四国遍路 6
【第5番 無尽山地蔵寺】
本尊:勝軍地蔵菩薩様
御詠歌:六道の能化(ノウケ)の地蔵大菩薩 導きたまえこの世のちの世
お大師様お手植えとされる大イチョウの先に、彩色された仁王様が護る仁王門、左手に本堂がある。
扉が半分開き、正面壇上に多宝塔、その奥に神鏡が見える。
おそらく閉まったお厨子の中にご本尊様が安置されているのだろう。
大師堂は暗く、中は覗えない。
伽藍が境内地をぐるりと取り巻く感じが良い。
敷地が活きている。
修行の場であるという雰囲気が濃い。
奥の院の羅漢堂は見事。
入り口の弥勒菩薩様は小さいお堂にあって重い存在感を示し、中央の釈迦如来様は大日如来様と見まがうほどの威容である。
出口のお大師様は珍しく白っぽく若々しいお姿で、天界から見守る形になっている。
五百羅漢の中には必ず参拝者に似た方がおられるとされているが、どなたも眉に共通の特徴があり、自分に似た方を探すことはできなかった。
ただし、ある知人によく似た方はおられた。
受付をしてくださるお婆さんは九十歳とは思えないほどかくしゃくとしておられ、こちらが「お元気で」と送り出された。
松の木の根本にある水琴窟はピーンピーンとよく響いて心地好く、異界の入り口があるようだった。
最初は誰かが偶然にこの音を聞いて驚き、自分で作ってみたのだろうが、とてつもない感性の持ち主だったことだろう。
広辞苑に「水琴窟」が出ていないのは残念。
【第7番 光明山十楽寺】
本尊:阿弥陀如来様
御詠歌:人間の八苦を早く離れなば 至らん方は九品(クボン)十楽
白と赤のコントラストが美しい鐘楼門をくぐると、階段の下に子安地蔵様、その周囲に皆の願いが込められた小さなお地蔵様が祀られている。
本堂も大師堂も実に本格的な荘厳で、老松と共に、長宗我部軍の兵火にかかるまでは地域で一番の伽藍であったことを充分に偲ばせる。
お大師様は、人びとが人生の八苦を離れ十の喜びの中で活きられるように願われたという
愛嬌のある石彫のお不動様には、なぜか地蔵寺のお大師様との共通性を感じた。
九品とは、極楽浄土へ行くための修行の段階であり、上中下にそれぞれ上中下があるので9つある。
十楽とは、極楽浄土で受ける楽しみである。
源信(942〜1017)は地獄と極楽のありさまを、まるでパノラマで眺められるかのように説き、日本人へあの世のイメージを明確に示した。
さて、極楽へ行く者を迎える十の楽である。
行者として十楽を観ると、極楽は、修行に専念できる夢のような環境に思える。
そして考える。
修行によって大慈大悲の生まれた菩薩は、ここに安住してはいられないはずだ。
地獄界や餓鬼界へでかけて、苦しむ生きとし生けるものに寄り添い、苦を我がものとし、修行によって得た身心の力をかけて立ち向かう。
――しかも、穏和、優雅なふるまいをもって。
如来は故郷で待つ永遠の母ではないか。
菩薩は共に行ずる永遠の父ではないか。
十楽寺にある白と赤は、こうした〈祝福された世界〉を示すのではないか。
本尊:勝軍地蔵菩薩様
御詠歌:六道の能化(ノウケ)の地蔵大菩薩 導きたまえこの世のちの世
お大師様お手植えとされる大イチョウの先に、彩色された仁王様が護る仁王門、左手に本堂がある。
扉が半分開き、正面壇上に多宝塔、その奥に神鏡が見える。
おそらく閉まったお厨子の中にご本尊様が安置されているのだろう。
大師堂は暗く、中は覗えない。
伽藍が境内地をぐるりと取り巻く感じが良い。
敷地が活きている。
修行の場であるという雰囲気が濃い。
奥の院の羅漢堂は見事。
入り口の弥勒菩薩様は小さいお堂にあって重い存在感を示し、中央の釈迦如来様は大日如来様と見まがうほどの威容である。
