--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2010
11.18

十力 (12) ─漏尽智力(ロジンチリキ)について─

 これまで、み仏が備えておられるお智慧の力「十力」のうち、9つまでを学んできました。
 虚空蔵菩薩様が司る是非・善悪・虚実などを見極める力など「十力」の最後は、あらゆるみ仏の総体である金剛界大日如来様のお力、尽智力(ロジンチリキ)です。

「深法(ジンポウ)に自在なるがゆえに、一切の衆生(シュジョウ)の心行(シンギョウ)と趣く所を知るがゆえに、無礙智(ムゲチ)を具足(グソク)する力」

(深い真理を知り、自在に用いることができる。
 人々の思考と行動が因縁によっていかに動くかを知っている。
 それゆえ、み仏は、あらゆる問題を解決するために智慧の力を縦横無尽にはたらかせる)
 
」は「ウロウロ(有)する」の「」であり、「れるもの」です。
 それは煩悩であり、煩悩が尽き果てた境地を悟り、そこへ行く方法を知っているのがこの智慧です。

 ところで、煩悩が漏れるとはいかなる状態でしょうか。
 それは、〈貪り〉や〈怒り〉や〈愚かさ〉が、身体のはたらきにも、言葉のはたらきにも、心のはたらきにも、否応なく滲み出るといったイメージです。
 こうした汚らわしさがなくなった「漏尽」の状態は、一見、欲がないのと同じように思われ、欲がなくなれば悟りであるという解説書もあります。
 では、高齢になったり、重篤な病気になったりして何をする意欲も出ず、もう「財も名誉もいらないよ。どうせあの世まで持ってゆけないのだから」といった心境になれば、大日如来のように悟ったと言えるのでしょうか。
 明らかに違います。
 身体や言葉や心のはたらきに汚れがなくなり、それらの持つ本来の力が活き活きと充分に発揮されている状態こそが理想であり、悟った聖者が救済者となる理はここにあります。
 私たちは〈意欲のない救済者〉がイメージできましょうか?

 この世には、大地の堅固な徳も、水の潤す徳も、火の暖める徳も、風の吹き払う徳も、それらを妨げない虚空の徳も充ち満ちており、それを感じ取る私たちの精神の徳も、それらと絶妙にあいまっています。
 この真実こそが、〈如来の身体〉に汚れのない状態です。
 ありとあらゆるものは、心の耳を澄ませる者へ教えや真理を語りかけ、聴く者は無意識の裡にそれを言葉として受けとめます。
 姿も、音も、香りも、味も、すべてが教えを含んでおり、救いとなる可能性をもっています。
 この真実こそが、〈如来の言葉〉に汚れのない状態です。
 この世は、すべてのもののバランスが完全であり、しかも、常に変化してはたらきは止みません。
 空を舞う鳥は羽を主とした身体自体のバランスと、流れる風とのバランスに恵まれて自由に滑空し、草原を疾駆するチーターも、うねる親潮を庭とするカツオもそれぞれが完璧な存在として生き、それらの集合体である地球そのものが太陽の恵みを受けた一つの生命体として生きています。
 この真実こそが、〈如来の心〉に汚れのない状態です。

 こうした真実の総体を大日如来とお呼びし、大日如来と一体になるために、行者は身体と言葉を心を用いて即身成仏(ソクシンジョウブツ)の修行を行います。
 その法を完成されたお大師様は、きっと生きた大日如来でおられたことでしょう。
 大日如来を示す「遍照金剛」という灌頂名(カンジョウメイ…正統な継承者であることを認めれた時に決まる名前)を授かったのが証拠です。
「すべてを遍く照らす不動で最高の者」
 まことに、法力によって天皇の前で大日如来のお姿となられたお大師様にふさわしい名前です。
 私たちは「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」と唱えればお大師様につながり、大日如来の徳に浴することができるのです。
 み仏の「十力」は、智慧の極みとも言うべき大日如来の漏尽智力をもって完結します。

