宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

『四十二章経』第三章 善行と悪行

 今日も善男善女が機関誌『法楽』を作ってくださいました。
 勤行に続く『四十二章経』の勉強は、第三回目です。

 釈尊は、十の善行と十の悪行を示されました。
 それは、身体を用いる三つと、口を用いる四つと、心を用いる三つです。

 まず身体を用いるものとしては「殺」と「盗」と「婬」です。
 無益に他の生きものを殺さなければ善行、殺せば悪行です。
 同じように、自分に与えられていないものを手にしなければ悪行、手にすれば悪行です。
 道に外れたセックスでなければ、あるいは特殊な修行中にセックスを行わなければ善行、乱れたセックスは悪行です。

 次に、口を用いるものとしては「両舌(リョウゼツ)」と「悪罵(アクメ)」と「妄言」と「綺語(キゴ)」です。
 仲違いさせぬような言葉を用いれば善行、仲違いをもたらす言葉を用いれば悪行です。
 粗暴な言葉を用いなければ善行、粗暴なもの言いで相手を不快にさせれば悪行です。
 嘘をつかず真実を口にすれば善行、相手へ事実に反する情報をもたらそうとすれば悪行です。
 無駄話や飾り言葉を口にしなければ善行、貪りや怒りや愚かさがもたらす自慢話、弱点への攻撃、愚痴などに走れば悪行です。

 次に、心を用いるものとしては「嫉」と「恚」と「痴」です。
 他人の持ちものを気にしない精進ならば、自分にないものを持っている相手への嫉みが起こらず、善行ですが、他人の持ちものが欲しくてたまらなくなれば必ず嫉みが発生し悪行になります。
 他人を憎まず、傷つけようと思わなければ善行ですが、憎い相手を苦しめようと考えれば悪行です。
 善因善果などを信じ、実在しないものを実在しないと考えれば善行ですが、因果応報を否定し、ないものをあると考えれば悪行です。

 これらを考えると、善行とは「道理にかない、自他に真の利益をもたらす行為」となりましょう。
 反対に、悪行とは「道理に反し、自他に真の利益をもたらさない、あるいは利益を破壊する行為」です。
 釈尊は、

三尊を信じざれば、邪をもって真となす」

と説かれました。
 仏法僧を信じ、戒律を守れば

「必ず道(ドウ)を得るなり」

とも説いておられます。
 信じ、学び、善行に邁進すれば、迷わず、惑わず、み仏の子としての道をまっすぐに歩めるようになるのです。

 なお、次回の『法楽』作りは9月29日です。

『四十二章経』 第2章沙門の生活

今日も善男善女が集まり、『法楽』を作っていただきました。
四十二章経』の勉強は第二回目です。

 釈尊は、出家して髪を落とし、ヒゲを剃り、教えを受けて行者となった弟子たちの生活について説かれました。
 まず、財物を捨てて頼りとせず、托鉢にいのちを託すことです。
 托鉢から帰った午後、行者たちが受けた施物を集め、皆で分けて食べるのです。
 み仏の恵みとして授かった尊い食べものなので、もちろん、不足や文句を言うことはできません。
 足を知り、感謝していのちをつなぎます。
 お酒以外のものについての禁忌はなく、何でも食べていました。
 提供された精舎(修行道場)では雨風をしのげますが、遊行(ユギョウ…修行の旅)へ出ればたとえ樹木の下であっても、あるいは墓地であっても、休める場所があれば感謝して休み、次の目的地へでかけねばなりません。
 こうした修行を通じて心のありようを変えるのですが、主たる眼目は、執着心)と貪(トンヨク)を克服することでした。
 釈尊は説かれました。

「人をして愚弊(グヘイ…愚かで迷った状態)ならしむる者は、


 ところで、執着心としてのと慈悲は、言葉は似ていても内容は正反対とも言えるものです。
 しがみつくは〈求め〉ますが、思いやる慈悲は〈与え〉、あるいは〈捧げ〉ます。
 いかに与え、捧げるかを判断するのが智慧です。
 自己中心であれば、いかなる頭のはたらきも世間的な知恵でしかなく、み仏の智慧ではありません。
 智慧の象徴である灯火は、自分を燃やして闇を払い万物を照らします。
 智慧と慈悲はみ仏の心の両面です。

 自己中心によってはたらけば自他を傷つける煩悩となり、慈悲によってはたらけば自他を生かす大(タイヨク)となります。
 を克服するといっても、生きた尸になることではありません。
 第一、清浄な意がなければ、発心も修行も不可能ではありませんか。
 発心と修行は抜きがたい我欲との闘いを根底に持っており、そこで費やす心のエネルギーの質と量は、我欲のままにふるまう場合とは比較になりません。