出口のお大師様は珍しく白っぽく若々しいお姿で、天界から見守る形になっている。
五百羅漢の中には必ず参拝者に似た方がおられるとされているが、どなたも眉に共通の特徴があり、自分に似た方を探すことはできなかった。
ただし、ある知人によく似た方はおられた。
受付をしてくださるお婆さんは九十歳とは思えないほどかくしゃくとしておられ、こちらが「お元気で」と送り出された。
松の木の根本にある水琴窟はピーンピーンとよく響いて心地好く、異界の入り口があるようだった。
最初は誰かが偶然にこの音を聞いて驚き、自分で作ってみたのだろうが、とてつもない感性の持ち主だったことだろう。
広辞苑に「水琴窟」が出ていないのは残念。
【第7番 光明山十楽寺】
本尊:阿弥陀如来様
御詠歌:人間の八苦を早く離れなば 至らん方は九品(クボン)十楽
白と赤のコントラストが美しい鐘楼門をくぐると、階段の下に子安地蔵様、その周囲に皆の願いが込められた小さなお地蔵様が祀られている。
本堂も大師堂も実に本格的な荘厳で、老松と共に、長宗我部軍の兵火にかかるまでは地域で一番の伽藍であったことを充分に偲ばせる。
お大師様は、人びとが人生の八苦を離れ十の喜びの中で活きられるように願われたという
愛嬌のある石彫のお不動様には、なぜか地蔵寺のお大師様との共通性を感じた。
九品とは、極楽浄土へ行くための修行の段階であり、上中下にそれぞれ上中下があるので9つある。
十楽とは、極楽浄土で受ける楽しみである。
源信(942〜1017)は地獄と極楽のありさまを、まるでパノラマで眺められるかのように説き、日本人へあの世のイメージを明確に示した。
さて、極楽へ行く者を迎える十の楽である。
1 まず、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩などが、極楽浄土から迎えに来られる。(聖衆来迎)
2 次、浄土へ転生する者のために蓮華が花開く。(蓮華初開)
3 次、身体は美しく、神通力が備わった者となる。(身相神通)
4 次、見るもの、聞くものなど五官の受けるものはすべて美しく味わいがある。(五妙境界)
5 次、五感六根のもたらす深い悦びは尽きない。(快楽無退)
6 次、生前、縁のあった人びとをも極楽へ迎えられる。(引接結縁)
7 次、常にみ仏方と一緒に居られる。(聖衆倶会)
8 次、み仏から仏法を学ぶ。(見佛聞法)
9 次、思いのままに、み仏を供養できる。(随心供仏)
10 次、悟りへの仏道をまっすぐに歩める。(増進仏道)
行者として十楽を観ると、極楽は、修行に専念できる夢のような環境に思える。
そして考える。
修行によって大慈大悲の生まれた菩薩は、ここに安住してはいられないはずだ。
地獄界や餓鬼界へでかけて、苦しむ生きとし生けるものに寄り添い、苦を我がものとし、修行によって得た身心の力をかけて立ち向かう。
――しかも、穏和、優雅なふるまいをもって。
如来は故郷で待つ永遠の母ではないか。
菩薩は共に行ずる永遠の父ではないか。
十楽寺にある白と赤は、こうした〈祝福された世界〉を示すのではないか。
四国遍路 5
【第3番 亀光山金泉寺】
本尊:釈迦如来様
御詠歌:極楽のたからの池を思えただ 黄金の泉すみたたえたる
時の流れが余分なものをそぎ落とした清々しさを覚える。
護摩堂を脇にした本尊の見えない本堂、右の大師堂はいずれも堂々としており、左手のお地蔵様、右手の金色の剣にからみつく倶利伽藍(クリカラ)龍王などには、さりげない中にも目を留めさせて離さない味わいがある。
本格派の価値ここにありといった感がある。
千古変わらぬものの奥深さを体感させる鐘楼の鐘の音。
