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2011
03.05

『法句経』物語22 述千品(ラカンボン)第十六「第一話」(その3)

 前々回、書いた法句経物語のしめくくりです。

「お前は、行者になったからといって何も会得していないそうではないか。
 こうした場に招かれたからといって一体、何ができるのか。
 私は俗人だが、教えの一つぐらいは知っているぞ。
 智慧なき行者などあるものか。
 お前に施したからといった何の役にも立たない。
 ここから入ってはならない」
 こうしてチューラパンタカは一人、門外に残されました。

 人が人を観るのは難しいものです。
 師と共に四国八十八霊場を廻った時のことです。
 師は野袴に袖のない羽織をまとい杖を突いて一般の方々へ混じり、弟子たちは托鉢姿でした。
 どこの宿でも托鉢姿の者から丁重に招き入れようとし、師へは特段、注目しませんでした。
 托鉢行に明け暮れていた時のことです。
 「~宗~派」と彫られた檀家の証が金色に輝いているお宅を訪ねました。
 年配の旦那様はすぐ目の前に立って貧しそうな托鉢僧を見下し、言いました。
 「私は~山へ毎年~十年登って修行しているが、君は何年修行しているの?
 私の家は代々~寺の総代だが、君のお寺は何軒檀家があるの?」

 「君子の豹変」もまた、なかなか理解されにくいものです。
 このことわざは本来、「豹が季節によって皮膚の模様を変えるように、君子の器がある人物は、時に応じことに応じて大胆な変革を行える」というものです。
 豹の模様は表面が変わっただけですが、君子の変化は、変化前よりも高いレベルへ向かう〈内実の向上あるいは前進〉が伴っています。
 しかし、周囲はこの事情をなかなか理解できず、「また変わった」としか考えない場合が少なくありません。
 また、同級生や古い知人のめざましい成長を目にしても、「あいつは昔、~だったんだ」と、相手をいつまでも過去のレベルへ引き下ろしておきたいという暗い心がはたらき、変貌がすなおに認められない場合もあります。
 門番は実に、私たちの愚かさを示しています。


「必ずしもたくさん学んでいなくとも、教えを実践する方が悟りへ近づけるのです。
 チューラパンタカは確かにたった一つしか知りませんが、それを熟考し、実践し、奥義に到達し、もはや彼の身口意は煩悩による乱れから離れきりました。
 彼の心身は、天界でじっと光っている金のように清浄です。
 人々はいかにたくさん学んだからといって、熟考せず、理解せず、実践しなければ、ただ知識を増やしただけに過ぎず、悟りは開けません」


「たった一つの教えであっても理解し、実践すれば、仏道を成就できるのである」
 釈尊が説き終わった瞬間、三百人の行者たちはアラカンの悟りを開き、国王はじめ全員が歓喜しました。


○わかりやすい教え その1
 病気になったお大師様は、穀物を断って瞑想し、講話を行い、宮中でも天下国家の安穏を願って修法しました。
 亡くなる前年に般若心経の真髄を示した最後の書物にこうあります。

「それ、仏法遙かに非ず、心中にして、即ち近し。
 真如(シンニョ)、外に非ず。
 身を棄てて、何(イズク)んか求めん。
 迷悟(メイゴ)我に在れば、発心(ホッシン)すれば即ち至る。
 明暗、他に非ざれば、信修(シンジュ)すれば、忽(タチマ)ちに証す」

(仏法はどこか遠くにあるのではなく、私たちの心の中にあって、とても身近なものです。
 真実そのものは心の外にあるのではありません。
 この自分自身以外のどこにそれを求めようとするのですか。
 迷いも悟りも自分自身にあるので、それを求める決心をすれば必ずそこへたどりつけます。
 智慧の明かりも煩悩の闇も自分の心を離れてはないのだから、仏法を信じて修行すれば、たちまちのうちに悟りを得られるのです)

○わかりやすい教え その2
 (クウ)の哲学を完成したとされる龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は、解脱(ゲダツ)を明確に定義しました。

「内については自己、外については自己の所有物という観念が消え去った時、心身の複合体は新たに形成されなくなる。
 これが消滅することによって、輪廻転生(リンネテンショウ)もまた消滅する」

