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2012
12.26

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第三十七回) ─積んだ功徳はすべて生きとし生けるもののために手放す─

20121226008.jpg

 菩薩として生きる方法を学ぶ講座も最終回となりました。

「以上のように精進努力して、成し遂げられた諸善を
 限りなき衆生の苦しみを取り除くため
 三輪無分別智(サンリンムフンベツチ)により、悟りを得るために廻向(エコウ…廻し向ける)すること
 それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 これまでずっと、敵へも慈悲をもって対するなど、日常生活では発想できない菩薩のありようを学んできました。
 自分へ厳しくという姿勢の極みとも思えるみ仏のお導きでした。
 最後に、そうした我が身を梳(クシケズ)る努力の成果を自分へ向けようとしてはならないと厳しく釘を刺しています。
衆生の苦しみを取り除く」
 あらゆる修行はこれが目的であることを忘れてはなりません。

 自分のいのちと心を無始の過去から守り育ててきてくれたありとあらゆる生きとし生けるものが苦しむさまを見捨てていられないからこそ、それを救えない自分でいるわけにはゆかず、気ままに気楽に煩悩のまま生きる生きたかと訣別したはずです。
 ならば、自分にとらわれず、相手にとらわれず、差し出すものにとらわれず(これが三輪無分別智です)、自分の善行の功徳をすべて、縁の相手へと手向けねばなりません。
 この功徳によって相手が悟りへ近づくことこそ、修行の目的なのです。
「悟りを得るため」の「悟り」は自分のものではありません。
 怒り、憎み、妬み、舞い上がり、落ち込み、争い、迷っているありとあらゆる生きとし生けるものの悟りです。
 なぜなら、苦がなくなるためには、悟りを開くしか方法がないからです。

「早朝に道路を掃いている功徳で、自分の病気が早く治りますように」
「貧乏から抜け出したいからボランティア活動にも励み、仏神の救いを待とう」
 こうした考え方での善行は菩薩の道ではありません。
 早朝に道路の掃除をする菩薩ならば、ゴミを散らかす行為が恐ろしい罰を招く悪行であることに早く気づいてくれるよう、見知らぬ愚かな人々へ自分の功徳をふり向けます。
 貧乏生活の菩薩ならば、自分が財物による人助けができぬことを詫びながら、「せめて汗だけでも」とボランティア活動に励み、自分よりもさらに困窮している人々のためにと自分の功徳をふり向けます。

 では、あらゆる〈ご利益〉はないではないか?
 真剣に当病平癒を願い、あるいは生活の安定を願い、仏神へ祈りをかけることは無意味なのか?
 仏神やご先祖様は私たちを見守り、お救いくださるのではなかったか?
 仏神もご先祖様も、決して見捨てはしません。
 しかし、おすがりする方法をまちがわないようにしましょう。
 道路掃除も、ボランティア活動も、それはそのまま〈下心〉なく、黙々と励めばよいのです。
「生きとし生けるものの苦を除くために、生きとし生けるものの幸せのために」と願いつつ、つまり〈菩薩の心〉で。
 一方、「何としても病気を治したい」「何としても生活を安定させたい」という祈りは祈りで、仏神を信じ、ご先祖様にすがればよいのです。
「~をするから~をください」という娑婆の〈取引感覚〉を離れて。
 このことは、読経の心構え通じています。
 たとえば、例祭でご一緒に般若心経を唱える時は、余計なことを考えず、般若心経に成りきって唱えるようお話ししています。
 もしも、宝くじが当たるようにと願いながら唱えるならば、身を調え口から出る言葉は般若心経、心が向いているのは宝くじとなっており、身体と言葉と心(身口意)がバラバラです。
 これではなりません。
 よき願いを達成しようとして宝くじを買い、当選を祈るのは善行です。
 しかし、願いのかけ方に問題があるのです。
 身口意すべてを挙げて唱え、み仏に成り切るところにこそ般若心経を読誦する真の意義があり、功徳が生まれます。
 当病平癒、生活安定、宝くじ当選などの目的を意識する時は、はっきりと意識し、いったん経文や真言の読誦へ入ったならば、それに成りきって即身成仏(ソクシンジョウブツ)するという、けじめ、メリハリが肝腎です。