納経帳に押印をしてくださるのは小さな子供にまとわりつかれた中年男性。
出家者かどうかは判然としない。
非日常と日常が重なっている。
清められた境内をふり返ったら、懐かしい光景になっていた。
【第4番 黒巌山大日寺】
本尊:大日如来様
御詠歌:ながむれば月白妙の夜半(ヨワ)なれや ただ黒谷にすみぞめの袖
深い緑に囲まれ、山門左手には見事な竹林がある。
小川にかかる小さな橋を渡ると崩れかけた土塀の先に鐘楼門があり、正面には山茶花を両脇に従えた本堂、右手には千羽鶴や絵馬などに囲まれた大師堂が厳かなたたずまいを見せている。
天皇から飢餓に苦しむ農民まであらゆる人びとと喜びも哀しみも共にされたお大師様への敬慕の念が、千年以上経った今でも何ら変わらず人びとの心にあり、それがさまざまな形になって表れている。
一匹で飄々と歩いている野良犬はまったく警戒心がなく、お遍路さんなど眼中にないかのように超然としている。
師が「密教寺院にいる生きものたちは皆、穏やかなものだ」と言われたとおりである。
帰り道で、猪豚の繁殖場を見た。
御詠歌のイメージは鮮烈だ。
皓々と照る月光の下、黒谷の地に墨染め衣の行者が黒々と座して修行している。
――法の静寂。
月光は果たして外界にあるのか、それとも彼の心中にあるのか……。
本尊:釈迦如来様
御詠歌:極楽のたからの池を思えただ 黄金の泉すみたたえたる
時の流れが余分なものをそぎ落とした清々しさを覚える。
護摩堂を脇にした本尊の見えない本堂、右の大師堂はいずれも堂々としており、左手のお地蔵様、右手の金色の剣にからみつく倶利伽藍(クリカラ)龍王などには、さりげない中にも目を留めさせて離さない味わいがある。
本格派の価値ここにありといった感がある。
千古変わらぬものの奥深さを体感させる鐘楼の鐘の音。
納経帳に押印をしてくださるのは小さな子供にまとわりつかれた中年男性。
出家者かどうかは判然としない。
非日常と日常が重なっている。
清められた境内をふり返ったら、懐かしい光景になっていた。
【第4番 黒巌山大日寺】
本尊:大日如来様
御詠歌:ながむれば月白妙の夜半(ヨワ)なれや ただ黒谷にすみぞめの袖
深い緑に囲まれ、山門左手には見事な竹林がある。
小川にかかる小さな橋を渡ると崩れかけた土塀の先に鐘楼門があり、正面には山茶花を両脇に従えた本堂、右手には千羽鶴や絵馬などに囲まれた大師堂が厳かなたたずまいを見せている。
天皇から飢餓に苦しむ農民まであらゆる人びとと喜びも哀しみも共にされたお大師様への敬慕の念が、千年以上経った今でも何ら変わらず人びとの心にあり、それがさまざまな形になって表れている。
一匹で飄々と歩いている野良犬はまったく警戒心がなく、お遍路さんなど眼中にないかのように超然としている。
師が「密教寺院にいる生きものたちは皆、穏やかなものだ」と言われたとおりである。
帰り道で、猪豚の繁殖場を見た。
御詠歌のイメージは鮮烈だ。
皓々と照る月光の下、黒谷の地に墨染め衣の行者が黒々と座して修行している。
――法の静寂。
月光は果たして外界にあるのか、それとも彼の心中にあるのか……。
四国遍路 4
〈第二日目 平成9年10月7日〉
日が昇るのを待って本堂前で護身法を行い、光明真言と慈救呪とご宝号を唱える。
早起きの女性信者たちも一緒に唱和する。
師より、各寺院へ奉納する納め札とお唱えの心構えについて注意があった。
「願いは、納め札に書いてお納めすればそれで仏神へ届く。
手を合わせて祈る時は、願いを念じるのではなく、とにかくご本尊様を尊んで拝むことである。
まず、帰依がなければならない。
そして、ご本尊様を通してそこに祀られているすべての仏神を敬うことである。