 自分と外界を実体視することによって誤った概念的思考がはたらき、欲しい、惜しいという煩悩(ボンノウ)が起こります。
 煩悩が悪業(アクゴウ)をつくり、さらに悪業を増大させ、私たちは地獄界へ行ったり、修羅界へ行ったりと輪廻転生をくり返します。
 釈尊が説かれたとおり、原因を滅すれば結果もまた起こりえないので、自分と外界とを実体視するという観念のはたらきがなくなれば、煩悩もなくなり、悪業はつくられず、輪廻転生もまた、なくなります。
 そして、この世がそのまま浄土になるのです。
 苦の根元である智慧の明かりがない状態すなわち無明(ムミョウ)の内容とは「自分と外界とを実体視する」錯覚であり、それを払拭するのが(クウ)を観る智慧です。
 ここから真の慈悲心も起こります。

 たとえば誰かを好きになった時、普通はしがみつきたくなり、貪りたくなりますが、の心でいれば、かりそめの今を一緒に生きている相手が愛おしくなり、何よりも元気で幸せであって欲しいと願うはずです。
 いわゆる愛と慈悲はまったく異なります。
 最近、こんな話を聞きました。
 奥さんは仲の良い友人と温泉へ向かい、夫もまた、どこかの温泉へでかけたそうです。
 ところが温泉旅館で、奥さんと友人は、女連れの夫とバッタリ出くわしました。
「あら、あなたもここへ来ていたんですか」
 軽く会釈し、なにくわぬ顔ですれ違いました。
 以後、夫は深く省み、奥さんへ感謝し、奥さんを大切にし、二人はますます仲睦まじくなったそうです。
 夢のような実話です。

○わかりやすい教え その3
 以前も書きましたが、公憤についてのダライ・ラマ法王の説法は実に明解です。

「怒りには、慈悲から生じるものと、悪意から生じるものという、二つのタイプがあります。
 心の根底に他者に対する思いやりや慈悲があって生じている怒りは、有益なものであり、持つべき怒りです。
 他者を傷つけたいという悪意から生じる怒りは、有害で鎮めるべき怒りです。
 悪意からの怒りは人に向けられます。
 しかし、慈悲からの怒りは人に対してではなく、行為に対して向けられます。
 ですから原因となる行為がなくなれば、怒りも消滅するのです」

 教えをなかなか信じられず、悪業を積んでしまう人を厳しく叱って救う不動明王の怒りが理解できるのではないでしょうか。

 お大師様、龍樹菩薩、ダライ・ラマ法王の教説は、根本をわかりやすく示し、一度読んだら忘れられません。
 釈尊が「たった一つの教えであっても理解し、実践すれば、仏道を成就できるのである」 には深く頷(ウナヅ)かされます。

〈鳥の目を持つもの〉
230304 0032




「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
03.04

『法句経』物語22 述千品(ラカンボン)第十六「第一話」(その2)

 前回、書いた法句経物語を復習してみましょう。

①物覚えが悪く、年老いてから出家修行者となったチューラパンタカは、極めて簡明な教えをきっかけとして悟りを開きました。

「釈尊はこう指導されました。
『口ではつまらぬことを言うな。
 心では我がままを抑えよ。
 身体では悪いことをするな。
 こうして生きれば、悟りを開けるであろう』」

 私たちのいのちのはたらきは、身体と言葉と心を通して顕れます。
 魂の動きは身口意(シンクイ)に連動しています。
 だから十善戒は、「不殺生・不偸盗(フチュウトウ)・不邪淫」の三つで身体が悪業をつくらぬよう戒め、「不妄語・不綺語(フキゴ)・不悪口(フアック)・不両舌(フリョウゼツ)」の四つで言葉が悪業をつくらぬよう戒め、「不慳貪(フケンドン)・不瞋恚(フシンニ)・不邪見」の三つで心が悪業をつくらぬよう戒めています。
 これを「身三(シンサン)口四(クシ)意三(イサン)」と言い、この戒めを知らぬ仏教徒はいません。
 そして仏教において特徴的なのは、罰が当たるから戒めを守るのではなく、〈自然に戒めを生きる〉ことをめざすのが人の道であるという点です。
 当山では、日々「我、線香のごとく自他を清め、浄戒そのものになりはてん」と誓っています。