 こうして最善を尽くせば精進が進み、周囲の縁も運勢もよくなり、仏神や御霊のご加護も重なってよき方向へと向かえることでしょう。

○終わりに

 ここまで37回、学んだことによって、皆さんが何か一つでも得られたものがあればありがたいことです。
 皆さんが、いっときでも仏性を発揮して即身成仏し、一歩でもみ仏へ近づくために役立てたならば本望です。
 おりおりに復習してみたいものです。
 皆さんのご多幸を祈っています。
 



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2012
12.22

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第三十六回) ─言いわけをせず、ただ、利他を実践する─

20121222002.jpg

「要約するなら、どこでもどんなときも何をしようとも
 自らの心の在りようがどんな状態であっても
 常に念(記憶)と正知を利用して利他を成し遂げようとする
 それが菩薩の実践である」


 要約すれば、菩薩行とは利他行であるということです。
 その実践を行わなければ、いかなる言いわけも通用しません。
 菩薩にとって、利他行を実践できないいかなる場所も、時も、状況も、心の状態もありません。

 たとえば、誰かを憎んで思いやりの心を向けられないとしましょう。
 それによって相手はどうなりますか?
 憎まれただけでは痛くもかゆくもありません。
 憎む当人はどうでしょう?
 決して心は晴れず、不快なモヤモヤに苛まれ、相手を傷つけるためのさまざまな妄想が雲霞の如く湧いてきて、ますます恨みが深まったりもします。
 もしも、思いあまって強迫めいたメールを送ったり、面と向かって暴言を投げつけたりしたならば、相手との関係はいよいよ二進(ニッチ)も三進(サッチ)もゆかなくなります。
 更にエスカレートすれば刑事事件にもなりかねません。
 そうした愚行のどれもが、相手を傷つけるだけでなく、自分自身をそれ以上に傷つけないではおきません。
 もし、相手方に誰からか憎まれても仕方がないだけの理由があった場合であれ、事情は同じです。

 そして、ある日、相手の幸せそうな様子を目にしたならば、天地ほどの分かれ目となる瞬間が訪れます。
 憎しみが100倍になり、堪忍袋の緒が切れ、十善戒に背く悪行へ走るか。
 それとも、誰であっても他の喜びを我が喜びとして喜ぶべきであることを思い出し、喜んでいる相手そのものになってみるか。
 前者は地獄行きの道となり、後者は憎しみを心から追い出す悟りへの道となります。

 後者になるためにこそ、私たちは「観」という分析的な瞑想を修行しているのです。
 経典に則り、道理を用いた思考によって、心を清くする道筋を理解し、よきイメージそのものになり切る訓練です。
1 これを行っている行者は、もしも悪しき心が起こり他を害したい気持になった時、「自分は菩薩行の実践者である」と、我に返ることができます。
2 これを行っている行者は、つねに自分の心の状態を観察しており、責任の持てる行動をとれます。
3 これを行っている行者は、正しい臆念が身につき、正しい智慧がはたらき、利他行を実践できます。


 またしても、映画悪人の場面が思い出されます。
 非情な仕打ちでいのちを落とした娘の父親が犯人の一人とおぼしき男の居所を突きとめ、コートの下へバールを隠し持って対面します。
 そして、まさにバールを取り出そうとした時、怯えている相手の愚かしさに気づき、こんな者を相手にしてはいられないと冷静な心がはたらいて、その場を去ります。
 我を忘れず、自他の愚かさを客観的に観たからこそ、第二の悲劇を回避できました。
 常々の心の持ちよう一つで、天と地ほども違う運命を創ります。
 私たちは、日々、おりおりにこうした分かれ道のどちらかを選びつつ生きているという事実を考える時、み仏のお導きはまさに灯火であると思え、合掌してしまいます。