「日常生活とこうした生活はかけ離れており、実践するのは困難です。どのように受けとめれば良いのでしょうか」との質問がありました。
 もちろん、こうした経典は出家者へ説かれたものですから、娑婆にいながら経文と同じ生活はできないし、現代の行者が釈尊の時代と同じ生活をしようとしても不可能です。
 娑婆の方にとって大切なのは、経典を宝石箱と思い、たとえ一つでも自分にふさわしいものと感じたならばありがたくいただき、大切にすることです。
 行者にとって大切なのは、み仏の教えは授かる行者が選ぶのではなく、縁の経典はすべてみ仏からの授かりものであると知り、一字一句をも洩らさず大切に読誦し、信じ、自分が置かれた環境の許す限り実践することです。
 経典の文字を知識に終わらせるか、自分の血肉にするかは、自分次第です。

『四十二章経』 第1章沙門の位

 善男善女がまられ、おかげさまにて機関誌『法楽』作りを終えました。

 作業に先立って六種供養の文と真言を唱え、続いて『四十二章経』に関する第一回目の法話を行いました。
 初めて中国へ伝えられた仏教経典とされているこのお経は、沙門(シャモン)すなわち出家修行者の得られる境地に関するものから始まります。
 釈尊は、娑婆を捨てた弟子たちへ、修行の先に待つものが何であるかを説かれました。
 釈尊から弟子たちへ与えられた約束とも言うべきものです。

 戒律を守り、「」の真理に基づいて実践し、志をもって清浄に行ずれば、アラカンの位へ登られます。
 アラカンは「飛行変化(ヒギョウヘンゲ)し、寿命に住(トドマ)り、天地を動かす」ことができます。
 こうした経文の意味に関する解説書で納得できたものはありません。
 理由は明らかで、行者の血肉から発した文章ではないからです。
 字面を追うだけならば、「飛べる」と読んだ時点で、もう、突き当たってしまうことでしょう。

 しかし、いやしくもみ仏の経典である以上、嘘偽りのあろうはずはなく、いささかなりともこのにある者の目で読めば内容は明らかです。
 「飛行変化」とは、空を飛んだり、化けられるといった意味ではなく、いかなる所へも心を通じさせることができ、いかなる衆生の心にもなれるということでありましょう。
 外国におられる方のためにも遠隔加持を行い、さまざまな問題を抱えた方々のための人生相談やご祈祷やご供養などを行っている身としては、当たり前の法務内容であり、ご縁の方々のために、より役立てる者となるよう生涯にわたってこうした能力開発を続けるのが行者であると心得ています。

寿命に住り」とは、いつまでも生き続けることではありません。
 自分の「いのち分を尽くす」という意味でありましょう。
 私たちのいのちは、無限の過去世において積んだ業に応じてみ仏から分けいただいたものであり、それを「分」といいます。
 いのちの意義は、長さにはありません。
 問題はいかに生きるかということであり、その視点の大切さは、『法句経』などさまざまな経典にくり返し説かれています。

「たとえ百歳まで生きたとしても、己を清め高め他のためになるという点において怠慢な一生であれば、しっかり教えを学び実践した者のたった一日にも及ばない」


 巨大な像が歩む一歩一歩のような真に充実した意義深い一日一日の積み重ね、これこそが「住(トドマ)る」のイメージです。

「天地を動かす」とは、ちゃぶ台をひっくり返すような行為ではなく、空想劇画における仮想世界のできごとでもありません。
 そもそも人間も天地自然の一部であって、自分を離れた「天地」はどこにありましょうか。
 自分のありようが天地のありようと直結しているのは当然です。
 一番解りやすいのが、文明による自然破壊・環境破壊であり、太陽や空気や水や土や生きとし生けるものによって自分が今ここに生きているという事実です。
 ならば、自分の心を動かすことが天地自然を動かすのは当然です。
 私たち凡夫の一人一人のバラバラの動きはそう目立った変化をもたらせないかも知れませんが、志を一つにした人びとの行動によって明らかな変化を得られることはたくさんあります。
 釈尊やお大師様は、み仏そのものになることのできる聖者です。
 経典に説かれた釈尊による超人的救済活動や、歴史書に書かれたお大師様の超人的救済活動に驚くことはありません。
 私たちも、経典を信じ、正しく生きることによって、天地をが穏やかで恵み深いものとなるよう精進したいものです。

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