 釈尊が、身口意を正しく用いればそれが悟りへの入り口であり、悟りへの到達法であると説かれたとおり、密教では、身口意を清め守る護身法(ゴシンポウ)をもって入り口とし、護身法が体得できれば行者としての完成であるとされています。
 修行なり修法なりの始めに護身法を行わない密教行者はおらず、隠形流居合でも、稽古の初めには必ず実践しています。
 最も肝心なことは実に簡明に示されるものです。

②意地悪な気持でいた尼僧たちは、一転して悟りを開きました。

チューラパンタカは、釈尊から学んだとおり、身体と言葉と心とがはたらいている状態、そうなっている原因、精神的罪福と肉体的罪福、あるいは精神集中して心を安定させる方法などを説きました。
 説法を聞いた尼僧たちは、自分たちのありようが道に外れていたことに深く気づき、真理を知って喜び、揃ってアラカンの悟りを得ました。」

 いつも釈尊の指導を受けているのに、尼僧たちは愚鈍なチューラパンタカをいじめてやろうと待ちかまえていました。
 こんなことがあってはおかしいのですが、決して珍しくないケースと言えましょう。
 たとえ朝晩お経を唱えていようと、毎日本を読んでいようと、毎週お寺詣りをしていようと、そして寺院で修行していようと、心が善きはたらきをするように変化向上しない限り、心はいつでも悪しきはたらきをします。

 最近、大学の受験生がネットで問題の解答を求め、偽計業務妨害容疑で逮捕されました。
 学校に差別をするのではありませんが、京都大学という日本で最高レベルの知力が求められる大学を受験する若者が、小学生でも知っているカンニングという不正行為を堂々と行い、結果的に、日本中の試験会場のありようをガラリと変えてしまった事件は、社会的な科学の発達も、個人的な頭脳の優秀さも、善悪の判断とは無関係であることを如実に示しています。
 この件に関する識者たちの発言に、〈卑劣さへの鈍感〉という事件の核心を衝くものが少ないと思われるのは気のせいでしょうか。
 また、2月27日、仙台市若林区の消防署で署員が全員出動した隙に、施錠してあった通用口のドア及び二階の事務所のドアが破られ、防火衣や現金などが盗まれました。
 出動理由は、近くにある無人のバス停待合所における不審火の発生でした。
 阪神大震災における混乱で一件も盗みがなかったという〈日本の神話〉は、もう、過去のものなのでしょうか。
 実に、悪を行わないためには、悪を行えない心になる以外、いかなる方法もないのです。
 その努力が強力に行われない限り、社会と人心の変化は次々と新たな悪を発生させ、防止策とのイタチごっこは永遠に続くことでしょう。

 さて、悪心が動いていた尼僧たちは、チューラパンタカの説法によって心に大転換が起こり、悟りを開きました。
 釈尊の説法でも悪心が去らなかったのにこのタイミングで尼僧たちの心が一気に浄化されたのは、チューラパンタカの変貌に驚いたことによる影響が大きかったと思われます。
 また、記憶力や理解力の鈍かったチューラパンタカは、釈尊の教えをくり返し思い出し考えているうちに、覚えの早い人たちが「覚えた」からと一丁上がりにし次の教えを覚えようと走る頭のはたらきとは違う能の部分が活性化され、教えが血肉と化していたのではないでしょうか。
 だから、きっと、言葉や態度に聴く人の魂へ響く力が伴っていたのでしょう。
 悪心は、根こそぎ消滅させられれば二度と毒花を咲かせられません。
 なぜなら、悪をもたらす悪心=煩悩(ボンノウ)は心の現す仮の相(スガタ)であって、仏性こそが心の真の相(スガタ)だからです。

〈時ならぬ冬景色〉
230304 007




「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
02.17

『法句経』物語21 羅漢品(ラカンボン)第十五「第一話」その2

法句経』物語の続きです。

 敬虔な気持になった主人はすぐに供養の支度をし、シュラーヴァスティー国の方を向いて、み仏へ通じるよう祈りました。
「願わくば、なにとぞ尊い時間を割き、恐縮ながらこちらへお越しになられ、あまねく人々をお救いください」。
 心を察知した釈尊は500人の羅漢を伴い、神通力をもって主人とブンナのいる家へ現れました。
 ナリ国の国王を始め、すべての人々が厳粛にお迎えし、五体投地して敬いました。
 供養膳を食べた釈尊は、主人や国王などすべての人々のために明らかな真理の教えを説かれました。
 全員が五戒を受け、仏弟子となりました。
 主人は、釈尊の前に進み出て訊ねました。
「ブンナは、家にあっては精勤し、出家しては悟りを開きました。
 そして今、お招き申し上げた釈尊の神のように高い徳は、人々をも国をも救いました。
 私はいったい、どうすればブンナと釈尊のご恩にお応えできるでしょうか?」。
 