〈宇宙の根本仏大日如来〉
220126 0032_edited-2




「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


スポンサーサイト
2010
01.15

十力 (10) ─天眼無碍智力(テンゲンムゲチリキ)について─

 み仏のお智慧「十力」の第八は、過去の一切を知る天眼無碍智力(テンゲンムゲチリキ)です。
 この智慧を司るみ仏は千手観音様です。
 千の(無限の)手とそれぞれについている千の(無限の)目をもって、私たちの苦に応じた救いをくださるために必要なのは、過去を知ることだからです。
 人間はいかに生きる生きものか、いかに生きた因縁によって現状がもたらされたのか。
 人間が救われる(=悪しき因縁から解脱する)ために必要な方法は、こうした過去と現在とを観て、知って、導き出すしかありません。

 光と闇をはらんだ一人一人の意識と行動が個人の(ゴウ)を作り、人間たちの意識と行動が社会の共業(グウゴウ)を作ってきました。
 闇を払い光の力を増すには、闇と光を知らねばなりません。
 もしも「あっ、これはすばらしい」と惹きつけられる本に出会ったならば、その筆者なりテーマについて調べたくなりますが、調べられる対象はすべて過去に属しています。
「学ぶ」とは過去を知ることです。
 未来を拓く新発見や新境地も、学び、思考し、工夫する先に待っています。

 釈尊は言われました。
「私もようやく、過去に悟りを開いた方々の境地に立つことができた」。
 悟りによってつかんだ真理は、永遠性があるから真理なのであって、決して釈尊が〈作った〉のではありません。
過去七仏」という言葉があり、釈尊以前にも、悟りを開いた方々はおられました。
 ただ、釈尊のように体系的な説き方はされなかっただけであり、釈尊は悟りを開いた瞬間にそのことを自覚されたはずです。
 悟りは作られるものでなく、永遠に在り続けるその世界の扉が「開かれる」という形でしか、私たちは悟りに接することはできません。
 私たちは、過去に学ぶ謙虚な姿勢がなければ真理をつかむ(悟る)ことができないのです。

 このお智慧を最高に発揮する千手観音様が本厄年守本尊様であることも考えてみましょう。
 本厄の年は決して悪いことばかり起こる怖い年回りなのではなく、自分を鍛える大切な時期です。
 この年に心身の足腰をしっかりさせておかなければ、得られるものの多い年回りになった時、きちんと自分のものにできません。
 我が身を省み、人間としての基礎固めをするには、先人の苦悩や叡智や七転び八起きに学ばねばなりません。
 厄年に起こりやすいさまざまな困難は、私たちをそうした方向へと導きます。
 そもそも、何をやっても調子の良い時期には、とかく、省みる姿勢は薄くなりがちです。
 ここでこそ、私たちは自らを鍛える必要があります。

 困難な時期にこそ人は裸になり、魂の響き合う生涯の友や、おしどり夫婦が生まれます。
「~してはいけない」というタブーに踊らされず、人間の行いをすべて見通しておられる千手観音様へ手を合わせ、貴重な本厄年を活かしましょう。
 厄年には過去に学ぶ謙虚さを忘れず、千手観音様の法によって無事安全に過ごしましょう。

〈み仏のおわす炎 (佐藤直行さんの作品)〉
049_eos26-006-2.jpg

〈祈り (佐藤直行さんの作品)〉
050_eos26-016-22.jpg



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 密教・修験道へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
01.07

十力 (11) ─宿命無漏智力(シュクミョウムロチリキ)について─

 み仏のお智慧「十力」の第九は、人々がいかなる因縁によってどこでどう生まれ、いかなる因縁によっていかに生き、いかなる因縁によってどこでどう死ぬかをつぶさに知る宿命無漏智力(シュクミョウムロチリキ)です。
 この智慧を司る地蔵菩薩は、そもそも、バラモンの女性でした。

 女性は、神通力によって母親が地獄界にいることを知り、み仏へ救いを求め供養します。
 母親はその功徳によって天界へ転生しました。
 しかも功徳は他の罪人たちへも及び、地獄で苦しむ人々がすべて救われたことを知った女性は、未来永劫、人々を解脱へ導く誓いを立てます。
 ここに地蔵菩薩が生まれました。
 菩薩とは、「理趣経(リシュキョウ)百字偈(ゲ)」に説くとおり、自分は悟りを開いた身であっても、迷い苦しむ人がいるかぎり、決して自分だけが安楽の世界へ入ってしまうことなく、人々へ寄り添い救い続ける存在です。