巡拝で最初に唱える声明は、あらゆる仏神の総徳を集める金剛界大日如来の智慧を讃えるものであり、心して唱えねばならない。
拝むことには危険な面がある。
正しいものがしっかり頭に入っているならば、拝んでいるうちに自然とそれが動くから良いが、悪しきものが入っている場合は、拝めば拝むほど、とんでもない人格を創ってしまう怖れが高まる。
拝む量や時間を重視するよりも、いかなる心構えで拝むかという質にこそ注意をはらわねばならない」
虚空蔵菩薩がものごとの終わりと始まりを象徴する北東を守り、是非善悪を峻別する智慧を司っておられることを思い出す。
すべては空であることを胆に命じ、因果応報を信じ、自己中心を離れ、誰かのためにならないではいられぬ正しい心で行うならば、身・口・意のはたらきは善となる。
そうでない場合は、たやすく悪へ傾いてしまう怖れがある。
たとえば、花形であるバイオテクノロジーを研究する場合、飢えて苦しむ人や難病に苦しむ人のためになりたい一心で行うならば善であるが、細菌兵器を作るならば悪である。
努力や忍耐は善でも悪でもない。
正しい心で努力を行えば精進であり、正しい心で忍耐を行えば忍辱(ニンニク)であり、人を菩薩への道へ導く。
拝めば、心に入っているものが膨らむ。
善きものが入っている場合は善き人格が創られ善き人生へと向かう。
悪しきものが入っている場合は悪しき人格が創られ悪しき人生へと向かう。
だから、人生において最初になすべきことは、正しい心を創ることである。
さもなければ、いかなる努力も、いかなる忍耐も、いかなる信仰も善なる人間を創るとは限らず、皆が安心して楽しく暮らせる社会をもたらすとは限らない。
さて、阿波の国は発心の道場である。
ここでは、護身術における5つの心構えのうち、「優しさ」の修行を心がけたい。
それは、何よりも隣人を思いやることでなければならない。
お大師様は四国四県で修行し、阿波の国を発心、土佐の国を修行。伊予の国を菩提、讃岐の国を涅槃の道場とされた。
仏道に邁進する決心をし、精進を重ね、悟りを得、絶対の安寧を体験するという、この世でみ仏になる即身成仏の道である。
今から1世紀以上も昔、地図も交通機関も無い時代に4つの国を歩いてそれぞれの地形や方位を検討し、既存の寺院を建て直し、あるいは新たな寺院を開創しながら完璧な密教の道場を造られたことは驚異である。
幸田露伴、南方熊楠、岡倉天心、菊池寛、湯川秀樹など、西洋文明を学びながらも心の土台を崩さなかった天才たちは、一様にその世界史的意義に気づいていた。
こうした時代であればこそ、マンダラの道場は「心を浄化し、世界を救う力」を発揮するに違いない。
行者としてこの道場を歩けるとは、何と幸せなことだろうか。
日が昇るのを待って本堂前で護身法を行い、光明真言と慈救呪とご宝号を唱える。
早起きの女性信者たちも一緒に唱和する。
師より、各寺院へ奉納する納め札とお唱えの心構えについて注意があった。
「願いは、納め札に書いてお納めすればそれで仏神へ届く。
手を合わせて祈る時は、願いを念じるのではなく、とにかくご本尊様を尊んで拝むことである。
まず、帰依がなければならない。
そして、ご本尊様を通してそこに祀られているすべての仏神を敬うことである。
巡拝で最初に唱える声明は、あらゆる仏神の総徳を集める金剛界大日如来の智慧を讃えるものであり、心して唱えねばならない。
拝むことには危険な面がある。
正しいものがしっかり頭に入っているならば、拝んでいるうちに自然とそれが動くから良いが、悪しきものが入っている場合は、拝めば拝むほど、とんでもない人格を創ってしまう怖れが高まる。