 釈尊は重ねてブンナを讃え、詩の形で教えを説かれました。

「乱れ騒いでいた心はすでに平安になり、言葉も行いも煩悩の支配を脱した。
 正しい解脱に伴い、煩悩の火は消え果てた。
 我欲を捨て、執着心がなく、過去・現在・未来の障りを消滅させ、世間的願望を断った者が上人と呼ばれる。
 村であっても、野原であっても、平地でも高原でも、阿羅漢の行き過ぎる場所で救われない者はいない。
 阿羅漢は世間的願望から離れた境地を楽しむが、人々はなかなかそうはゆかない。
 世間的望みがなく、自分のために求めるものがないとは、なんとすばらしい心地だろう」。

 教えに接した人々はますます歓喜し、引き続き7日間、供養を続け、さらに高い悟りを得ました。

 私たちはまず、ブンナの眼力に驚きます。
 流木を薪としか見ない多くの人々は、高価な栴檀が混じっていても見分けられません。
 お大師様は、経典の深意をつかむにはこうした智慧と感性が必要であると説かれました。
「道端の薬草も薬石も、見分ける力のある者にはそれと知られるが、わからない者にとってはただの雑草であり、石ころでしかない」。

 ブンナは、自分の才覚で窮乏した主人を救ったのに、手柄を誇らず、分け前を求めず、賤民の身分から解放されたことに感謝するのみでした。
 そして、自分のために財を得ようとせず、人の道を求めて釈尊の門を叩きました。
 現在、チベットに住む人々の中には、自分の文化を捨てて中国人のいいなりになることを拒否し、出世や財を求めず、いのちの危険を冒して標高6000メートルのヒマラヤを越え、ダライ・ラマ法王のおられるインドをめざすして亡命者がたくさんいます。
 何を求め、自分を何にかけて生きるかは、自分で決めることです。

 悟ったブンナは、解放してくれた主人の恩を忘れず、その恩は出家と修行という自分の決断や努力よりも重いと考えました。
 そして、仏法によって主人が救われること以上の恩返しはないと判断しました。
 主人を大金持にしたことで恩返しは充分に済んでいるはずなのに、聡明なブンナはその先へ進みました。
父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』を思い出します。

 ある時、釈尊は父母の恩が山よりも高く海よりも深いことを説き、在家出家の別なく、外出したならおいしいものを買って帰り、お供えしてから一緒に食べることや、病気にはねんごろに看護することなどを勧めました。
 それを聞いたアーナンダは「私たち出家者もそれでよろしいのですか?」と問いました。
 釈尊は答えました。
「それだけでは、父母の恩へ報じたことにはならない。
 仏法僧の三宝を奉じなければ、帰依を勧め、悟りを求めて安心するよう勧めねばならない。
 もしも通じなければ、断食してでも諫めねばならない。
 いかに慈悲深く、礼節を知り、学問を探究し、禅定に努めていても、ひとたび煩悩によって酒色に溺れたりすれば、たちまち、〈行いを禽獣に等しくする〉であろう。
 だから、最も重要な報恩とは、悟りの道へ導くことである」。


 私たちは、過去も、現在も、未来も、生きとし生けるものの〈おかげ〉で生きられます。
 すべてが私たちを育む母なのです。
 その恩を直視したならば、生きとし生けるものの苦を除かないではいられません。
 誰かの何かの役に立たないではいられません。
 そうして自分をふり返ってみると、いかに無知であるか、微力であるかがわかります。
 ならば、学び、自分を高めないでいられましょうか。
 このように真実を観て、楽を与え苦を除く〈慈悲心〉が起これば、必ず〈向上心〉が起こり、〈智慧〉と実践方法である真の意味での〈方便〉を求めます。

 私たちは、「利他の心」で生きる以上の人生の意味も価値もありません。
 なぜなら、より苦がなくより良い人生を送りたいと望まない人はなく、皆がそうなるためにはお互いが他のためになる以外、方法はなく、実際、他のためになった時に感じる以上深く、継続し、満足感を伴い、さらなる意欲と勇気をもたらす喜びもないからです。
 釈尊、ブンナ、アーナンダ、こうした先人たちのおかげで、私たちの前に確固たる道があるのは何とありがたいことでしょうか。

