としても逃れたい、あるいは救いたいと強く念ずるはずです。

 釈尊はそこから出発されたに違いありません。
 ここに立って思いやりを深め、自分を向上させる道を歩みたいものです。それがまことの人間の道、菩薩道です。

 たった今、世界には2億人の孤児がおり、2秒に1人づつ新たに孤児となっています。
 そんな孤児たちが世界から集い交流する機会があったことをテレビで知りました。
「私はお父さんがいなくなりました」「私も同じです」
 たったこれだけの言葉を交わし合っただけで、心に明かりが差す子もいるそうです。
「苦しみ、淋しいのは自分だけではない、同じ思いの人がたくさんいる」「この苦しみ、淋しさは共有されている」
 そう知ることによって他人への思いやりが強くはたらき、それが自分をも癒すのです。
 自分を癒すものは、決して自分可愛さからは生まれません。
 他人を思いやる慈悲心こそが自他を癒し、救います。


 慈悲心を動かすために、まず、私たちが「共に苦を生きている存在」であることを真正面から観ようではありませんか。
 そして、自他共に苦を脱しようと願うならば、慈悲心を心に保って揺るがないことです。
 慈悲心が念力となって発揮される時、苦は消えることでしょう。

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五力 11 ―念力 7 夢のお告げ―

 判断に迷った場合は、夢を通じて守本尊様のお智慧を拝借する方法があります。
 やりかたは実に単純です。
 まず、内容について自分の能力でできるかぎりの吟味をし、あとはご本尊様の真言を何度か唱えて眠るだけです。
 そうすると、夢の中か、あるいは翌日目が覚めてから何かを感じられる場合があります。それがご加護です。

 たとえばこんな例があります。
 
 Aさんは、病気が一進一退している妻と充分に高齢の域に達した父母との4人暮らしです。
 父母は二人とも大病の経験があり、今は通院していませんが、いつ健康を害しても不思議はありません。
 ある日、会社から海外出張を打診されました。
 それは勉強を兼ねているので、諾否が出世にかかわることはあまり考えられないし、これっきりというわけでもなく、再びチャンスが来ることは目に見えています。
 家族の健康についての不安と自分の勉強と、どちらを重いと考えるかの問題です。
 岐路に立ち、エイヤッとでかける気持が8割になった時、この方法でご本尊様へおうかがいを立てました。
 その夜の夢です。

 玄関のチャイムが鳴り、留守番をしていた妻が応対に出ます。
 Aさんは、シーンを空中から眺めています。
 若い女性が訪問セールスに来たのを断ると、今度は、一人でいることを知って風体の悪い男が一緒に乗り込んで来ました。きっと押し売りです。
 道路に停まった車には、もう一人、やはり柄の悪い仲間がいます。
 妻が窮地に立たされた瞬間、Aさんは現実の人間となって二人を追い払いました。

 目覚めてからも悪党どもが乗って走り去った車のナンバーがはっきりと記憶に残っていたAさんは、潔く出張を断念しました。
 自分の留守中に何が起こるかを知ったからです。
 妻は、こうした場面で恐怖や困惑を強く感じれば倒れてしまうかも知れません。

 この方法で大切なのは、混乱したり悩んだりせず、冷静に分析と価値判断をし、み仏へお任せする気持で至心に真言を唱えることです。
 心に保つ、すなわち念ずるものは「み仏へお任せする気持」だけです。
 それが清浄な念力となります。
 そうすると、不安や焦燥や恐怖にとらわれることなく安眠でき、自分の妄想ではない「お知らせ」をいただけること必定です。
 
 いざという時にこうしたご加護をいただくためには、普段の心がけが欠かせません。
 心がけとは教えを学び実践することです。
 私たちは身体を鍛えようとスポーツなどを熱心にやりますが、心を鍛えるトレーニングをする機会はあまりないように見受けられます。
 それでは、いざという時に身体が動かないのと同じく、ことに当たって心も適切にはたらいてはくれません。
 せっかく伝わっている仏法を活かしたいものです。