拝む量や時間を重視するよりも、いかなる心構えで拝むかという質にこそ注意をはらわねばならない」
虚空蔵菩薩がものごとの終わりと始まりを象徴する北東を守り、是非善悪を峻別する智慧を司っておられることを思い出す。
すべては空であることを胆に命じ、因果応報を信じ、自己中心を離れ、誰かのためにならないではいられぬ正しい心で行うならば、身・口・意のはたらきは善となる。
そうでない場合は、たやすく悪へ傾いてしまう怖れがある。
たとえば、花形であるバイオテクノロジーを研究する場合、飢えて苦しむ人や難病に苦しむ人のためになりたい一心で行うならば善であるが、細菌兵器を作るならば悪である。
努力や忍耐は善でも悪でもない。
正しい心で努力を行えば精進であり、正しい心で忍耐を行えば忍辱(ニンニク)であり、人を菩薩への道へ導く。
拝めば、心に入っているものが膨らむ。
善きものが入っている場合は善き人格が創られ善き人生へと向かう。
悪しきものが入っている場合は悪しき人格が創られ悪しき人生へと向かう。
だから、人生において最初になすべきことは、正しい心を創ることである。
さもなければ、いかなる努力も、いかなる忍耐も、いかなる信仰も善なる人間を創るとは限らず、皆が安心して楽しく暮らせる社会をもたらすとは限らない。
さて、阿波の国は発心の道場である。
ここでは、護身術における5つの心構えのうち、「優しさ」の修行を心がけたい。
それは、何よりも隣人を思いやることでなければならない。
お大師様は四国四県で修行し、阿波の国を発心、土佐の国を修行。伊予の国を菩提、讃岐の国を涅槃の道場とされた。
仏道に邁進する決心をし、精進を重ね、悟りを得、絶対の安寧を体験するという、この世でみ仏になる即身成仏の道である。
今から1世紀以上も昔、地図も交通機関も無い時代に4つの国を歩いてそれぞれの地形や方位を検討し、既存の寺院を建て直し、あるいは新たな寺院を開創しながら完璧な密教の道場を造られたことは驚異である。
幸田露伴、南方熊楠、岡倉天心、菊池寛、湯川秀樹など、西洋文明を学びながらも心の土台を崩さなかった天才たちは、一様にその世界史的意義に気づいていた。
こうした時代であればこそ、マンダラの道場は「心を浄化し、世界を救う力」を発揮するに違いない。
行者としてこの道場を歩けるとは、何と幸せなことだろうか。
四国遍路 3
【第6番 温泉山安楽寺】
本尊:薬師如来様
御詠歌:かりの世に知行あらそうむやくなり 安楽国の守護を望めよ
堂々たるご本尊様とまばゆいばかりの荘厳。
日光菩薩と月光菩薩を左右に従え十二神将軍に護られた薬師如来様は瑠璃光世界の主としての威厳と力を示しておられる。
十二神将軍を生まれ年それぞれの守本尊としてお祀りしてあるのも好もしい。
大師堂も圧倒されんばかりの威容で、左にお不動様、右に愛染明王様がおられる。
ただ、トイレがあまりに便利な位置にあり、少々考えさせられた。
泊まりは宿坊。
住職に〈なり代わって〉お世話くださる僧侶の片手には金のブレスレット、もう片方にはダイヤが光る一文字の指輪、伸びた髪もいただけない。
(これは平成9年当時のメモです。次に訪れた際は事実上の尼寺になっており、修法への参加を促されるなど、とても大切にしていただきました)
夕食後のお勤めでは、内陣へ案内された。
舎利礼、延命十句観音経、法句経の一部などを記した経典が用意されている。
修法に続いて、お大師様の足跡をたどりながら行った修行についての法話があった。
お大師様がお座りになったまさにその場所へご自身も座られたという。
数年前、世間を騒がせている新興宗教の教祖がインドへ行き、釈尊がおられた聖なる場所へ入り込んで瞑想を始めひんしゅくをかったが、私などは畏れ多くてとてもできそうにない。