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2012
12.16

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第三十五回) ─煩悩に飼い慣らされない方法─

20121213018.jpg

 菩薩になる方法の第35回目です。

煩悩(ボンノウ)に慣れれば制することが難しくなる
 (記憶)と正知(ショウチ)という対治の刃を手に取り
 欲望などの煩悩が起こるやいなや刈り取ってしまう
 それが菩薩の実践である」

○貪りや怒りや自己中心的な考えなどに慣れれば自分がそれらに飼い慣らされてしまう

 たとえば、おいしいものに目がないからといって、自分の年令や体調を考えず、慎みを忘れて過剰に栄養を摂れば、身体のはたらきに支障を来し、あげくの果ては病気にもなってしまいます。
 たとえば、すぐに怒る人は、体内に健康を害する毒素を溜め込むばかりでなく、やがては他人とぶつかり、他人に疎んじられ、他人からバカにされ、自ら人生を破戒し暗転させてしまうことでしょう。
 たとえば、自己中心的で客観的な視点を持ち得ない人は、常に不平不満に襲われてストレスを抱え、説得力がなく、指導的立場に立てず、人間性が練られないまま終末を迎えることでしょう。
 これらが煩悩に飼い慣らされた状態です。
 あまりに情けない人生ではないでしょうか?

と正しい智慧で霊性に生きる

 こうした心の習慣を断つには、(心に保って離さないこと)と正しい智慧の二つが必要です。
第一の例なら、「腹八分が健康の基であり、生きもののいのちに感謝し慎んでいただくのが人の道であること」を忘れないようにしましょう。
 そして、食べ過ぎへ走らないように、「ここは我慢しよう」「これではいけない」と自らをコントロールしましょう。
 第二の例なら、「怒りはあらゆる福徳を瞬時に破戒し、自他を傷つける魔ものであり、いかなる価値も生み出さない」ことを忘れないようにしましょう。
 そして、カッとなったり、ムカムカしたり、ウヌッと腹に来たりしたなら、守本尊様の真言や「南無大師遍照金剛」を唱え、深呼吸をしましょう。
 第三の例なら、自分を深く省みていかに未熟であるかを認識し、自分は常に成長過程にあると知り、至心に人の道を学びましょう。
 そして、他人とぶつかりそうになったら、すぐに我を張ったり相手を貶したりせず、相手の立場から考えてみるなどしてから穏やかに話し合いへ入りましょう。
 こんなふうにして、煩悩を刈り取るのです。

 Aさんの夫は、奥さんがよくできた人であるのをいいことに、止めるのもきかず夜な夜な遊びまくり、ついに肝臓を壊しました。
 Aさんはじっと堪(コラ)えつつ、そうした夫を優しく支え、ご自身は身を摂し、学ぶ姿勢を強めています。
 子供の頃から起こりっぽく言葉も荒かった運転手のBさんは、当山で一緒に守本尊様の真言を21返、唱えたことがきっかけで真言に親しみ、「人が変わったね」と言われるほど穏やかで信頼される人になりました。
 いつも他人へ攻撃的で我を通さずにいられない性格のため、何をやっても長続きしないアルバイト店員のCさんは、当山へ足を運び、毎日一度、般若心経を読んでいるうちに、つまらぬことで他人とぶつかるのが「アホらしく」なったそうで、すっかり一皮むけました。