 ある時、地獄から救われた人々と共に、地蔵菩薩の分身たちが釈尊のもとへ集まりました。
 そこで釈尊は告げます。
「私はこれまで、迷いの世界で苦しむ人々のために、その人々にとって救いとなれる姿形をとり、導いてきた。
 これからは、地蔵菩薩へその役割を任せよう。
 役割は、56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に現れ、最後の一人をも救い尽くすまで果たし続けねばならない」
 分身が一体となり、崇高な役割に奮い立った地蔵菩薩は、我が身を無数に分かちあらゆる人々を救うと誓います。
 それ以後、地蔵菩薩像へ合掌したり、「おん かかか びさんまえい そわか」と真言を唱えたりすれば、地蔵菩薩は必ず私たちのそばで手を差しのべてくださるようになりました。
 
 こうしてこのお智慧を考えてみると、人間が生き死にする姿は千差万別であり、あくまでも個別的であり、真の救いはその人にとって唯一の形をとることが解ります。
 たとえば風邪をひいた時に、患者さんの心身の特性や体調や症状の出方などによって、患者さん一人のために調合される薬のようなものです。
 だから、地蔵菩薩の智慧とは救いを求める人の人生すべてを見通す力であり、救いとなる適切な方便は何であるかを知る力です。
 地蔵菩薩の慈悲は、相手に合わせて薬ともなり、食べ物や飲物ともなり、人や川ともなる捨身(シャシン…相手のために自分を捨てること)に表現されます。
 捨身の決断をもたらすものは、自分が身代わりとなって相手の苦を引き受けようとする代受苦(ダイジュク)の覚悟です。
 いかにもお優しい表情を見せている地蔵菩薩の内心がこのように堅固なものであることを知る時、その前に立つ私たちは厳粛な気持になれずにおられません。

 地蔵菩薩へ合掌する私たちもまた、たとえ地蔵菩薩の万分の一であれ、宿命無漏智力の欠片をもって、どこかで誰かのためになろうとする志を持ち続けたいものです。

〈六地蔵様〉
rokujizoukessaku2.jpg



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 密教・修験道へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2009
11.03

十力 (9) ─遍所行智力(ヘンショギョウチリキ)について─

 み仏のお智慧「十力」の第七は、人々がいかなる行いによっていかなる世界へ行くかを知る遍所行智力(ヘンショギョウチリキ)です。
 たとえば、不殺生などの十善戒に背かないように生きれば、人間界や天人界へ転生し、正見などの八正道を生きれば涅槃(ネハン)へ解脱(ゲダツ)できるといった因果を知る智慧の力です。
 み仏の子である私たちにも、もちろん、こうした智慧はあり、善いことを行えば善い結果が得られ、悪いことを行えば悪い結果がもたらされるという考え方を知ってはいます。
 しかし、世の中には、悪人が羽振りを効かし、善人が虐げられるなどの善因善果悪因悪果の道理では理解できないできごとが多く、善悪についてシグナルを発する良心を脇へ置きたくなる場合もあります。
 無明(ムミョウ)という智慧の曇りを持ち、煩悩(ボンノウ)という慈悲を忘れさせる穢れを持った私たち凡人には、因果のつながりをすべて見通す能力がないからです。

『大日経』は、因果律のとおりにならないからと怒り苦しむ心を「順世(ジュンセ)の心」とし、因果律を信じて揺るがない心を「違世(イセイ)の心」として詳しく説いています。
 仏法を信じ、み仏を信じ、菩薩行の力を信じて菩薩行を実践すれば、「なぜだ!」と憤り、怨みや呪いを抱え悶々として生きる世界から脱することができます。
 仏法は、「ただ、すがれ」と命ずるものではなく、「こうすれば、こう救われる」という方法を道理に即して説き、実践者としての菩薩と、実際に善果の結晶であるお姿になった如来とを示して、方法の実践をうながしています。
 
 如来とは、無明煩悩という曇りや穢れを離れきった存在です。
 殺生は地獄界行きの原因となり、布施は必ず解脱の原因となることを知り尽くしておられ、至心に教えを学び実践しようとする者へ必ず救いの手を差しのべられます。
 だから、この智慧に優れた阿弥陀如来は、現世の苦しみから逃れたいと願う人々を極楽へ誘うみ仏として慕われてきました。
 正直者がバカを見るこの世にありさまに迷い、悩んだならば、「オン アミリタ テイセイ カラ ウン」と阿弥陀如来の真言を唱えましょう。
 そして、自他共に幸せになることを目ざす菩薩として、菩薩行を行いましょう。
 決して難しいものではありません。
 苦を離れた世界で生きよう、まっとうに生きようと心さえ定めれば、誰にでも実践できます。