数珠は108つの珠で作られたものだけが本ものであり、珠がたくさんついている目的は百まで数えるところにあって、残る8つは補助であるというお話もあった。
部屋へ戻り、師から教えをいただいた。
「み仏を拝むことは尊い。
それは確かに信仰である。
しかし、もっと尊いのは教えを守ることであって、それが真の宗教である。
お互い、教えを守り合って進もう」
心の問題は、必ず奥底まで掘り下げて処置せねばならない。
虫歯と同じであり、一時的に痛みが薄らいだからといって適当にしておけば、やがては大ごとになってしまう。
しかも、悪影響は自他へ及ぶ。
自戒し、精進せねばならない。
煩悩を抱えた人間は、必ず「やらかしてしまう」存在である。
だから、何度でも誓いを立てねばならない。
それをくり返しているうちに、いつしか〈誓った通りの人〉になる。
これが転迷開悟であり、そのための智慧が仏教である。
「誓いなどすぐに破ってしまうから誓わない」のは敗北主義であり、霊性は閉ざされたままでとなろう。
一行者として自らへ課す戒めとしての誓いは
「願わくば所縁を活かして運命を創り、無明を断じて法楽に住せん」
である。
この道から外れれば、自他のために生きる菩薩となり得ない。
法楽寺の壇信徒の方々と共に、生涯の誓いとしたいものである。
本尊:薬師如来様
御詠歌:かりの世に知行あらそうむやくなり 安楽国の守護を望めよ
堂々たるご本尊様とまばゆいばかりの荘厳。
日光菩薩と月光菩薩を左右に従え十二神将軍に護られた薬師如来様は瑠璃光世界の主としての威厳と力を示しておられる。
十二神将軍を生まれ年それぞれの守本尊としてお祀りしてあるのも好もしい。
大師堂も圧倒されんばかりの威容で、左にお不動様、右に愛染明王様がおられる。
ただ、トイレがあまりに便利な位置にあり、少々考えさせられた。
泊まりは宿坊。
住職に〈なり代わって〉お世話くださる僧侶の片手には金のブレスレット、もう片方にはダイヤが光る一文字の指輪、伸びた髪もいただけない。
(これは平成9年当時のメモです。次に訪れた際は事実上の尼寺になっており、修法への参加を促されるなど、とても大切にしていただきました)
夕食後のお勤めでは、内陣へ案内された。
舎利礼、延命十句観音経、法句経の一部などを記した経典が用意されている。
修法に続いて、お大師様の足跡をたどりながら行った修行についての法話があった。
お大師様がお座りになったまさにその場所へご自身も座られたという。
数年前、世間を騒がせている新興宗教の教祖がインドへ行き、釈尊がおられた聖なる場所へ入り込んで瞑想を始めひんしゅくをかったが、私などは畏れ多くてとてもできそうにない。
数珠は108つの珠で作られたものだけが本ものであり、珠がたくさんついている目的は百まで数えるところにあって、残る8つは補助であるというお話もあった。
部屋へ戻り、師から教えをいただいた。
「み仏を拝むことは尊い。
それは確かに信仰である。
しかし、もっと尊いのは教えを守ることであって、それが真の宗教である。
お互い、教えを守り合って進もう」
心の問題は、必ず奥底まで掘り下げて処置せねばならない。
虫歯と同じであり、一時的に痛みが薄らいだからといって適当にしておけば、やがては大ごとになってしまう。
しかも、悪影響は自他へ及ぶ。
自戒し、精進せねばならない。
煩悩を抱えた人間は、必ず「やらかしてしまう」存在である。
だから、何度でも誓いを立てねばならない。
それをくり返しているうちに、いつしか〈誓った通りの人〉になる。
これが転迷開悟であり、そのための智慧が仏教である。