〈「ゆかり人の会」会員片桐さんの母親(86才)が書いてくださいました〉
23021133 002

23021133 003




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2011
02.16

『法句経』物語20 羅漢品(ラカンボン)第十五「第一話」

法句経(ホックキョウ)』にまつわるお話です。

 昔、海に誓い南の国ナリでは、人々が真珠や栴檀をなりわいにしていました。
 その国に、父母が亡くなり、家を分割せねばならない兄弟がいました。
 その家に仕える下男ブンナはまだ若いのにとても聡明で、商売をしても真珠採りをしても他人に勝り、知らぬものはないと思われるほどの物知りでした。
 兄弟はくじ引きで財産を二つに分けることにしました。
 一つは家屋敷であり、一つはブンナです。
 
 ブンナを引き当てた弟は、徒手空拳で妻子を伴い、家を出ました。
 不作で食物を得るのも困難な時代です。
 弟は、いかにブンナがいるとは言え、この先を考えると、憂いに胸塞がらざるを得ませんでした。
 それを察知したブンナは言いました。
「ご主人様。
 どうか心配なさらないでください。
 私は一計を案じて、そう遠くない将来、お兄様に負けぬほどの財を為してご覧に入れましょう」。
 主人は、もしそうなったなら、お前を奴隷から自由の身にしてやろうと約束しました。
 そこで、信じた奥さんは、元手として、かねて大切にしていた宝石をブンナに与えました。

 時あたかも大潮となり、人々は海辺へ出て薪を拾いました。
 ブンナは海へ行かず城外へでかけ、一物乞いが背負っている薪の中に、重病をも治すとされる赤い栴檀があるのに気づきました。
 金銭一両の重さがある赤檀の値打は千両とされ、めったにない宝ものです。
 持っている金銭二枚をはたいて薪を買ったブンナは、赤檀を数十に分けました。
 その頃、重病人になった大金持ちが、二両分の赤檀を薬にしたいのにモノがなくて困っていました。
 長者に赤檀を分け与えたブンナは、二千両を持ち帰りました。
 このようにしてたちまち主人へ兄の十倍もの富を得させたブンナは、約束を守り、ブンナを自由の身にしてやりました。

 学道を志したブンナは、シュラーヴァスティーへ行き、釈尊へ礼を尽くして教えを請いました。
「私は賤民の出ですが心は道徳を求めています。
 どうかお慈悲により、修行の道へお導きください」。
 釈尊が認めるやいなや、たちまち頭髪は落ち、法衣姿となり、釈尊の説法を聞いたブンナはほどなく阿羅漢の悟りを得ました。
 ブンナは沈思黙考しました。
「私はもう、悟りによって六つの神通力を得た。
 生きるも死ぬも自由の身となれたのは、ご主人様のおかげだ。
 故郷へ帰ってご主人様を仏道でお救いし、国中の人々をもお救いしよう」。

 ナリへ到着したブンナは元の主人を訪ね、歓待されました。
 食後、空中へ舞い上がり、分身の法によって分けた身体から水や火を発し、大光明で家を包んだブンナは降りたって言いました。
「こうした神のような徳力はすべて、ご主人様が私を自由の身にしてくださったおかげです。
 み仏の元へ行って修行した結果、このとおりの悟りを得ました」。
 主人は答えました。
「み仏がお導きくださるお力は、そのように神のごときものがあるのか。
 できるものならば私も、み仏の教訓を得たいものだ」。
 ブンナは言いました。
「お供えものを調えてお迎えする準備をしてお待ちすれば、み仏は神通力でそれを知り、必ずここへ現れてくださることでしょう」。


栴檀の木 http://www.hana300.com/sendan7.jpgさんからお借りして加工しました〉
sendan7.jpg



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.24

『法句経』物語19 明哲品(メイテツボン)第十四「第一話」

法句経(ホックキョウ)』にまつわるお話です。

 昔、20歳になるバラモンがいました。
 才能豊かで、自分は聡明であると自覚し、「ありとあらゆることを会得しよう、不明なものがあっては高名に恥じる」とばかり、天文・地理・医学・妓楽などを、手当たり次第に学びました。
 やがて、「諸国を漫遊して、あらゆる勝れた人々と競ってうち勝ち、我が名を永久に留めたい」と旅に出ました。