「見返りを求めず他のためになる。
 良心のシグナルに随い、人として戒めねばならないことはやらない。
 慢心してつまらぬことに怒らず、他を許す広い心を持つ。
 決めたことはやりぬく。
 生きとし生けるものに感謝し、適度な食事などによって心身を調える。
 我がためでない、人としてやらないではいられないことを実践する」

 できそうではありませんか。
 くじけそうになったなら、阿弥陀如来様や守本尊様の真言を唱えましょう。
 必ず背中を押してくださること請け合いです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 密教・修験道へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ
にほんブログ村



人気ブログランキングへ
2009
10.04

十力 (8) ─種々界智力(シュジュカイチリキ)について─

み仏のお智慧「十力」の第六は、人々がいかなる世界の住人であるかを知る種々界智力(シュジュカイチリキ)です。
 経典には「一切世間の一に非ざること、種々あること、その違いを如実に知る」とあります。
 私たちは同じ人間ですが、その姿形が皆、異なっているのと同じく、心もまた異なっています。
 ある人はガンジーマザー・テレサのような慈悲の心に生き、ある人は極刑の判決を受けてなお、自分が行った行為に非を認めず死刑台へ向かいます。
 こうした違いは六道(ロクドウ)のどこに住んでいるかによります。

 ちょっとしたことですぐにムッとなる人は、修羅界にいます。
 何ごとでも自分を一番と主張したい人は、人間界にいます。
 私たちは、「自分が自分であってあたりまえ」なので、「自分がいかなる世界の住人か」ということは、普段、あまり気になりません。
 しかし、み仏が見分けられるように、自分の状態を知っておくことはとても大切です。
 そうでないと、できごとの実態を正確につかめず、判断と対処法を誤りやすいからです。

 たとえば、出がけにかかってきた電話が不快な内容で、けんか腰のやりとりをしているうちに電車に乗り遅れた場合、「あいつのせいだ!」とますます不快になり、不機嫌な一日を過ごす人は、また、同じようなことをくり返しがちです。
 意に添わぬ電話をかけた人は不快感をもよおさせる原因をつくったかも知れませんが、電車に乗るために機転を利かせてうまく会話を終わらせられなかった自分の愚かさがあって初めて、乗り遅れという結果がもたらされたことに気づきません。
 たった一本の電話のせいで一日中不機嫌だったのは、気分の切り替えがうまくできない自分の未熟さによるものだということに気づきません。
 そして、すべてを「あいつのせい」にする人生を送るようになってしまいます。
 しかし、自分が修羅界の住人であるという恐ろしさを知り、それがもたらすものに戦慄する自省心があれば、愚かさも未熟さも克服される方向へと向かえます。

 たとえば、会社員の夫とハウス・ワイフの妻がいて、お金のことで言い争いになると、こうしたパターンになりがちです。
 夫は「俺が汗水たらして稼いでやっているのに!」。
 妻は「私がいないと何もできないくせに!」。
 そして、お互いに自分の果たしている役割を大とする争いは終わりません。
 最近は、家事労働であるとしてその価値を金銭的に評価する時代になりましたが、〈仕事〉にせよ〈家事〉にせよ、本来の意義も価値も味わいも、決して金銭に換算できるものではありません。
 平成14年、博士の学位を保持せずにノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏は、受賞後も名誉や地位を求めず、それまでと同じ研究一筋の質素な生活を望み、話題になりました。
 文化勲章を受章した男性の多くは、「家内の内助の功あったればこそです」と口にします。
 自分自身のはたらきに生き甲斐を感じている人ほど、周囲の人々や環境の〈おかげ〉に感謝しているものです。
 すばらしい結果を出しているのに、自分が一番であると主張しません。
 こうした徳は、迷い、ぶつかり、奪い合う人間界の苦を克服させます。

 ぜひ、種々界智力に学び、住んでいる世界を知った上で日々のできごとに対応したいものです。

2110051.jpg



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 密教・修験道へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ
にほんブログ村

FC2 Blog Ranking

人気ブログランキングへ
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。