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五力 10 ―念力 6 動機と結果―

 80歳になった釈尊は脊髄の痛みに苦しみ、余命いくばくもないことを知りつつも、托鉢と説法の旅を続けていました。
 クシナーラで休息をとったおり、貧しい鍛冶職人ジュンダの供養を受けた釈尊は、食中毒を起こして倒れました。
 すでに「如来まさに入滅すべし」と自分の死を予言していた釈尊は、泣き崩れるジュンダを慰めます。

「お前の供養によって入滅すると考えて悲しんではならない。
 お前の供養してくれた心は、悟りを開くに至った時にナンダが乳粥で供養してくれた心と何ら変わるものではない」


 かつて生死の境を行ったり来たりするほど激しい難行苦行に邁進していた釈尊は、ある日、ふと、気づきました。
「悟りを得られぬまま死を迎えるわけには行かないではないか」
 そもそも、痛めつけれた身体は気力を失わせるだけで真の心の集中をもたらさず、心が鏡のようにならない限り、最高の真理は獲得できないだろうと考えた釈尊は、弱った身体を河で清め、瞑想へ入ろうとしたものの、もはや、河から上がれません。
 その時、不思議にも木の枝が垂れ下がり、釈尊はそれにすがってようやく岸へ上がったとされています。
 その村の村長の娘がナンダです。天神から行者釈尊への供養を勧められたナンダは、喜んで乳粥を捧げました。
 やがて釈尊は、多くの河川が海の水位を上げるように、また三日月が光る部分を増して満月へと向かうように本来の徳が自ずから現れ出て、菩薩としての美しい姿を取り戻し、49日目の早朝、釈尊35歳の12月8日、ついに悟りを開きました。

 こうした人類の大慶事をもたらしたナンダの供養と、如来の死という最大の不幸をもたらした供養とが同じであるとは、いかなることでしょうか。
 それは、
「供養する心の尊さは平等であり、何をもって行なうかによって価値の大小を評価されない」
という教えでありましょう。
 牧畜をなりわいとする村長の娘は、青い衣装に金の腕輪をし、最高においしい食事を捧げました。
 一方、貧しい職人は、お腹を壊してしまいかねないようなものをもってしか、供養出来ませんでした。
 しかも、一方は成道をもたらし、一方は死をもたらそうとしています。
 それでもなお、釈尊は、供養の尊さは変わらないと断言します。

 これは、決して慰めるためだけではなく、「人は心のありようによって人格の尊さが現われるのであり、生まれや階級によって決まるのではない」と説き続けた釈尊の断固たる信念の言葉であったに違いありません。
 供養の平等とは、言い換えれば
「行動においては、動機をこそ自らに問うべし。結果によって動機の清浄と汚濁は判断されない」
となりはしないでしょうか。
 生きることは大変であり、まっとうに生きることはなおさらです。
 いかなる組織も、結果で人を判断せざるを得ません。
 しかし、勝てば良い、儲かれば良い、好きなことができれば良い、ばれなければ良い、といった気ままがまかり通る今こそ、自分自身の死を前にして説かれた真理の厳粛さにきちんと向き合いたいものです。
 そして、「自分は人間としてどうなのか」「行動の動機は何なのか。穢れてはいないか」「いつも心に何を念じているか。念力は正しいか」を心の鏡に映し出したいものです。

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五力 9 ―念力 5 蜜か安心か―

『守本尊道場』で一汗かいて戻ったら、役員さんから電話がありました。
 近くにまた大きな霊園ができたようだけれども、次々にできる大規模な霊園に囲まれて大丈夫かといった内容です。
 現役時代は数字に厳しい立場を勤め上げた方だけに、いつもご心配をしてくださり、とてもありがたいことです。
 
 お礼に続けて、こう申し上げました。
「法楽寺は、もともと無から始めた所だし、今も皆さんのお心が集まって、ようやく成り立っています。
 よそ様と立派さを競う力はないし、そもそも競争ということと無縁にやっています。
 よそ様がどうであろうと当山は当山の信念で法務を行ない、あとはご本尊様へお任せするだけです。
 当山に墓所を求める方々は、『お墓選びはお寺選び』であると考え、当山ではどんな行者が何をどう行なっているのかを確認した上で、仏縁を結んでおられます。
 もう、これだけで充分です」