「誓いなどすぐに破ってしまうから誓わない」のは敗北主義であり、霊性は閉ざされたままでとなろう。
一行者として自らへ課す戒めとしての誓いは
「願わくば所縁を活かして運命を創り、無明を断じて法楽に住せん」
である。
この道から外れれば、自他のために生きる菩薩となり得ない。
法楽寺の壇信徒の方々と共に、生涯の誓いとしたいものである。
四国遍路 2
【第一番 笠和山霊山寺】
本尊:釈迦如来様
御詠歌:霊山の釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も消えうせにけり
山号のある古い仁王門をくぐると、左手に多宝塔があり、正面に本堂が見える。
威容をもって参拝者を圧するように迎えるのでなく、「ついに来た」という思いをさりげなく受けいれてくださる柔らかさが嬉しい。
多宝塔は木肌の模様が際だって美しく、風雨にさらされ続けた長い年月を偲ばせ、ここに確かに五智如来がおられるという確信をもたらす。
いかにも密教寺院らしいたたずまいに、深く納得した。
さすがは入り口である。
本堂におられる本尊釈迦如来は秘仏になっており、金色のお厨子におられる黒く小さなお姿が善男善女の願いをすべて吸い込んでくださっている。
大師堂の奧は暗くぼんやりしているが、「南無大師遍照金剛」のご宝号を唱え続けていると、その闇が兜卒天(トソツテン)へと通じ、お大師様のお心に届いているような安心感が胸に広がり、ついさっき来たばかりなのに「何としてもまた来なければ」と再訪を決意してしまった。
お堂の左手に立っているお大師様の修行像は行者らしい凄みがある。
飛行場に降り立ってから札所へ着くまでの記憶がほんの切れ切れにしか残っていない。
どんな橋を渡りどんな町並みを抜けたのか………、バスの中でかなりたくさんの説明や注意があったはずだが、それも定かでない。
とにかくお遍路さんになりたいと願い、一心不乱にここへ向かってきただけだ。
【第二番 日照山極楽寺】
本尊:阿弥陀如来様
御詠歌:極楽の弥陀の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏口ぐちにせよ
山号にふさわしく、まさに日の照る所といった感じの広々したアプローチ。
明るい仁王門はまるで広場の真ん中にでも建っているようだ。
お大師様のお手植えとされる杉の巨木は仙界のような異界感をまとい、枯れかけているはずなのに、人の越えられぬ時の壁を易々と突き破ってきた者特有の存在感もある。
人間は到底かなわない。
石段を登った所にある本堂も大師堂もまっ暗で目にできるものは何もなかったが、闇の重さは濃密で、ご本尊様もお大師様も確かにおられた。
二童子を従えたお不動様、安産子安大師様、平和観音様がそれぞれ見事な配置でお祀りしてあり、境内構成は大いに参考になった。
お大師様の千百回忌を迎えて造られたお大師様の像は大日如来と化しており、作者の力に感嘆する。
横には「ア・バン・ウン」と魔除けの真言が刻まれた巨岩がどっかりと坐る。
ここは、法力を動かす行者たらんとする密教僧の寺院であることが明らかだ。
お大師様の説法とご加護は今もありありとはたらいている。
因縁解脱は、「問題がどこにあるかを正しくはっきりと知ること」に始まる。
そして、縁となった正当な方法を〈道理である〉と信じられたならば、あとは粛々と実践するしかない。
この場合、三日坊主にならぬために有効なやり方は、あらかじめ始める日と満願の日を決めておき、充分に心の態勢が調ってからスタートすることである。
逃げなければ、み仏のご加護を引き寄せられる。
一本道で遠ざかる因縁もあれば、一時的に酷くなったのではないかと疑われるような経緯をたどることもある。