 ちなみに、般若心経が日本へやってきたのは天智天皇の昔であり、宝亀5年(774年で、お大師様が生まれた年)の疫病蔓延に際しては、光仁天皇が勅語をくだされました。

「天子がこれをずる時は戦争や災害が起こらず、国民がこれをずる時には病魔や悪鬼に襲われない。
 だから、国民は老若男女を問わず、おりおりに般若心経誦して欲しい」


 お大師様も「般若心経は苦を抜き楽を与える」と説かれました。
 こうして、明治時代の廃仏毀釈までは、寺院と神社とを問わず広く唱えられてきたのが般若心経です。

 古人は言いました。

「火事は小火(ボヤ)のうちに消す。
 堤防もアリの一穴から崩れる。」


 AさんもBさんもCさんもみごとに霊性を発揮し、一歩づつ着実に菩薩へ近づいておられ、嬉しくてなりません。




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2012
12.15

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第三十四回) ─言葉の刃と言葉の救い─

20121213003.jpg
〈薬師如来の霊峰笹倉山を仰ぎつつ〉

 菩薩(ボサツ)になる方法の34回目です。

「汚い言葉が他者を動揺させ
 菩薩(ボサツ)行の在り方を弱めることになる
 それゆえ、他者の心を害するような汚い言葉を捨てること
 それが菩薩の実践である」


 不悪口(フアック)すなわち、粗暴な言葉を用いないようになろうという戒めがあります。
 私たちが粗暴な言葉を用いろ時は、必ず、粗暴な心が生じています。
 怒り、憎しみ、恨み、妬み、蔑み、侮り。
 そこには破戒欲、支配欲などが伴い、何一つ、相手のためになる救いもなければ創造性もありません。
 霊性に蓋(フタ)をかぶせている状態です。

 心で「この野郎!」と思った瞬間、実際に「この野郎!」と口に出し、つまらぬ行動へ走らないための教えがあります。

○怒りが生じたなら、過去の悪業(アクゴウ)を清めるチャンスである

 原因は必ず結果を招きます。
 自分が不利益を与えられたり、不当な扱いを受けたり、バカにされたりしたなら、そういう結果をもたらす何かが自分の過去にあったはずです。
 自分の悪業です。
 いつかは必ず悪しき結果をもたらす原因が過去にあり、今まさに、その結果が出ているのです。
 ならば、「これでチャラ」になるよう、一瞬カッとなっても平静な心を取り戻し、心で相手に「ありがとう」と言ってみましょう。
 ここで忍耐すれば、確実に悪業を一つ、消しているのです。

○悪しき言葉も行為も、相手だけでなく自分をも傷つけ、愚かしく無益でしかない

 相手を「この野郎!」と怒鳴りつけて辱め、怖がらせ、萎縮させたとしても、相手が「すみません」と誤ったとしても、それでことが済むわけではありません。
 相手に何らかの打撃を与えれば、それは悪業を一つ、積んだことであり、いつか必ず、自分自身へその報いがやっってきます。
 自分を傷つけずに相手だけを傷つけられる方法はありません。

 老婆を騙し、威嚇して去った3人の商人が老婆の呪いによって非業の死を遂げた時、お釈迦様は説かれました。

「悪しき言葉でののしり、驕り高ぶって人を蔑む。
 こうした行為は妬み怨みを生じさせる。
 謙遜し、道理に従った言葉を用い、人を尊敬し、煩悩を捨てて悪心を抑えれば、妬みや怨みはひとりでに消滅する。
 人は生まれながらにして、口の中に斧を持っているようなものである。
 自他を切るのは、その悪しき言葉による」


○悪口をグッと呑み込み、真言や経典を心中で唱え、悪心を瞬時に善心へ切り替えよう

 お釈迦様は説かれました。

「空へ舞い上がろうと、海中深く沈もうと、深山の奧へ隠れようと、愚か者は苦をまとい死に追われ、逃れられる先はない」


 私たちに死から逃れる先はなく、前文の商人たちに悪業の報いから逃げる先がなかったように、悪業は自分で報いを受けるか、善業(ゼンゴウ)によってそのはたらきを相対的に小さくするか、対処法は二つに一つです。
 懺悔し、生き直すなどは後者に含まれます。
 ただただ、ご利益があるとされる神様や仏様にすがるだけではどうにもなりません。
 合掌するなら拝むだけでなく、仏神へ自分の愚かさや悪業などのすべてをさらけ出し、教えを学んで実践することです。
 当山の例祭で行われる護摩法へ参加される方々の多くは、一緒に経典を読み、護摩の火のそばへ来で懺悔し、よき願いをかけられます。
 そうしてよき行動の一つでも実践すればこそ、悪業による災いを最小限度に抑え、善業(ゼンゴウ)の大きな果実を招来できます。