 昨日の夜、トイレの壁に蚊が一匹止まって身体を震わせていました。
 さっそく近寄ってきましたが、黙って血を分け与えるわけにはゆきません。
 そうかといって寝る前に殺生するのもしのびなく、追い払って出ました。
 今朝4時、彼はもういません。外へ出たとは思えないので、どこかで骸になっているのでしょう。
 わずか数メートルと言われている活動空間で、ただただ動物を待って生き、数週間の短い生涯を終えました。

 今朝は、残り少なくなっている蜂蜜のビンの蓋を開けたら、蟻が二匹溺れ死んでいました。
 きっと、前回蓋を開けた時、内側にへばりついていて閉じこめられたのでしょう。
 この上ない好物にまみれて死んでいる様子に、ある物語を思い出しました。

 猛虎にでくわした旅人が古井戸を見つけ、蔓草にすがって中へ入って難を逃れようとしたところ、下では毒蛇が獲物が落ちて来るのを待っていました。
 しかも、黒白二匹のネズミが蔓草をかじり始めたではありませんか。
 ところが、絶体絶命の窮地に陥った旅人の上にミツバチが飛来して、時折、蜜をたらしてくれます。
 旅人は蜜を口にすることだけに気をとられ、虎も、毒蛇も、ネズミも、もう忘れてしまいました。


 私たちは、たかだか、自分の身体を移動できる範囲にしか行けません。
 食べものがなければ、あるいは摂取できない身体になれば死がまっています。
 蚊の姿は他人ごとでしょうか。
 蟻も同じです。
 生きながらにして「好みの海」で溺れ死ぬ人々の何と多いことでしょうか。
 そして、旅人です。
 死神の待っている古井戸へ逃げ込み、一瞬の後には落ちるかも知れないのに目先の蜜しか意識にないのでは、あまりに哀れと言うしかありません。
 現世の苦という猛虎と対峙してこそ人間です。
 もしも対峙する生命力が衰えている時は、合掌し、真言を唱え、み仏を観想して体力と精神力を回復すれば良いのです。
 苦と向き合い、根本のところで救われるしか、苦を脱し切る道はありません。
 
 当山とご縁を結び、学ぶ方々は、心に念ずべきものを知り、一時の甘い蜜に惑わされず、「この世の幸せとあの世の安心」を得られる道を歩もうとしておられます。
 念力にご加護があり、ご多幸で過ごされるよう祈る毎日です。

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五力 8 ―念力 4 合掌のすすめ―

 私たちの左手は自分です。
 右手は、仏神・御霊・家族・親族・友人知人・生きとし生けるもの・宇宙、つまり、小さな自分を〈今、ここに在らしめているすべてのもの〉です。

 時には、左手だけでは寂しくなります。
 片方だけの手は冷たくもなり、凍えそうになることもあります。

 そんな時は、合掌しましょう。
 必ず、手は温もりを取りもどします。
 右手が加わって両手が一つになる時、孤独はどこにもありません。
 それを「同行二人(ドウギョウニニン)」と言います。
 四国八十八霊場を歩く時は、お大師様がいつも一緒に歩き守っていてくださるので、この四文字を白衣や笠へ書いて歩きます。
 しかし、それは、四国の霊場だけのことではありません。
 生きているということは、生かしてくれている尊いものとの関係性にあるということです。
 常に誰かと一緒なのです。 
 合掌によって、必ず生きている実感が得られます。
 そして心を澄ませば、たった一人ではないことが解ります。

 理性は道具です。
 道具を用いる目的を示すのは霊性です。
 理性に頼るだけでは、せいぜい〈孤独〉か〈観念上の連帯〉までしか行き着けませんが、霊性は理性の突きあたる壁をやすやすと透過して、孤独を消し、連帯を血の通ったものとする〈広大無辺ないのちの世界〉へと誘います。
 合掌は、霊性の光を導き出す尊い姿なのです。
 
 清浄な目的と正しい教えを念力によってしっかりと心に保ち、合掌して、あとはみ仏へお任せすれば、必ずや最上の結果を得られることでしょう。

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