それは、各種の中毒や依存症から脱する道筋に似ている。
過去は決して消せないが、その悪影響を断ずることはできる。
だから、因縁抹消ではなく、因縁解脱である。
本尊:釈迦如来様
御詠歌:霊山の釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も消えうせにけり
山号のある古い仁王門をくぐると、左手に多宝塔があり、正面に本堂が見える。
威容をもって参拝者を圧するように迎えるのでなく、「ついに来た」という思いをさりげなく受けいれてくださる柔らかさが嬉しい。
多宝塔は木肌の模様が際だって美しく、風雨にさらされ続けた長い年月を偲ばせ、ここに確かに五智如来がおられるという確信をもたらす。
いかにも密教寺院らしいたたずまいに、深く納得した。
さすがは入り口である。
本堂におられる本尊釈迦如来は秘仏になっており、金色のお厨子におられる黒く小さなお姿が善男善女の願いをすべて吸い込んでくださっている。
大師堂の奧は暗くぼんやりしているが、「南無大師遍照金剛」のご宝号を唱え続けていると、その闇が兜卒天(トソツテン)へと通じ、お大師様のお心に届いているような安心感が胸に広がり、ついさっき来たばかりなのに「何としてもまた来なければ」と再訪を決意してしまった。
お堂の左手に立っているお大師様の修行像は行者らしい凄みがある。
飛行場に降り立ってから札所へ着くまでの記憶がほんの切れ切れにしか残っていない。
どんな橋を渡りどんな町並みを抜けたのか………、バスの中でかなりたくさんの説明や注意があったはずだが、それも定かでない。
とにかくお遍路さんになりたいと願い、一心不乱にここへ向かってきただけだ。
【第二番 日照山極楽寺】
本尊:阿弥陀如来様
御詠歌:極楽の弥陀の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏口ぐちにせよ
山号にふさわしく、まさに日の照る所といった感じの広々したアプローチ。
明るい仁王門はまるで広場の真ん中にでも建っているようだ。
お大師様のお手植えとされる杉の巨木は仙界のような異界感をまとい、枯れかけているはずなのに、人の越えられぬ時の壁を易々と突き破ってきた者特有の存在感もある。
人間は到底かなわない。
石段を登った所にある本堂も大師堂もまっ暗で目にできるものは何もなかったが、闇の重さは濃密で、ご本尊様もお大師様も確かにおられた。
二童子を従えたお不動様、安産子安大師様、平和観音様がそれぞれ見事な配置でお祀りしてあり、境内構成は大いに参考になった。
お大師様の千百回忌を迎えて造られたお大師様の像は大日如来と化しており、作者の力に感嘆する。
横には「ア・バン・ウン」と魔除けの真言が刻まれた巨岩がどっかりと坐る。
ここは、法力を動かす行者たらんとする密教僧の寺院であることが明らかだ。
お大師様の説法とご加護は今もありありとはたらいている。
因縁解脱は、「問題がどこにあるかを正しくはっきりと知ること」に始まる。
そして、縁となった正当な方法を〈道理である〉と信じられたならば、あとは粛々と実践するしかない。
この場合、三日坊主にならぬために有効なやり方は、あらかじめ始める日と満願の日を決めておき、充分に心の態勢が調ってからスタートすることである。
逃げなければ、み仏のご加護を引き寄せられる。
一本道で遠ざかる因縁もあれば、一時的に酷くなったのではないかと疑われるような経緯をたどることもある。
それは、各種の中毒や依存症から脱する道筋に似ている。
過去は決して消せないが、その悪影響を断ずることはできる。
だから、因縁抹消ではなく、因縁解脱である。