 不悪口の戒律と、愛語(アイゴ)すなわち、慈愛のこもった言葉を使おうという勧めを胸に刻み、菩薩行に励みたいものです。




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2012
12.14

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第三十三回) ─モノにも義理にも縛られず平等に接する─

20121213022.jpg
〈駐車場で隣り合わせた主を待つ忠犬。主が去った方向へ視線が固定された目の表情はまるで人間です〉

 菩薩(ボサツ)をめざす心の実践法、第三十三回目です。

名声にかられ争いとなり
 聞(モン…学ぶ))・思(シ…考える)・修(シュ…身につける)の行が疎(オロソ)かになる
 それゆえ、親友やご支援くださる人々に対しての甘えを捨てること
 それが菩薩の実践である」


 世間的な義理が発生し、からまれれば、行者としての道をまっすぐには歩めません。
 たとえば、大金をご寄進してくださった方の現世的利益のために修法の予定を変えるとか、お世話になった方の面目を保つために修法を疎(オロソ)かにして現世的事業に参加するといったことになれば、修行の道はまっとうできません。
 実際に寺院を運営していると、ここのところは大問題です。
 それは、たとえ善意でご協力くださる方でも、寺院や行者が〈義理〉の現世的感覚からまったく独立していることをご理解されにくいからです。
 寺院側としても、これだけ協力していただいているという意識が感謝にとどまらず、していただいているのに、あるいは、していただいているから、という義理にまで行ってしまいがちなことは否めません。
 そこが大きな落とし穴になりがちであり、落ちたかどうかは周囲から気づかれなくても、落ちた行者にははっきりとわかり、必ず、聞・思・修に影響が生じるのです。
 また、特定の人に対して身びいき的な心が生じれば、ご縁の方々を区別、差別しないという行者として、寺院としての基礎的ありように反してしまいます。
 お不動様の経典には「平等に見ること一子のごとし」とあります。
 寺院は、相手が誰であろうと、我が子へのまなざしと同じ視線で平等に見て、平等慈愛を発し、平等に手を差し伸べねばなりません。

 一方、理想としては、寺院へお布施をする方々においては布施の心を学ばれ、見返りを求めない清浄な心でお支えいただきたいと願っています。
 結局は、それが布施を行う方の徳積みになり、霊性を発揮し、心のレベルを高め、運勢をよき方向へと導き、自他へ幸せと安心を与える道だからです。
 決して「自分のため」とは思わない清浄な心が、相手のためになるだけでなく、結果として自分のためにもなるのです。

 経典が説くとおりできるかどうか、行者も寺院も、そして間接的にはご支援くださる方々も試されています。
 高額のご志納金を持参すると上座に座らされ、住職から平身低頭でお礼を言われるというお話も聞きますが、当山では、基本的に、ご来山の方を上座へお通しします。
 僧侶は不動明王と同じく衆生のしもべだからです。
 ただし、袈裟衣をつけ、み仏と一体になる法を結んでの人生相談になれば、上座でお話をお聴きします。
 この場合は、僧侶だから上座に座るのではなく、み仏になっているからです。

「どんなに尽くしてくれる人も、特別な人としてではなく、すべての衆生の中の一人として、等しく最大の慈愛をもって接すること」


 出家者も、在家の方も、菩薩様をめざすならば、いかに難しかろうと貫かねばなりません。




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