 ある町で、角を用いて弓矢を作る職人と出会いました。
 作る先からどんどん売れているほどの腕前です。
 感嘆し、「これはまだ会得していない」と気づいたバラモンは弟子入りしました。
 たちどころに師を超えるほどの腕になったバラモンは、職人へ布施し、礼を尽くして去りました。

 また、ある町では、飛ぶように船を操縦する船頭に惚れ込みました。
「船頭は卑しい仕事だが、自分ができないままではいられらない」と考えて、船頭を師と仰ぎ、またまた師を超えたバラモンは布施し、礼を尽くして去りました。

 ある国では豪壮な宮殿を造った大工の技に眼を瞠り、「自分はたまたま、まだ大工仕事を学んでいないだけであり、本気になって技術を身につければすぐに勝てる」とばかり、棟梁へ弟子入りしました。
 またしても短時日に悉く会得したバラモンは布施し、礼を尽くして去りました。

 こうしてあらゆる技術を駆使できるようになったバラモンは、手当たり次第に名人たちと技を競い、ことごとく勝利をおさめて「天地の間に、私に勝る者はいない」と高言するまでになりました。
 
 遠くからこの様子を観た釈尊は「悟らせねばならない」と考え、杖と鉢を手にした托鉢行者の姿でバラモンの前に現れました。
 バラモンが歩いた地域にはまだ仏法が伝わっていなかったので、バラモンは驚きました。
「どんな時代にも君のような服装で歩く人はいなかった。一体、君は何者なのか?」
 行者は答えました。
「私は身を調える者である」
 聞いたことのない話に、バラモンは重ねて訊ねます。
「身を調えるとはどういうことか?」
 行者は詩の形で説きました。
「弓を作る者は角を調え、船頭は船を調え、大工は木を調え、智者は身を調える。
 たとえば厚く大きな石はいかなる風も動かせないのと同じく、
 智者は心が定まり、いかなる毀誉褒貶(キヨホウヘン…謗られたり誉められたりすること)にも動じない。
 たとえば深い淵の水は澄んで清らかなのと同じく、
 智者は人の道を学び心を清めて、じっとその喜びを抱きつつ生きている」。
 説き終えた行者は空中へ飛翔して仏身となり、その光明は天地を遍く照らしました。

 仏の姿と化した釈尊はバラモンの前に降り立ち、告げました。
「仏となったのは身を調える力による
 高慢心を打ち砕かれたバラモンは五体投地して請いました。
「どうか身を調える方法をお示しください。その要点はいかなるものでしょうか?」
 釈尊は告げました。
「さまざまな戒律を守り、さまざまな修行を行い、さまざまなレベルの解脱を得るのが身を調える方法である。
 世間的な技術はいずれも輪廻の中で役立つものである。
 輪廻を超えるのが身を調える目的である」

 理解したバラモンは欣喜雀躍(キンキジャクヤク…躍り上がって喜ぶこと)して弟子入りを願い、許された瞬間にバラモンは行者の姿になりました。
 釈尊は4つの真理、8つの正しい路を示し、聡明な元バラモンはやがて阿羅漢(アラカン)の悟りを得ました。


 私たちは肉体を得てこの世へ現れます。
 肉体を養うにはモノの世界にあるものを得ねばなりません。
 得るための方法が「世間的な技術」です。
 もちろん、技術を磨く先に心の向上もあり、さまざまな分野のプロや名人の到達する境地は尊敬に値しますが、技術を磨く日々を過ごすだけで、必ずしも自他へ、社会へ、真の幸せをもたらすような心になれるとは限りません。
 一方、仏法は、自他へ、社会へ、真の幸せをもたらす方法を説き、誰しもがその道を歩めます。

 江戸時代の傑僧慈雲尊者は13歳で出家し、法楽寺(大阪市東住吉区)で修行し、十善戒を重んじて「人となる道」を生涯、説き続けました。
 人は人に〈なる〉のです。
 当山も慈雲尊者を尊び、ブログ「十善戒の歌」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-646.html)などを題材にして、常に学んでいます。
 肉体を養う方法と、を向上させる方法、二つを考えながら生きたいものです。

〈いとなみ〉
230118 007




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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